黙示録

     
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魂世紀

神界からの波動
田岡満・著  学研  1989年刊
  まず、あなたが考えられるかぎり大きな空間を想像してもらいたい。目をつぶってイメージすると、宇宙空間にぽっかり浮かんだ地球が見えてくる。その地球からどんどんイメージを引いていくと、太陽系全体がスッポリおさまる宇宙空間が見えてくる。
  更に視点を引いていって、数かぎりない太陽系を含む銀河系へ、次にその銀河系の無数の集合体としての全宇宙へとイメージを膨らませていったあたりで、われわれは巨大さの限界につきあたるだろう。心の世界――心界とは、この巨大宇宙に匹敵するような超巨大な球体空間だとイメージしてほしい。
  われわれは、だれ一人として例外なく、こうした広大無辺の心の空間につながっている。その広さ、果てしなさは、何十回何百回となく生き変わり死に変わりしても、歩き通せるものではない。心の世界=心界を、心のレベルで動き回るかぎり、この世界は実質的に無限の広さを持つといえる。
  この心界は、人間を含めたあらゆる生物の心が、四次元世界に投射投影されてできあがっており、もちろんあなたの心も投射投影されている。

  この心界は、目に見える世界(現界=物質世界=三次元世界)とは別個の世界であり、ふたつの世界は、それぞれの世界固有のルールにのっとって存在している。とはいっても、完全に独立した別々の世界かというと、そうともいえない。お互いが相手の空間に溶け込むような形で重なりあって存在しているからだ。
  そのため、神界と物質界は、しばしば相互に影響しあう。心に思い描いたことが現実の現象となって生じるのも、ただのモノに人間や動物などの思いが乗りうつるのも、この心界と物質界が相互に重なりあっているために起こる現象の一部なのだ。
  昔から、名人のつくった刀剣や工芸品、彫刻などには魂が宿っているというが、あれは作り手の思いが心界に投射投影されて、心界中にホログラム像のような刀剣なり工芸品なりが発生し、それが物質界の刀剣なら刀剣と重なりあうために起こる。
  実際、霊的感受性の強い人が見ると、そうした刀剣や工芸品などから発している作り手の念の気が見える。
  刀剣を例にしていえば、刀を鍛えているときの刀鍛冶の想念が邪悪なら邪剣になりうるし、正しく敬虔な想念がうつり込めば破邪顕正の剣になるわけだ。
  こうした現象は、心界と物質界が溶けるようにして重なっているからこそ起こるのであって、超常現象の多くは、こうしたわれわれの住む世界そのものの成り立ちから必然的に生じてくる現象であり、決して奇跡でもなければ不思議でも驚異でもない。念の物質化現象、その逆の物質から発せられる念の現象も、ほとんどはこのケースなのだ。

  さて、今述べたように、われわれは心界(四次元界)と物質界(三次元界)が重なりあった世界に生きている。この、相互に重なりあった全体を包括したより大きな世界が、ひとつにまとまった世界として存在している。これを私は「四次元連動帯」と呼んでいる。
  この四次元連動帯は、広大無辺の物質宇宙と広大無辺な心界をその内に含んだ、超巨大な空間である。その中には、あらゆる物質的・物理的現象が含まれる。と同時に、あらゆる心の働きから生じる現象が含まれる。思考や感情といったものはもちろんのこと、輪廻による前生の徳や業、因縁なども、すべてがこの四次元連動帯に属している。

 物質的現象と心的現象   [TOP]

