第二回:ポール・マッカートニー
「メロディの伝道師」
1970年4月17日、イギリスの新聞が「ポール・マッカートニー、ビートルズを脱退」という記事を掲載したことで人々は皆、
「ポールがビートルズを辞めたがっているという噂は本当だったのだ」と思った。
しかし実際の所はというと、一番バンドを存続させたがっていたのは他ならぬポールだった。
ザ・ビートルズ。
古今東西を通じても、おそらく最も影響力の大きなバンドの一つであろう。
イヤ、数十億年前にこの惑星が誕生してから、そしてまた消滅するまでの間に(いつかは判らないが)、
我々人類はこれほどインパクトの強いバンドに出会う事はもうないだろう。
イギリスの片田舎、クオリーバンク中学校の悪ガキたちによって結成された「クオリーメン」が、このスーパーグループの前身である。
その悪ガキの筆頭格であったのがジョン・レノンであり、「クオリーメン」がセントピータース教会でライヴをやった日、
楽屋でジョンに接近した男がポール・マッカートニーだった。その時の事について、ポールは後にこう語っている。
「土曜日の午後だったな。友達に誘われて教会のライヴに遊びに行ったんだ。
ライヴと言っても、大きめのトラックの荷台がステージになってるだけだった。
終盤で登場したグループ、演奏はそれほどうまくなかったが、まぁなかなかのもんだったけどね、
そのグループで前髪をカールした、イカした男が歌ってたんだ。歌詞を覚えてないらしく、ブルーズの歌詞を適当に当てはめて歌ってたよ。
ホントはラブソングのカヴァーをしてるハズなのに『気付いたら刑務所だった〜』なんてね(笑)。なかなか頭の良いヤツだなって思った。
それがジョン・レノンだったんだ。」。
その日のステージが終わった後にポールは楽屋を訪れ、ジョンの前で、クオリーメンのメンバーの誰もが出来なかったギターのチューニングをその場でやって見せ、
エディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」を、愛用のゼニスのギターで弾き語りで披露した。
それを気に入ったジョンが、ポールをクオリーメンにギタリストとして加入させた。
その後、音楽の歴史を大きく動かす事になる、人類最強のコンビが誕生した瞬間だった。
この時の事をジョンは後にこう語っている。「ポールが『トゥエンティ・フライト・ロック』をやってくれた時、歌詞を全部覚えてるなんて凄いヤツだと思った。
才能があるのはすぐに解ったよ。あとはリーダーだった僕が加入させるかどうかを決めるだけだった。」。
その後、メンバーチェンジを経る中でポールは一時的にドラムをプレイしたり、ギタリストとしてプレイしたりしていたが、
初代ベーシストのスチュアート・サトクリフが脱退した事でベースに転向(これがポールを「マルチプレイヤー」へと成長させるきっかけにもなったようだ)。
地元イギリスのクラブツアー、キャバーンクラブでの定期ライヴ、ドイツ遠征ツアーなど、あくまでライヴを中心とする活動で着実に実力を付けていく。
そして敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタイン、名プロデューサー、ジョージ・マーティンなど、
偶然とは思えないほど優れた人物と次々と出会う事で、ビートルズの運命は一変していく。
そして、当時リヴァプールでナンバーワンドラマーの名をほしいままにしていたリチャード・スターキーこと、芸名:リンゴ・スターが加入したのもこの頃だった。
1962年10月5日、シングル「ラヴ・ミー・ドゥ」をもってザ・ビートルズ、デビュー。
このシングルはデビュー作にして、国内だけで10万枚を売り上げる大ヒットとなったが、
当初からジョンとポールのキャラクターの違いは、バンドにとって大きな武器であった。
しゃがれ気味の声でふてぶてしいガニ股でロックンロールを歌うジョン、透き通った声で小気味よくラヴソングを歌うポール。そしてハーモニー。
