心と食物と人相と

     
  [HOME] > [SPACE NAVIGATOR] > [Bookstand] >  [食べ物]       

心と食物と人相と 

谷口雅春・著  日本教文社  1982年刊
  谷口雅春氏(故人)の著書は非常にたくさんありますが、代表的なのは『生命の實相』全40巻でしょう。合計で1,000万部以上が出版されていると言われています。私も30年ほど前に全巻購入し、何度も目を通しました。自ら「実相哲学」と称しておられるとおり、非常にレベルの高い哲学書となっています。ぜひ一読をお勧めしたい本です。
  しかしながら、谷口氏は宗教団体「生長の家」の創始者ですので、これまで当サイトでの紹介は見合わせてきました。私自身、いかなる宗教団体にも身を置いたことはなく、また特定の団体を推奨するものではありませんので、誤解を受けて色眼鏡で見られることを避ける意味もあったのです。
  今回あえてご紹介することにいたしましたのは、この本が「食物」だけにテーマを絞って書かれているからです。それも健康問題だけでなく、人相学の視点からも述べられていて、氏の造詣の深さがうかがえる内容となっています。今回は「健康」に関する部分だけを拾ってみましたが、中でも「植物はなぜ食べてもよいのか」という説明は大変説得力があると思います。ご一読ください。                   (なわ・ふみひと)

 一切衆生ことごとく仏性あり


  牛を屠殺場に曳いて行くときには、牛も涙をこぼすということを聞いたことがある。私は『生命の實相』の中でアメリカの屠牛場の悲惨な光景を書き、トルストイの菜食論を紹介した。これを読む人がひとりでも多く、肉食の残虐行為から遠離(おんり)せられんことを希望したからである。
  仏教は因果を説き、殺生を十不善の第一戒においている。そして、原因あれば結果は循環してくることを説く。殺す者は殺されるのである。人類が動物食を続行して、殺生という悪徳の上に人類だけが繁栄しようと思って、いくら平和論を説いても、それは自己の殺生欲をくらますごまかしに過ぎない。本当に平和を欲するならば、肉食という殺生欲をやめることから始めなければならないのである。

 肉食に蝕まれつつある日本人

  近ごろ、日本人の気性が戦闘的になりつつあることは否定できない。それは学生騒動を見ても、賃上げ闘争にしても、自分の利益のため、または主張を通すためには、周囲の人々や、国民全体にどんな迷惑をかけてもかまわないという。その戦闘的行為とその内面的精神とは、日本人の食生活が変わり、肉食度が増加した結果であろう。
  動物食には、動物が殺される時の恐怖や怨恨や憤怒の感情が毒性のホルモンとして、その死骸の中に含まれているので、それを食する人間に闘争の本能をかき立てる毒素が移入されるのである。
  この毒素は肝臓によって無毒化されるしくみになっているのだけれど、あまりにもその毒素の量が多くなると、肝臓は処理不能となり、その結果その人間は肉食動物のように短気になり、ささいなことで興奮して、相手を傷つけても平気であるような気質が養われるのである。

 “平和運動”と称して闘う人たち

  「平和」「平和」と、平和を愛する標語をプラカードに掲げながら、その標語とはうらはらに闘争的にならざるにはおられない“気質の荒れ”は、日本人が肉食に変化して来て、ホルモンの成分に異常を来たしつつある結果だというほかはない。
  性欲の異常な興奮も、肉食から来るのである。性の倒錯化が到るところに起こって、有夫の女性の姦通はもちろん、妻子ある男だと知りながら平気で交際するのを不道徳だと思わないような世相は、肉食の増加からくるものである。なぜなら、肉の中に性欲を興奮せしめる性ホルモンを生産させるコレステリンが多量に含まれているからである。
  古来、修行中の僧侶は性生活を清浄にし、煩悩にわずらわされないように菜食と穀食とを主としており、肉食をして山門に入らないようにした。それは肉食が殺生であるからとの理由もあるが、罪を犯す結果を招きやすい性欲の興奮を避けるための自然の知恵でもあった。
  植物性食物は血液を清浄にし、心に平和と静謐(せいひつ)とを与え、戦闘の心を鎮め、真理を悟得するために適当な心的状態を与えるからである。

 肉食生活を続ける限り世界に平和は来たらず

  アメリカで、立派な宗教家で尊敬に値する地位にある米人と会食をしたことがある。その米人が、鶏肉の大腿部から突き出ている骨を指先で握りながら、その肉を貪り食っている姿を見た時に、平和を唱えながら日本に原爆を落とし、ベトナムで多くの血を流していた米人の性格の原因を見たような気がした。

