第八回:ブーツィー・コリンズ
「大魔王、降臨」
ファンクという音楽を語る時、そのルーツとして、そしてその頂上として、必ずと言って良いほど通るのが、
ジェイムス・ブラウンと、ジョージ・クリントンを筆頭とするP-ファンク一派だろう。
そして、この両者に共通するミュージシャンこそがブーツィー・コリンズである。
そのパワーとキャリアから、多くのファンクミュージシャンから「大魔王」とか「ファンク大王」と呼ばれる、名実共にファンク界のスーパーエリートベーシストだ。
冒頭で二大ファンカティア(注:「ファンカティア」・・・ファンクする人、という意味の専門用語)に共通している、と書いたのは、
ブーツィーのキャリアを語る際に、彼ら2人がとても重要な位置を占めているからである。
ブーツィーを「ファンク大魔王」たらしめる、とても重要な位置を・・・。
ブーツィー・コリンズは、1951年10月26日、アメリカ合衆国・オハイオ州のシンシナティに生まれた
(本名はウィリアム・コリンズ。また、出生の事に関して本人は「私はこの惑星の生まれではない」と豪語している)。
幼い頃から兄の影響で音楽に慣れ親しんでいたブーツィーは、15歳の時にその兄と共に、
地元のローカルバンド、ペイスメイカーズ(一説にはペイスセッターズとも)に参加したことで本格的な音楽活動を始める。
それと同時にスタジオでのセッションワークも始めている(余談になるが、どうもこの世代のベーシストって、バンドを始めるとすぐにプロになったり、
スタジオに出入りし始めて間もなくセッションミュージシャンとしてのキャリアを開始したりしている人が異様に多いように感じる。
才能ある人も多かったのだろうし、一方で当時の音楽界というのはプロもアマもその境界線が曖昧なものでもあったのだろう)。
さて、ベーシスト、ブーツィー・コリンズの誕生である。
そして「そこそこ有名な」ミュージシャンのレコーディングを手伝ったりライヴの前座を勤めたりして、細々と音楽活動をしていた。
ブーツィーが勤めていたそのスタジオには、一度ジェイムス・ブラウンが訪れ、軽いセッションをしたこともあったそうだ。
(何でこんな大物との縁がいとも簡単に訪れるのかはナゾである。今で言えば、そこらの県営グラウンドで野球をしている社会人チームの所へ
松井秀喜がひょこっとやって来て、3イニングほど一緒にプレイしたみたいなもんだろう。・・・違うか。)
そんなある日、ジェイムス・ブラウンのバックバンドが、金銭的トラブルを原因に全員脱退する、という事件が起こる
(正確にはボイコットをほのめかしたため、ジェイムス・ブラウンがクビを宣告した。JBとはこのテのトラブルが結構多い人である(汗))。
この時、後任としてジェイムス・ブラウンが指名したのが、ブーツィーのいるペイスメイカーズだったのだ。
どうもジェイムス・ブラウンは、ブーツィーが勤めていたスタジオで彼らとジャムセッションをした際に、何らかの霊感を感じ取っていたらしい。
その日、ジェイムス・ブラウンは別の場所でのライヴが決定していたため、ブーツィー達は急遽会場に呼ばれ、
到着するといきなりリハーサルなしの本番のステージをやってのけたそうだ。このことに関してブーツィーは
「会場入りするなり、JBはいきなり『コールド・スウェット!』と叫んでライヴが始まったんだ。
でも当時の若手黒人ミュージシャンにとってはジェイムス・ブラウンは必修科目だったから、特に問題もなく弾けたのさ」と語っている。
そしてそのままバックバンドとして定着、のちにJBズと呼ばれる、専属バンドへと変遷していった。
当時のジェイムス・ブラウンは、アップテンポでハネ気味のリズムを執拗に繰り返し、歌を歌うというよりもシャウトを多用して楽曲を構成するという、
いわば我々のよく知る「ファンク」を、自らのスタイルとして確立しようとしていた時期でもあった。
平たく言えば、めきめきと頭角を現しつつあったモータウン勢のコマーシャルなサウンドと、
オーティス・レディングに代表されるような、いわゆる南部産ソウルとが人気を呼ぶというムーヴメントの中で消えずに生き残っていくためには、
それまでのJBが標榜していたような一介のソウルシンガーではダメだ、もっとオリジナルなスタイルを創り上げなければならないと模索していたのだ。
