第十八回:いかりや長介

「だめだこりゃ!」

 

世の中には「長さん」という愛称で親しまれる有名人が何人かいる。

例えば、現読売巨人軍終身名誉監督、長嶋茂雄。

例えば、NHK教育の看板番組の一つ、「たんけん!ぼくのまち」でお兄さん役だった人。

しかし、管理人にとっての「長さん」と言うと、間違いなく「いかりや長介」の事だ。

御存知、ザ・ドリフターズのリーダーであり、バラエティからドラマ、映画など、様々なフィールドで活躍する、日本を代表するタレントである。

 

コアなドリフファンの間では周知の事実だが、ドリフターズはバンドであり、当然のことながらメンバーは全員ミュージシャンである。

例えば加藤茶はジャズをルーツに持つドラマーだし、高木ブーはハワイアンを得意とするウクレレプレイヤーである

(勿論、“高木ブー・シグネイチャーモデル”も発売されている)。

そんなドリフターズにおいて、いかりや長介はベーシストなのだ。

数年前になるが、某社ビールのCMで、ビールを飲みながらエレクトリックアップライトベースをボンボンと爪弾く、

渋〜いいかりやの姿をご覧になった方も多い事だろう。

あれを見ると、音楽からは遠ざかってしまっている感のあるいかりやが、いまだにベーシストとしての魂を持ち続けている事が判ろうというものである

(ちなみにあのCMでのアンプはアンペグだった)。

ちなみに、いかりや長介のピッキングスタイルは右手の親指の腹を使ってボンボンと弦をはじくというモノだが、

一説によるとそのスタイルから発展させて「日本人ベーシストで初めてスラップ奏法をやった男」なのだという。

これが事実かどうかを確かめる術はないだろうが、こういったエピソードがまことしやかに語られているという事が既に、いかりやがベーシストなのだという事の確たる証拠だ。

 

いかりや長介。

本名、碇矢長一(いかりやちょういち)。1931年11月1日、東京都に生まれる。

父親は築地魚河岸の仲売人をやっており、業平橋のたもと、駒形で育った東京の下町っ子。

戦後、職場での音楽サークル活動がキッカケで、ハワイアン・バンドに入る。当時、ロカビリーが流行し

ちょうどそのハワイアン・バンドが解散したこともあって、ロック・バンドの「クレイジー・ウエスト」にベーシストとして加入

(この「クレイジー・ウエスト」は後に、加藤茶が一人前のドラマーとしてスタートしたバンドであり、仲本工事も荒井注も、それぞれ時期が異なるが在籍したバンドでもある)。

1960年、に桜井輝夫をリーダーとして「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」結成。

1961年にいかりや長介をリーダーに「いかりや長介とザ・ドリフターズ」に。

当時のメンバーはいかりや長介、加藤茶、小野やすし、猪熊虎五郎、飯塚文男、ジャイアント吉田。

1964年9月にいかりやと加藤以外の4人が脱退して「ドンキーカルテット」を結成。

そこでいかりやは、新生ドリフターズを結成するべく、ヘッドハンティングを開始する。

そしてクレイジー・ウエストから荒井注を、シャドウズというバンドから高木ブーを、そしてこの高木ブーと学生時代のバンド仲間だった仲本工事を加入させる

(仲本工事を加入させる際には、仲本の家族に直接会いに行き「必ず食えるようになるまで面倒を見るのでよろしくお願いします」と説得したという)。

こうして誕生したのが、お馴染み「ザ・ドリフターズ」だ。

この後、ドリフターズは、有名ジャズ喫茶で、着々と笑いの基盤をつくる他、

「ホイホイミュージックスクール」というテレビ番組で歌手のタマゴのバックバンドをして過ごしていた。

 

そんなドリフターズが一躍有名になったのは、何と言ってもザ・ビートルズの来日公演(日本武道館)での前座という大役を勤めた、1966年6月だっただろう。

この事について、加藤茶は後日、こう語っている。

「最初は好きなようにやってくれって言われたんだよ。で、何をしようかって話をしてると、『30分くらいでお願いします』って言って来たんだ。

じゃあわかったと。で、またそれから数日後に『15分でやって下さい』って言われた。

あれ〜?短くなっていくなぁって思ってると、またその数日後には『5分でやってくれ』って言われてさ。もう、5分って言われてもねぇ(笑)。

で、結局当日にはもっと短くしろって言われたんだよ」。

そしてドリフターズが実際に行ったステージは僅かに数十秒。ビートルズもカヴァーしていたリトル・リチャードの名曲「のっぽのサリー」を1コーラスだけプレイした後、

いかりやの「逃げろ!」という合図とともに一斉にステージを駆け下りる、という内容だった(笑)。

ちなみにその時の客席には、のちにドリフターズの正式メンバーになる志村けんもいた。

 