左利きのポールと、右利きのジョンやジョージが、マイクスタンドを軸にして線対称になって歌う様子は、ビートルズならではである
(勿論1本のマイクに3人が群がって歌う事もある)。・・・もしかするとジョン・レノンは、そういったポールと自分とのキャラの違いに敏感に反応して、
或いは魅力を感じて一緒に活動しようと決心したのだろうか・・・。
しかし2人が何より注目されたのはその「作曲センス」だった。
当時のミュージシャンというのは、プロが作曲した曲を、お金を払う事で買い取り、それを自分達の持ち曲としてプレイする、というのが業界の常識だった。
しかし、ビートルズはデビューするかなり前から自分達で作曲するというスタイルを実践しており
(ただ、クラブでのライヴではどうしても観客が好むような曲や有名なスタンダードナンバーのカヴァーをプレイする事を余儀なくされていたので、
実際にはライヴではカヴァー中心だったようだが)、既にオリジナルのレパートリーも幾つかは持っていた。
驚くべきは、'60年に自主制作でレコーディングされたポールのオリジナルナンバーが、
独特のメロディラインとハーモニーを兼ね揃えていたという点である。
当時、若干18歳だったポールの曲がそんな完成度を誇っていたのも驚きだが、それ以前に、
バンドマンがオリジナルナンバーを作る事自体が珍しかった時代に、それを自分達のスタイルとして実践しようとしていた、という事実には驚愕してしまう。
デビュー当時からビートルズのプロデューサーとして活躍し、“5人目のビートルズ”という異名を持つジョージ・マーティンはこの事について、
後にこう語っている。
「メンバーが『ラヴ・ミー・ドゥ』を持って来た時、悪くないなとは思ったけど、既に僕がプロの作曲家に曲を発注した後だったんだ。
僕が発注したその曲は、まぁ最高って訳じゃないけど、ナンバーワンにはなるだろうなって曲だった。大衆ウケしそうなね。
ビートルズにとってはまずナンバーワンヒットが必要だと思ったから、その曲を使うべきだと言ったんだ。
そしたらメンバーは猛烈に反対してね。自分達の曲をやるんだって。
僕には正直、『ラヴ・ミー・ドゥ』が彼らの精一杯だろうなって思ってた。
そしたら彼らは『プリーズ・プリーズ・ミー』や『フロム・ミー・トゥ・ユー』など、どんどん素晴らしい曲を持って来た。驚いたよ。
そして『これだ!』って実感したんだ。」。
こうしてビートルズは世界的にはほぼ初めてとなる「自分達で曲を書くロックンロールグループ」として走り出した。
しかもジョンとポールの楽曲は、それまでのバンド音楽では見られないようなキャッチーで美しいメロディラインと構成力を兼ね揃えていた事で
一躍人々の注目の的となり、ラジオやテレビの出演依頼も爆発的に増えたのだった。
勿論、ジョージ・ハリスンとリンゴ・スターの作る楽曲群は、数こそ多くはないがジョン・レノンとポールが作る楽曲とはまた違った趣を持っている事は
言うまでもないし(各作品を聴けば瞭然だが)、ロックミュージシャンとしては史上初となる、シタールを大胆にフィーチャーするなどといった
ジョージ・ハリスンの姿勢がビートルズの音楽性に与えた影響は計り知れないものがある。
更にシングルレコードをハイペースにリリース、休む間もないツアーと相まって、彼らの曲は瞬く間にイギリス国内は勿論、ヨーロッパ各国でも爆発的ヒット。
そしてビートルズが「アメリカで初の国外ミュージシャンによるナンバーワン」を獲得する頃には、彼らは既に世界中のアイドルになっていた。
彼らがアメリカへ渡った時に出演したテレビ番組、「エド・サリバン・ショー」は、アメリカテレビ史上最高視聴率を記録し、
そのテレビが放送されている10分間はアメリカ国内での犯罪数が激減するという社会現象も起こった。
また、ツアーでは34日間でアメリカ・カナダの24都市・32公演を行う壮絶なモノとなり、その約1ヶ月間での総移動距離36000kmというから、