  日本人の食生活がだんだんアメリカ化して肉食偏重に傾きつつあるが、内臓の中まで侵入してきて血液を、そして精神をも肉食獣化しつつある外来毒素をどうするつもりだろうか。その米国的食生活を追放しなければ、精神までも「大和(だいわ)」から「好戦的」に変えてしまうだろう。
  最近では、幼児殺人や親殺し、あるいは無差別殺人など、貴重な人の命を簡単に奪い去る凶悪な犯罪が相次いでいるが、彼らはあとに遺された家族のことや、その悲しみは思わないに違いない。彼らはそのようなことを思う前に、自己の快楽と生存のことで頭がいっぱいであるらしい。それは、牛殺しが牛の悲しい運命を思う前に、自己の快楽と糊口(生計)のことを思い、牛の肉を喰らう人間が、ただうまいうまいと舌鼓をうつだけで、殺される牛のうめき声や、悲痛な思いに関しては無頓着であることと相通じる。
  この二つの心の間に一条の連絡を見出すまいとがんばるのは、それは人間の我欲であるという他はあるまい。人類はあまりにも懺悔がなさすぎるのである。人類は過去幾世紀にもわたって、あまりにも多くの殺さずともすむ生命を犠牲に供し続けてきた。
  ‥‥牛や鶏の生命くらいどうでもいいではないかと反発を感じている人もいるだろうが、彼らもまた、人類は大きな業の波によって動かされていることを知らないのである。殺す者は殺され、奪う者は奪われ、与える者は与えられ、人を喜ばす者は喜ばされ、愛する者は愛されるということを――。

  この「殺す」ということがよくないことは、およそ全ての人が肯定していることである。釈尊の説かれた十善の徳も「不殺生」ということから始まっているし、モーゼの十戒も「殺すなかれ」ということから始まっている。
  殺生はあらゆる悪徳の根元になっている根本犯罪というべきものである。したがって、だれでも「殺す」ということがよくないことは自明の真理として承認している。
  平和運動で「戦争反対」ということが叫ばれているのも、結局は「殺してはならない」という自明の公理が含まれているからである。しかし、そうやって戦争反対がいくら叫ばれても、実際はソ連(現ロシア)もアメリカも軍備拡張をやっている。それはなぜであろうか。
  われわれの世界は大いなる業の波によって動かされている。この世界は、「動・反動の法則」によって支配されていて、常に行為が循環する。与えれば与えられるし、殺せば殺されるということになっているのである。

 因果の法則は撥無(=排斥)できない

  この「動・反動の法則」は厳然として常に因果の世界を支配しているから、我々が生物を殺すことを何とも思わないというような気持ちで、生物を殺して食べるということを実行すると、それは広範な意味における「殺される状態」というものがそこに現れてくるのである。かならずマイナスの報復が循環して、その報復がある姿をなして現れてくるということになる。これを因縁因果の法則ともいい、業の法則とも、原因結果の法則とも、心の法則ともいうのである。

 心で是認した業は一層ハッキリ循環する

  もっとも、この心の法則というものは、知らずして殺人したとか、過って人を殺したというような、心において殺人を意図しない場合には、あまり「報復」というものがめぐってこないのである。
  なぜなら、この世界の原因結果の法則を動かしているものは心の力だからである。心そのものが殺人を意識して、それを肯定して意識的にその殺生を是認している場合は、その業の循環がいっそうハッキリ現れてくる。それは心によってその行為が支えられ、循環させられるからである。
  動物を食物として食べる場合にも、「殺すのは当たり前だ」というような是認的な意見をもって食べないで、「ああすまない」と懺悔しながら食べるときには、業の循環の程度がそれだけ少なくなるということが、心の法則の上からいうことができるのである。

 懺悔はなぜ必要か

  懺悔の心を起こして、「自分は殺したくないのだけれども、やむを得ない。ああ、すまない」と思って食べる。その殺生によって支えられている生命であるから、何とか他のためになるように生かさねば、という心を起こすのが懺悔である。
  自分一人で生活しているのであったら、自分だけは動物を殺さないでも生きられるけれども、家庭生活をしていると、自分だけが植物食ばかりを食べようと思っても、親や家族から「そんなことしたら身体が衰弱する」とか、「痩せて病気になる」と言われたりする。
  そうすると、これは周囲の人の愛念を生かさなければならないし、特別に自分のために料理の苦労をかけるのも申しわけがないということで、肉食することを心のうちで懺悔し、あやまりつつ、料理をしてくださった食物を感謝して食べるということは許されてもよいのである。
  この場合は、「殺す」ということを是認する心で食べるのではなく、やむを得ずあやまりながら、肉食を否定しつつ食べるのであるから、業が形に現れることを否定することになるのである。
  自分のやっていることを罪悪と思わないで、それを肯定しつつ食べるという場合には、その業が「肯定する心」に支えられて強力に形に現れてくるということは、病気が起こったり治ったりする実例によってよくわかるのである。

 口先だけの懺悔では効果はない

  もっとも、懺悔すれば業が消えるからというので、口先だけで「すまなかった」と言えば、どれだけ肉食しても殺生してもよいと、肉食や殺生を肯定する心になってしまっては、「すまない」というのはただの「呪文」であって、実際は心の中で肉食を肯定しているのだから、やはり殺生の業は循環することになるのである。
  さらに必要なのは、あまやると同時に、まあ魚でも牛でも、とにかく我々の食物となるために犠牲になって下さったことに対する感謝の念をともなって食することが大切である。そのことによって、その牛や魚の霊魂が冥福を得るということになる。そして、その犠牲を通して生かされている自分の生命であるから、人類のために必ず貢献しようと努力することである。そうすると、間接的にその牛や魚の霊魂が善業を積んでいることになり、その霊魂たちの冥福に寄与することになる。
  そういうわけで、釈尊も、本来、僧たる者は動物を食しないのだけれども、供養された食物である場合には、それを殺生とみないで、そこに「供養の愛念」をみて、仏の慈悲というものが食物としてそこに姿を現しているものだとして、拝んでいただくということを許されたのである。

