黙示録    

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ブルーアイランド

スピリチュアリズムが明かす死後の世界
エステル・ステッド・著  近藤千雄・訳  ハート出版  1992年刊
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☆ 父から通信が届けられるまでの経緯
☆ まえがき(霊界のウィリアム・ステッドから)
1 章  タイタニック号の沈没直後
2 章  ブルーアイランドに到着
3 章  ブルーアイランドの建造物
4 章  ブルーアイランドの生活
5 章  良心の声
6 章  初めての地上界との交信
7 章  思念の力
8 章  霊界から要求したい条件
9 章  自由と摂理
10 章  予知現象の原理
11 章  実相の世界
12 章  “無限”への旅の始まり
13 章  個人的存在の彼方へ
☆ おしまいに
父からの通信
父から通信が届けられまでの経緯  エステル・ステッド    [TOP]

  1912年4月15日、“不沈”をうたい文句に建造されたばかりの英国の豪華客船“タイタニック号”が、その処女航海において北大西洋上で氷山と激突、2000余名の乗客のうち1500余名の生命とともに海の藻屑と消えました。父・ウィリアム・ステッドもその中に入っておりました。
  そのころ私はシェークスピア劇団を引き連れて公演旅行に出掛けている最中でした。実は団員のなかにウッドマンという霊感の強い男性がいて、その悲劇的な事故の起きる少し前、みんなで紅茶を飲みながら談笑しているときに、彼がその事故と思しきことを口にしていたのです。船の名前も父の名前も言いませんでしたが、犠牲者の中に私と非常に近しい年配の男性がいる、と述べていました。
  その事故が起きたのはその後のことでしたから、ウッドマン氏はこれから起きる出来事を予知していたことになるわけです。
  そのことをことさら紹介するのは、父の霊とウッドマン氏とのつながりは、すでにその時点から始まっており、本書に収められたメッセージを父が届けることができたのも、ウッドマン氏の霊的能力(自動書記)のお陰であり、そうしたいきさつは読者のみなさんにとっても興味深いことであろうと考えるからです。

  大惨事が起きてから2週間後のことです。多才な霊媒として有名なE・リート女史による交霊会において、父が顔だけを物質化して出現するのを見ました。そして語る声も聞きました。その声は、タイタニック号に乗船する直前に私に別れを告げた時の声とおなじように、はっきりしておりました。父との対話は30分以上に及びました。
  それから10年後の今日まで、私は父と絶えず連絡を取り合っております。何度も語り合っておりますし、通信も受け取っております。その内容は、父が死後もずっと私たちの生活に関わっていることの確固たる証拠にあふれています。
  タイタニック号とともに肉体を失って霊界入りした10年前よりも、むしろ現在の方が心のつながりは強くなっております。

  1917年に、兵役期間を終えたウッドマン氏が私たちのもとに帰ってきました。間もなく彼のもとに親友の戦死の報が届けられると、それまであまり関心を持たなかった死後の世界との交信に強い関心を寄せるようになりました。ぜひともその親友の霊と交信をしようと一生懸命になったのです。いつの時代にも、愛する者の死は探究への大きな刺激となるようです。
  そして、その友人の(魂の)存続と、交信の可能性を示唆する確固たる証拠が得られました。最初の証拠が得られたのは、ピーターズ氏による交霊会でした。その交霊会には私も列席しておりました。その時は私の父も出現しました。ウッドマン氏の友人の霊が言うには、最初の交信が成功したのは、私の父がいて手助けしてくれたからとのことでした。
■訳者註――この友人の場合のように、他界して間もない霊が通信を送る場合は、ステッド氏のような霊に手助けしてもらうか、そういうことに馴れている霊に代弁または通訳してもらうかのいずれかになる。もちろん、これは真面目な霊の場合の話である。それ以外に、イタズラ霊がそれらしく演技して適当にごまかす場合もあるから、用心が肝要である。

  そういう体験のすぐあとから、ウッドマン氏は自分に自動書記能力があることを発見し、父をはじめ何人かの霊の通信を受けられるようになりました。父はいつも私が同席してくれることを望みました。私がいないと、そうでなくても難しい通信がさらに難しくなるとのことでした。その理由を父はこう説明しました。
  父と私の間には波動的に非常に共鳴する要素があり、互いに緊密な連絡が取りやすいので、通信に必要なエネルギーを私から摂取するのだというのです。つまり、私は父とウッドマン氏をつなぐ連結役となっているわけです。
  といっても、私はただウッドマン氏のすぐ側に腰掛けているだけで、何もしません。が、部屋にいる私たちを包むような光輝をよく見かけます。そんな時、ウッドマン氏の右腕に一本の強烈な光線が射しているのが見えます。父自身の姿が見えることもあります。姿が見えない時でも、自動書記をしている間は父の存在をひしひしと感じます。
  そうした要領で受け取った父からのメッセージは相当な量にのぼります。1918年には毎週1回、きちんと交霊会を開いた時期があり、第一次大戦がまだ終結していないこともあって、最前線の様子や、これからどう展開するかについての通信を得ておりました。
  通常のニュース報道よりも何日も前に“予報”を受けていたことがしばしばありました。一度だけ、「来週の新聞の見出しはこう出る」と父が言ってよこし、事実その通りになったこともありました。

  ここで、父とウッドマン氏との関係について、興味深いと同時に大切でもある事実を述べておきます。
  父は生前、ウッドマン氏とは一度しか会ったことがありません。それも父がタイタニック号で英国を発つ少し前に、私が父に紹介した時で、その時も二言か三言、言葉を交わしただけでした。したがってウッドマン氏は、父のことを個人的には何も知りませんでした。にもかかわらず、ウッドマン氏が受け取ったメッセージの文体や用語が父のものにそっくりなのです。
  さらに面白いのは、文章を綴る時の癖まで父にそっくりだということです。ウッドマン氏は自動書記の最中は目を閉じており、ハンカチで押さえることもありました。部屋は薄暗くしてあり、すぐ側で見ている私にもその文章が読めないことがありましたが、文字が用紙からはみ出してしまうことは絶対にありませんでした。
  父は、明らかに自分で書いたものをもう一度読み返しているようで“i”の点や“t”の横棒をきちんと書き直しておりました。これは生前からの父の癖なのです。その癖を知っているのは、私を含むごくわずかな人に限られており、ウッドマン氏が知っている可能性はまったくありませんでした。

  父が、本書に収められた通信を送りたいという意思表示をしてきたのは、1921年のことでした。これは相当な分量になると直感した私たちは、そのつもりであることを第三者の霊媒を通して伝えてほしいと要請しました。
  父はそれを、レナード夫人の交霊会で出席者の一人に伝えることで約束を果たしました。「一連の長文の通信を送りたいので、そのつもりで臨んでほしい。内容は、自分の霊界入りの様子と、その後の体験になる」ということでした。
  ウッドマン氏も私も忙しい身で、こうした霊的なことに割ける時間は限られているために、2人の都合がうまく合わないことがしばしばでした。そのため、父からのメッセージを受け取り終わるまでに数カ月を要しました。
  父の当初の予定では、もっと長文のものを念頭に置いていたようです。が、書いていくうちに、あまり長くない方が多くの人に読んでいただけるし、価格も安くて済むだろうと考えるようになったみたいです。いかにも父らしい考えであることは、父を知る人ならお認めになるでしょう。
  以上、本書を構成している通信がどういう経緯で入手されたのか、そしてまた、それが間違いなく私の父ウィリアム・ステッドから届けられたものであることを確信する根拠は何かについて、簡略に述べさせていただきした。あとは読者のみなさんが本文をお読みいただいて判断していただけれぱ、それで結構です。きっと多くの方が、本書をただならぬものとお感じになるであろうことを、私は確信しております。
  願わくば、死後はどうなるかについて、従来のただの信仰とは異なる現実味のあるものに目覚められ、みずからの手でさらに確固たる証拠を求める努力をなさるようになっていただけば、本書に関わった3人、すなわち父とウッドマン氏と私にとって、それにまさる満足はございません。
                                            1922年9月
まえがき
まえがき (霊界のウィリアム・ステッドから)   [TOP]

  オカルト的なものや霊的なものなどの未知の力の働きに初めて接した人は、大いにうろたえるものです。大自然の神秘は本来は探究の喜びを与えてくれるものであり、未知なるものを征服し、それまでに知られていない分野について知識を得たいと思わせるのが普通です。
  しかし、そのことは死後の生命にまつわる神秘を扱う際には当てはまらず、逆に“恐怖心”というものがつきまとうもののようです。未熟で無教養であるがゆえに“恐怖心”が生まれる場合もあります。霊的なものを理解する感性に欠けているということです。
  その種の人たちに対しては同情を禁じ得ないのですが、私は地上時代から、そういう人々を気の毒に思い、死後の世界の実相について啓発したいと努力してきました。このブルーアイランドに来てからも、引き続き啓発の仕事についており、その仕事の量と行動範囲は、地上時代の比ではありません。

  私は今「幸せへ導く」と書こうとして、「幸せ」を「理解」に置き換えました。幸せのとらえ方は人によってまちまちだからです。地上の人たちが用いている意味での幸せは、人生の存在理由とは言えません。幸せになるために地上に存在しているのではないということです。幸せとは、成し遂げた仕事、達成した進歩、人のために尽くしたサービス、などに対する報いとして味わうものです。それを生み出すのが“理解”です。
  この度の企画は、こちらに来てから新たに得た霊的知識と私の体験を皆さんにお届けすれば、私が人類のために手がけてきた仕事をさらに一歩推し進めることになると信じたからのことです。
  全体としてキリスト教的色彩は免れないと思います。が、その解釈は、一般に受け入れられている伝統的なキリスト教とは異なります。たとえば、キリスト教では、罪を悔いてイエスへの忠誠を誓えば、死後ただちに天国に召されると説きますが、これはとんでもない間違いです。
  “死”は1つの部屋から別の部屋へ移る通路でしかありません。2つの部屋は装飾も家具の配置も非常によく似通っています。そこが大事な点です。皆さんにもぜひ理解していただきたいことです。この世もあの世も、同じ神の支配下にあるのです。同じ神が、全界層を経綸しておられるのです。
  本書で述べることは多くの人から関心を寄せられることでしょう。そして、これが精神的な救いになる方も、少数ながらいらっしゃるでしょう。この企画に関与する者たちが意図している目標は、実はその「少数の人たち」なのです。あまり学問的になりすぎないように心がけるつもりです。すべて健全な常識で判断すれば納得がいくものばかりです。
  最後に申しあげておきたいことは、興味を持たれる方も無関心の方も、ともに今なお地上に存在する身の上ですから、それ相当の義務を背負っているということです。日々の生活があり、なすべき仕事があります。死後の世界がいくら明るく美しいからといって、現実の生活を疎かにしてはなりません。心の片隅に明日の楽しみを宿しながら今日を生きるというのが、正しい生き方でしょう。
                                       ウィリアム・ステッド
1章
1章  タイタニック号の沈没直後   [TOP]