そして1969年に生放送バラエティ番組「8時だヨ!全員集合」が始まると、ドリフターズ人気は爆発。

番組の人気と相まって、一気にスターダムへとのし上がったのである。

その数年後に荒井注が脱退し、その頃既にドリフの付き人として働いていた志村けんが加入。

私たちに馴染み深い、あの「ザ・ドリフターズ」が誕生したのである(余談ではあるが、実は荒井注はリーダーであるいかりやよりも年上だったが、

「リーダーより年上のメンバーがいてはリーダーの格が下がる」と言って、終始年齢を偽っていかりやより年下を演じていた)。

「全員集合」は13年連続で平均視聴率30%以上をマークし、最高視聴率は47.6%。

まさしくお化け番組だった。おそらく生放送の帯バラエティ番組としては最高記録だろう。

ドリフターズはこの番組を通じて「いい湯だな」、「ドリフのズンドコ節」などのヒット曲を出し、

更には「ちょっとだけよ」、「あんたも好きねェ」、「カラスの勝手でしょ」など数々のギャグを流行らせた

(この内「ドリフのズンドコ節」をモティーフにして演歌歌手の氷川きよしがヒット曲を飛ばしたのは周知の通りである)。

一方で、PTAからワースト番組と批判されるという事態も起こり

(もっともこれは、「オレたちひょうきん族」や「ダウンタウンのごっつええ感じ」、「めちゃ×2イケてるッ!」など、歴代の数々の面白い番組がみんな通って来ている道であり、

本当に面白い番組の証拠であるという事は、賢明な視聴者なら御存知であろう)、ドリフターズの存在そのものが社会現象となっていったのだった。

 

しかしいかりや本人は、この事について後にこう語っている。

「ドリフはよく言えばユニーク、悪くいうとデタラメ。ほかに、類似のグループがなかった。

だから、存在出来たんです。強いて言えば、クレージーキャッツですかね。

クレージーが大スターになって、目の前で見せてくれたので、半分でも4分の1でもいいから、追い付けたらなあと思いましたよ。

でも、ドリフはテレビがなかったら、プロにはなりませんでしたよ。

だって、全員がミュージシャン出身というけど、楽器がうまいヤツはいませんよ。

高木ブーがウクレレでブレイクっていっても、何もしゃべんなかったブーが、まさかというか音を鳴らしているから受けているだけでね。

僕ら、何にもできないんですよ。コントだって、うまいねえなんていわれたことは1度もありませんからね。

よく見てみると、難しいことは全然やっていませんから。本当にそうなんですよ」。

 

本人のそんな謙虚な言葉とは裏腹に、ドリフターズは数々の賞を受賞していく。

1970年(昭和45年)民間放送34社選定・歌謡ベスト10特別賞、

1970年(昭和45年)TV大賞・優秀タレント賞、

1970年(昭和45年)第1回日本歌謡大賞・放送音楽賞、

1970年(昭和45年)第2回日本レコード大賞・大衆賞(「ドリフのズンドコ節」)など。

 

そしてドリフターズの人気が上昇するに連れて、メンバー個人での仕事が増えていき、それぞれの得意分野での活動を中心に行うようになっていった。

いかりや長介がバラエティの次に選んだ道は「俳優業」だった。

その後、ドラマ出演を自ら「ライフワーク」とまで呼ぶようになっているが、やはり謙虚さは持ち続けている。

「いただいた仕事をありがたくちょうだいしているだけです。だって、自分でこういう仕事をやりたいっていうのは不可能でしょ。

需要がなければしょうがないんだから。いわんや、僕の年になってくるといろんな制約がでてくるんです。肉体の衰えもあるし。

こっちから、ああいうの、こういうのやりたいなんていうのはもってのほかですね。」と語る。

いかりやの中にはもはや俳優業が本業となった今でも、お笑いや音楽からこの世界へと飛び込んだのだという、

自らのルーツを大事にしようとする精神が根付いているのであろう。

それは即ち、いかりやの根本はドリフターズにある、という事でもある。

そんないかりやも、1998年(平成10年)には「踊る大走査線The Movie」に出演し、第22回日本アカデミー賞・最優秀助演男優賞、橋田賞を受賞している。

 

このように、刑事ドラマからホームドラマ、映画までを幅広くこなしてきたいかりや長介。

その素顔とは、日本のバラエティ界を背負ってきた重鎮芸人であり、

数多くのドラマや映画の脇を固める名脇役であり、

ビールを飲みながら渋〜く低音を奏でるベーシストなのだ。

しかし、そんないかりやも、2004年3月20日、かねてから闘い続けていたガンが悪化して逝去した。

これでドリフターズというグループが全員集合する事はもうなくなってしまった。

が、いかりやの残した、いかにもユニークで個性的な足跡というのは、お笑い界で、ドラマ界で、そしてベース界で、

その影響力は脈々と受け継がれていくに違いない。

そういう意味で彼は間違いなく巨星であった。

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このベーシストへのいざない作品:

■ドリフだョ!全員集合“赤盤”(ザ・ドリフターズ)

■ドリフだョ!全員集合“青盤”(ザ・ドリフターズ)