第十六回:クリフ・バートン
「伝説のメタルマスター」
引く事を知らないゴリ押しギターサウンド、歌よりもギターリフに重点を置いた曲展開、ドスの効いた攻撃的なヴォーカルスタイル、
人間業とは思えないほどのスピーディなテンポ・・・。
このような要素を持つ音楽の一つに、「スラッシュメタル」がある。
'80年代に、世界に初めて「スラッシュメタル」というジャンルが登場した時、多くのロックファンは、この過激な音楽を横目で見ながら素通りした。
それもそのハズ、モーターヘッドを「過激過ぎる」と言って拒絶するファンが多かった所に、
そのモーターヘッドよりも更に過激でスピーディなスラッシュメタルが、ロックファンの間でそんなにスムーズに受け入れられる訳はなかったのだ。
更に言えば、当時全盛を誇っていたL.A.メタルムーヴメントは、華やかさやポップさを売りにしたメタルだったので、
あらゆる面でその対局に位置するスラッシュメタルは正に、「マニアのマニアによるマニアの為の音楽」でしかなかった。
時代背景がそんなだった'81年10月、アメリカのノーウォークで、あるバンドが産声を上げた。
そのバンドの名は「メタリカ」。
後に「地球上のヘヴィメタルの基準」とまで言われるようになるバンドである。
メタリカは、簡単なデモテープを製作後、「メタルマサカー」というオムニバスアルバムに参加する事で世に登場した。
このオムニバスは、アメリカのメタルフリークの間で話題になり、それと同時にメタリカの名前も徐々に浸透していった。
その4ヶ月後には、当時中堅クラスの人気を誇っていたサクソンのオープニングアクトに起用されるなど、順調な滑り出しを見せていた。
この頃に、ツインギターの1人、ロイド・グラントが脱退している。
そしてもう一方のギタリストは、その人間性から「バンド活動不適格者」と見なされ、クビにされた。
そのクビにされたもう1人のギタリストとは、のちに「メガデス」を結成し、
メタリカと並んで「スラッシュメタル四天王(メタリカ&スレイヤー&メガデス&アンスラックス)」の一角に踊り出る事になる、デイヴ・ムステインその人だった。
こうしてメンバーチェンジを繰り返す内、ある2人のミュージシャンを獲得する為に、
ジェイムズ・ヘットフィールド(Vo.)とラーズ・ウルリッヒ(Dr.)は、活動の拠点をサンフランシスコに移した。
その2人のミュージシャンの1人は、当時サンフランシスコでギターの名手として知られていた、元エクソダスのギタリスト、カーク・ハメット。
そしてもう1人が元トラウマのベーシスト、クリフ・バートンだった。
結成後、L.A.でもクラブ出演を繰り返していたメタリカは、地元では既にそこそこ人気があったハズだが、
その地元を離れてまでこの2人のミュージシャンを加入させようと決心したのは少々驚きではある。
それほどこの2人に魅力を感じたのだろう。このことについてジェイムズは後にこう語っている。
「クリフに加入しないかって誘ったら『フリスコ(=サンフランシスコ)へ来るんだったらいいよ』って言ったんだ。
俺達はフリスコの事なんて全く知らなかったけど、活動の拠点を移したんだ。
実際、フリスコにはいいミュージシャンがいたようだったよ。」。
ジェイムズとラーズが活動の拠点を移してまで加入させたかったというだけあって、メタリカは一気にパワーアップを果たし、
カークとクリフが加入した後すぐにレコード会社と契約を交わす。
そして'83年にはデビューアルバム「キル・エム・オール(邦題:血染めの鉄槌)」を発売。
荒々しいサウンドプロダクションながらも、当時のメタリカの若々しいパワーとダイナミズムをそのまま封じ込めたかのような快作アルバムである。
そしてメタリカはこのアルバムを発売後、精力的なツアーサーキットを繰り返した。
そのライヴはあらゆる地域で伝説を作り続けた。
ライヴでパイロンを爆発させたり暴動が起こったりといった過激な面は勿論の事、
何よりメンバーの荒々しいプレイとパフォーマンスは、多くのメタルフリークを熱狂させた。
チューニングは狂いっぱなし、リズムもあやふや、アンサンブルなど望むべくもない酷さだったが、
しかしそんな中でもその破壊的なベースプレイとパフォーマンスで一身に声援を浴びていたのが、ベーシストのクリフ・バートンだったのである。
当時のライヴ映像を見ても、クリフの凄さは常軌を逸している。