  四次元連動帯は、それだけでひとつのまとまった世界を形づくっているが、決して独立した世界ではない。この世界そのものが、より高次元の世界と連動しており、やはり相互に重なりあうようにして投射投影しあっている。霊界はそうした高次元空間のひとつだが、今はもう少し四次元連動帯についての知識を深めていくことにしよう。
  科学は三次元世界を扱う。中でも古典科学は、完全に三次元世界用の学問として発展してきた。三次元世界――つまり物質界で起こる現象を最も破綻なく説明するために組み立てられた「考え方の枠組」が古典科学だということを、われわれはまず、しっかり銘記しておかねばならない。
  三次元で起こる現象を、普遍的、かつ客観的に説明するために、科学は「心」という要素を可能なかぎり排除してきた。期待や反発などの感情、主観などといった「心」に由来する要素を排除することで、科学者は純粋な客観性を得られるものと、19世紀までは思い込んでいた。しかし、こうした考え方は、20世紀に至るともろくも崩れ去った。どういうことかというと、科学の生命線である観察・実験系の中に、どうしても「心」に由来する要素が混入してくるらしいと気づき始めたからである。
  このことに気づき、科学の枠組の中で「心」という要素をどう扱うかという問題が、今日盛んに議論されている。その議論は、わかりやすくいうと、「物質的な現象に心が影響を及ぼすか否か、及ぼすとしたら、それを科学の枠組でとらえられるか(数量化できるか)否か」といったことになるだろう。
  科学というのは、だれがいつどこでやっても、同じ実験からは同じ結果が導き出せるということを前提にして成り立っている。ところが、たとえば統計の科学では、統計をとる人の思い(意識)によって、統計データの数字が変わるという現象が実際に起こることが確認されている。量子力学という、20世紀を拓いた科学のトップの頭脳が、ひょっとしたら物質的な現象に人間の意識が影響を及ぼしているのではないかなどと言いだしている。(中略)
  これに関連して、余談にはなるが、ひとつおもしろいエピソードを紹介しておく。
  私の友人に内海康満氏という天才がいる。彼は、仙骨にエネルギーを注ぎこんで肉体を治療する独特の療法を創出した人物だが、その彼の師で、日本でも屈指の霊能者といっていい竹内満朋翁のエピソードだ。
  あるとき内海氏は、満朋翁に、実におもしろいものを見せられた。気合一閃、エイとばかりに翁が自らの腕を壁に突き入れると、翁の腕は、まるで雲か霞の中にさしこまれたかのように、スーッと壁の中に吸い込まれてしまったというのである。
  こんな話を書くと、ほとんどの人は「そんな非科学的な」と眉に唾をつけるだろう。また、目の前でそれを見せられたら、腰が抜けるほど驚き、自分の科学的常識と眼前の事実のはざまで立ち往生することだろう。
  ところが内海氏は、さして驚かなかった。そんな弟子の姿を見て、翁はにこやかに、こんな話をしてくれたという。
  「今まで、これを見て驚かなかった人は二人しかいない。一人は君だ。もう一人はだれだと思う? あのノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士だ。湯川さんは、ごらんになったあと、平然と“うん、ありえます”とおっしゃった」(中略)

  人類がこうした方向に思考を進化させてきたのは、ある意味では当然のことなのだ。というのも、われわれは四次元連動帯という、心界と物質界が重なりあった世界に生きているのだから、そのうちの一方を無視してこの世界のことを考え、説明しようとしても説明しきれるものではないことは、子供でも分かる理屈だからだ。

 魂の領域   [TOP]

  さて、この四次元連動帯は、人間の想像力を超えた超巨大な空間なのだが、それを細かく見ていくと、無数の小空間がその中に含まれていることに気づく。
  私は内観体験以後、そうした小空間を次々と渡り歩いた。それがいかに苦しい作業だったかは、すでに書いたので再述しないが、そうした小空間は、いわぱその小空間固有の波動で自足しており、自分がその空間と同じ波動を発しているかぎり、そこからは出られないという共通の特性を持っている。
  その小空間――ただし、「小」といっても想像を超えた大きさをもっているので誤解しないでいただきたい――が、どんな世界かというと、それは「思い」の世界といっていい。 人間であれ獣であれ虫であれ植物であれ、生物の発した思いは、似たもの同士、波動が引き合うもの同士が寄り集まって収束し、四次元空間に投射されて、そこに「思い」の世界をつくりだす。呪いの念は呪いの世界を、怒りの念は怒りの世界を、快楽の念は快楽の世界を、「心界」内につくりあげる。
  この実相を、完全に見極め、後世人に教えて解脱した人類最大の偉人の一人が釈迦である。
  釈迦はこの心界の構造や法則を完全に悟り、その悟りの内容を当時の人々にわかるような言葉で「六道輪廻の世界」と表現した。六道とは地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天界を指す。人間が心のレベルにとどまっているかぎり、未来永劫、この六道の中をグルグル輪廻して回りますよということを釈迦は教えた。そして、この六道輪廻から抜け出す方法がある。抜け出せるのだということを強調した。ここに釈迦の偉大さがある。

   六道 地獄(死者の境涯のうちでも最底辺の苦報の状態)。餓鬼(貪欲の状態。
     決してみたされない状態)。畜生(鳥獣虫魚の姿に変えられた状態)。修羅(万
     事を競争・闘争としか見れない状態)。人間(六道のすべてを含む状態)。天(最
     も苦痛の少ない安楽の状態)