そこに、JBの天性のエンターテインメント力(これはすなわちおのれを知り尽くした上での自己演出力、自己プロデュース力とも言える)が見事にマッチし、
並のソウルシンガーではなし得ないような、ファンクという、ライヴを重視した肉体的リズム音楽を導き出すに至った。
それを物語るのが、JB本人のこんな言葉である。
「お客を求める以上の事をステージで見せたい。思いきり疲れさせてやりたいんだ。」。
のちに“The Hardest Working Man In Show Business”という異名をとるJBの基盤が、まさにこの時期に完成されていったと言うべきだろう。
その後、ジェイムス・ブラウンから「ファンクにおける一拍目の重要性」を、指パチで教わり(←この辺、ブーツィーなりのネタかも知れない(汗))、
また数々のライヴやレコーディングに同伴することで、ブーツィーはメキメキとファンカティアとしての成長を遂げていった。
いまだにジェイムス・ブラウンの名曲として名高い「セックス・マシーン」は、このブーツィーが在籍していた期間にレコーディングされたものであるが、
これがジェイムス・ブラウンの歴史における黄金期の一つだったと考えれば、
彼らペイスメイカーズの参加がジェイムズ・ブラウンに強く影響を与えた事は想像に難くない。
ブーツィー・コリンズ、18歳の時であった。
しかしこの1年後、恒例の金銭的トラブルでペイスメイカーズはJBズを脱退してしまう。
そしてそのままバンドを継続させるような形で結成したのがハウスゲスツである。
このバンドではせいぜい自主制作のレコードを残すにとどまっているが、その直後にブーツィーはデトロイトでとんでもない男と出会ってしまう。
その男こそが、後にP-ファンクというバカでかいファンカティア集団を組織することになる、総帥・ジョージ・クリントンだった。
当時ジョージ・クリントンは「ファンカデリック」と「パーラメント」という巨大なファンク専門グループをその支配下に従えており、
一騎当千の精鋭ファンカティア達と共にファンクの普及活動にばく進していた。
すごーく平たく言えば、怪しい宗教の教祖的存在だった訳だが、そんな総帥・ジョージ・クリントンが、
若くしてかのジェイムス・ブラウンに見初められた天才ベーシストを見逃すハズもなく、P-ファンクにブーツィーを参加させる。
そして早速ファンカデリックやパーラメントのレコードでプレイさせることで、そのファンカティアとしての遺伝子と感性を更に磨き上げていったのだった。
ブーツィー、20歳の時であった。
このように、ブーツィーがファンク大魔王と化すまでの過程は、ママ・コリンズから受け継いだファンキーD.N.A.に加えて、ジェイムス・ブラウンとジョージ・クリントンという、
巨大なファンカティアの存在ナシではあり得ないプロセスだったのだ(他の惑星出身という自称生い立ちはここでは無視)。
しかも、それを自身のプレイスタイルを確立する以前の10代後半から20代前半までで経験したことにより、ブーツィーの中でより深く吸収されていったに違いない。
更に誤解を恐れずに言ってしまえば、先述したように、ジェイムス・ブラウンが現在のようなファンクスタイルを完璧に確立し、
ジョージ・クリントンが名実共にファンク界の総帥になり得た、その真の功労者はブーツィーだったと断言しても良いだろう。
それはファンクにおけるベースというパートの重要性を引き合いに出すまでもなく、ジェイムス・ブラウンとジョージ・クリントンがその才能を開花させて、
ファンクスタイルを確立させる時に、決まって彼らの側にブーツィーがいた事からも推測出来よう。
両巨頭がブーツィーを更なる高みへと導いたのと同様に、ブーツィーもまた彼ら2人を更なるストロング・ファンカティアへとのし上げた。
正に切磋琢磨の関係にあったわけである。
その後、ジョージ・クリントンは、ブーツィーがベーシストとしてのみならず、ヴォーカリストとしてもパフォーマーとしても超一流の個性を持っているということを見抜き、
いつまでも自分のバックミュージシャンに収まっておらず、自分自身のバンドを作るべし、と進言。
こうして結成したのが「ブーツィーズ・ラバー・バンド」だった。
このバンドのデビューアルバムが発売されたのが1976年。ブーツィー、25歳の春だった。
ちょうどこの頃に、現在のブーツィーの原型とも言えるスタイルが完成している。
