第一回:ジャコ・パストリアス

「エレクトリックベース黎明期の天才」

 

1975年5月、人気ブラスロックグループ「BS&T」のドラマー、ボビー・コロンビーは、

人の女性から「私の夫は世界一のベースプレイヤーよ」と、1本のデモテープを渡された。

帰宅後、そのデモテープを聴いたボビーは凍り付いた。そしてすぐさまその女性に電話を入れた。

「君の夫に、すぐにこのテープをレコーディングしないかと伝えてくれ」

 

その女性の名前はトレイシー・パストリアスと言った。

彼女の夫の名前はジャコ・パストリアス。

当時まだ22歳の、全く無名の男だった。

 

こうして同年9月からCBSスタジオでレコーディングされたそのテープこそ、ジャコ・パストリアス(以下ジャコ)が世に飛び出すことになった作品、

「ジャコ・パストリアス(邦題:ジャコ・パストリアスの肖像)」である。

そしてこの作品は、その後世界の音楽の姿を変えた。

かのマイルス・デイヴィスに若くして発掘されたベーシスト/プロデューサー、マーカス・ミラーは、この作品を聴いた時の衝撃について、こう語っている。

「15、6歳の頃だったと思う。言葉も出なかった。自分の聴いたモノを、ただただ信じられなかった。

ターンテーブルからレコードを外すことが出来なくなってしまい、練習練習、また練習。ひたすらジャコを研究した。

で、僕が自分自身のある到達点に至り、『ああ、やめた、もうジャコのようには弾かないぞ』と言うまでに、何と2年も掛かったんだ。

それくらい彼は僕にとって印象深い存在だったわけだ。」。

 

確かにこの作品は、突然の革命だった。

当時はまだエレクトリックベースと言ったって、単なるリズム楽器である、という認識が世間の常識だった。

ジャズの世界においてすら、ベースがアンサンブルの前面に出るというのはまだまださほど認知されていなかったであろう。

しかしこの作品のジャコのプレイはまるでギター、或いはピアノのようだ。

折しも長年の歴史を持つジャズがロックンロールと融合し、フュージョンなる音楽が世に出始めた頃で、

よりテクニカルで斬新なスタイルを持つミュージシャンが続々と出て来ていた。

そういった背景の中だったが、それでもなおジャコのエレクトリックベースは「革命」だったのだ。

しかも、エレクトリックベースの世界ではまだ一般的には認知されていないフレットレスベースでの「革命」だったのだから、

世界が震撼しないハズはなかったのだ。

 

このジャコの“革命第一弾”アルバムは、1曲目からチャーリー・パーカーの名曲「ドナ・リー」を、

エレクトリックベース1本とパーカッションだけでカヴァーするというハミ出しぶりだ。

フレットレスベースのマイルドなトーン、メロディアスなソロ(というか、曲全体がソロとも認識できるが)、

ジャズベースのリアピックアップに右手を乗せてピッキングする芯のあるサウンド、

狂ったように弾いても全く乱れないタイム感とグルーヴ感・・・。

今聴いてもこれだけ衝撃的なのだから、20年以上前に発表された当初はどれ程の衝撃だったのか、想像に難くない。

これを聴いた世界中のベーシスト、否、ミュージシャンは一体何を思い、何を考えたのだろうか・・・。

 

ただ、正直言ってジャコのプレイに関してはゴチャゴチャと分析や能書きを垂れるのは無粋というものだ。

とにかく聴いてみるべきだ。これこそがエレクトリックベースの世界に新たな風を吹き込み、

ようやく夜明けを迎えようとしていたエレクトリックベースの世界に光をもたらした音、プレイなのだ、と。

 

ジャコ・パストリアス、本名:ジョン・フランシス・パストリアスIII世。

1951年12月1日、ペンシルヴァニア州ノリス・タウン生まれ。7歳の時にフロリダに移住。

元々ドラマーだったのだが13歳の時フットボールで腕を折ってしまい、それを機にベースに転向。

幼い頃聴いていたのはキューバ音楽、カリプソ、ジェイムズ・ブラウン、チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラ、ビートルズ、

