第二十九回:松井常松
「ひたむきに、下向きに」
1979年、当時アマチュアミュージシャンにとっての登竜門的コンテストであった「イースト・ウエスト」の関東・甲信越大会で、
群馬県から参戦していた2つのバンドが、その決勝ステージで火花を散らして戦っていた。
「デスペナルティ」と「ブルー・フィルム」と名乗っていたこの両者の戦いは、結果的にはデスペナルティの勝利に終わったが、
この2つのバンドがここで戦う事になったのは、今にして思えば、その後日本のロック界に吹き荒れる“ビートの嵐”の前ぶれだったのかも知れない。
この時、残念ながら決勝大会で苦汁を舐めたバンド、ブルー・フィルムを率いていたギタリストの名前は布袋寅泰。
そしてブルー・フィルムを破って見事優勝したバンド、デスペナルティを率いていたヴォーカリストの名前は氷室京介
(ちなみにこの大会でベスト・ヴォーカリスト賞も受賞している)。
言うまでもなく、後に「ボウイ」となって日本のロック界に風穴を空ける事になる2人である。
そして、氷室率いるデスペナルティで黙々とベースを弾いていた男が松井常松だった。
言うまでもなく、後に「ミスター・ダウンピッキング」となってロックベース界に風穴を空ける事になる男である。
松井常松は1960年9月8日、群馬県高崎市にて生まれる。
小さい頃から寡黙な男だったかどうかはわからない。
高校生になって氷室京介とバンドを組もうとなった時、氷室はドラマーに、松井はギタリストとなったらしいが、
ギターという楽器を選んだ所から察するに、決して引っ込み思案な方でもなかったのだろう。
しかし、当然の事ながら2人がそのままそれらのパートに甘んじている事はなく、氷室はヴォーカリストへ、松井はベーシストへと、
それぞれの天賦の才能に導かれるかの如く路線を変更している。
この頃から既に2人はお互いの資質を認め合っていたようで、この後に氷室は幾つかのバンドを渡り歩くことになるのだが、
ベーシストとしての松井常松には全幅の信頼を置いており、結局、自らの足下を根っこで支える男としてボウイのベーシストに据えたのも、やはり松井だったのだ。
とは言っても当時まだまだ高校生、あまり1つのバンドに居座り続けることもなく、松井自身もバンド活動をやったりやらなかったりと、
“よくある高校生バンド”程度の活動をしていたらしい。
が、ある時松井が「凄いバンドがいる」と言って氷室に“あるバンド”を紹介した日から、2人は急速にそのバンドを気にするようになり、
また同時にプロのミュージシャンとしての未来予想図を思い描くようになった。
その“あるバンド”というのが、当時布袋寅泰が参加していたバンドであり、
氷室と松井は奇しくもその“凄いバンド”とイースト・ウエスト大会で拳を交える事になる訳だ。
イースト・ウエスト大会での優勝は、デスペナルティを勢いづけた。
それが優勝賞品だったのかどうかは判らないが、東京でのレコード契約に漕ぎ着ける。
が、現実はそれほど甘くはなく、何と契約していた(しようとしていた?)レコード会社から「実力不足」という、
何とも納得のいかない理由で契約を反故にされてしまう。
そのまま意気消沈したバンドは呆気なく解散するのだが、しかしメンバーの中で氷室だけはレコード会社から別のバンドへの加入を要請されたようで、
当時流行っていたディスコナンバーなどをプレイする「スピニッジ・パワー」というバンドに参加し、レコードデビューを飾った。
一方、氷室と離れ離れになってしまった松井は、しかしそのまま群馬へと帰る事はなく、「9thイメージ」というバンドに加入する事になる。
これは織田哲郎が率いていたグループで、松井はそのバックベーシストとしてプロデビューした。
ボウイ以前のキャリアというのは意外に知られていない松井であるが、実は彼のプロとしてのキャリア第一弾は、