  これまで私は、心界についての評価を一切書いてこなかったが、実は心界は乗り越えなければならない世界、そこにとどまってはいけない世界なのだ。
  とはいっても、心界が不要だというのではない。心界がなければ、われわれはその奥にある魂の世界に至ることができない。その意味では心界は必要であり、それなしには、われわれは真理に到達することはできないのだが、けれどもひとたび魂と出会ったのちには、心界はもう迷いの世界、無用の長物の世界でしかないともいえるということを知っておいていただきたいのだ。
  心にとらわれ、心がつくりだした空間の中をさまよい歩くことで、人類はどれほど深く悩み、迷い、恐れ、妄想し、生命エネルギーを無駄に費やしてきたことだろう。そうしたエネルギー(念)によってできあがった心界という空間が、今や全宇宙に匹敵するほどの巨大さに成長しているという一事だけでも、われわれがロスしてきたエネルギーの量のすさまじさは感じっていただけるに違いない。
  心はわれわれの主人でも本体でもない。このことをはっきりと悟らないかぎり、その人は釈迦のいう六道輪廻の世界に永遠にとどまることになる。
  私は内観の果てに、はからずも心の空間の外に立った。(中略)

  私はその空間を「素(す)の空間」と呼んでいるが、この空間に立ち、そこからふたたびもとの肉体世界に帰ってきたとき、ひとつの悟りが生まれた。こうした体験をふまえたうえで、私は人間というものがどのようにできているかを理解した。それをイメージでたとえると次のようになる。

  第一に私の肉体身がある。その肉体身と重なりあうようにして、もう一人の自分が内部にいる。さらにその奥に、この両者を見つめている私がある。ここまでは、どんな超能力者や心霊科学者も、一致してそう書いている。
  欧米では肉体身に重なるもう一人の自分を「エーテル体」、その奥で肉体とエーテル体を見つめている私を「アストラル体」と呼ぶことが多い。
  大切なのは、この三つの体を、まったく違った位置から見つめてる四番目の私なのだ。
  前の三者は、ビルにたとえるなら、同じビル内で高さの違う1階、2階、3階に住んでいる。しかし4番目の私は、このビルの外の空中にいるのである。
 肉体身は、いうまでもなくこの「物質界」に位置している。2番目と3番目の私は「心界」に位置している。(中略)

  われわれが真に知らなければならないのは「4番目の私」である。「第一の私」は現界に、「第二と第三の私」は心界にいた。しかし「第四の私」は、心界の外側の空間にいる。そしてそここそが、魂の領域なのだ。魂があって初めて、第一から第三までの私というものが存在する。われわれの本質は魂にある。その魂が立っている空間――それが「素の空間」なのである。

 神聖にして邪悪な魂   [TOP]

  この魂が、われわれの生きている現界では、心と密接した状態でくっついている。そのため、心によって引き寄せられ、あるいはつくりだされた汚れが、いうなれば魂に付着してしまう。
  こう書くと、すべては心が元凶というように勘違いされてしまいそうだが、そうではない。心がさまざまな汚れを引き寄せるのは、魂がもともとそういうものだからにほかならない。(中略)
  魂は、それ自体、神聖であると同時に邪悪なものなのだ。だからこそ、魂はその本性に従って汚れを引きつける。いくらきれいに汚れを落としてもすぐ汚れてしまう。魂にもともと邪悪があるから、人間の邪悪に感応して、それを引きつけてしまうのだ。
  けれども魂は、同時に神聖なもの、純粋無垢なものも引き寄せる。だから、魂内にあって相反する2つの本質――神聖さと邪悪さの均衡がとれていれば、汚れが積もり積もっていくことはない。ところがこの均衡が崩れ、邪悪に傾くと大変なことが起こる。六道輪廻するとか、地獄で苦しむとかいった生やさしいことではない。

 守護霊の実相   [TOP]

  われわれには、みな守護霊がついていて、われわれを守っているのは本当である。私は守護霊からいろいろな教えを受けてきたし、また、私の進化の度合いに応じて、担当する守護霊が変わることも体験を通じて知ることができた。守護霊の存在は、絶対に否定できるものではない。
  守護霊は、原則的には一人に一体だが、複数の場合もある。厳密にいえば、その霊体は霊界と現界との間の空間――いわば3.5次元の世界に属しており、人間の潜在意識を通じて活動している。この守護霊を「第一守護霊」といい、それ以外の守護霊は霊界で活動している。守護される人間の置かれている状況、進歩の度合いに応じて、守護霊は入れ替わる。