  地上時代の、それもずいぶん昔の話ですが、私は以心伝心の可能性を論証した『生者の幻像』を何度も何度も読み返し、その真実性を認めざるを得ませんでした。それが、私がスピリチュアリズムという大きな課題に関心を抱くことになる最初の動機でした。
  地上時代にスピリチュアリズムとの出会いに感動したのと同じように、私はこちら(=霊界)へ来てみて、地上時代に得た霊的知識が、重要な点において百パーセント正確であることを知り、感動しました。学んでいた通りなので、驚きと喜びを同時に感じたものでした。
  何よりも私が驚いたのは、あの混乱状態の中にありながら、他の溺死者の霊を私が救出する側の一人であったということです。私自身も本当は大変な状態にあったはずなのに、他の霊に救いの手を差し伸べることができたという、その絶妙の転換は、率直に言ってまったくの驚きでした。
  落ち着く暇もなく、私をさらに驚かせたのは、とっくの昔に他界したはずの知人・友人が私を迎えてくれたことです。死んだことに気づく最初の原因となったのはそのことでした。
  落ち着きを取り戻すと、死後の様子が地上で学んでいた通りであることを知って、何とも言えない嬉しい気持ちになりました。ジャーナリストの癖で、「今ここに電話があれば!」と、どんなに思ったことでしょう。その日の夕刊に特集記事を送ってやりたい気分でした。
  以上が、他界直後の私の意識的反応です。
  そのとき私は沈没の現場に来ておりました。地球のすぐ近くにいましたから、その現場のシーンがありありと見えるのです。沈没していく船体、ボートで逃げる船客――そのシーンが私を自然と行動に移らせたのです。「救ってあげなくては!」と思った瞬間には、水没して肉体から離れていく人たちを手引きする役をしておりました。

  自分でも何が何だかさっぱりわからないのですが、私は必死になって手引きして、大きな乗り物とおぼしきものに案内してあげました。やがて、すべてが終了しました。まるで得体の知れない乗り物が出発するのを待っている感じでした。
  ボートで逃れた者はもちろん生きて救われました。が、溺死した者も相変わらず生きているのです。
  そこから妙なことが起こりました。その得体の知れない乗り物――というよりは、われわれが落ち着いた場所全体が、いずことも知れぬ方向へゆっくりと移動を始めたのです。
  そこに集まっていた人たちの情景は、それはそれは痛ましいかぎりでした。死んだことに気づいた者は、あとに残した家族のことと、自分はこれからどうなるかが不安のようでした。このまま神の前へ連れていかれて裁きを受けるのだろうか、どんな裁きが下されるのだろうか、とおびえた表情をしておりました。
  精神的ショックで、呆然としている者もいました。何が起きたのかも分からず、無表情でじっとしています。精神が麻痺しているのです。こうして、新しい土地での評決を待つ不思議な一団がそこに集まっておりました。

  事故はほんの数分間の出来事でした。あっという間に大変な数(1500余名)の乗客が海に投げ出されて溺死し、波間に漂っておりました。が、その死体から抜け出した霊が次々と中空へと引き上げられていったのです。生きているのです。
  貴重品が惜しくて手に取ろうとするのに、どうしても掴めなくてかんしゃくを起こしている者もいました。地上で大切にしていたものを失いたくなくて、必死になっているのでした。
  否応なしに肉体から救い出されて戸惑う霊たちの気の毒なシーンは、胸がしめつけられる思いのする、見るにしのびない光景でした。その霊たちが全て救出されてひとつの場所に集められ、用意万端が整ったところで、新しい土地(ブルーアイランド)へ向けて、その場全体が動き出したのです。
  奇妙と言えば、こんな奇妙な旅も初めてでした。上空に向けて垂直に、ものすごいスピードで上昇していくのです。まるで巨大なプラットホームの上にいる感じでした。それが強烈な力とスピードで引き上げられていくのですが、少しも不安な気持ちがしないのです。まったく安定しているのです。
  その旅がどのくらいかかったか、また、地球からどれくらいの距離まで飛んだのかは分かりません。が、到着した時の気分の素敵だったこと! うっとうしい空模様の国から、明るく澄み切った空の国へ来たみたいでした。全てが明るく、全てが美しい場所なのです。
  近づきつつある時からその美しさを垣間見ることができましたので、霊的理解力の鋭い人は、たぶん急逝した者が連れて行かれる国なのだろうなどと言っておりました。
  いよいよ到着するころまでには、みんな一種の自信のようなものを抱くようになっておりました。環境のすべてに実体があり、しっくりとした現実感があること。先ほどまで生活していた地上の環境と少しも変わらないことを知ったからです。違うのは、すべてが地上とは比較にならないくらい明るく美しいことでした。
  しかも、それぞれに、かつて地上で友人だった者、親戚だった者が出迎えてくれました。そして、そこでタイタニック号の犠牲者は別れ別れになり、各自、霊界での生活体験の長い霊に付き添われて、それぞれの道を歩みはじめたのでした。
■訳者註――他界直後の体験、すなわち死後の目覚めの様子を綴った霊界通信を数多く翻訳してきた私も、これほど劇的な内容のものは初めてである。死に方が異なれば死後の目覚めも異なった形を取るのは当然であるが、大惨事でおびただしい数の犠牲者が出た場合は、地上でも救出活動が大々的に行なわれるように、霊界においても“見えざる力”によって大規模な救出活動が行なわれることが、これでよくわかる。
2章
2章  ブルーアイランドに到着   [TOP]

  ブルーアイランドに到着した時の最初の印象と体験について述べてみたいと思います。ただ、これから述べる体験が、沈没後どれくらい経ってからのことなのかは、感覚的にはよく分からないのです。 
  私には2人の案内役が付き添ってくれました。地上時代の友人と、もう一人は実の父親でした。父は私と生活を共にし、援助と案内の役をしてくれました。なんだか私には、外国に来て親しい仲間と出会ったような感じで、死後の再会という感じはしませんでした。 先ほど体験した忌まわしいシーンは、もう遠い過去へ押しやられていました。死の真相がわかってしまうと、そういう体験の怖さもどこかへ消えてしまったのです。つい昨夜のことなのに、まるで50年も前のことのように思えました。お陰でこの新しい土地での楽しさが、地上に残した者との別れの悲しさによって半減されるということにはなりませんでした。
  タイタニック号の犠牲者全員がそうだとは申しません。かなりの人々が不幸な状態に置かれたでしょう。が、それも、2つの世界の関係について何の知識も持ってなかったからにほかなりません。それを知っていた私のような者にとっては、旅行先に到着して便りを書く前に、「ちょっとそこいらを散歩してくるか」といった気楽な気分でした。

  父と私、そして友人の3人で、さっそく見物に出掛けました。その時ふと気づいたのですが、私は地上時代のお気に入りの普段着を身につけておりました。いったいどうやって地上から持ち運んだのだろうかと、不思議でなりませんでした。
  そういえば父も、地上で私が見慣れていた服装をしておりました。何もかもが、そして見かけるすべての人が、ごく自然で、まるで地上とそっくりなのです。
  もう一つ、私にとって印象深かったのは、その土地全体が青みがかっていることでした。英国は「緑がかった灰色」とでも表現できるでしょうか。しかし、この土地は文句なしにブルーなのです。明るい濃いブルーです。住民や住居や樹木までがブルーだという意味ではありませんが、全体から発せられる印象が「ブルーの国」なのです。
  そのことを父に訊ねてみました。余談ですが、父は地上にいた時よりも動作がきびきびしていいて、若返って見えます。父子というよりは兄弟のような感じすらしました。
  父は私の質問に対して、「この界層を包む光の中にブルーの光線が多く含まれているためにそう見えるのであって、ここは精神的な回復を得るのに絶好の土地なのだ」という説明をしました。
  このように、死の直後の世界は、地上界を申し分のない状態にしたものにすぎないと考えてください。
■訳者注――このブルーアイランドは“中間境”とでもいうべき界層で、ここを卒業して“本土”というべき界層に入っていくと、地上とは比較にならないほど活発な活動の世界が待っている、というのが、信頼のおける霊界通信が一致して述べているところである。そうなると地上との縁が薄れるのかというと決してそうではなく、むしろ上層界にも下層界にも通じるようになるという。
  そういうわけで、かつて地上で縁故のあった人間が他界する時は、すぐにそれを察知して、その中間境まで出迎えに降りてきてくれる。それは懐かしいからという要素もないわけではないが、死んだことを自覚させる目的も兼ね備えているので、一見してそれと知れるように、死んだときの風貌や服装を身につけているのが通例である。が、用事が済むとそれぞれが本来所属している場所へと帰っていく。
  そうした霊にとって残念なのは、せっかく出迎えてやっても、本人が地上的なしがらみや間違った信仰、極度の悲しみや憎しみを抱いたりしていると、その存在に気づいてくれないことだという。その種の人間が、いわゆる“地縛霊”となって、地上の縁ある人たちに良からぬ影響を及ぼすことになるのである。


  当時私がいたところには海もありました。その海岸に沿って3人で散歩したこともありました。右手には大きな建造物があり、左手に海がありました。とても穏やかな景勝地でした。
  霊界というと、非現実的で夢のような世界を想像なさるに違いありません。が、そうではなく、みなさんが外国に行くのとまったく同じなのです。地上と同じように実体があるのです。おまけに、比較にならないくらい興味のつきない世界です。
  やがて私たちは大きなドームのような建物の前に来ました。中を覗いてみると、ここも素敵なブルーで彩られていました。地上で見かける建物と変わらないのですが、その美しさが違うのです。
  そこにしばらく滞在して、それから軽い食事を取りました。私が地上でよく食べていたものに似ている感じがしました。ただし、肉類は見当たりませんでした。
  奇異に思えたのは、食事は必ずしも取る必要がないように思えたことです。目の前に置いてあるのですが、どうやらそれは必要性からではなくて、地上の習慣の名残にすぎなかったようです。
3章
3章  ブルーアイランドの建造物   [TOP]