星型のベース(正式名称「スペース・ベース」。やはり他の惑星出身なのか)、星型のサングラス、全身にピカピカのスパンコールを散りばめた衣裳、
ベースのサーキットに歴史的名器「ミュートロン」を組み込み、ピックアップを4発も5発も搭載させて膨大なエフェクトをかませた独特のサウンド
(地球人・・・ィャ凡人にはとても扱えないようなこの個性極まりないベースの事を、ブーツィーは
「突如として、俺はベースで観客に語りかける術を手に入れたのさ」と言っている)、
ライヴで曲をメドレーのように繋げてプレイする手法、コミックや物語をモジッたりパクッたりしたお笑い要素たっぷりの曲(「ジョーズ」も出るよ)、
勝手に独自のキャラクターを登場させて、それを元に作られるユーモアたっぷりのファンクナンバー、「ハレルヤ!」とシャウトして始まる楽曲、
ブーツィーのみならず、全ての楽器に超一級の腕を持つミュージシャンを従えての大行進、
そして、エンターテイナーであり続ける姿勢・・・。
それらを全て極上のレベルで昇華させたのが「ブーツィーズ・ラバー・バンド」だったのである。
もちろん、ファンカデリックにしろパーラメントにしろそういったエンターテインメント性は強いのだが、時には怒りや悲しみさえも見事にファンキーに仕立て上げる
ジョージ・クリントンのスタイルと比べると、ブーツィーのスタイルはもっとポジティヴで単純明快。
泣く子も黙るベースサウンドを轟かせたかと思うと、その泣いていた子がついでに笑い出すような、そんな楽しいエネルギーに満ち溢れているのだ。
「どうしてそんなに大きな音でベースを弾くの?」とインタビューで質問された時に答えた、こんな言葉がそれを物語っている。
「それは、淋しいからだよ。」。
しかし、ラバー・バンドを結成したからと言って、実際にはP-ファンクという組織から脱隊したのではなく、
ファンカデリックやパーラメントのライヴには相変わらずベースをプレイするブーツィーがいた。
要するにブーツィーズ・ラバー・バンドはP-ファンクの派生型バンドという形をとっていたことになる。
この頃のブーツィーのファンクぶりは相当なもので、例えば当時はファンクバンドのみのウッドストックのようなイベントまで開催されていたらしいが、
ある日の後半(夜の部)は、ブーツィーズ・ラバー・バンド→パーラメント→ファンカデリックという順番で出演し、これら全てでブーツィーがベースを弾いた、
という記録が残っている。その日の終演が午前1時を回っていたというから、簡単に考えても4〜5時間はステージでベースを弾き続けていたことになる。
そして、そんな中でもやはり一番の人気を一身に受けていたのが他ならぬブーツィー・コリンズだったのである。
その後もP-ファンクとブーツィーズ・ラバー・バンドを両立させながらファンクの普及活動に専念し、その内プロデュース業にまで手を伸ばすようになった。
ブーツィーズ・ラバー・バンドを解散してからは、こういったプロデュース業に力を入れていたが、
その後ロック界の新星ギタリスト、スティーヴィー・サラスとの共演を果たして注目を浴びたりもした。
余談になるが、この頃ブーツィーはボーイズ・II・メンやマライア・キャリー、ホイットニー・ヒューストン、マドンナ、マイケル・ジャクソンなどに
楽曲を提供したりプロデュースをしたりしていた童顔の男に出会い、彼に「ベイビーフェイス」というニックネームを与えた。
その男はいまだにブーツィーが与えたそのニックネームを使い続けている。
そして現在のブーツィーは、主にソロアルバムの製作をやっており、現代テクノロジーを駆使したドラムンベースやシンセサイザー効果をファンクに取り込んだり、
多くの若手ラップ/ヒップホップアーティストと共演し、更なるファンクの新境地へと入り込んでいる。
キッズの頃にブーツィーのファンクを聴いて育った世代が今、プロのパフォーマーとして活躍しており、
彼らの多くがブーツィーへの敬意を口にして、ブーツィーの歌声を、ベースラインを、曲を、ループさせて現代のヒップホップに取り入れている。
こうしてブーツィーのファンク魂は今も脈々と受け継がれている訳だ。
ブーツィーのトレードマークとも言える星形サングラスを継承出来るのは誰か?と質問された時、ブーツィーは
「それはスヌープ・ドッグだろうな」と答えている。
2006年には、ブーツィーのキャリア初となるクリスマスアルバム、「ブーツィー・コリンズの灼熱のファンクリスマス」をリリースした。