 植物も生きているから、殺して食べるのは残酷だとの説に対して

  ところで、こうして植物食のみを勧めると、米だって生きているではないか、野菜だって生きているではないかとの反駁もあれば、植物が人間の苦しむように切られて痛いと感じ、殺されるとことを悩むと考えるのは、人間が勝手に自分の感情を植物に移入して想像するにすぎないという駁論もある。
  我々は動物が苦しんでいるのを見るのと同じようには、植物が切られているのを考えることはできない。植物も生きているから植物を殺して食べるのもやっぱり殺生ではないかと考える人があるけれども、植物というものには個々別々に霊魂がないのである。植物には「種族の魂」というものがあるけれども、一個一個の米粒なる「米粒一個」に魂があるかというと、そうではない。米種族には「米種族」の魂というのがあって、全体が繁栄すればよいのであって、一個一個に魂(個別的魂)というものはないのである。
  それで、植物は自分の種族を維持するために、その中の一部分が犠牲(というと変だが)になるように、最初からその生命が計画している。米は、穫れたもの全部が自然に落ちて発芽したら密生しすぎて、肥料分や日光の奪い合いをして、どの稲の株も実らなくなる。そこでその稲は自分の種子を適当な間隔をおいて蒔かなければならないが、植物というものは自分で自分の種子を適当な間隔に蒔くことはできないものだから、それを動物なり人間なりに頼まなければならない。
  稲に限らず、すべての植物は自分で自分の生えている位置を適当に移動することはできない。しかし移動しない限りは、彼らは自己の種族を繁殖させることはできない。そこで彼らは動物なり人間なりの餌になるものや鑑賞し得るものを提供して、「種族を繁殖し保持するために果実の一部分、または種子の一部分を運搬費にあげるから持って行って食べてくれ、その代わりに必ずその一部分は蒔いてくれ」と頼んでいるのである。
  それはその種族の魂が頼んでいるのであって、一個一個の果物や穀粒が言っているのではない。果物や穀粒の一個一個は殺されても、その植物の種族が繁殖すれば、別に殺されたのじゃないということになっているのである。
  たとえば蜜柑なら蜜柑が、まだ未熟であって採取して蒔いてもダメな時は、食べてはいかんと、その果実をわざと緑の葉と同じような色にさせており、もし過ってちぎって食べても酸っぱかったり、不味かったりして、とても食べられないようにしてあって、未熟のうちには二度と食べまいと決心するように工夫している。
  ところが、いよいよ適当な時がきて、果実を食べてもらって、種子をどこかへ蒔いてもらいたいという時期がくると、その「種子蒔き賃」に美味しいものをやるからと、果実の中に美味しい味わいを貯え、「ここに、こんなご馳走がありますよ」と言わんばかりに目立つような美しい色彩をつけて、動物なり人間なりを誘うようになっているのである。
  この事実を見ても、植物の果実や種子としての穀物は食べてもらうということが彼ら自身の意志である。だから、それは「殺す」のではないということになる。

 魚を食用にする場合には

  けれども、魚になると事情が大分ちがう。魚を捕るという場合に、魚はきっと逃げる。彼らが「どうぞ食べてくれ」と言って口に入ってくるならそれは平気で食べても彼ら自身の自由意志を満足させるのだから罪悪ではない。けれども、魚は殺されることを嫌って逃げる。そういう逃げるものを追って、つかまえ、殺して食べるということは、愛にそむくことである。だから、愛深き人は魚をすらことさらに食すべきではないと考えられるのである。
  しかし、ここに自然の調節の問題がある。魚などは一尾が何十万という産卵をする。なぜそんなに多く産卵をするかというと、その大部分は稚魚の間に同類相食んで大量に殺されるのが勘定に入っているからである。
  したがって、稚魚の間には痛覚神経が発達していない。痛覚のないものは、それを殺して食べても残忍でないという理論も成り立つ。それは、我々の髪の毛や爪の場合でも判る。
  魚の種族を繁殖させてやりながら、種族の意志を尊重し、何十万も孵化する稚魚が一定の大きさに達したときにそれを捕獲して食べることにして、大きく成長して死を恐れ、痛みを強く感じるようになってから捕獲して食べることは差し控えるほうがよいのである。
  しかし、この場合も「殺してもよい」という意味ではなく、稚魚のときは比較的残忍性が乏しいから、やむを得ずそういう魚肉を食べなければ栄養にならぬというような信念しかない人は、次善のはからいとして、そういうものを食べるほうが増しであるというに過ぎない。

[TOP]