旧制小樽高等商業学校(創立明治43年)

官立第五高等商業学校として設立された小樽高商は、明治から大正10年頃まで、一橋の東京高等商業学校(その後東京商科大学)を除いては、東日本唯一の高商として著名であった。

明治38年、北海道庁は北海道開発の一環として、当時帝国大学を除いて例外的に卒業生に学士号を授与することを認められていた札幌農学校の大学昇格運動を展開する。その一方で、専門学校の新設も運動し、その結果官立第五高商の北海道誘致が実現した。
あとは、幕末以来の開港場であった函館と後背地に樺太、ウラジオを持つ新興の小樽との一騎打ちとなったが、小樽は敷地と造成費用、さらに建築費として別に20万円という大盤振る舞いによってこの争奪戦に終止符を打った。小樽は当時市になっておらず、また区としての年間予算も30万円程度であったから、総額40万円の寄付はかなり無理をしたことになる。
初代校長の渡辺竜聖は「小樽高商は小樽区の徽章である」と看破したが、誘致をめぐってのこうしたいきさつが下敷きになっている。
東京高商の大学昇格後は東日本最古の高商として、また北海道には文科系の高等学校がないため、伊藤整、小林多喜二、高浜年尾といった文人を出している。


小樽高商の建築様式

校舎の竣工は明治43年2月である。
校舎の設計に当たっては、先輩校の長崎高商に似た作りであったという。左の写真は本館の玄関部分をクローズアップしたものであるが、玄関を入ってすぐ螺旋状の階段があり、さらに小さいながら3階に搭が乗せられていた。
現存しないが、同時期に似た様式で作られた函館師範の本館は、この玄関部分だけが保存されているということなので、一度調査に行ってみたい。
いずれにしても、高台にある建物であったから、港が一望できる絶好の景観であったという。















小樽のモデルとなった長崎高商本館の見取り図



初代校長渡辺竜聖

初代校長 渡辺竜聖

小樽高商初代校長は、東京音楽学校の初代校長を務めた渡辺竜聖だった。早稲田からアメリカコーネル大学で倫理学を専攻した教育者。その行政手腕を認められ清国最大の実力者袁世凱に教育顧問として招かれる。7年の長きに亘り中国大陸にあったのち、欧州のベルリン大学に留学した。留学直前、文部省の岡田次官から「帰国したらどこかの学校の校長をやってみないか」と誘われ、冗談まじりに「もし誰も行き手のないヤッカイな学校があったら腕試しにやってみてもよい」と答えたという。
ベルリンの渡辺の留学先に岡田次官が送ったのが、この新設の小樽高商校長就任要請の手紙であった。



渡辺校長の教育方針

小樽は商人の町である。官員、すなわち官吏が幅を利かせる札幌とは気風が違う。渡辺は、小樽高商校長就任を受諾してから、積極的に欧州各国の商業教育制度について研究し、その結果、商業教育が非常に重要な国家的任務を持つということを確信した。
「いまや士農工商ではなく、商工農士である」と喝破し、「今日の商人はその品格の上に於ても国民の上位を占むべき」ことを説いた。
その上で、学校としての教育方針は、実務教育中心主義を打ち出した。その後大正に入って、第一次大戦を契機とする未曾有の実業ブームが湧き起こったが、遠からず役人の天下から商人の天下に移行するのを見通していたのだろうか。
このため、渡辺校長には、専門学校にありがちな大学に対する劣等感は見られない。
むしろ、「大学と専門学校とはともに国家の教育機関として最高学府」という考え方を持っていた。「彼は理論を主として応用に兼ね及ぶ最高学府、こちらは応用を主として理論に兼ね及ぶ最高学府、故にいずれを高しとし、いずれを低しとするを得ず」という考え方である。
旧制以来今日まで、北大との間で定期対抗戦が行われているのもこのバックボーンがあるからであろう。


開校当時の緑ヶ丘



第三代校長苫米地英俊

苫米地英俊

小樽は他の高商に比べて校長に恵まれていた。
創立から10年間は渡辺竜聖というフロンティア精神あふれる教育者が育て、これを継承した第二代校長の伴房次郎も温厚な自由主義者として「緑丘学園」の伝統を継承した。そして、等しく全国の高商が苦難の時代を迎えた昭和10年代を受け持ったのが「切れ者」として評判の高かった苫米地英俊である。