全てを破壊しそうなほどの激しいベースプレイ、ヘッドバンギングは勿論、ステージを端から端まで走り回りながら客席を煽るパフォーマンスなど、
強者揃いのメタリカにおいても、他の誰よりも派手で見栄えがする。
その様子は「一人スラッシュメタル」と言ってもいいかも知れない。
それは、クリフ・バートンというベーシストの持つ、個性による部分も大きいだろう。
例えばベース。クリフはリッケンバッカー社のベースを愛用している。
元々このメーカーは、イギリス出身の偉大な先人、ビートルズの面々が愛用していたメーカーという事もあって、
当時のアメリカのロックミュージシャンの間ではそれほど浸透していなかったが、クリフはこのベースの個性的なサウンドとルックスを気に入っていたようだ。
しかし、よりによってスラッシュメタルを標榜していたメタリカというバンドにおいて、リッケンバッカーを愛用するというのは興味深い。
次にプレイスタイル。メタリカのヴォーカリストでありリズムギタリストであるジェイムズ自身が
「ギターリフを、スピーディにかつシャープにするには、ダウンカッティングが重要なポイントになる」と語っている通り、
こういったスピーディでハードな音楽をプレイする場合、ギターやベースはピックを使ったプレイスタイルを用いるのが一般的である。
その方がアタック感とスピード感が出しやすいからだ。
しかしクリフは違う。
ピック弾きでも相当な修練とスタミナを必要とするほどスピーディなスラッシュメタルという音楽をプレイしているのにも関わらず、
人差し指と中指を用いた2フィンガーでの指弾きにこだわっているのだ(一説によると3フィンガーとも)。
これは常識外れにもホドがあるというものである。
メタリカの音楽を聴いた事がある方ならお解りだろうが、あのテンポに慣れるだけでもかなりの難易度であるほどの、
殺人的なテンポでプレイされる音楽なのに、目にも留まらぬ速さの2フィンガーでブリブリと弾きまくるのだ。恐ろし過ぎる。
おそらく一般人がマネしようとすると、すぐに腱鞘炎で指が使い物にならなくなるだろう。
そしてサウンド。クリフが愛用しているリッケンバッカー社のベースは、ブンブンと唸るようなベースサウンドが特徴だが、
クリフはそこに更にディストーションを掛けて、強烈なベースサウンドを作り出している。
ブンブンブリブリ、唸りまくりである。
ただ、一般的にベースに強い歪みを掛けてアンサンブルの中で鳴らすと、ギターの歪みサウンドの中に埋もれてしまったり、
ベースサウンド自体に芯がなくなったかのようなトーンになってしまうもので、クリフのベースサウンドもそういう欠点が出てはいるのだが、
クリフの場合はその「埋もれ感」を「ギターとの一体感」であるかのように逆手にとっているのだ。
実際にCDを聴くと、ギターとベースの音の「境目」が、良い意味で見分けにくい。
即ち、サウンドに一体感が生まれている訳だ。
そしてまた、ステージ衣裳などに見られるファッション面でも、クリフは個性的である。
当時のメタル系ミュージシャンと言えば、レザーパンツやレザージャケットは勿論、ピチピチのスリムジーンズを履いている、といった、
ある程度の方向性のようなものが見られたのだが(←今見ると笑える。何であんなのが流行ってたんだろう(汗)?)、クリフは違う。
ベルボトムのジーンズにミスフィッツTシャツ、その上にリーバイスの3rdジージャンを着ている。
そして長身にロン毛にヒゲ面。ちょっとしたヒッピースタイルだ。
いかにもなメタルファッションをしていたメタリカのメンバーの中でも異色だし、
当時のメタル界を見渡してもかなり個性的だと言える。
ルックスの面でもクリフは自らのスタイルを崩さずに突っ走っていた訳である。
このように、ベーシストとしてのみならず、ミュージシャンとして、男として魅力的だったクリフに対して、他のメンバーは全幅の信頼を寄せていたようだ。
それを示すように、先述したメタリカのデビューアルバム「キル・エム・オール(邦題:血染めの鉄槌)」には、
クリフが延々とベースソロを奏でるだけの曲が収録されているほどなのである。
メタリカの二大巨頭と言われるジェイムズとラーズが、ベースやリードギターに対して異常なまでのコダワリを持っており、
ベーシストやソリストに自由奔放なプレイを殆ど許さないという鉄の掟を持つこのバンド内において、クリフのこの扱いはまさに破格。