  前章で述べた、3人で過ごしたドーム状の建物でのひとときを、地上でいう“ランチタイム”として見れば、あんなに長時間のランチタイムは初めてだし、文句なしに楽しいものでした。その間に、とても多くのことを、とくに父から学びました。
  父の説明によれば、あの建物は一種の休養施設で、地上からの新来者がよく集まるところだそうです。地上界の生活条件に近いものがいろいろと揃っていて、外観も地上の建物に似ているので、よく使用されるということです。同じ目的をもった建物は他にもたくさんあります。別の用途を兼ね備えたものもあります。
  それらの外観は一つ一つ異なり、似たものはありません。要するに“大きなビル”と考えればよろしい。博物館や美術館、あるいは巨大なホテルを想像されてもよろしい。だいたいそんなものに近いと思ってください。おとぎ話に出てくる夢のような宮殿を想像してはいけません。きわめて地上的で、変わったところは一つもありません。
  このブルーアイランドにはそうした建物が実にたくさんあるのです。というのも、この世界の第1の目的は、地上を去ってやってくる者が地上の縁者との別離を悲しんだり、無念に思ったり、後悔したりする気持ちを鎮めることにあり、当分の間は本人が一番やりたいと思うこと、気晴らしになることを、存分にやらせることになっているのです。
  元気づけるために、あらゆる種類のアトラクションが用意されています。地上時代に好きだったことなら何でも――精神的なものでも身体的なものでも――死後も引き続いて楽しむことができます。目的はただ一つ――精神的視野を一定のレベルまで高めるためです。
  書物を通じての勉強、音楽の実習、各種のスポーツ、‥‥何でもできます。乗馬もできますし、海で泳ぐこともできます。狩りのような生命を奪うスポーツは別として、どんなスポーツ競技でも楽しむことができるのです。もっとも、こちらでは地上で言う“殺す”ということは不可能です。狩りと同じようなことをしようと思えばできないことはありませんが、この場合は“死”は単なる“みせかけ”にすぎないことになります。
  そうした建物は新来者の好みの多様性に応じて用意されているわけです。こちらでは疲労するということがありませんから、思う存分それぞれに楽しむことができます。が、やがてそればっかりの生活に不満を抱き始めます。そして、他に何かを求め始めます。興味が少しずつ薄らいでいくのです。
  それと違って、たとえば音楽に打ち込んだ人生を送った者は、こちらへ来てからその才能が飛躍的に伸びて、ますます興味が深まります。その理由は、音楽というのは本来霊界のものだからです。ブルーアイランドに設置されている音楽施設で学べば、才能も知識も、地上では信じられないほど伸びます。
  さらには“本の虫”もいます。地上では失われてしまっている記録が、こちらでは何でも存在します。それがみな手に入るのです。ビジネスひとすじに生きた者にも、その才能を生かす場が用意されています。
  これには理由があります。こちらへ来たばかりの者は、多かれ少なかれ悲しみや無念の情を抱いております。それが時として魂の障害となって進歩を遅らせます。そこで、とりあえず悲しみや無念の情が消えるまで、当人がやりたいと思うことが何でも好きなだけやれるようにとの、神の配慮があるのです。それが実は進歩への地固めなのです。
  が、純粋に地上界に属する趣味は、やがて衰え始めます。一種の反動であり、それがゆっくり進行します。こちらでも物事は段階的に進行し、決して魔法のように一気に変化することはありません。
  その反動が出始めると、興味が次第に精神的なものへと移っていきます。もともと精神的なものに興味を抱いていた人は、引き続きその興味を維持し、拡大し、能力が飛躍的に伸びます。地上的な性格の趣味しか持たなかった人にも、いずれは変化の時期が訪れます。
  このように、ブルーアイランドにいる間は、多かれ少なかれ地上生活との関連性が残っています。最初は、ただ面白いこと、愉快なことによって自分を忘れているだけですが、やがて霊的向上のための純化作用が始まります。
  たとえば、後に残した家族と一緒の生活がしたければ、それも許されます。自分の存在に気づいてくれなくても、みんなといっしょにいて、その雰囲気に浸っていたいのです。が、そのうち、そんな自分に何となく反発を覚えるようになります。その時こそ、地上的ないしは肉体的本能からの脱却作用が始まったことを意味します。それまでに要する時間と、どういう過程を経るかは、一人ひとり異なります。当人の個性や気質によって、長かったり短かったりします。
4章
4章  ブルーアイランドの生活   [TOP]

  死後の世界のことになると、人間はすぐに「そこではどんな生活が営まれているのですか」という問いを発します。これは実に自然な疑問ではありますが、これほどとらえどころのない質問もありません。そのことを理解していただくために、一つ私から質問をしてみましょう。
  仮にあなたが大都会のど真ん中に連れてこられたとしましょう。車が行き交い、ビルの谷間を人間が忙しそうに歩いております。すべてが初めて見るものばかりです。「彼らはいったい何をしているのだろうか?」――あなたはきっとそう思うに違いありません。あなたはその光景をどう説明なさるでしょうか。
  「みんな、それぞれの仕事があるのです。パンを焼く人、車を運転する人、会社で事務を執る人‥‥いろいろです」――こんな内容では地上生活を説明したことにはなりません。それは地上生活の断片を拾って並べただけのことで、それだけでは理解することはできません。私がいま直面している難しさも、それと同じです。
  「ある者は海岸でしゃがみ込んだまま、じっと沖を見つめています」とか、「恋人と離ればなれになった悲しさに泣いてばかりいる人がいます」とか、「アルコール中毒の後遺症で、ただぼけっとしている者もいます」とか、「いまだにチャペルの鐘を鳴らし続けている者がいます」といったことを並べても意味がありません。それをもってブルーアイランドの生活であると考えてもらっては困ります。それらは、無数にある生活模様の断片にしか過ぎないからです。
  そこで私は、そういった断片を拾っていくことはせずに、この世界の特徴を総括的に述べてみたいと思います。
  みなさんが、もしも今のままの姿でブルーアイランドを見物に訪れたら、たぶん、第一に面白味のなさを感じることでしょう。総体的に地上環境と非常によく似ているからです。地上に帰って「(あちらの世界は)どうでした?」と聞かれたら、「いやはや、この地上と実によく似たところですよ。いろんな人種がごっちゃに生活している点が違いますけどね」とおっしゃるでしょう。
  その通りなのです。ここでは、かつての地上生活とまったく同じ生活の連続といってもよいでしょう。まず、よく休養します。睡眠の習慣が残っているので、実際に眠ります。夜というものはありませんが、地上にいた時と同じ要領で、睡眠を取ります。少なくとも、こちらに来て間もない頃はそうです。
  また、地上の人間と同じように、各地を訪ね歩いたり、探検したり、動物や植物の生命を研究したりします。かつての友人・知人を探し求めたり、訪ねたりもします。気晴らしの娯楽もあります。新しい分野の知識を求めて図書館などで勉強することもあります。
  生活のパターンは地上生活とよく似ています。違うところといえば、地上生活は地球の自転をはじめとする環境の力によって制約されますが、こちらでは当人の精神的欲求によって決まるという点です。
  衣服も実質的には同じですが、ありとあらゆる人種が集まっていますので、全体としては地上では見かけたことのない種々雑多な様相を呈しております。異様と言えば異様ですが、いろいろと勉強になります。
  この界層は地球圏に属し、地上時代の感覚や習性はそのまま残っておりますので、一見したところ地上時代そのままの容姿をしております。新しい知識を少しは仕入れておりますが、地上時代のものは全くと言っていいほど捨てていないのです。
  そうした習性を捨てていく過程は実にゆっくりとしています。こちらでの生活を重ねるにつれて、それまで後生大事にしていたものが何の意味もないことに気づくようになるばかりでなく、やがて邪魔くさいものに思えてきます。その段階に至って初めて、その習性にまつわる意識が消えるわけです。
  たとえばタバコを吸う習性がなくなるのは、タバコが手に入らないからではなく、タバコを吸うのはいけないことだと思うからでもなく、吸いたいという欲求がなくなるからです。食べるという習慣も同じです。そのほか何でもそうです。なくてもなんとも思わなくなるのです。我慢するのではありません。欲しければ手に入ります。現に、欲望が消えてしまわないうちは、みんな食べたり飲んだり吸ったりしています。
  こちらへ来てしばらくは、思想も行動もまったく自由です。何を考えようと、何をしようと、すべて許されています。“禁じられたこと”というのは何一つありません。制約があるとすれば、それは当人の持つ能力や資質の限界です。
  しかし、やがて霊性が芽生えて、知識欲と自己啓発の願望が出始めた段階から、そういう無条件の自由はなくなります。ちょうど鉄くずが磁石に引きつけられるように、求めている知識や自己啓発にとって最も適した機能を備えた建物へと引き寄せられていきます。その時点から、本格的な“教育”が始まるわけです。どうしてもそこへ通わざるを得なくなるのです。一つの分野が終了すると、次の分野へと進みます。
  ただし、外部からの力で強制されるという意味ではありません。内部からの知識欲、啓発意欲がそうさせるのです。あくまでも自由意志が主体になっているのです。だからこそ、地上時代から精神による身体のコントロールが大切なのです。こちらの世界では精神が絶対的に威力を発揮しますので、他界直後の幸福度は地上から持ち越した精神の質が決定的な影響を持つわけです。
  満足感を味わうのも、不満を味わうのも、地上で送った生活次第――形成された性格の質はどうか、好機を活用したか、動機は正しかったか、援助をいかに活用したか、視野は広かったか、身体的エネルギーを正しく活用したか、‥‥そうしたことが総合的に作用するのです。
  単純な図式で示せば、身体を支配する精神の質と、精神を支配する身体の質との対照です。地上では精神も大切ですし、身体も大切です。が、こちらへ来れば、精神だけが大切となります。死の直後の幸福感の度合いは、地上で培った精神の質によって自動的に決まるのです。
  そういう次第ですから、「死後はどんな生活をするのですか」という質問をなさる時は、どなたかご自身の親しい人が外国へ長期の旅行に出掛けた場合に、「今ごろあいつはどうしているかな」と思われるのと同じであることを思い起こしてください。誰しもきっと「まあ、元気にやっているだろうさ」と思うに違いありません。われわれも同じです。ブルーアイランドで元気にやっております。
5章
5章  良心の声   [TOP]