これまた当時のミュージシャンとしてはケタ違いの内容であるという事が解る。
しかし、4人はツアー中でも作曲を続け、クリエイティヴな姿勢は崩さなかった。
当時の事についてポールはこう回想している。
「もっと良い曲を書こう、もっと良い曲を書こうと必死だった。少しずつ進歩していきたかったからね。」。
また、この頃には映画「ビートルズがやって来る!ヤァ!ヤァ!ヤァ!」の撮影、音楽製作も行っている。
この映画が大ヒットした事は今更言うまでもないが、ポールはこの頃から「いずれロックと映画が融合する時が来る」と豪語していた。
その予言らしき発言の結果がどうなるのか、'70年代以降のハリウッドシーンを見れば明白である。
こういった先読みの凄さという点でもポールは実に鋭い眼力を持っていると言えるだろう。
また、あまりにも多忙なビートルズが、新曲をリリースした際のプロモーション活動が満足に出来ない為、
テレビで流す為に音と映像を合体させた「プロモーションビデオ」という手法を世界で初めて取り入れたのもこの頃である。
これ以降、ミュージシャンがプロモーションビデオの製作を当たり前のように行っているのは御存知の通りだし、後にMTVに代表される、
プロモーションビデオによる一つのエンターテインメントジャンルが確立されるのは周知の通りである。
また、当時のライヴ会場と言えばクラブか、せいぜい劇場くらいなモンだったらしいが、それでは一度に収容出来る観客数には限界がある。
そこでビートルズが「次にライヴをやるのはシェア・スタジアムだ」と提案し、史上初の「スタジアムでのライヴ」が敢行された。
これまたその後のロックミュージシャンの間では当然のように行われている手法であるが、そのパイオニアもまたビートルズだったのだ。
ちなみにその第1回、ニューヨークメッツのホームグラウンドスタジアムでのライヴ('65年8月15日)での観客動員数は、
55000人だったとも、70000人だったとも言われている。
そして、今では日本のポップミュージシャンの間でも常套手段のように用いられている、シングルレコードの「両A面リリース」というのも、
ビートルズが史上初めて行った手法である。
よく考えてみればそもそも楽曲に優劣を付けてA面とかB面とかに分けるという観念には物凄くマーケット側の都合が見え隠れするのだが、
ビートルズはこういった観念にとらわれず、2曲を両A面としてリリースしたのである(「デイ・トリッパー」/「恋を抱きしめよう」)。
これが後のミュージシャンの間で当たり前の手法になるのは言うまでもない。
それから、「レイン」ではこれまた史上初となる“レコードの逆回転サウンド”を採用している。
これも後のミュージシャンの間では当然のように行われている手法であるが、変わったサウンドやアヴァンギャルドな効果を、
恐れず積極的に音楽に取り入れようとしたビートルズの姿勢は興味深い。
こういった話はビートルズの影響や功績という意味ではごくごく一部なのだが(列挙し始めると枚挙に暇がない)、
これを見るだけでもビートルズがいかにエポックメイキングな存在だったかが理解出来るというモノである。
音楽面のみならず、それはミュージシャンとして、エンターテイナーとして、ありとあらゆる面でそういう存在なのだ。
しかし度重なるワールドツアーやテレビ・ラジオ出演などで、徐々にメンバーの人間的生活にまで支障をきたし始め(実際に、
リンゴ・スターが体調不良で倒れるという事もあった)、1966年に来日公演を果たした(この時、ビートルズの武道館公演の前座ライヴを、
たった数分間という時間制限の中で行ったバンドこそが、いかりや長介率いるザ・ドリフターズだったという事は余りにも有名な話だ)後に早々とライヴ活動を停止。
しかし、実際のところ、ビートルズがライヴ活動を停止した最大の理由は、どこへ行っても悲鳴のような歓声を浴び続ける事を嫌ったからだった。
メンバーは後にこう回想している。