苫米地は長野県の産。東京外国語学校を出て商業通信の担当教授として長く勤めた。
嘉納治五郎門下の柔道の達人。伝説であるが、外交官を目指して勉強中だった苫米地が小樽の教授として北海道に渡った理由は恩師嘉納治五郎から、北海道に柔道を広めることを進められたためだともいう。
若き苫米地は正気寮の初代寮監として、学生と寝食を共にする。授業はスパルタ式、予習をなおざりにして教室で立ち往生した学生は、寮に帰ってからも苫米地の冷たい視線を受けることになるから居心地の悪いことこの上ない。否応なく暗唱に力を入れざるをえない。名著「商業通信規範」はこの分野のパイオニア的教科書。頁数なんと700頁。地獄坂を弁当箱とそれよりもずっしりと重い「規範」と辞書を抱えて登り、「これじゃ小樽高商じゃなくって小樽外国語学校だ」とぼやく学生を厳しく鍛えてゆく。


戦時下の学園

戦時財政の逼迫により、文部省の予算は毎年削減を余儀なくされ、全国に11ある官立高商に対しては、あわせて留学生の枠が毎年2名というありさまであった。文部省頼むに足らずを見て取った苫米地は、昭和6、7年頃から全国の卒業生に呼びかけ、20万円の研究基金募集を計画する。その基金の利息で自前の留学生を毎年欧米に送ろうというのである。さらに、優秀な学生には特待生制度を設けようというものであった。こうした動きは、内容の充実につながり、さらに昭和12年の官立大学への昇格運動につながってゆく。

戦時下に苫米地のような有能な校長をいただいたのは小樽の幸運であった。
専門学校の校長は、教授の人事権から予算の執行権まで握る点で戦後の新制大学の学長と違って独裁権を持っていたから、気骨のある校長をいただくのとそうでないのとでは天地ほどの差があった。高松や他の学校では、この時期文部省寄りの校長をいただいたことにより学内に軍事色が一気に濃厚になる。
軍部の商人嫌いは有名であったが、戦争遂行を理由に文部省は昭和18年に全国の商業学校を農業・工業学校へ転換するように指示し、高商も高岡、彦根、和歌山の3校が廃校となり軍需物資生産のための工業専門学校に、横浜、名古屋、長崎の3校は工業経営専門学校に転換されることとなった。「経済専門学校」という名前でわずかに存続を認められたのは小樽、福島、高松、大分、山口の5校だけである。すでに東京商科大学は東京産業大学に、神戸商業大学は神戸経済大学と改称させられ、この時代校名に「商」の字を残していたのは全国で商都大阪の市立大阪商科大学ただ1校というありさまであった。
小樽は経専に名称変更後も徽章に「星と高商」をそのまま使っていたが、文部省は昭和19年9月7日の通達でこれを「経専」に改めるよう指示してきた。学校側は、「伝統ある徽章は簡単には変えられない」と粘りとおし、結局、終戦まで「星と高商」の徽章で通した。精一杯の抵抗といえよう。

苫米地の行動には一本筋が通っている。
北海道を舞台に行われた陸軍大演習、大元帥閣下である昭和天皇は道内各地を行幸した。
北海道知事は、地獄坂が警備に不適当としていったん内定していた小樽高商行幸を取りやめるように働きかけるが、苫米地校長は「日本一の高商を行幸からはずすとは何事か!」と激怒。結局、予定通り行幸は行われた。
戦時中、小樽港を見下ろす高台にある小樽高商キャンパスは軍が関心を示し、校舎を借り上げようとする。交渉に来た憲兵に、「教育を軽んじて戦争に勝てるか!」と一喝。激論の末これを追い返したという逸話も伝わっている。
終戦を迎え、苫米地は校長職を辞し、衆議院議員に立候補する。後任には小樽高商卒業生としてはじめて大野純一教授が選ばれて、1県1大学の原則を押し通そうとする文部省に対し、単独での新制大学への移行という困難な事業に尽力することになる。苫米地議員は、高商以来の伝統を生かすため北大への吸収合併を嫌った小樽側の軍師として活躍する。


寮祭の一幕


正気寮 北斗寮




春の図書館


初夏の本館前





冬の図書館前








短い夏のキャンパス 雪に埋まる冬のキャンパス


学生会館 道内初の温水プール


文部省の戦前の記録によると、文部省の直轄学校のなかでいちばん予算の少なかったのは小樽高商で、二番目は大阪外国語学校だったという。不名誉な記録であるが、だからといって、小樽の設備が劣悪ということにはあたらない。小樽は明治43年創立で比較的早く卒業生を出している。そこで、卒業生の篤志家の寄付により、大正中期には教授研究館と学生会館とが建てられた。また、東北以北ではじめてという蒸気暖房によるオールシーズンプールも、はじめて小樽に作られている。
小樽商科大学は加茂儀一学長時代に創立50周年記念として1億5千万円の募金を行い、木造校舎の殆どを撤去し、鉄筋に改築している。北の果てにあるこの学校を設備面で二流の学校にしないための運動である。
現在の小樽商科大学は創立80周年記念の基金で教授研究費の一部をまかない、社会人学生のために札幌にサテライトオフィスを持っているが、文部省を頼まず自分たちで何とかする気風は早くからあったようである。



工事中




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