ジミ・ヘンドリックスなど(ライヴのベースソロでよくジミヘンのナンバーをプレイいていた)。

10代後半になり、当時白人は滅多に近付かない地区にあったライヴハウス、「ダウン・ビート・クラブ」に通い始めたジャコは、

ここで毎晩のようにセッションに精を出し、着実に実力を付けていったようだ。

オカマのダンサーから芸人、マイアミから来るR&Bバンドやブルーズシンガーなど、何でもアリのこのハコの近所を、

ジャコはベースを脇に抱えて足早に歩いていたという。ダウン・ビート・クラブに古くからいる年老いたコックに、

「ジャコってベーシストを知ってるかい?30年以上前にここでプレイしたいたんだけど」と質問すると、彼はこう答えたという。

「ジャコ?知らないね。白人かい?・・・そう言えば、ヒョロっとした若造がファンキーなベースを弾いていたな。」。

 

最初の作品のリリース後、ジャコはウェイン・ショーター率いる伝説的ジャズ/フュージョングループ、ウェザー・リポートに加入する。

1976年、ジャコ25歳の時であった。

「ヘヴィ・ウェザー」「8:30」などをリリースする。もちろんこれらのレコードも充分凄いのだが、

特にライヴにおける、ジャコとドラマーであるピーター・アースキンとのコンビネーションは特筆すべきものである。

凄まじい存在感と破壊力を兼ね揃えたプレイを繰り広げている。

ライヴアルバムはさながら「神々の宴」のような様相を呈している。

プレイは勿論、空間系エフェクトを効果的に効かせたサウンドもまた興味深い。

凄まじいまでのテクニックはさることながら、いくら弾いても乱れないそのプレイの正確さ。

ベースソロでは一瞬崩れそうになっている部分もあるのだが、また怒濤のようなプレイでグルーヴを取り戻し、そして空気を操っていく。

何かが取り憑いているかのようである。

長い歴史を持つウェザー・リポートの中でも、このジャコが在籍していた時期を「黄金期」と認識しているファンも多い。

それほどこのベーシストの存在感は驚異的だったのである。

 

その後、1982年にウェザー・リポートを脱退、ワード・オブ・マウスとしての活動を繰り広げたり、ジョニ・ミッチェルと競演したりと、

名実共にトップミュージシャンにのし上がっていく・・・かのように見えた。

 