「客はみんな前へ突進しようと必死で誰も演奏なんて聴いてない。僕たちですら、悲鳴ばかりで自分達の演奏が聞こえなかった。
そんなライヴを繰り返す内に、音が聞こえない事で演奏はどんどん荒くなるし、僕たち自身が進歩や上達をしなくなってしまったように感じた。
進歩するのはスタジオだけでね。そんなだったから、もうライヴそのものにウンザリだったんだ。」。
そして、その後のビートルズはスタジオワークとレコードリリースを中心とした活動をするようになり、レコーディングに専念する事によって、
更なる“傑作群”を生み出していく。
しかし、実はポールが望んでいたのは「バンドのメンバーとしてのライヴ活動」であり、「ライヴ活動をするパフォーマー」という姿だった。
ビートルズがライヴを止めようと提案した時に最後まで賛成しなかったのも、メンバーの意志がバラバラになりかけた時、
「また昔のように、小さな会場でライヴ活動をやろう」と呼びかけたのもポールだったのである。
しかし、もう既に4人の力では制御し切れないほどの人気と影響力を伴ってしまっていたビートルズに、
ポールの提案はあまりにも非現実的だと突っぱねられ、結果としては他のメンバーとの溝を深める一因になってしまった・・・・・・・。
ライヴで1曲1曲演奏が終わるたびに、メンバー全員が深くお辞儀をする、あの独特のビートルズの姿は二度と見られなくなったのだった。
1970年に、モンスターバンド「ビートルズ」が消えた後、ポールは立て続けに2枚のソロアルバムを発表(このアルバムの中では作曲から演奏、
プロデュースまでを一人でやっている)、その後「ビートルズ時代」にやりたくても出来なかった「ライヴ活動」をやるために、バンドを結成しようとメンバーを集めた。
そして妻のリンダとともに結成したのが「ウイングス」である。
世界一のグループ「ビートルズ」のベーシストであった事から、その後の一挙手一投足を苛酷な目で注目され、
心身共に疲れ切っていたポールを側で励まし、力となっていたのが妻のリンダであったのだ。
「ウイングス」は、少ないレパートリーのリハーサルも大してやらず、バンにギターやドラムセットを積み込んで演奏会場の予約すらせずに、
大学などを訪れてはその場で交渉、ゲリラに近い形でのライヴ・・・という、以前のバンドでは絶対に不可能だった、
しかしやりたかったツアーを展開していったのである。
ポールのメロディは、ビートルズ時代同様必殺の美しさを備えており、ウイングスもまた時代のトップへと駆け上がっていく。
そういった中でもポールはライヴ活動を重視し、カーペンターズやエルトン・ジョンなどと共に'70年代最強のミュージシャンとして走り続けた。
ウイングスの傑作「バンド・オン・ザ・ラン」はソ連で初めて発売されたロックのレコードとなったし、
シアトルのライヴでは屋内公演の記録となる67000人を動員した。
その後も度重なるメンバーチェンジをも物ともせず(というかどのパートが不在になってもレコーディングではポールがこなした)活動していたが、
1980年の暮れに、リヴァプール時代からの「親友」がニューヨークで射殺されると、あたかもそれに呼応するかのようにウイングスも徐々に失速していき、
1981年4月に創設以来のメンバーであったデニー・レインが脱退したことで、ウイングスの10年間に及ぶ羽ばたきも終焉を迎えたのである。
ポール・マッカートニーの作品というのは、ビートルズ時代の曲もそうであるように、実に親しみやすく聴きやすい。
耳に残るメロディが多いし、ロックンロールからブルーズ、ディスコナンバーからグラムロック、クラシックまで実に幅広いキャパシティを持っている。
そしてそれぞれの楽曲を知り尽くした上でのアレンジ、ベースライン。
ベースラインに関して言えば、メロディを最大限に活かすように、多くの経過音やグリスを用いて構成されており、
2ビートや4ビートを効果的に取り入れ、楽曲のボトムをシッカリと支えながら、しかも歌い手が歌いやすいように、ギターが乗りやすいようにと、
