第十二回:スティング

「Every Bass You Take」

 

ゴードン・マシュー・サムナーは、1951年10月2日、イギリスのニューキャッスルに生まれた。

牛乳屋を経営していた父親と、美容師をしていた母親との間に生まれた彼は、当時経済状況が貧困の真っ只中だった北東部において、

決して貧乏ではない少年時代を送っていたが、8歳の頃、彼の叔父が棄てたギターを拾って見様見真似で作曲しているうちに、

その音楽的才能の芽が徐々に出始めた。

思春期を共に過ごした音楽はビートルズ、スタックス、モータウン、ボブ・ディラン、セロニアス・モンクなど。

そして14歳の時に初めて見たライヴは、後にクリームを結成し、ロック界に3ピースバンドとして革命を起こすベースヒーロー、ジャック・ブルース

(当時はグラハム・ボンド・オーガニゼーションに参加中)だった。

それから間もなく、彼の友人が4本弦の楽器をプレゼントしてくれた。

お手製の、粗末なものだったが、その瞬間こそが、彼と“その楽器”との出会いだった。

大学へと進学した彼は、しかしその余りにつまらない学生生活にすぐにピリオドを打ち、職を転々とする。

バスの車掌をしてみたり、税の徴収をしてみたり、工事現場で働いてみたり・・・。

そんな日々が2年ほど続き、その後教師という職業に就いたことで、同時に本格的な音楽活動を開始し、

それまで彼のベッドルームでしか機能していなかった彼の音楽が、ようやく外へと出始めたのだった。

どんなジャンルでも公平に、という訳で、酷いロックバンドと、2つのトラッドジャズグループでベースを弾いていたのだが、

その内の1つでステージ衣装として黄色と黒の縞模様の、蜂ような服を着ていたので、ファンから“突き刺す”という意味のニックネームをもらったのだった。

“スティング”。

 

その後、スチュアート・コープランドという名の男から「ニューバンドを作りたいからロンドンへ来てくれ」という電話を受け、

既に結婚し子供もいたのにも関わらず、安定した教師という職業すらも棄てて話を受ける。

それほどに「でっかいことをやりたい」という信念が強かったらしい。スティング、26歳の時であった。

そしてスチュアートが、結成するずいぶん前から温めてあったというバンド名「ザ・ポリス」を名乗り、自主制作でレコードを作り、

徐々にではあるがライヴ活動も開始した。

が、しかし。

当時は折しも、同じイギリスから嵐の如く登場したセックス・ピストルズが世界中を席巻していた頃であり、彼らのような年齢は年上過ぎて、

彼らのような音楽は「音楽っぽく」あり過ぎて、全く受け入れられなかったのである。

ピストルズの生き方に共感しただけのザ・ポリスに貼られたレッテルは「ニセパンク」だった。

それから「馬鹿げた真似事」をやめて、本格的な活動を始めるにあたり、ギタリストのアンディ・サマーズを加入させた。

こうして3ピースバンド、ザ・ポリスは誕生する。

この時のバンドの状況を、アンディは後に「実際、僕が加入するまで『ザ・ポリス』は始まってなかったんだ」と語っている。

しかし、3人の個性が強すぎること、中途半端に大人だったことなど、やはりパンクとしては失格だった為、ライヴの数は減少の一途を辿り、

ついにはゼロになってしまったのだった。

バンドとしては暗い空気しか感じられなかったそんな彼らを、しかし再びミュージシャンとして立ち上がらせたのは、

A&Mレコードから単発契約で発売されたポリス初の自主制作シングル「ロクサーヌ」の、遅れてきた飛躍だった。

スティングがある娼婦について歌ったというこの曲は、ラジオでこそ放送コードに引っ掛かるという憂き目に会ってオンエアされなかったものの、

ロックとレゲエが融合したようなサウンドが高く評価されたのだ。

それはもしかすると、'70年代が終わろうとする頃にはそれまで厳しかったパンクの基準が揺るぎ始め、

より幅広い音楽が市場で受け入れられ始めていた事実とうまくリンクしていたからなのかもしれない。

 