  宇宙の創造機構は、人間の想像を絶した緻密さをもって計画されました。その究極の目的は、各個に自由闊達な発達と進化をもたらすことです。そのための摂理は厳然としています。絶対不変です。各自は、良心という本能によって、いま自分が行なっていることが摂理に敵っているか反しているかを直感しております。
  もちろん、自分自身を欺いて「これでいいんだ」と主張することはできます。しかし、そう主張しながらも、心の奥では「本当はいけないんだ」という意識を打ち消すことができずにいます。この事実に例外はありません。つまり、良心は必ず知っているということです。ところが、たいていの人間は知らないことにしたがるものなのです。
  この種の問題を、普通の人は“善悪”の観点からではなく“損得”の勘定によって判断しています。動機の善悪の区別がつかないわけではなく、ちゃんと識別できるのです。そして、事実、本能的には正確な判断を下しているのです。
  ところが厄介なことに、人間は習性や損得勘定、社交面のメンツなどから、因果律が巡りめぐって生み出す結果を考慮せずに、目先の結果にこだわってしまいます。
  実に残念なことですが、死後の世界との関連からいうと、可哀想で気の毒な事態となっていくのです。不快な思い、つらい苦しみのタネを蒔いていることになるのです。火炎地獄などというものは存在しませんが、精神的苦悩という、自らこしらえた地獄が待ち受けているのです。

  たとえば、精神はあらゆる思考と行動の原動力であるという事実は理解できると思います。が、その思考と行動のすべてが精神に“書き込まれている”、つまり記憶されているという、そのメカニズムまでは理解できないでしょう。
  仮にあなたがどこかの店でツケで買い物をしたとします。すると何日かして請求書が届き、それを払い込みます。あなたはその時点で買い物と支払いに関する一切のことを忘れます。ところが、その店にはすべての記録がいつまでも残っているのです。精神の記録も同じです。あなたの記憶にはのぼらなくても、すべてが記録されているのです。
 そして、この勘定の決済日が死後に訪れるというわけです。支払いを済ませば、帳簿のほうはそれで用事がなくなり安心ですが、記録そのものは、その後もずっと残り続けます。 さて、ここでしっかりと銘記していただきたいことは、精神とその産物、すなわち思念は、地上に存在するあらゆるものを始動させ、創造していく原動力だということです。物的なものも、元はといえば精神的なものに発しております。そびえ立つビルも、最初は思念として設計者の頭の中に存在したのです。
  思念は、分類すればいろいろなタイプに分けることができるでしょう。「昼の食事は何にしよう」といった他愛もないものも、やはり思念のひとつです。が、価値あるものを生み出していく建設的な思念と、反対に害を及ぼす破壊的な思念とがあります。問題なのは後者の方です。食事だの、衣服だのといった純粋に個人的なものでも、それが建設的な思念を妨げるほどになると、破壊的な性格を帯びるようになります。
  地上生活でなめさせられる辛酸の大半は、自分自身の間違った思考が原因です。もちろん、生まれた境遇が一人ひとり異なることを百も承知のうえでそう述べています。両親から不幸と不遇を引き継いで生きる人は、恵まれた条件のもとに生を受けた人よりも生活がつらく、楽しみが少ないに決まっています。
  しかし、そうした地位や生活条件の相違にお構いなく、思念の摂理は平等に働きます。どちらが有利とも言えないのです。
  生まれながらに過酷な生活環境に育った人間は、人生について全く無知で、そういう生き方以外の人生については何も知らずに終わります。過酷な生活環境を改善する余裕などなく、ひねくれた感情の積み重ねが、ますます環境を悪化させていきます。
  では、物的に恵まれた人間はどうかと言えば、物的な悩みや苦しみがないために、やはり結果的には前者と同じ精神的退廃をもたらします。同じ轍(わだち)の上をだらしなく歩き続けるだけで、精神は沈滞の一途をたどります。かくして、両者とも死後の境遇を自らこしらえていくのです。
  他人へ迷惑が及ぶ思念の使い方をするタイプになると、死後の報いはもっと深刻です。
  たとえば悪知恵のよく働くタイプの人間がいるとします。他人への迷惑などまるで考えずに、自分の利害を素早く計算して、事を推し進めます。こうしたタイプの人は、破壊的思念の中でも特に影響力の強い思念を出していることになります。思念の悪用の最たるものであり、こちらへ来てから支払わされる代償は、前者のタイプに比べてはるかに重くなります。なぜならば、放射した貪欲な思念が強固な壁をつくりあげており、それを自らの力で片づけなければならないからです。
  いかなる種類のものであろうと、あなたが一度その心に宿して放出したものは、精神世界に関するかぎり、すでに一つの既成事実となっております。つまり、その考えに基づいて行動を起こすか起こさないかに関係なく、精神的にはあなたの一部を築いているということです。
  湧いては消えていく取り留めのない雑念は別です。これは大きな影響力はありません。私が言っているのは、あなたの個性が反映している明確な考えのことです。それは、いったん心に抱いたら、精神世界に関するかぎり実行したのと同じことであり、その報いをこちらに来てから受けることになります。
  「心に思ったことをいちいち良心に照らしてコントロールしてたら身が持たないよ」とおっしゃるかも知れません。が、百パーセントはできなくても、私がいま述べたことを事実として受け止めてくだされば、あなたの精神活動に、これまでとは違った厳しい目を向けるようになるでしょう。精神活動こそ大事なのです。良心を欺いたことを自覚することは、他人にそれを知られることよりも、さらにつらいものです。静かに良心の声に耳を傾けてみられるがよろしい。
6章
6章  初めての地上界との交信   [TOP]

  私が初めて地上界との交信を試みた時のことを述べてみましょう。それはブルーアイランドの建物の中のことでした。
  そこは一度父に案内されてから、よく通っていたところでした。交信だけを目的とした建物ではありません。他にもいろいろと機能があり、私はしばしば利用し、そこで働いている人たちに何かとお世話になっておりました。その人たちはみんな親切なのですが、態度はきわめて事務的です。何百人あるいは何千人の人が仕事に携わっています。
  地上時代から死後の存在を信じていた人も信じていなかった人も、地上に残した人との交信がしたくなるとそこを訪れるのですが、地上の人間と同じで、そんなことができるのかと半信半疑の人もいれば、ただの好奇心からやってくる人もいるようです。そういう人は、自己満足しか得られません。成功のカギを握るのは、魂の奥底からの欲求です。
  私の順番が来て案内されたところは、これで間に合うのだろうかと思うほど簡素な部屋でした。さぞかし複雑な道具や器械があって、電気の配線のようなものが張り巡らされているのだろうと想像していたのですが、そんなものは一切なく、ただ人間的な要素があるだけでした。
  その部屋で、私は一人の男性からインタビューを受けました。責任ある地位の方であることは一見して分かりましたが、天使のような存在ではありません。彼は、地上界との交信がどういう具合にして行なわれるかについて教えてくれました。
  その話によると、彼の責任のもとに、外交員のような役目をする人たちの組織ができていて、常に地上圏近くに滞在し、霊的通路として役立ちそうな人間や、それを臨んでいる人間を探し求めているということでした。彼らにはそういう人間を探知する能力があるらしいのです。そういう人間のリストをこしらえて、この所在位置と能力の程度を調べておきます。そして、新しく他界してきた者が交信を希望したときに対応するというわけです。
  それ以来、私はたびたびそこを訪れて、いろいろな方法で交信を試みました。うまくいった時もあり、まったく通じなかった時もあります。私は地上にいた時からこの種のことに関心を寄せていたせいもあって、必要な援助がそのつど得られるので助かりました。

  私が初めてメッセージを伝達することに成功した時のことをお話しましょう。
  私には一人の案内人が付き添ってくれました。案内された(地上の)場所は壁で囲まれた部屋でした。その部屋は、われわれにとっては透けて見えますし、何の抵抗もなく通過することができます。
  部屋には2人か3人の人がいて、タイタニック号の沈没事故を恐ろしげに語り合っており、その犠牲者の霊が戻ってくる可能性も話題にのぼっていたようです。その人たちは、そこで定期的に交霊会を催しているようでした。
  交霊会が始まると、私は付き添いの人の指導で、まず思念を具象化して出席者の目に姿を見せることから始めました。そのためには、私が生身でその人たちの中央に立っている状態を想像し、さらにそれに照明が当てられているという観念を抱き、それをじっと維持しなくてはなりません。自分の容姿を細部までじっくりと思い浮かべて、その映像が彼らの目の前に実在して、彼らがそれに気づくようにと、その念を私の精神に焼き付けるのです。
  最初は失敗しましたが、ついに成功しました。もっとも顔だけでした。ウィリアム・ステッドであることを知ってもらうために、まず顔だけを念じたのです。続いて、メッセージを送ることにも成功しました。やり方はまったく同じです。出席者の中でも一番霊感の鋭い人のすぐ側に立って、短い文章を思い浮かべ、それを一字一字強く念じることを繰り返すのです。すると、その人の口から同じ言葉が発せられるのが聞こえました。その瞬間、「あ、うまくいった」と思いました。
  その出席者の中に私の家族はいませんでした。もし家族がいたら、たぶん成功しなかったでしょう。というのは、その時点では家族の者はまだ私の悲劇的な死の悲しみに暮れていましたから、その感情が邪魔をしたと思われるのです。
  その時の私はまったく冷静でした。それは一つテストケースとして行なったからです。つまり、自分の意志を地上の人間に直接的に伝えることができるものかどうかを試してみる程度の気持ちで行なったのがよかったのでしょう。
7章
7章  思念の力   [TOP]