実にツボを心得たプレイが満載である。実際に弾いてみると大して難しくはない曲でも「よくこんな風に出来ているなぁ」と感じるものだ。
勿論、ただコピーするだけでも相当な難易度をもつ楽曲(ベースライン)も数多い。
ところで、御存知の通りポールは長年ベースを弾きながら歌うというスタイルを貫いているが、実は多くの場合、
ベースはギターに比べて歌との同時プレイは難易度が高く(それは、ベースという楽器がリズムとメロディの両方を司るという特徴を持っているから
かも知れない)、ただベースが弾けたりただ歌が歌えたりするだけではまず両立出来ないものだ。
しかしポールは違う。
歌もコーラスも完璧にこなしながら、複雑なベースラインをバシバシ弾く。
それに、ライヴ映像を見ても、ベースのネックには殆ど目をやらない。
60分のステージで、ポールがベースのネックを見る時間を合計してもせいぜい1〜2分だろう(管理人調べ)。
後の時間は客席や他のメンバーに目をやったり、激しく頭や体を揺すったりしながら歌っている。
つまり、ベースと歌とを「マスター」しているのだ。
ポール自身、「ベースヴォーカルというスタイルをとるミュージシャンの中で、ボクが世界一練習している」と言い切っている。
「天賦の才能」+「血の滲むような努力」。
天才は実は秀才でもあったという事だ。
凡百のミュージシャンが、ポールと同じフィールドに並べないのは仕方のない事なのだ。
またマルチプレイヤーとしても有名で、元々ギタリストだったが、ビートルズ時代にベースに転向、作曲はギターとピアノ、
ソロアルバムではシンセサイザーとドラムもこなしている。
ベースに関しては言うに及ばず、ピアノは「レディ・マドンナ」や「レット・イット・ビー」などでエモーショナルなプレイをしているし、
ドラムに関してはウイングス時代の名曲「バンド・オン・ザ・ラン」などでも叩いているが、この曲をたまたまラジオで聴いていたザ・フーのドラマー、
キース・ムーンが「このドラムは一体誰か?」と尋ねたという話もある。
しかしそういった天才ぶりも、全ては自身の書く素晴らしい曲があってのことであり、
全ては曲のメロディを最大限に活かす為のものであるということは言うまでもない(曲を聴けば瞭然だ)。
エレクトリックベースに関してもう少し付け加えると、今、ベースをピックで弾くプレイヤーは数多くいるが、そのスタイルを浸透させたのもポールである。
元々フェンダー社が1951年に世界初のソリッドエレクトリックベースを開発・発売してからというもの、
誰彼なしに「ベースは指で弾くもの」という固定観念を定着させてしまい、またそれを誰も疑う事もなくプレイしていたものだった。
しかし、クラシックにおけるコントラバスをボウ(弓)で弾こうが指で弾こうが自由であるのと同様に、
エレクトリックベースだって指で弾かなければならないという決まりはあるハズもないのだ。
ポールはそういった固定観念に捕らわれず、エレクトリックベースをピックを使ってプレイし始めたパイオニア的存在の一人である。
意外と知られていない事でもあるのだが。
ビートルズ時代のCDの中には、そのピック弾きのアタック感やゴリゴリ感を利用してわざと曲の味付けにしてしまっている曲もある。
更にライヴでは、セミホロウボディ(ボディの一部がアコースティック楽器のように空洞になっている構造。ナマ音の鳴りは良いが、
アンプに通すとハウリングやフィードバックを起こしやすいという欠点もある)のヴァイオリンベースを愛用するせいでどうしても音がフィードバックしてしまうのだが、
ポールはそれを逆手にとって、逆にブーミーでぶっといロックサウンドを出す手段にしてしまっているのだ。
それから、アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」をレコーディングする際、
「レコードにおけるベースの音を更にクリアに録りたい」という発想から「D.I.ボックス」が考案されたと言われている。