ブーツィーのような、パーティー/キッズフレンドリーなキャラのアーティストが、今までクリスマスアルバムを出していなかったというのは意外だ。
が、元来武闘派や天の邪鬼ばかりが集うファンク界は、クリスマスとはイメージ的にかけ離れすぎているとも言える。
そういう意味では、ブーツィーはクリスマスアルバムをリリースするに相応しい、数少ないファンクスターの一人だろう。
ところで、ブーツィーのベーススタイルというのは、実はさほどテクニカルではない。
というよりむしろ、音数やテクニックの面で言えばシンプルなくらいである。
しかし、太陽系の誰もが出せないであろう、あの音。それが彼のファンキーさを如実に物語っている。
いわば名刺代わりのようなもんだ。
あの音を聴いてブーツィーだとわからないのは、押し寄せる波の音を聴いて海だとわからないようなものだ。
フレーズで言えば、まぁファンクというのが元々「シンプルでインパクトのあるビートを延々と繰り返す中でグルーヴを生み出す」という性格の音楽なので、
それを体現するブーツィーのフレーズも、休符をいかした、インパクトのあるものが多い。
一曲を、たった4つの音だけで弾き通しているものもある。
スラップを使っている曲でも、ほとんどルートとオクターヴ上の音をベチベチ鳴らしているだけのものもあり・・・という具合なのだが・・・
それがナゼかファンキーなのだ。
同じような音使いで他のベーシストが弾いても、絶対にこんなに背筋が痺れる事はないのに。
シンプルにルートを弾いている曲でも、太陽系随一の音と相まってとてつもなく腰に来る。
ドラマーを相手にしている時はもちろん、マシンビートを相手にプレイしている時でも、
そこにブーツィーの星形のサングラスがキラリと光っている事がモロにわかる。
特に最近では、ヒップホッパーやDJを相手にファンクする機会も多く、マシンビートを相手にしたりブーツィー以外の人物にリードヴォーカルを取らせたりする事が
増えているのだが、ベース以外がほぼプログラミングという演奏の中でも、ベースだけがひとり鼓動を続ける心臓のようにベッコンベッコンいっている。
この音!
そのフレーズ!
あの素っ頓狂なシャウト!
どんな存在感やねん!
いついかなる場面でも、彼がひとたび弦に触れれば、そこには押しも押されもせぬファンクワールドが展開される。
そう、ブーツィーは「ファンキーなベースを弾いている」のではない。
「ブーツィーが弾いたベースがファンキー」なのだ。
・・・・そう、いまだに人類(地球生まれだとすれば、だけど)最強の“ファンカティア”なのだ。
時代が変わってもその精神は変わらない。
今やファンクという音楽そのものは決して巨大な勢力を持っているわけではない。
しかし、あの機械が支配した忌まわしきディスコブームを、それでもなお、ナマの演奏で、気力と体力、そしてベース1本でファンクし続け、
流れる事なく、流されることなく、死に絶えることなく、殺されることなく、沈まず、沈められず、切り抜けてきたブーツィー。
若い頃からファンクの大権現のような2人を相手にベースを弾いて来た彼にとってみれば、時代の流れがどうあれ、
それらを全て飲み込んでしまうかのようなパワーを、いまだに余裕綽々で持ち合わせているのだ。
ディスコブームもメタルブームも関係プーなのだ。
ライヴでは他の楽器を食いつぶしてしまうくらいに爆音でベースを掻き鳴らすブーツィー。
そして、ライヴが終盤に向かうほどどんどんヴォリュームがアップしていく。
ブーツィーがファンカティアとしての魂を持ち続けている限り、彼の星型ベースが光を失うことはないだろう。
「どうしてそんなに大きい音でベースを弾くの?」
「それは、淋しいからだよ。
ずっと一緒にファンクをやってた友達が死んでいったりやめていったり。
だから俺はデカい音を出すんだ、俺は今でもこうして、ここでファンクしてるよってね」。
大魔王が墜ちる事はない。
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このベーシストへのいざない作品:
■ブーツィー?プレイヤー・オブ・ザ・イヤー(ブーツィーズ・ラバー・バンド)
■マザーシップ・コネクション(パーラメント)
■ハードウェア(サードアイ)
■フレッシュ・アウタ・P(ブーツィー・コリンズ)