  生前から親密な間柄だった者のことを強く念じると、その念は生き生きとして活力のあるエネルギーとなり、電波とまったく同じように宙を飛び、間違いなくその霊に届きます。たとえば地上のAという人物がBという人物のことを念じたとします。するとBは瞬時にその念を感じ取ります。こちらへ来ると、感覚が地上時代よりもはるかに鋭敏になっておりますから、そちらから送られた思念は電流ならぬ思念流となって、直接的に感知され、そこに親密な連絡関係ができあがります。
  こちらの事情に慣れてくると、BはAにその回答のようなものを印象づけることができるようになります。AはそれをBからのものとは思わないでしょう。たぶん自分の考えか、一種の妄想くらいにしか思わないでしょう。が、そういう形で届けられている情報は、実際は大変な量にのぼっています。霊の実在を信じている人だけに限りません。誰でも、どこにいても、意念を集中して地上時代に親交のあった人のことを念じると、必ずその霊に通じて、その場へやってきてくれます。人間のほうは気づかないかもしれませんが、ちゃんと側に来てくれております。
  この事実から地上の皆さんにご忠告申しあげたいのは、そういう具合に人間が心で念じたことはすべて相手に通じておりますから、想念の持ち方に気をつけてほしいということです。想念にもいろいろあります。そのすべてがこちらへ届き、善きにつけ悪しきにつけ影響を及ぼします。霊の方はそのすべての影響をもろに受けるわけではありません。意図的に逃れることはできますが、できない者がいます。それは、ほかでもない、その想念を発した地上の本人です。想念は必ず本人に戻ってくるものだからです。
  今、すべての想念が届くと申しましたが、これには但し書きが必要です。心をよぎった思いのすべてが届くわけではありません。とくに強く念じた思い、片時も頭から離れないもの、という意味です。影響力という点からいえば、たとえば怨みに思うことがあったとしても、それが抑えがたい大きなものに増幅しないかぎり、大して重大な影響は及ぼしません。
  が、そういう前提があるにしても、心に宿した想念が何らかの形で影響を及ぼし、最終的には自分に戻ってくるという話は、容易に信じがたいことでしょう。しかし、事実なのです。
  実は皆さんは、同じ影響を人間同士でも受け合っているのです。たとえば、相手がひどく落ち込んでいる場合とか、逆にうれしいことがあって興奮気味である場合には、あなたも同じ気分に引き込まれるはずです。それは、言うまでもなく精神的波動のせいであり、沈んだ波動と高揚した波動がその人から出ているわけです。
  強烈な想念の作用も同じと思ってください。それを向けられた当事者は、そうとは意識しないかも知れません。が、無意識のうちに、大なり小なり、その影響を受けているばかりでなく、大切なのは、想念そのものは、それを発した人の精神に強く印象づけられていて、表面上の意識では忘れていても、末永く残って影響を及ぼしていることです。
  死んでこのブルーアイランドに来ると、その全記録を点検させられます。ガウンを着た裁判官がするのではありません。自分自身の霊的自我が行なうのです。霊的自我はそうした思念的体験を細大漏らさず鮮明に思い出すものです。そして、その思念の質に応じて、無念に思ったり、うれしく思ったり、絶望的になったり、満足したりするのです。
  その内容次第で、もう一度地上へ戻って、無分別な心と行為が引き起こした罪のすべてを償いたいという気持ちになるのもその時です。
■訳者注――ここでの意味は、必ずしも再生することではなく、その償いが叶えられる可能性のある地上の人間の背後霊の一人として働く場合もある。

  私が皆さんに、地上生活において精神を整え、悪感情を抑制するようにとご忠告申しあげるのはそのためです。地上生活ではそれが一番肝要であり、意義ある人生を送るための最高の叡智なのです。厄介なことに、人間は地上にいる間はそのことを悟ってくれません。 皆さん一人ひとりが発電所であると思ってください。他人にかける迷惑、善意の行為、死後の後悔のタネとなる行ない‥‥どれもこれも自分自身から出ています。そうした行為と想念のすべてが総合されて、死後に置かれる環境をこしらえつつあるのです。寸分の誤差もありません。高等な思念(良心)に忠実に従ったか、低級な悪想念に流されたか、肉体的欲望に負けたか、そうしたものが総合されて、自然の摂理が判決を下すのです。
  地上時代のあなたは、肉体と精神と霊(自我)の3つの要素から成ります。死はそのうち肉体を滅ぼしますから、霊界では精神と霊だけになります。ですから、地上時代から精神を主体にした生活を心がけておくことが大切です。
  むろん、常に選択の自由は残されていますから、やりたいことを好き放題やって、借りは死後に清算するよ、とおっしゃるのなら、それはそれで結構です。今までどおりの生活をお続けになるのがよろしい。しかし、いったんこちらに来たら、もうそれ以上は待ってくれません。このブルーアイランドできれいに清算しなくてはなりません。


  神は地球を、人間が楽しめる魅力ある環境にしてくださいました。が、それは、人間をわざと悪の道に誘っておいて、後で懲らしめようという魂胆からではありません。いかなる人間でも等しく満喫できるように、豊富な美と、それを味わう機能を与えてくださっています。精神が肉体をコントロールしているかぎりは、美は美であり続けます。肉体の欲望が先行し、堕落し始めると、厄介なことが待ち受けるようになります。苦しみと後悔が山積みにされて待っております。
  精神はこちらに来ても同じ原理に従って働きます。思考力は肉体のあるなしには関係ありません。ですから、そのうち地上に残した愛する人たちとの精神的なつながりをもち、そして大きく影響を及ぼすようになるのは、さして難しいことではありません。もっとも、地上の当人たちはそうとは気づかないことが多いのですが‥‥。
  この事実のもつ意味をよくお考えいただきたい。他界した家族や知人・友人が、あなたのもとを訪れることがあるということ、思念こそ実質的な影響をもっているということ、霊との関係はもとより、同じ地上の人間との関係でも、それをうまく結びつけるのも、ぶち壊してしまうのも、呼び寄せるのも、追い払ってしまうのも、この思念の力であるということです。
  霊界と地上の2つの世界を結ぶのは思念です。が、それには規律と鍛錬が必要です。頭にひらめいたものがすべて霊の世界から届けられたと思ってはいけませんが、同時に、スポーツマンが身体を鍛えるように精神を鍛えれば、いざという時には、霊界からも地上界からも、大いなる叡智と援助を祈り求め、そして受けることができるのです。
8章
8章  霊界から要求したい条件   [TOP]

  こうしてベールのこちら側へ来てみて、自信を持って断言できることは、「死の過程を経ることによって、すぐに神の一部となるわけではない」ということです。霊の世界に来たことを歓迎して、生命の秘密のすべてを明かしてもらえるわけではありません。誰ひとりとして宇宙に関する全知識を細大漏らさず授かるわけではないのです。
  一人ひとりが自分の努力によって、一つ一つ真理を手にしていく――ドアを開けると、その先にまたドアがある、その先にまたドアが‥‥というふうに、一歩ずつ進むしかないのです。
  最初に取り上げたいのは“環境条件”という用語と、その本当の意味です。いろんな種類の心霊現象に関連して、その環境条件が取り上げられています。成功した場合も失敗した場合も、すべてを環境条件のせいにして、実験会を催す部屋をどこにするか、装飾をどうするかにこだわるようになります。それは、たいていは的はずれです。
  いい現象を得るための主要因のうち何よりも大切な要素は、部屋そのものではなくて、列席者の精神状態です。列席者が素直さにおいて一体となること、そして身体的にも健康であることです。心の姿勢が何よりも大切です。
  地球人類にとって神の最大の恩恵の一つであるはずの霊界通信を、「次元が低い」と言って軽蔑し、それを交霊会の会場のせいにする人があります。
  われわれ霊界の側にも、要求したい条件があるのです。これほど大切な仕事が、未経験の人たちによって簡単に操られるわけはないでしょう。勝手な要求を出されても、応じるわけにはいかないのです。
■訳者注――この問題について、シルバーバーチ霊は次のように述べている。
  あなた方が愛し、またあなた方を愛してくれた人々は、死後もあなた方を見捨てることはありません。愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で、常に見守っています。その人たちの念があなた方を動かしています。
  必要な時には強力に作用することもありますが、反対にあなた方が恐怖感や悩み、心配の念などで壁をつくり、外部から近づけなくしていることがあります。悲しみに涙を流せば、その涙が霊たちを遠ざけてしまいます。穏やかな心、安らかな気持ち、希望と信念に満ちた明るい雰囲気に包まれているときは、そこにかならず霊が集まっています。
  私たち霊界のものは、できるだけ人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どれだけ接近できるかは、その人間の雰囲気、成長の度合い、進化の程度にかかっています。霊的なものにまったく反応しない人間とは接触できません。霊的自覚、悟り、霊的活気のある人とはすぐに接触でき、一体関係が保てます。
  スピリチュアリズムを知っているか否かは関係ありません。霊的なことが理解できる人であれば、それでいいのです。とにかく冷静で受容的な心を保つことです。取り越し苦労、悩み、心配の念が一番いけません。そうしたものがモヤをこしらえて、私たちを近づけなくしてしまうのです。


  何事にも条件というものがあります。背後霊が何かをさせようとしたり、逆にさせまいとしていろいろ工面したのに、ついに思うようにならなかったりするのも、必要な条件が欠けていたからです。
  たとえば霊界の父親が地上の息子のやろうとしている行為(自殺とか殺人)に気づいて、それを阻止しようとします。もしも実行に移したらとんでもないことになるのが分かっているので、父親は必死になってその思念を打ち砕こうとします。しかし、そんな時の息子はもはや異常な精神状態ですから、そういう条件下では父親でも救うことはできないのです。

  こちらでの生活行動は自由自在です。肉体のような束縛は何一つなく、完全に自由です。さらに私の場合は準備コースを卒業しましたので、地上時代に家族関係にあった者のいる所、知人や友人だった者のいる所など、どこへでも出向いて、教えを受けたり教えてあげたりすることができるようになりました。ただし、ブルーアイランドでの話です。まだ次の界層に定住するところまでは進化しておりません。
  地上界とも絶えず連絡をとっております。地上界の人が私のことを思ってくれると、その念が届きます。誰から送られたものかがすぐに分かりますから、必要とあればその人のもとを訪れてみることもあります。
  もっとも、誰からのものでも届くというわけではありません。やはり地上時代に縁のあった人に限られます。そういう人の念は、まるで電話でも聞くように、よく分かります。
  こういう具合にして、私たちは地上の人たちを援助することができます。その人の日常の行動や考えをよく分析して、その人にとって今何が一番大切であるかを判断した上で働きかけます。
  しかし、いかに親密な間柄であっても、その時の条件次第で不可能なことがあります。地上でも、アドバイスはできても無理強いはできないのと同じように、こちらでも、思いのままに影響力を行使できるわけではありません。
  地上でも、あまり関心のない者どうしはおつきあいはしないものです。こちらでも、話し合っても退屈したり気疲れしたりするような人は、次第に敬遠するようになります。こちらへ来ると、それがごく自然な形でそうなるのです。各自が発する波動が相手を選別するのです。
  それを支配する最大の力は“愛”です。夫婦愛、親子愛、兄弟愛、友愛などが本物であれば、互いに引き合い引かれ合って、幸福感を覚えます。片方が、あるいは双方が愛を失えば、互いの接触の機会はなくなります。
  地上を去ってこちらへ来ると、同じ波動を持つ人たちのところへ落ち着きますが、地上時代に愛があったからといって、必ずしも霊界へそれが持ち越されるとは限りません。愛の強さが偏り過ぎている時は、引かれ合うことが少なくなり、やがて断絶が生じるのです。
9章
9章  自由と摂理   [TOP]