「D.I.ボックス」とは、ベースからアウトプットした音を2系統に分け、片方をベースアンプに、もう一方を卓へと接続して音を鳴らすアイテムだが、
このD.I.ボックスが後の音響技術に多大なる影響力を及ぼし、現在でもライヴではベーシストなら誰もが用いる必須アイテムとなっているのは周知の事実である。
また、ヴァイオリンベースとリッケンバッカーをかぶせて録り、両方のサウンドを合体させた独特なベースサウンドで表現した曲もある
(「カム・トゥゲザー」のあのラウドでヘヴィなベースサウンドがこの方法で出された音だ、とする説がある)。
エフェクターでは、ベースにエンヴェロープフィルター(オートワウ)を使用した最初の1人でもある(エンヴェロープフィルターの歴史的名器、
「ミュートロン」の製作第1号機を購入したのがポールなのだ)。
また、今となっては多くのベーシストがやっている事だが、ベースにファズを掛けるというアヴァンギャルドな試みを最初に実践した1人でもある。
他にも、スタジオで打ち合わせをしていた時に偶然ジョンのギターから出た“フィードバックサウンド”をレコードに収録しようと提案したのもポールである。
「アイ・フィール・ファイン」のイントロがそれであるが、アンプの側に立ててあったジョンのギターからうぉぉ〜んと音が鳴るのを聴いて、
ポールは「凄いテクニックだ!これを曲に使おう」と興奮したらしい。
これが“フィードバック”という、ギターにおける一種のバグ現象をレコードに収めた史上初めての例である。
現在、フィードバックを用いた演奏と言えばジミ・ヘンドリックスが開拓者のように挙げられているが、
実はレコードではジミヘンよりも以前にジョンが、ポールが、実践していた事なのだ。
また、ライヴにおけるベースサウンドを100ワットや120ワットなどの大容量アンプ(当時としては最大出力)で鳴らすという事を実践し始めたのもポールだ。
その理由として「熱狂した観客の歓声に負けない為」と語っているが、
どこの会場でも物凄い歓声を浴び続けたビートルズの人気を物語っているとも言える。
ただ、実際にはこういったポールの努力も空しく、彼らのライヴでは数万人の観客が悲鳴や絶叫をあげるだけで、殆ど音は聞こえていなかったようだ。
この事についてプロデューサーのジョージ・マーティンはこう語っている。
「ライヴ盤を出したくてね、一度機材を会場に運んで録音してみたんだ。でも後で聴き直してみると、観客の声しか入っていなかった。
ジャンボジェットのエンジンの後ろで演奏を録音したような感じだったね。それでその音源はお蔵入りになった。
・・・この頃はメンバーもウンザリしてたようだった。当時は足下にモニターを置くという技術はなかったから、頼りは各自のアンプのみ。
リンゴなんて他のメンバーの音が聞こえないもんだから、ドラムのフィルやアドリブを入れる事が出来ず、ずーっとリズムをキープしているだけだった。」。
彼らに対する声援がどれほどのものであったか、また、演奏環境がどれほど過酷かを物語っている。
しかも皮肉な事に、ビートルズがライヴ活動を一切停止した'66年以降になって、
ようやく彼らの影響により世界中のアンプメーカーが何百ワットなどの超大容量アンプを製作し始める事になるのである。
ポールの話に戻すと、ビートルズ時代のアコースティックバラード「イェスタデイ」では、ポップ/ロックミュージックでは初となる弦楽四重奏との共演をして、
サウンドの幅を広げる事にも成功している。その後、こういったアプローチが音楽界では常套手段になっていくのは周知の事実である。
また、同じくビートルズ時代のバラード「ミッシェル」では、ギターソロの代わりにベースがメロディを奏でる“ベースソロ”とも呼べるラインを導入しており、
単なるリズム楽器としてではないアプローチを見せている。
レコードにベースソロというモノが収められた例としては、これまたポップ/ロックミュージックでは最も初期の1曲であろう。