この9thイメージのシングル「スパーキング・ラヴ〜胸につのる想い〜」だったのである。
そしてそのままツアーなどにも参加し、すぐにスピニッジ・パワーを脱退してしまっていた氷室とは裏腹に、
松井はプロのベーシストとしての活動が軌道に乗り始めていたようだ。
松井常松、20歳の秋だった。
氷室がスピニッジ・パワーを脱退したのは、兎にも角にも事務所の言いなりに活動しなければならない所から来るフラストレーションが限界に達したからだった。
高校時代に取り敢えず部活を始めようと入部し、すぐにその封建的な部風に嫌気が差して先輩を殴り倒して退部したという性格の氷室にとって、
自らの表現の場である音楽を規制されるのは、それはそれはとてつもなく鬱陶しかったに違いない。
一旦プロとしての現場を離れた氷室は、改めて自らの理想を体現するバンドを結成しようと東奔西走した。
その際にギタリストとして声を掛けたのが、高校時代から頭の片隅で意識し続けていた“凄いバンド”の背高ノッポギタリスト、布袋寅泰だった。
遂に2人がタッグを組んだ瞬間である。
そして2人はお互いの部屋を行き来しながら曲を書き溜めて行った。
しかし、肝心のバンドのメンバーとなると、なかなか見付けられずにいた。
まだまだ人目に触れることを許されない希代の才能は、ベースとドラムにおいてもやはり凡庸たらざる何かを求めていたに違いない。
そんな時、氷室が白羽の矢を立てたのが松井常松だった。
「良かったら、ベース弾くよ」
この一言で、松井常松というベーシストの運命は決したのだ。
デスペナルティが分裂してしまってから、氷室と松井の心の中で宙ぶらりんになったままだった何かに、ハッキリと答えをぶつけようとしたのだろうか。
氷室と布袋がお互いのカリスマ性に呼応し、運命的に接近したように、
松井もまた2人の放つ強力な磁場の中へと飛び込んで行ったのだ。
そして、氷室や布袋に「スティックでカウントを取った瞬間、心は決まった」とまで言わせたドラマー、高橋まことが加入した事でボウイは誕生した。
1981年の事である。
翌年、発売前から身内である事務所のスタッフにすら評判が悪かったというデビューアルバム「モラル」発売。
この頃にはサックスプレイヤーなども在籍していて、まだ音楽的にも定まっていない感じも受けるが
(それが逆にボウイらしくて良いという声も頷けるのだが)、セカンドアルバム「インスタント・ラヴ」をリリースする頃には、
憂いのあるメロディ(氷室と布袋の言葉を借りるならば「B級ポップ」)に軽快なスピードとエッジの利いたビートを組み合わせたサウンドを、
貪欲な音楽的視点でまとめあげる・・・という、所謂“ボウイサウンド”が確立しつつある。
このアルバムの完成度で名実共に一気にスターダムにのし上がると、氷室と布袋の類い希なる才能と他の追従を許さないパフォーマンス、
高橋まことの鬼のような8ビートなどがアマチュアミュージシャンの間で話題になり、
単なるリスナーだけではなく、ボウイをコピーしたりボウイを目指すと公言したりするバンドが日本中に爆発的に増殖したのである。
世に言う「バンドブーム」の幕開けであった。
そんな中で松井常松の話題は専ら「凄まじい速さでダウンピッキングを刻み続けている」という所に集約された。
「ミスター・ダウンピッキング」。
彼にはそんなネーミングが用意される。
ボウイの楽曲というのは、決してメタル的な常軌を逸したスピードを持っている訳ではないが、
それでもパンクやグラムロックの影響を多分に盛り込んだそのビートはスピードのあるものが多い。
そこに親しみやすい歌謡曲メロディが乗る訳だが、ボウイ時代の布袋のギタースタイルというのは歪みを抑え目にして、
シンプルなコードストローク(ルート弾き)を軸として、休符を活かしたカッティングやアルペジオでバッキングを奏でるというものであり、
どちらかというとベースとドラムが叩き出す堅牢なビートの上を縦横無尽に飛び回るという感じのプレイが主体。