こうしてポリスは、立て続けにシングルとアルバムを制作、熱心なツアーサーキットを繰り返し、少しずつではあったが、しかし着実に人気を集めていった。

そしてポリスがアメリカへ渡ったときに何より評価を受けたのは、他ならぬスティングの書く楽曲群だった。

 

2枚目のアルバムを発売する頃には、“メロディメーカー”スティングの評価は更に高まり、アメリカツアーが本格化すると、「世界のポリス」は突然やってきた。

本国イギリスのラジオ局は勿論、アメリカのラジオ局までもが「ロクサーヌ」をヘヴィローテーションで掛けまくり、

それまでセールスという点では浮かばれなかったファーストアルバムが、鬼のように売れ始めたのである。

そして、警察というものがどんな職業よりも強いように、ポリスにも「向かう所敵無し状態」が続いた。

シングル「エヴリー・ブレス・ユー・テイク(邦題:見つめていたい)」をリリースすると、それまでポリスのいかなる優れた楽曲をもってしても為し得なかった、

アメリカ&イギリス両国でのナンバーワンを獲得。

アルバム「シンクロニシティ」は、マイケル・ジャクソンの「スリラー」が発売された年にリリースされたにも関わらず、

17週連続ナンバーワンという凄まじい記録を叩き出したのである。

世界は確実にポリスという名の3人にひれ伏していった。

スティングは「エヴリー・ブレス・ユー・テイク」を発売するに当たって出した声明でこう語っている。

「この曲は、ポリスの事を悪く言った事がある全ての人に、強烈なしっぺ返しとなる。

バカ共は今まで散々僕らのことを悪く書いて来たけれど、僕には判っていた。

この曲だ。僕にはこれがある。」。

この、スティングの常軌を逸したとも思える言葉も、ことごとく完全的中したのだった。

 

しかし、全盛期を迎えたバンドとは裏腹に、メンバーの心の中には徐々に腑に落ちないものが湧いてきていた。

元々才能と個性が服を着ているかのような3人である。

次第にエゴとエゴが強い遠心力をもって回り始め、3人を、3人の気持ちをバンドから引き離していった。

結局、「シンクロニシティ」がポリスのラストアルバムとなった。

正式に解散を発表した訳ではなかったのだが。

三角形の中に収まった円。一度だけ、ほんの短い間、その三角形と円が、どういう訳かぴったり一致していたのだ。

ポリスとはまさに、そういうあやふやなバランスの上に、不可能に近いシェイプで存在していたグループだった。

 

「'80年代最高のグループ」と異名をとった3人はこうして離れ離れになった。

 

その後のスティングはと言えば・・・。

御存知のように、ミュージシャンとしては勿論、俳優としても引く手数多の男として地位を確立している。

ポリス時代の数々の名曲たちがまるでその後のソロ活動に対するプレリュードであるかの如く、

とどまることを知らない湧き水のように数多くの名曲を書き続けている。

スティングの楽曲というのは、例えばポール・マッカートニーのように、どんなジャンルでもこなすとか、どんなメロディでも料理する、というような器用さはない。

どちらかと言えば彼だけの、「だだっ広くはないが実に味わい深い世界」の中でメロディを紡ぎだしている、という感じだ。

しかし、一旦その世界を味わってしまうととても心地よく、甘美なメロディと歌声に聴き惚れてしまう。

そんな魅力を持った音楽だ。そして、テレキャスターベースを親指一本ではじくというスタイルから聴けるベースサウンドはとてもマイルドで、

これ以上ないほどシンプルながら、歌心のあるフレーズである。

ベースプレイヤーという視点で見た場合、スティングは地味な存在であるかも知れない。

しかし、彼に彼独自のメロディ世界がある限り、やはりスティングは超一流のミュージシャンなのである。

ニューヨークにいるイングリッシュマンはこれからも親指で弦をはじき続ける。

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このベーシストへのいざない作品:

■ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ステイング&ポリス