しかし・・・・・・・。

元々そういう傾向があったのかどうかはわからないが、ジャコは歳を追う毎に奇行が増えていく。

'82年に来日した時にはいきなり行方不明になったり、パンツ1丁でリハーサルに登場したり、

広島城のお堀にベースを投げ込んだり、自慢のロングヘアーをバッサリ切って角刈りにしたり、常軌を逸したような行動を取るようになっていった。

'84年に来日した時には裸で飛行機から降りて来たり、ライヴでは全身に泥を塗りたくってステージに上がるなど、

益々奇行はエスカレートし、神とまで言われたそのベースプレイでさえも、精神分裂気味な徴候が表れていたらしい。

加えてアルコール、ドラッグによる依存症が悪化、音楽活動もままならなくなってしまう。

そしてとうとうアルコール、ドラッグ欲しさに「命」であるはずのエレクトリックベースですら売り払っていくのである。

長年に渡りジャコを取材し、ジャコ本人から“ナカ”という愛称で呼ばれるほどに親しくなっていた日本人ライター、中山氏によると、

彼がジャコに出会ったのは、'86年の夏のニューヨークだった。

ジャコは舗道に座り、かつて自分が参加したレコードを手売りしていた。

「俺はジャコ、世界最高のベーシストだ!今レコードを買ったらサインしてやるぜ!」。

その数日後、ジャコは中山氏の宿泊していたホテルを訪れ、ビールを飲み、ありもしない新曲やオーディションや契約の話を喋り続けた。

そして「今度スタジオへ来いよ!」と言い残し、中山氏の部屋にスタジオの時間と場所を記したメモを置いていった。

中山氏がそのメモ通りに行ってみると、そこはスタジオでも何でもなく殆ど全壊したビルの一室だった。

そこでジャコは、路上生活者と一緒に、2本だけ弦を張ったベースでセッションをしている。

「ヘイッ、ナカッ!」、ジャコの声は明るく力強かったが、眼はトロンとしていた。

それが中山氏がジャコと出会った最後の、そして永遠の夏の始まりだった。

 

1987年9月21日。

ジャコはとある居酒屋で酒を飲んでいたが、ふとしたことから同席していた客と口論になり、

とうとう大喧嘩にまで発展していく。

そしてその喧嘩が原因で、ジャコはあっけなくこの世を去った。

享年35歳。

 

まさに「激しい天気」のように一気に駆け抜けた人生だった。

実際に現役ミュージシャンとして表舞台で活動していたのはせいぜい10数年だったのだ。

しかしジャコがエレクトリックベースの世界に、イヤ音楽界に及ぼした影響というのは本当に計り知れない。

それまで単なる「リズム楽器」としか認識されていなかったエレクトリックベースを、アンサンブルの中で花形楽器として認知させ、

遂には「エレクトリックベースの可能性」に対する認識そのものも変えてしまった。文句なしに「革命児」だったのである。

 

パット・メセニー・グループを率いるスーパーギタリスト、パット・メセニーの言葉。

「ボクは今まで、自分の一生のうち、あんなに才能溢れる人間に出会ったことはない。

ボクが今まで一緒にプレイした人間の中でジャコが一番凄かったんだから。

キース・ジャレットもオーネット・コールマンも、生のままの可能性、むき出しの才能という点ではジャコの足元にも及ばなかったんだ。

ジャコほど周囲のミュージシャン・・・イヤ、ミュージシャンみんなに影響を与えたヤツはいない。

それはベースプレイヤーに限ったことではなく、ジャコは音楽の持つコンセプトそのものを根底から覆し、変えてしまった。

今、レコードを聴くだろ。

もしも、ジャコがあんなプレイをしなっかったとしたら、今、この世にあるありとあらゆるレコードの音は違ったモノになっているはずさ。

ジャコはそれだけ音楽の世界を変えたし、ミュージシャンのプレイの仕方、そして音楽そのもののあり方すらをも変えてしまったのさ。」。

 

そのパット・メセニー・グループに後々参加した、ジャコと同い年ベーシスト、マーク・イーガンの言葉。

「ジャコと会ったのは'72年の事だったと思うけど、その時には既にみんなが知ってるような彼のスタイルは完成されていたんだ。

ただただ畏敬の念に打たれたよ。

彼は単なるベースの達人ではなく、改革者だったと思う。

彼は、彼オリジナルのスタイルを持っていた。

その上、作曲家としても優れたコンセプトの持ち主で、他のミュージシャンを取りまとめる力も持っていたんだ。

つまり、ミュージシャンとしてだけでも優れていたけど、それにとどまらず、ベースを新たな高いレベルにまで引き上げてくれた。

ボクにとって彼は、ジミ・ヘンドリックス、チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンらと同様の存在だ。」。

 

天才薄命。そんな言葉を連想せずにはいられない。

しかし、ジャコが、愛する妻・トレイシーへと捧げる為にベース1本で奏でたナンバー、

「トレイシーの肖像」は今も尚、どこまでも切なく優しく響く。

この曲は、ステージ上では見られない、革命児のもう一つの顔なのかも知れない。

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このベーシストへのいざない作品:

■ジャコ・パストリアスの肖像(ジャコ・パストリアス)

■パンク・ジャズ(ジャコ・パストリアス)

■ヘヴィ・ウェザー (ウェザー・リポート)