つまり、“ビートロック”と称されたボウイの、そのビート部分を最も強力に生み出しているのは松井のベースと高橋のドラムなのだ。
高橋の鬼の8ビートに、ハードかつシンプルに松井のベースがドッキングする。
そして、いついかなる時でも松井はそのビートをダウンピッキングのみで刻み続けるのだ。
ダウンピッキングとはその名の通り、右手を下向きに振り下ろすことで弦をはじく、最もオーソドックスなピック弾きの奏法である。
ベーシストならお解りだろうが、ダウンピッキングというのは独特のグイグイ引っ張るようなノリを出すには適しているが、
ベースでプレイする際には右腕に掛かる負担が大きく、ましてやテンポが速い楽曲では体を壊しかねないのであまり実用的ではない場合が多い。
ところが松井常松は、凡人ベーシストならばオルタネイトピッキングで弾くに違いない速いテンポの曲を、ひたすらダウンピッキングでプレイする。
プレイしている映像を見ればその速さに驚くだろう。
ハッキリ言って、見ているだけでこっちの右腕に乳酸が溜まって重〜くなるような気すらしてくるのだ。この事について松井はこう語っている。
「自分のベース・スタイル云々ということを考えて出てきたスタイルではないんです。
ただこうやりたいからやってみるって感じ。ギターもああいう8ビートピッキングがすごく多かったし。
で、ユニゾン的なものが割とボウイって多いんですよ、ギターとベースの。ドラムもそうかも知れないな。
だからやっぱり、ギターとベースでああいうふうにやると、ものすごいスリリングなんですよね、
ビート感が出てくるんですよ。それで、ですね。」。
加えて、ライヴでの松井はとにかくストイックだ。
氷室や布袋がそのライヴパフォーマンスにおいて、何かに取り憑かれたようにエンターテイナーを演じるのを横目で見ながら・・・
イヤ、実際には横目ですら見ていない。
視線はベースのネックに落としたまま、一歩も動かずに延々とビートを刻み続ける。
ひたすら刻む。
どんな時でもダウンピッキング。
右手は下方向への動きを止めない。
ずーっと刻む。
とにかく刻む。
客席も見ない。
動かない。
ロックベーシストがあまり派手な立ち居振る舞いしないというのはもはや定説とも言えるかも知れないが、
松井ほどその定説を見事に体現したベーシストはいないだろう。
松井は「僕は、仁王立ちでダウンピッキングのベーシストだってとらえられているみたいだけど、
そうしたのはボウイサウンドが、それを志向していたからなんですよね。
それまでは僕も2フィンガーで普通に弾いていたんですけど、やっぱりもっとスピード感のあるものが欲しかったし、スリリングでありたかったから」と語っている。
しかし、そのストイックさがまたたまらなくカッコ良い。
例えば氷室や布袋がフルーツやクリームなどが派手に飾り付けてあるケーキだとしたら、松井は材料にこだわった金鍔とでも言えるだろうか。
いつでも黄色い声援が鳴り止まない氷室や布袋に比べると男性ファンが多いというのもまた、松井のアーティストとしてのキャラを物語っているように思う。
ボウイはその絶頂期である1988年に突如解散した。
「下降し始めてからやめるのはイヤだ。最高の時にやめたい」という、氷室京介の頑ななまでの生き様がここにも反映されている。
たった7年間という短い間だったが、ボウイの残した足跡の大きさというのは、今更ここでつらつらと述べる必要もなかろう。
というより、あまりに大きすぎて筆舌には尽くしがたいものがある。
松井常松の影響力も言うには及ばず、「仁王立ちでダウンピッキング」というスタイルを標榜するロックベーシストを日本中に誕生させた。
それどころか、「ベーシストは動かない方がカッコ良い」という、新たな価値観をも生み出したと言っても過言ではないだろう。