このように、ポールは常に型にはまらないアプローチに挑戦し、かつその料理方法が上手い。
ちなみに2004年には、「世界一良くない曲」というランキングで、ビートルズの「オブラディ・オブラダ」が見事(?)1位に輝いている。
これは勿論ポールがヴォーカルをとる曲であるが、これもビートルズの有名度を端的に示していると言えるだろう。
ナゼなら、“誰もが知っている”というほど有名でなければ、ワーストランキングでも1位には成り得ないからだ。
しかし、これは個人的考察になるが、このポール・マッカートニーという希代の天才アーティストの才能の出所が、ハッキリ言って謎である。
ポール自身は「父親がアマチュアミュージシャンで、よく家でギターやピアノを弾いてた。僕はよく床に寝転がってその音を聴いてたよ」と語っているが、
ポールの音楽的才能を開花させるキッカケとしてもっともらしいのはこれくらいのように思えるのだ。
子供の頃に父親からプレゼントとしてトランペットをもらっているが、「吹いてたら歌えないから」という理由で楽器屋さんに戻ってギターと交換してもらったそうだが、
これがポールの正式なミュージシャンとしてのスタートであると予想は出来る。
しかしその後はと言えば、ポール自身の言葉によると「“E”と“A”コードは知ってたんだ。でもそれ以外は知らなかった。
コードを教えて貰うために、リヴァプール中を走り回ったよ。
ある時、街の外れに“B7”を知ってるってヤツがいるって聞いて、僕はバスを何台も乗り継いでそいつの家へ行って“B7”を教えて貰ったんだ。
必死でその場で覚えて帰って、友達の前で弾いてみせたんだ。やった!って感じだったよ」という具合だったそうで、
最初から才能を発揮していたという感じは全くない。
しかもジョージ・ハリスンが「当時は戦後でモノが不足してる時代で、僕の家じゃ砂糖すら買えないような状況だったから、
ロックのレコードを買うどころじゃなかったんだ」と語っているように、労働者階級だった彼らの家の経済状況はかなり貧しかったようで、
ポールもジョージと同様、レコードを沢山買って音楽的視野を広める事は難しかったであろうし、
ましてや英才教育などを受けられる状況ではとてもなかったであろう。
ポール本人も「土曜の朝にラジオでやってる音楽番組を、朝寝坊して聴くのが一番の楽しみだった」と語っている通り、
音楽的な情報源はせいぜいラジオくらいなモノだっただろうと思われる。
これは、例えば初期クラブツアー時代の活動のように、当時売れていた曲をカヴァーするというだけならまぁ充分な下地であると言えるだろう。
であるにも関わらず、クオリーメンに加入してメンバーが揃った頃からいきなり自らのオリジナルナンバーをバンドでプレイしているし、
その楽曲が既に後の“ポール節”を連想させるようなクオリティを誇っているというのはかなりビビる。
しかも、クオリーメンのメンバー(スチュアート・サトクリフ(Ba.)、ピート・ベスト(Dr.))が揃うまではポールがドラムをプレイしていた時期もある。
いつドラムを叩けるようになったのだろうか?
ドラムだけではない。ピアノだっていつの間にあれほどの腕前を身に付けたのかは謎である。
父親が弾いているのを見ていたから、と言うかも知れないが、それだけであれほどのプレイが出来るようになるのならそれはそれでかなり驚きである。
そして初代ベーシストであるスチュアート・サトクリフが脱退すると、ジョンとジョージが「ベースはやりたくない」と駄々をこねたというだけで、
いきなりポールがベーシストになっている。いくらギタリストとしてのキャリアが少しあったからと言って、
いきなりベースを持ってあれほどツボを心得たベースプレイが出来るというのは驚きという他はない。
しかも、初期のキャバーンクラブでのライヴ映像を見ると、既にピック弾きとツーフィンガーによる指弾き、親指だけのワンフィンガーによる指弾きを曲によって使い分けているのだ。
おいおい・・・(汗)。いつの間に???