  ブルーアイランドの話はこの程度に留めて、もう一歩進んだ界層、つまり地上的感覚からほとんど脱しきった世界のことについて語ってみましょう。
  地上的感覚から脱してしまうと、現在所属している界層とのつながりをもちながら、どの界層にでも行けるようになりますし、地上界へ戻ることもできます。地上の人間の指導をしながらこちらの生活も維持するわけですが、そのことによって自分の本来の仕事や個性の発達が阻害されることはありません。こちらでは個性の研究と確立が何より優先されるのです。
■訳者注――このことは俗に守護霊と呼ばれている存在と人間との関係についても当てはまる。守護霊というのは魂の先祖ともいうべき、同じ霊系に属する集団――これをスピリチュアリズムでは「類魂(グループソウル)」と呼ぶ――の中の一柱で、再生する必要のない段階まで進化した者が、その類魂の中心霊(日本では「守護神」と呼ぶことがある)に指名されてその任に当たるのである。ただし、人間がとかく想像しがちなように、ただじっと見つめていて災難に遭わないように守っているようなものではなく、所属する界層での生活を維持しながら、責任を任された人間の面倒も見るという形をとっている。守護霊になるほどの霊格を身につけた霊になると、同時に何カ所にでも存在できるようになるという。

  ブルーアイランドで学ぶことは「自我と生命の神秘」です。おかけで神による創造の御業の途方もない大きさを認識することができました。こちらへ来て成長し、地上時代の性向や性癖が消えて行くにつれて興味の対象が変わっていき、存在の実相について知りたいという欲求が湧いてきます。誰もがその過程をたどります。私もそうでした。そして、学べば学ぶほど、さらに多くを学ぶ能力が伸びるのです。
  この世界の素晴らしさに魅せられた私も、その後、これと同じような世界が他にもいくつか存在することを知りました。そのうち、そこへ実際に連れて行ってもらえる時が来ました。
  それがどういう位置にあるかは今でも見当がつきませんが、その時の道中での感じは、星の世界を突き抜けていくみたいでした。ブルーアイランドを飛び立って虚空を突き抜け、どこかの星へ到着した感じでした。
  そこにいるのは、やはりかつて地上で生活したことのある人たちで、ある一定のレベルまで進化を遂げた人たちです。ブルーアイランドに比べて生命形態が高度で、幸せの観念も洗練され、行動はパワーにあふれていますが、逆に、いつまで経っても向上心の芽生えない者、必要な力の供給を受けても自我のコントロールができない者たちが送り込まれている界層もあります。
  そのいずれの界層にあっても、自由意志が与えられております。自分の運命を決めていく上において、各自が行為の主体であるということです。肉体の死後だけに限られた話ではありません。地上にあるうちから、そして死後も、永遠にそうです。

  親は他界後も地上の子供の面倒をみようとするものです。この動機は“愛”です。愛されあれば、摂理に従って可能な限りの援助をいたします。霊界と物質界とは、みなさんが想像しておられる以上に緊密な関係にあるのです。
  物的な豊かさをもたらすこともできます。魔法のように金銭を呼び寄せるという意味ではありません。ビジネスの手段・方法について、最も効果的なアイデアを教えてあげるといったことです。霊的真理の理解に関連したことで指導できるのと同じように、商売や事業のことでも指導できるのです。
  ただし、厳しい霊的摂理の枠内でのみ許されていることです。たとえば、商売上のやり方で意見が2つに分かれているとします。われわれ霊界の者には、道義的に見てその2つのどっちが正しいかがよく分かります。その場合、われわれは躊躇することなしに正しい方を選ぶように指導します。損得の計算はしません。その結果として、仮に損をした場合、あるいは痛手をこうむるような事態になった場合は、あとで別の手段でその埋め合わせをします。
  もし損得の計算によって、いけないと知りつつも儲かる方法へ後押しした場合は、たとえ金銭的には豊かになっても、指導したわれわれ、およびわれわれの誘いに乗った当事者の双方が、あとで大きな報いを受けることになります。地上生活中に受けるとは限りません。霊界へ来てから受けるかも知れません。が、いずれにしても絶対に免れることはできません。自動的にそうなるのです。
  いずれにせよ、皆さんもいつの日かこちらへ来て、それを身をもって体験することになるのです。
10章
10章  予知現象の原理   [TOP]

  俗に“虫の知らせ”といわれている現象にはいろいろと俗説があるようですが、ほとんど全てがテレパシー、すなわち精神と精神との直接的感応現象です。これにもいろいろなタイプがあります。
  いちばん多いのが、身内や友人の死の予感ですが、これもテレパシーです。こう言いますと、「死んだ本人は自分の死を予知していたわけではないのに‥‥」とおっしゃる方があるかも知れません。確かに、突発事故で死んだのだから、その事故より何日も前に本人が自分の死を予知できるはずがないわけです。
  これには、事故死した人(仮にB氏)の背後霊団が関与しているのです。霊団はB氏の生活のパターンを細かく観察していて、このまま進むと死の危険に遭遇するというところまで予見します。そして、それを避けさせるために最大限の努力をします。
  それが功を奏する場合もありますが、因果律の働きの必然の結果まで変えることは絶対にできません。運命は自分で築いていくのです。背後霊といえども、本人に代わって細工を施すことは許されないのです。
  さて、B氏の場合それが功を奏さずに、いよいよ死期が迫ったとします。本人は何も気づいていませんが、それを霊感の鋭い友人のA氏が感知します。ビジョンや夢で見ることもあります。その際、地上的な距離は何の障害にもなりません。
  背後霊による必死の働きかけが功を奏した場合は、それらを回避できる場合もあります。このように、予感とか虫の知らせには必ず霊界からの働きかけがあることを忘れないでください。
■訳者注――スピリチュアリズムの重要な発見の一つとして、物質界の諸相(人間生活から自然界の営みまで)の全てに、見えざる知的存在からの働きかけがあるという事実が挙げられよう。
  自然界の生成発展には自然霊が関与しており、高級な守護天使の監督のもとに妖精(フェアリー)と呼ばれる、知性的には進化のレベルの低い原始霊が直接的に働いている。
  ここでは人間界の営みだけにしぼり、それにも霊的(スピリチュアル)と心霊的(サイキック)の2種類が入り混じっていることを指摘しておきたい。
  人間には五感以外に“第六感”などと呼ばれる直感的能力があることは、昔から知られている。最近では“超能力”と呼ぶことが多いが、これは五感の延長線上にあるもので、これを英語でサイキックと呼び、日本語では“心霊的”という用語を当てている。これが進化論的にみて必ずしも高度なものでないことは、動物や鳥類、昆虫などの方が人間より発達している事実からもうかがわれる。たぶん、人間もかつては動物と同じ程度に発達していたのに、文明の発達によって退化したと考えるのが正しいだろう。計算機を使うと暗算能力が低下するのと同じパターンをたどった、と私は見ている。
  これに対して、背後霊が日常生活の中で因果律の働きを計算に入れながら、本人の魂の成長にとって最もよい指導をする、という関係をスピリチュアルと言い、日本語では“霊的”という用語を当てている。
  背後霊団の中心的存在はもちろん守護霊である。これは、肉体上の親が遺伝子という血縁によって結ばれているのとは違って、親和性という霊的な血縁によって結ばれた集団――これを英語ではグループソウルといい、“類魂”と訳されている――の一人で、かなりの進化を遂げてはいるが、物質界との業(カルマ)が完全に消滅しきっていない段階にある。そういう霊が守護霊に任命され、地上の類魂の面倒を見ることになる。
  ここで注意しなくてはならないのは、守護霊という用語は人間側が勝手に当てているだけで、“守護”という文字につられて「何でも守ってくれる霊である」と想像してはならないことである。ステッドが指摘しているように、守護霊自身にもカルマがあり、地上の人間にもカルマがある。それが独自に作用することもあれば、互いに連動して作用することもある。
  その辺は、因果律が機械的・自動的・絶対的に働き、情緒的な要素の入る余地はないらしいのである。確かに、人間界の悲劇を見ていると、それも納得が行く。
  本章は短いが、いろいろと示唆に富んだ貴重な通信である。

11章
11章  実相の世界   [TOP]

  私の案内もいよいよブルーアイランドの最後の日々のことと、次に赴いた世界(実在界)に定住していく様子のことになりました。
  ブルーアイランドはあくまでも過渡的世界です。新参者が霊的環境に馴染むことを目的として用意されたもので、準備が整うと、本格的な霊の世界、実在の世界へと進んでいきます。そこには、地上での生活期間など比較にならないほどの永続的な生活が待っております。そこからブルーアイランドに戻ってくることは可能です。現に多くの霊が、新しく霊界入りする知り合いや元家族を迎えに降りてきて、案内したり、面倒を見てあげたりしております。が、あくまでも一時的な訪問であり、そこにいつまでも滞在するようなことはありません。
  こうした行ったり来たりの移動は、地上とはまったく異なります。
  私の場合、本格的な霊界への移住は、地上からブルーアイランドに初めて来た時と同じように、大集団で行なわれました。顔ぶれは同じではありません。同行を許されない者もたくさんいました。知らない人が大勢いました。移動するときの感じは、来た時と同じくものすごいスピードで空中を飛行しているようでした。

  到着した場所の印象は、ブルーアイランドのあの青々とした印象に比べると、取り立てて形容するほどのものではありませんでした。色彩にさほど特徴はなく、住民は一定のパターンにはまっているという感じでした。一見すると地上界に戻ってきたような印象でした。他の者に訊ねてみると、同じような印象を受けているとのことでした。それもそのはずで、各自にとってはそこが地上時代に培った民族の資質に相応しい場所なのでした。摂理の働きで自動的にそういう形に収まるのです。
  地上の人間すべてが、いつかは必ずこの界層に来るのです。そして、ここでも霊的成長のために学習と仕事を続ける一方で、残り少なくなった地上時代の習慣と考えをさらに抑制し、捨てていく努力を続けます。生活そのものは地上時代と同じですが、対人関係は緊密度を増していきます。
  家屋は地上と同じく自分の好みのものを所有し、気心の合った人たちと、見晴らしのいい丘の上などに集まって生活しています。まるで宮殿のような豪華な家に住んでいる人もいます。そういう人たちのほとんどは、地上時代にひどい貧乏暮らしをしていた人たちだということです。そういう豪華な暮らしを夢見ていたわけです。
  進化を促進するためには、死後のブルーアイランドでの調整期間にそのような潜在的願望を満たしておくことが必要との判断から、豪華で安楽な生活が許されていると考えればいいと思います。
  しかし、その結果として、意図された通りの成果が見られない場合、つまり豪奢な生活に甘んじてしまって進化が促進されない場合は、豪邸は没収され、改めて調整手段が講じられます。一人ひとりにそれなりの手段が講じられます。
  この界層まで来ると、食べること、飲むこと、寝ることへの願望はもう消えてしまっております。荒削りではあっても、物質的なものから脱し切って、純粋な霊としての生活が始まりかけております。それでも、まだまだ錬成が必要です。そこで、この界層にも学問と修養のための施設が用意されています。ありとあらゆる情報と知識が用意されていて、向学心や向上心があれば、どの施設でも利用することが許されます。
  と言っても、知識の詰め込みばかりをするわけではありません。生活のパターンは地上とよく似ております。やはり“仕事”が中心です。ただ、身体的にも精神的にもはるかに自由で、行動範囲が拡大しています。地上でしか必要でない仕事、霊的自我の成長にとって何の足しにもならない仕事は、もう忘れ去られております。
  階級差などは全くありません。進歩を促進するのも妨げるのも、学問的知識と霊的知識をどれだけ獲得し、理解したかにかかっております。
  ここはまさに“自由の天地”です。幸福感と笑顔にあふれた世界です。人間と人間の真実の愛が生み出す幸福の世界です。その幸福の度合いは、地上時代の精神生活の中で培われているのです。