勿論、人によってこのスタイルに賛否両論があるだろうが、松井だけは有無を言わせずそれを万人に認めさせたのである。
ちなみに私事で恐縮だが、管理人が中学〜高校生時代に一番多くコピーしたのがボウイの曲だった。ボウイとブルーハーツは相当沢山コピーをしたものだ。
ライヴでもあまり派手には動かず、笑顔も作らず、ダウンピッキングをひたすら練習したのは松井常松の影響が大きかった事は間違いない。
とは言っても、ボウイが解散したのは管理人が小学校4年生の時であり、当然リアルタイムでは知らないのだが、
しかし管理人の世代ですらボウイのコピーに勤しんでいるアマチュアミュージシャンは非常に多かった。
遅れてきたボウイ世代とでも言うべきか、ともかく、かつてのカリスマたちのマネをしようと必死になっていたものだ。
そういう意味でもボウイの影響力は物凄かったんやなぁと、今でも感じる。
ボウイが解散した後の松井常松はソロ活動をスタートさせる。
とは言っても、すぐに動き出した布袋寅泰に呼ばれる事が多く、ギタリズムツアーなどにも参加していた。
そして遂に'89年、ソロデビューアルバム「よろこびのうた」をリリースする。
ボウイ時代のようにハードなロックをやっている訳ではないが、松井独特の世界観が描かれたポップなロックをプレイしている。
また、ソロではヴォーカルを務めており、かつてのストイックなベーシストというイメージからの脱却も図っている。
勿論ベーシストとしての活動をやめる事はなく、花田裕之や山下久美子、遠藤久美子、吉川晃司などのツアーにも参加しているし、
当然の事ながら戦友・氷室京介、布袋寅泰、高橋まことのライヴやレコーディングにもしばしば参加して交流も盛んに行っている。
こうして見ると、あまりにボウイのベーシストという一面ばかりが取り沙汰されるゆえ気付きにくいが、ベーシストとしても器用さと実力を持っている事も解る。
また、単行本「あの頃ぼくらは」や、某音楽誌におけるコラム「月下のベーシスト」、別の雑誌でも「マイ・サンデー」というエッセイを執筆するなど、
文筆活動も頻繁に行っているし、ラジオのパーソナリティなども精力的にやっている。
童話アルバム「またまた・マザーグース」もリリースしたりと、まさに多岐に渡るアーティスティックな活動を行っているのだ。
こわもてそうで実に多才な男である。
そして最近では、布袋寅泰のツアーに全面的に参加する事で、再びロックベーシストとしての活動を活発化。
「弾丸ロック」という曲のレコーディングではコーラスもとるなど、かつてのファンにとっても新鮮な松井常松を披露している。
2004年の3月には、デヴィッド・ボウイの武道館公演でオープニングアクトも務め、ミュージシャンとしても再び精力的に活動を続けている松井常松である。
思えば、氷室京介はボウイがなくなった後、常にボウイを越えるものを作らなければならないという、ある種の使命感を持ち続けながら走り続けているように感じる。
勿論、それを出来るのは元々ボウイという名の下に集っていた彼らだけだ。
氷室という男はそれをよく解っているからこそ、昔ながらのファンの声をも憚らず己を信じて音楽活動を続けているに違いない。
そして、ボウイを越えているかどうかというのは、勿論リスナーが決める事ではあると思う。
ただ一つ言うとすれば、偶然か必然か、ボウイには才能溢れる4人のアーティストが集まっていた。
それが今はボウイという場所ではないにしろ、その才能を遺憾なく発揮しながらいまだに日本のロック界を騒がせ続けている、というのは紛れもない事実なのだ。
松井常松のダウンピッキングもまた、場所を変えて今も尚、唸りを上げて刻まれている。
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このベーシストへのいざない作品:
■ディス・ボウイ(ボウイ)
■マツイ・ベスト(松井常松)