これは、クリフの後任ベーシストとしてメタリカに加入したジェイソン・ニューステッドが、
「曲の中で自由なベースラインを弾かせてもらえるようになるまで数年掛かった」と語っているところからも判る。
勿論、ジェイムズとラーズがジェイソンに不満を感じていた訳ではないだろうが、それ以上にクリフが特別な存在であり過ぎたとでも言うべきか。
メタリカの活動拠点を移してまでクリフを加入させようとした、ジェイムズとラーズの真意も理解出来よう。
セカンドアルバム「ライド・ザ・ライトニング」をリリースする頃には、メタリカは早くもワールドツアーへと旅立っている。
しかも全日程ソールドアウト。もはやメタリカの前に立ちはだかるものは何も存在していなかったのである。
こうしてライヴというライヴで伝説と新たなファンを作り出し、メタリカは雪だるま式で頂点へと上り詰めていく。
既にメタリカを「マニアの為の音楽」とか「アンダーグラウンドのヒーロー」などと抜かすメタルフリークはいなかった。
イヤ、正確にはいたかもしれないが、そんなことを言わせないだけのオーラが、既にこの頃のメタリカには纏っていたのだと言える。
事実、この頃には様々なイベントにも参加していたのだが、観客を食ってしまうのは、
当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったボン・ジョヴィでもラットでもなく、他でもないメタリカだったのだ。
まさに向かうところ敵なしだった。
サードアルバム「マスター・オブ・パペッツ(邦題:メタルマスター)」をリリースした後も、メタリカはスラッシュメタルの先駆者として、
イヤ、メタルという音楽を引率する者として爆走をやめる事はなかった。
度重なるライヴ、ワールドツアー。
ライヴこそがメタリカの最大の武器である事をメンバーも知っているかのように、ひたすら精力的なライヴサーキットを続けた。
この後、メタリカはどんなにビッグになっても、どんなに売れっ子になろうとも、ライヴを重視する、というバンドのスタイルを崩さなかった。
そういったスタイルが確立したのが、まさにクリフの在籍していたこの頃だったのだ。
メタリカのパワーと破壊力を決定付けたのがクリフのベースプレイであり、パフォーマンスであり、個性であり、スピリッツだった、と言っても過言ではないだろう。
クリフ・バートン、1962年2月10日生まれ。
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身。'82年、20歳でメタリカに加入。
'83年、21歳の時にアルバム「キル・エム・オール(邦題:血染めの鉄槌)」でデビュー。
ヒョロッとした長身にベルボトム、ジージャンという出で立ちで、リッケンバッカー4001にモーリーのベースワウ、メサブギーのアンプを使用。
ディストーションを掛けたブリブリサウンドにワウペダルをふんだんに駆使した独特のスタイルを確立。
「スラッシュメタル」という、人類未開の音楽をもって、ロック界に風穴を空けた。
また、その「スラッシュメタル」をプレイするのに2フィンガーを用いた先駆け的存在でもある。
サードアルバム「マスター・オブ・パペッツ(邦題:メタルマスター)」でのワールドツアーでは、北ヨーロッパの地、デンマークにも遠征した。
ドラマーのラーズが生まれた国だ。
'86年9月26日、いつも通り狂気にも似たライヴを終え、翌日の公演地、首都コペンハーゲンへ向かう途中で、
クリフはツアーバスの一番後部座席に座りたくなったらしい。
それで、そこに座っていたジェイムズに「席を替わってくれ」と言った。
席を替わってもらったクリフは、読書をしたりウトウトしたりしていたのだろうか・・・
午前6時15分、路面の凍結部分を避けられずにツアーバスがスリップ、転倒。
後部座席に座っていたクリフは、ガラス窓を突き破り、車外へ投げ出されて即死した。
享年24歳。
メタリカのリーダー、ジェイムズ・ヘットフィールドは、今でもその時にクリフがはめていたリングを、大事に持っている。
北の大地で眠る友を、永遠に忘れまいと誓うかのように。
こうして男は伝説となった。
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このベーシストへのいざない作品:
■血染めの鉄槌(メタリカ)
■ライド・ザ・ライトニング(メタリカ)
■メタルマスター(メタリカ)