この種の謎はポールだけに限った話ではない。ジョンにも言える。彼も子供の時にギターを手にしてはいるものの、
ポールやジョージと同じ理由で特別な音楽的素養を得る機会は少なかったと思われるが、
デビューする頃には既に「プリーズ・プリーズ・ミー」などの曲を個人的に温めていたというのだ。
クオリーメン時代からデビューまでの、カヴァー曲ばかりをプレイしていた下積み時代に作曲能力がナゼか飛躍的にアップしたのだろうか。
しかも、ポールと違い、幼い頃に親と生き別れになり、叔母の家で育てられたジョンは、家の中で楽器の音が鳴っているというような状況にはなかったのだから、
どうやってそのセンスに磨きを掛けたのかが謎に包まれている。
同様に、ギターやピアノのテクニックをいかにして身に付けたかも謎だ。
ビートルズ時代にはしばしばピアノやオルガンなどを弾いているが、ジョンが正式にピアノを修得する機会などなかったのではないかと思うのだが・・・。
ギタープレイにしてもそうで、派手さはないものの、数多くの楽曲でかなりハイセンスなバッキングを聴かせているのである。
ジョージにしろ家が貧しかったのは同じだし、しかもポールやジョンより年下でキャリアも短く、彼らと知り合うまでに表立ったバンド活動などをしていなかったらしく、
ビートルズの中期頃にようやく作曲をし始めて、「ジョンやポールの曲に負けない曲を作ろうと必死だった」と苦労を語ってはいるものの、
初めて曲を書き始めてから僅か数年後には早くも「サムシング」など、ポップ/ロック史に残る名曲を書くレベルにまで成長しているのだ。
リンゴ・スターに至っては、クオリーメンがようやくメンバーが揃って活動を軌道に乗せ始めた頃には、別のバンドで既にプロのドラマーとして仕事をしており、
高級なマイカーを乗り回し、地元のバンドマンの間では「リヴァプール最高のドラマー」という称号まで付けられていたという強者だが、実はジョンと同い年である。
彼は子供の頃からドラマーになりたいと思っていたらしいが、10代の前半にようやく安物のバスドラムを買ってもらっただけという状況で、
一体どうやって10代後半にして売れっ子ドラマーになれるほどの上達を果たしたのだろうか?
彼もまた家は貧しかっただろうし。父親は菓子職人だったらしいから、特に音楽的に裕福な状況ではなかったと思われるのだが・・・。
こんな言葉では片付けたくないが、やはりこの4人は何か、生まれた瞬間から“非凡人”たる道を歩むべく運命付けられていた、
ある種の「天才」なのではないだろうか。
ポール・マッカートニー、本名:ジェイムズ・ポール・マッカートニー。
1942年6月18日、イギリスのリヴァプール生まれ。血液型:A型、身長:約180.5cm(身長に関しては諸説あり)。
子供の頃、母を亡くした悲しみを紛らわすかのようにギターを弾き始める。
中学生の時ジョン・レノンに誘われて「クオリーメン」に加入。
その後グループは「ザ・ビートルズ」と改名、自身もベースに転向し、20歳でデビュー、世界に登場した。
サウスポースタイルにヘフナーのヴァイオリンベース、そしてリッケンバッカーの4001sがトレードマーク。
ウイングス解散後もソロアルバムを14枚リリースし、今尚現役。その活動を讃えられ、
イギリス国家から「騎士(ナイト)」の爵位称号まで授かっているという強者だ。
また、ジョン・レノンの残していたデモ音源に、ジョージとリンゴと共に音を重ねて、
ビートルズとしては25年ぶりの新曲「フリー・アズ・ア・バード」、「リアル・ラヴ」をリリースした(しかし、リヴァプール時代からの親友、ジョージ・ハリスンが、
長年の闘病の甲斐もなく2001年に癌で死去。ビートルズはポールとリンゴの2人だけになってしまった。
この結果、私たちがもう二度と“ビートルズの新曲”を聴ける事はないだろう)。
1998年には長年のパートナーであった妻・リンダも癌により死亡。
悲しみに暮れていたが、しばらくしてリンダと行っていたチャリティー活動なども再開、ウイングス時代の曲をオーケストラアレンジしてリリースしたり、
2002年には9年ぶりとなる来日公演も果たしたりと、再び活動的になっている。
そのアイディアとパワーは尽きることなく、まだまだ転がり続けているのだ。
ポール・マッカートニー、そのメロディで時代を作り、世界を動かした男。
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このベーシストへのいざない作品:
■1962〜1966“赤盤”(ザ・ビートルズ)
■1967〜1970“青盤”(ザ・ビートルズ)
■夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー〜(ウィングス、ポール・マッカートニー)