  この本格的な霊の世界に定住するようになって間もなく、品性卑しからぬ指導霊によるインタビューを受けます。地上時代の言動の全記録を総点検しながら、その方と是非を論じ合います。理由と動機とその結果が分析されます。ごまかしは利きません。大きい出来事も、小さい内緒事も、すべてが映像として残っており、何一つ見逃されることはありません。行為に出たものだけではなく、心に宿したことも、ちゃんと残っております。
  一人ずつインタビューされ、償うべきこと――思慮を欠いた判断、不親切な行為、人を傷つけた言葉など、直接の影響を及ぼしたことに対する裁断が下されます。
■訳者注――指導霊が一方的に裁断を下すというのではなくて、本人が納得して認めるということである。裁判のような情景を浮かべてはならない。人に迷惑をかけたものの中には、地上時代に何らかの形で償われたものもあり、それが改めて問われることはないという。
  太古にあっては、こうした事実が寓話の形で語られたが、その後、宗教または信仰が組織的に拡大し、政治の道具とされるようになると、“悪魔”や“閻魔”を創作し、恐怖心でもって信者を拘束するようになって行った。
  このインタビューを現代風に表現すれば、長期の旅行に出掛けるに先立って、人間ドックで健康を総合的に検査し、治療すべきところを指摘してもらうようなものと考えればよいであろう。その治療法ないし矯正法は、誰かの背後霊となる場合もあるし、中にはもう一度生まれ変わるという手段を取ることになる場合もあるらしい。が、ステッドはそこまで深入りした話はしていない。


  そのあと、そうした“過去の過ち”を償うための計画表が作成されます。それは地上界と密接につながっており、その償いのために効果的な人生を歩む人間の背後霊の一人(指導霊)として影響力を行使することになります。
  何しろ、当人の意識にあるのは、自分が犯した過去の過ちであり、それが魂の足かせとなって向上を妨げているのです。それを解消してしまうと、この自由の界層での定住が許されるわけです。
  定住と言っても、ここでの生活形態は各自の気質、個性、地上生活での体験の違いによって千差万別です。実にさまざまなタイプの人間がいて、際だった対照を見せている場合もあります。
  地上時代と同じ仕事(知的、精神的タイプ)を続けている人も少なくありません。地上と違って、生きるための日々の糧を得ることにあくせくする必要がなく、ただひたすら、霊的な浄化と向上を目指しての生活にいそしむのです。ただし、気晴らしに地上時代の趣味をいじくることはあります。
  家に閉じこもって何かを勉強するわけではありません。生活に一定のプログラムが組まれていて、その中に適当にいくつかの空白の時間が設けられています。その時間を利用して、地上の縁のある人を訪ねてみることもあります。単なる興味や情愛によって動く場合もあれば、祈りの念を感じ取って援助に赴く場合もあります。
  訪ねてみると、精神的な悩みである場合もあれば、病気や金銭上の悩みの場合もあります。とにかく、われわれに許されている範囲で精一杯の努力をいたします。
  こちらの世界にもあらゆる種類のレクリエーションがあることは、ブルーアイランドについての通信でも述べた通りです。地上時代の趣味とか、クセになってしまった興味は、霊性の進化にとって実害がないかぎりは何でも許されます。

  このように、死後の世界はいたって自然なのです。地上時代に培った愛情はそのまま残っております。純粋なものほど強烈さを失っておりません。家族愛も友情も変わっていません。もっとも地上では金銭等の物的な利害が障害となって不愉快な関係になってしまうことがありますが、こちらへ来て、そうした物的な要素が消滅してしまうと、再び親密な関係を取り戻します。奥底にある愛は消えずに残っているものです。
  死がもたらす変化の中で最大のものは、視野の拡大とそれに伴う心の広さです。理解力が増し、洞察力が深まって、かつてのさまざまな難問や誤解がたちどころに解けてしまいます。そして、ブルーアイランドからこの実在界へと歩を進めると、つまり地上生活にまつわる因縁を解消し、借金を払い終わると、本当の意味での自由の身となって、望み通りのことが許されます。
  それでも、この世界での目的は、あくまで“向上進化”です。それにもとるようなことをすると、たちまち自由が束縛されます。進歩を強要されるというのではありません。何をやってもいいのですが、地上時代の低俗な煩悩に動かされるようなことがあると、自動的に霊性が低下し、自由が束縛されるということです。高い世界にはそれなりの摂理があります。それを熟知し、それに則った生活を営まねばなりません。
  行動はまったく自由であり、地上界へ戻ってみることもできます。動きの速さはまさに電光石火で、2つの場所に同時に存在するのと同じくらいに素速く行動することができます。
  この実在界では、いかなる存在との間にも親和力を感じます。地上で人間どうしで感じる親近感よりはるかに親密です。その親和力がこの世界全体に光輝を生み出しています。この世界の大気に相当する雰囲気そのものが、明るく生き生きとした生命力にあふれているのです。
  ここでの生命活動は、壮麗という形容が相応しいでしょう。大胆になる、と言ってもよいでしょう。幸福感に満ちあふれております。しかし、そうした恩恵に浴することができるのは、地上で分別あるまともな生活を送った人間に限られます。無分別な生活、自己中心の欲望に駆られた人生を送った者は、死後、困難と苦悶と悲哀とが待ち受けております。
  げに、「蒔いたタネは自分で刈り取らねばならない」のです。
12章
12章  “無限”への旅の始まり   [TOP]

  あの悲劇的な海難事故で地上を去って以来、地上の時間にしてかなりの年数になりますが、その間、こうした形で絶え間なく、かつての自分の生活の場、そして愛する者が今なお生活している地上界との連絡を取り続けていても、もう一度地上へ再生して生活してみたいと思ったことは一度もありません。とくにブルーアイランドを卒業してこの実在界に来てからはそうです。
  ただ、今の私には、地上時代にはなかった新しい視力がありますから、地上に残した縁ある人々のしていることを見ていて、その間違いが明確に見て取れます。そんな時には、今すぐにでも地上に生まれ出て、直接諭してやりたい気持ちに駆られることはあります。
  が、そういう場合を除けば、地上生活をもう一度味わってみたいと思うことはありません。それよりも、こちらでの見学や見物の旅、仕事、研究の方がよほど興味があります。それによって得た知識は、地上時代の知識とは比べものになりません。その中から、皆さんにぜひ伝えたいと思うものを、こうしてお届けしているわけです。

  ブルーアイランドに来てからの足跡をたどってみると、その間の自分の進歩にはまずまずの満足感を覚えます。こちらへ来てまず心がけたことは、新しい環境への適応でした。何もかもが新しいのです。動作も意志の伝達も、みな違います。こちらでは言語を使ってしゃべることは、あまりありません。それよりもっと表現力に富んだ直接的な方法があるのです。精神と精神が直接に感応し合うのです。もっとも、地上と同じように言葉で話し合うことも、しようと思えばできます。
  その他にも、こちらの生活形態には勝手の違うことがたくさんありますが、一番ありがたく思うことは、物的な事情によって精神活動が制約されることがないということです。こちらでは、理に適ったものであれば何でも存分に叶えられます。真理や知識を得たいと思えば、即座に手に入ります。しかし、それだけに動機が間違っていれば、その報いも即座に降りかかってきて、その償いをしなければならなくなります。こちらでは“動機”がすべてなのです。
  あなたの今の霊性そのままがあなたの死後のあなたの姿と環境に反映します。死後にまとう霊的身体は、その地上生活の中でこしらえているのです。仕事の中身と思念の性質がこしらえるのです。
  一見したところ、こちらの世界は地上界と実によく似ています。鉱物も植物も動物も、その他ありとあらゆる形の生命が存在します。人間が可愛がっている動物、飼い馴らした動物はもちろん、野生の動物もいます。
  こう言うと、「じゃあ、地上界の写しのようなものですね」とおっしゃる人がいることでしょう。確かに、一見するとそう思いたくなりますが、実はその逆でして、地上界がこちらの世界の写しなのです。
  地上界は鍛錬を目的として設けられた世界です。物的な富を蓄えて贅を尽くして満足するのも結構ですが、それだけで終わってはいけません。自分の本当の個性を見極め、自制しながら発達させることを怠ってはいけません。地上特有の楽しさと喜びを味わうのは結構ですが、それに溺れて自分を失ってはいけません。
13章
13章  個人的存在の彼方へ   [TOP]