  何のために守護霊が存在するのかという点については、一般には「その人を守り、その人の進化を助けるため」と説明されているが、この説明は、実はかなり不十分なものだ。それはいくつかの本質的に重要なポイントを見落としているからだ。
  守護霊はまるで慈善事業か奉仕活動をやっているような印象を受ける。事実そう受け止めている人もいるし、そのへんを曖昧にしたまま、「高い霊性の持ち主は自分を犠牲にしても人のために尽くすものだ」などと手前勝手に納得している人いる。しかし事実は異なる。このへんを曖昧なままにしておくと、守護霊への甘えが生じる。甘えはその人のためにも、守護霊のためにも最悪の結果を招くので、事実関係をはっきりさせておきたい。
  まず第一に、守護霊は守護霊自身のために、自らの魂を磨きだし、守るために守護しているのであって、決してお人好しに慈善事業をやっているわけではない。
  守護霊の守護は徹底している。最善を尽くして、その人を守ろうと働いている。守られる側が気づこうが気づくまいが、あるいは否定しようが甘えようが、可能なかぎり守ろうとし、導こうとしている。世間一般の霊能者は、守護霊は肩にいるなどと言っているが、それは正解とはいえない。きちんと次元差まで見通せる霊能者には、守護霊がその人の足元で必死に本人を支えているのが見えるだろう。
  霊界と現界との一般的なルールからいえば、守護される側の人間が守ろうとする霊界人を否定したり拒否したら、霊界人は、いくらその人を守りたくても守れないものなのだ。
  たとえば私は、ずいぶん妻の霊に助けられ、教えられてここまできたが、妻が私をフォローすることができたのは、まず一番最初に妻が夢で「私が生まれ変わっても、あなたのおそばに置いてくださいますか」とたずね、私が「いいよ」と答えたからなのだ。
  このとき私が「いやだ」と答えたら、その時点で、霊界籍の妻は、いくら手を貸したくても現界人の私には手を貸すことができなかったのだ。それが法則なのである。
  同じように、たとえばだれか知人が地獄で苦しんでいる。見るに忍びないからといって、本人が助けてくれとも言っていないのに、勝手に助けることはできない。あくまで本人の承諾がなければ助けられない。
  だから、霊界側の救済というのは、「助けてやる」ではなく、「助けさせていただく」という法則で、徹底して貫かれているのである。
  ところが、守護霊だけは、同じ霊界に籍を置きながら、守護される側の人間が「守護霊なんているものか」と思おうと、「守護などしてもらわなくとも結構」と思おうと、人間の想いとは無関係に、必死で助ける。そして、助けることが許されている。
  それはなぜか?
  つまり守護霊とは、過去のあなたであり、同じ魂の投射投影の一部だからなのだ。
  あなたと、3.5次元で活動している第一守護霊、さらにはその後ろの守護霊、そして、その他のあなたのすべての前生の霊たちは、肉体人間であるあなたと、絶対に断ち切ることのできない1本のラインで、みごとにつながっている。
  小学生のころ、整列する際に行なった「前へならえ!」を思い出してほしい。あなたの背後には、守護霊を含めた過去すべての前生のあなたが、1本の線になって連なっているのである!
  そして、前生のあなたたちは、自らが犯してきた過ち、もろもろの罪汚れを、ラインの先端にいるあなたにきれいにしてもらいたいと、せつないほどの真剣さで切望している。自分たちが到達できなかった悟りのレベルに到達してほしいと、狂おしいほどに待ち望んでいる。
  だからこそ、それらあなたのすべての前生を代表して、守護霊は全霊をあげてあなたを守護し、導こうとするのだ。必死なのだ。なぜなら、一番先端にいるあなたが気づけば、前生の全員が救われるからである。(中略)
   だからこそ守護霊は、足元で、最底辺で、これ以上下はないというぎりぎりのポジションにあえて立って、われわれを守護してくれているのである。その働きのありがたさ、切なさを、われわれは本当に、腹の底から知り、感謝し、そしてふるいたたなければ嘘なのである。

 神類と人類との距離   [TOP]

  私個人としていえば、今の自分を十全に生かし切ること以外、本当の意味での仕事というものはない。人はだれでも、自分を生かし切るということ以上に重要なテーマは持っていない。この世に生を受けたのは、他のだれのためでもなく、自分のため、自分自身を百パーセント使い切り、生かし切るためだ。決して罪滅ぼしのためでも、特定の神仏や教祖に奉仕するためでもない。(中略)