  とかく霊は万能の魔力を秘めていると想像されがちですが、私は相変わらず平凡な真理探究者にすぎません。“死”は私を少しも変えておりません。唯一の変化は、行動が(地上時代とは)比較にならないほど迅速になったことです。私は大いに若返りました。この事実だけは、時が経つにつれてますます明確になってまいります。
  地上の人間もそうですが、霊的存在となった私たちも、全知全能ではないということです。こちらへ来て、それがよく分かりました。
  地上でのあなたがたの心の姿勢がこちらでの意識レベルを決めることは、これまで何度も説明してきましたが、同じことがこちらへ来てからも言えます。つまり、現在の私の界層における心の姿勢が、やがて赴く界層での境遇を決めるのです。上昇するかも知れないし、下降するかも知れません。幸福感が増すかもしれないし、減るかも知れません。そしてまた、そこでの私の心の姿勢によって、さらに次の段階での境遇が決まるという具合なのです。
  幸いにして向上の一途をたどったとしましょう。霊性が進化するほど、内部の霊的属性と資質がますます発揮されて、いわば自給自足の生活の範囲が広がります。そうして向上していくうちに、ブルーアイランドで体験したのと同じ体験、すなわち過去を総合的に検討させられる段階に至ります。
  一人でするのではありません。ブルーアイランドの時も高級霊が付き添ってアドバイスをしてくれましたが、こんどはさらに高級な霊――神性を身につけた存在の立ち会いのもとに行なわれ、厳しい査定を受けます。
  その結果、もしかしたらもう一度地上に再生して、苦難の体験をした方がよいとの判断が下されるかも知れません。生まれ変わりの手続きはこの段階に至って行なわれるのです。この段階に至ったころは、かつての地上生活、いわゆる前世の細かいことは忘れているのが普通です。
■訳者注――ステッドと同時代に他界し、霊界から通信を送ってきた霊にフレデリック・マイヤースがいる。このマイヤースの通信は、浅野和三郎の抄訳『永遠の大道』と『個人的存在の彼方』として出版されている(潮文社から復刻版が出ている)。ここでステッドが言及している再生について、マイヤースは別の角度から同じことを述べているのである。その要点をまとめると――
  マイヤースの説の根幹をなすものは“類魂説”である。肉体に代々の親(先祖)がいるように、魂にも代々の親がいる。その魂の先祖が集まって類魂団を構成している。守護霊というのはその中の一人が指名を受けて責任を請け負ったものである。
  さて、その類魂団を構成する霊の数は50の場合もあれば100の場合もあり、それ以上の場合もある。それらが次々と物質界(地球ばかりとは限らない)に誕生してその体験を持ちかえる。死後しばらくの間(ブルーアイランドでの滞在期間)はその間の反省が主な課題となるが、その後さらに向上していくにつれて、類魂の存在に気づくようになる。しかも、自分以外の類魂の生活体験からも自分の成長を促進するものを摂取することができるようになる。それを可能にさせるものこそが“愛”であるという。
  その時の協調関係は想像を絶するほどの喜悦に満ちたものになるらしい。かつて地上で英国の学校の教師であった者、アメリカ人の商人だった者、日本人の僧侶だった者もいれば、難民の子として餓死した者、過ちを犯して獄につながれたことのある者もいるかも知れない。が、今はもうそれらの体験による魂の傷も癒え、償いも済ませて、全てが貴重な体験として仕舞い込まれていて、折にふれ、他の類魂の成長の精神的養分に供される。
  そうした協調関係による霊性の向上を続けていくうちに、どうしてももう一度物質界での試練を必要とすることを明確に自覚する段階に至ることがある。それがステッドのいう再生の選択である。そこに付き添ってアドバイスを与えてくれる高級霊というのは、類魂の中の先輩の一人である。
  その再生がいかなる原理のもとに行なわれるかを細かく教えてくれている通信はない。シルバーバーチ霊は「人間に教えてはならないことがいろいろとある」と述べているが、再生の原理もその秘密の一つなのであろう。
  最近、チャネリングとかいって、前世を読み取ったり、催眠術で本人に語らせたりする試みがなされているが、霊や自我の本性についての理解がまだまだ幼稚な今の段階で、証拠もなく益もなく、危険に満ちたことを試みるのは控えるべきだというのが、私個人の見解である。


  さて、再生の必要なしとの査定が下され、さらに一歩“進級”することを許された霊が突入していく世界は、それまでの“個”としての存在から“無”の存在となります。個性が消滅するという意味ではありません。個性はなくなりません。が、その影響力が他の“一人”ではなく、他の“全て”に及ぶことになるということです。つまり、普遍的絶対愛の世界です。
  以上はただ概略を述べただけです。進化の旅のおよその旅程を述べたにすぎません。たとえ詳しく述べたところで、地上の人間にはとても理解できませんし、正直言って、私自身にも完全な理解はできません。私もまだ物質界を旅立ってほんの少し霊界を見物したばかりです。ただ、実相の世界の美しさは十分に味わいました。それをお伝えしたくて戻ってきたわけです。
  虚相のすべてから解放された絶対的な実相の世界では、人間の想像を絶した創造の営みが続けられているのです。それは、虚相の世界にいる、かつての身内や友人を置き去りにして、自分だけ無上の幸福感に浸るということではありません。この宇宙に“別離”というものは生じないのです。果てしなく向上して行きながらも、物質界との接触がとぎれることはありません。
  個人的存在の次元を超えて“無”の世界に入っても、かつて縁のあった者とのつながりが切れるわけではありません。向上するほど愛の扉が開かれ、受け入れる間口が無限に広がり、ついには全てを受け入れる絶対愛の域に到達するのです。
おしまいに
おしまいに   [TOP]

  スピリチュアリズムという言葉はいろいろと誤解されており、中には反キリスト的な悪魔の仕業だと決めつける人もいます。そう考える人たちは、不幸にしてスピリチュアリズムのニセモノばかり見せられ、ホンモノを知らずに拒否反応を起こしているのです。
  スピリチュアリズムは反キリスト派による策謀ではありません。スピリチュアリズムの教えの中にはキリストが説いた教えの全てが含まれています。キリストは愛と寛容と助け合いの精神を第一に説きました。“ゴールデンルール(黄金律)”というのがそれです。
「何ごとも、人にせられんとおもうことは、人にもそのごとくせよ」
  キリストの教えが宗教倫理として最高のものであることは万人の認めるところです。スピリチュアリズムの霊的思想も、キリストの教えと同じ基盤に立っています。それもそのはずです。地球圏を支配しているのはキリストの霊であり、それが摂理となって作用しているからです。
  世界の宗教はその摂理を異なった角度から見て、それぞれの教理としているわけです。ある宗教で奨励していることを別の宗教で禁じていたりするのは、見る角度が異なるからです。そのどちらを取るかは、各自の判断力や理解力によって違ってくるわけです。その段階においてはそれでいいのです。真理の全てを網羅している宗教はありません。
  しかし、すべての道は究極的には一つの頂上につながっています。狭くて窮屈な道もあれば、脇道も、広くてゆったりとした道もあります。そして、天下の公道ともいうべきハイウェイもあります。スピリチュアリズムは神のハイウェイなのです。
■訳者注――シルバーバーチも「イエス・キリストをどう位置づけるべきか」との質問に、こう答えている。
  ‥‥まずイエスにまつわる数多くの間違った伝説を排除しなければなりません。歴史的事実から申しあげましょう。インスピレーションというものは、いつの時代にも変わらぬ「顕」と「幽」とをつなぐ通路です。人類の自我意識が芽生えはじめた当初から、人類の宿命の成就へ向けて大衆を指導する者への指導と援助とがインスピレーションの形で届けられてきました。
  地上の歴史には、預言者、聖人、指導者、先駆者、改革者、夢想家、賢者等々と呼ばれる大人物が数多く登場しますが、その全てが、内在する霊的な天賦の才を活用していたのです。霊の威力に反応して精神的高揚を体験し、その人を通じて無限の宝庫からの叡智が地上に注がれたのです。
  その一連の系譜の最後を飾ったのがイエスと呼ばれる人物です。ユダヤ人を両親として生まれ、天賦の霊能に素朴な弁舌を兼ね備え、ユダヤの大衆の中での使命を果たすことによって、人類の永い歴史に不滅の金字塔を残しました。地上の人間はイエスの真実の使命についてほとんど理解していません。わずかながら伝えられている記録も汚染されております。
  数々の出来事も、必ずしもありのままに記述はされておりません。増えつづけるイエスの信奉者を、権力者の都合のよい方向に誘導するために、教会や国家の政策上の必要性に合わせたねつ造と改ざんが施され、神話と民話を適当に取り入れることをしました。
  イエスは(神ではなく)人間でした。物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した、大霊能者でした。今日で言う心霊現象にも精通していました。
  イエスには使命がありました。それは当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせることでした。
  では、バイブルの記録はどの程度まで真実なのかということです。福音書の中には真実の記述もあります。たとえば、イエスがパレスチナで生活したのは本当です。低い階級の家に生まれた名もなき青年が、聖霊(背後霊団)の力ゆえに威厳をもって教えを説いたことも事実です。病人を霊的に治癒したことも事実です。心の邪な人間に取り憑いていた霊を追い出した話も本当です。
  しかし同時に、そうしたことが全て、霊的な自然法則に従って行なわれたものであることも事実です。自然法則を無視して発生したものは一つもありません。誰でも自然法則から逸脱することは絶対にできないからです。
  イエスは当時の聖職者階級から、自分たちの職権を侵す不届き者、社会の権威をないがしろにし、悪魔の声としか思えない教説を説く者として、敵視される身となりました。そして、彼らの奸計によって最後を遂げ、天界に帰ったあと、すぐに物質化して姿を現し、伝道中から見せていたものと同じ霊的法則を証明してみせました。
  臆病で小胆な弟子たちは、死んだと思っていた師の蘇りを見て、勇気を新たにしました。そのあとはご存じの通りです。一時はイエスの説いた真理が広がり始めますが、またしても聖職権を振り回す者たちによって、その真理が虚偽の下敷きにされて埋もれてしまいました。のちに二千年近くにわたって説かれる新しいキリスト教が生まれました。それはもはやイエスの教えではありません。
  以上、おおまかにキリスト教誕生の経緯を述べましたのは、イエス・キリストを私がどう位置づけるかとのご質問に答える上で必要だったからです。ある人はイエスをゴッド(神)と同じ位に置いています。それは、宇宙の創造主、大自然を生み出した想像を絶するエネルギーと、二千年前にパレスチナで30年ばかりの短い生涯を送った一個の人間とを区別しないことになり、明らかに間違っています。
  では、どう評価したらいいのか。人間としての生き方の偉大な模範、偉大なる師、人間でありながら神のごとき存在、ということです。霊力のすごさを見せつけると同時に、人生の大原則――愛と思いやりと奉仕という基本原理を強調しました。それはいつの時代にも神の使徒によって強調されてきたことです。
  霊的に見れば、イエスは地上人類の指導者の長い霊的系譜の最後を飾る人物、それまでのどの霊覚者にもまして大きな霊力を顕現させた存在です。だからといって私どもは、イエスという人物を崇拝の対象とするつもりはありません。イエスが地上に遺した功績を誇りに思うだけです。
  イエスはその後も私たちの世界に存在し続けております。イエスから直々の激励にあずかることもあります。ナザレのイエスが手がけた仕事の延長ともいうべきこの大事業(スピリチュアリズム)の総指揮に当たっておられるのが、ほかならぬイエスであることも知っています。そして、当時のイエスと同じように、当時の聖職者と同じ精神構造の人たちからの敵対行為に遭遇しています。
  しかし、スピリチュアリズムはきっと成功するでしょうし、また、ぜひとも成功させねばなりません。
  イエスを真実の視点から捉えなくてはなりません。すなわち、イエスも一人間であり、霊の道具であり、神の僕であったということです。あなたもイエスのなせる業のすべてを、あるいはそれ以上のことを、なそうと思えばなし得るのです。そうすることによって、真理の光と悟りの道へ人類を導いてきた幾多の霊能者と同じ霊力を発揮することになるのです。


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