  このことをまずお断りしておいたうえで、私は次に今までだれ一人として気づかず、だれ一人として語ってこなかった、ある恐ろしい事実についてお話ししなければならない。
  今まで私は、異次元空間について、いろいろな角度からお話ししてきた。それらすべての異次元空間をひと言で言い表すなら、人間を含めた全生命体の超巨大な活動フィールドということになる。物質宇宙、心的宇宙、霊的宇宙の総体が、われわれの舞台であり、われわれに関わりをもった空間なのだ。
  ところが、こうしたわれわれの空間とはまったく別個に、独立している空間というものが存在する。それが「神界」なのだ。
  以下の点をはっきりふまえてほしい。
  神界は、われわれがこの世および死後の世界で関係する一切の世界とはまったく隔絶した、自足した完全世界であって、われわれの存在とは無関係に実在する。神界に住む人々を、仮に神類と呼ぶなら、神類は、われわれの前に現れることもなければ、通信してくることも、まずない。人類と神類とでは、あらゆる点でレベルが極端に違いすぎ、語ることはおろか、姿を見ることも、否、想像することも不可能なのだ。
  仮に人間を1ミリの十万分の1程度の大きさしかないウイルスにたとえ、神類を人間に見立たてて考えたら、両者の隔絶の度合いが少しはイメージできるかもしれない。(中略)

  神という名のもとに現界に現れてくるのは、ほぼすべてが霊界人か自然霊である。中でも、高級霊界中の龍神界に魂の本籍を置く龍神系神類は、古来しばしば現界に登場している。また、地球外生命体――いわゆる宇宙人を、人類が神とあがめるケースもある。
  いずれにせよ、神と名のり、あるいは人間が勝手に神と呼んでいるこれら異次元の住人は、先に述べた神界の神類とは全く違うということをしってもらいたい。

 輪廻の法も滅びる!   [TOP]

  では、これほどかけ離れた神類と人類との接点はないのかというと、そうではない。接点はある。私は内観の果てで、それと出会った。
  魂――これこそが人類と神類との、私の知り得た唯一の接点だったのである。
  魂とは何かとの問いに対する私の答えは、ただひとつしかない。それは「神の通り道」だ。神は魂を通って現出する。魂の位置に立ったとき、人は神の存在を初めて経験する。直覚する。
  神について語り得ることは、これしかない。
  魂は、神類を除く全生命体――肉体人間はもちろんのこと、幽界人、霊界人、龍や天狗などの自然霊も含めた全生命体の究極の単位といえる。そしてそれらはみな魂を持つ。というより、魂の投射投影によって存在している。だから、この全空間に存在する、あらゆる生きとし生けるものは、すべて魂の一点で神とつながっているといえるのだ。
  こうした成り立ちによって、われわれは、われわれの生存圏で生きてきた。われわれの生存圏とは、もちろん霊界も含んでいる。
  ところが、その、何よりも大切で、全生命形態の根源である魂が、今、かつていな危機に直面しているのである!(中略)
  魂の終末が始まっている――。この事実を、人類は自分たちの問題として、真剣に受け止めなければならない。信じられないことだが、全生命体の根源である魂が、今、死にかけているのだ!!

 弥勒すなわち新界!!   [TOP]

  釈迦は今日あることを知覚し、後世に伝えている。ここにも覚者・釈迦の偉大さが存分に発揮されている。
  釈迦は、彼の生きている時代は「神界が閉じている」ということを、魂のレベルで知っていた。それゆえ釈迦は、今は神の世ではなく仏の世なのだと説法し、全宇宙を支配する輪廻転生の法を説き、さらに六道界での輪廻から抜け出して永遠の涅槃界へと移行(解脱)することを、ひとつの理想の姿として弟子に教示した。
  これは釈迦以後、千数百年間は真理だった。けれども、不変の絶対的な真理でないということを、釈迦は知っていた。
  仏法が栄える「正法」の時代から、魂の汚れが日増しに厚くなり、三千世界が曇った鏡の状態になる「末法」の世を経て、絶対無が出現し、一切の法が滅び去る「滅法」の時代が訪れる。そのとき仏法は滅び去ると、釈迦は、その透徹した神通力で見通した。
  しかし、釈迦は、同時に、この滅法が生命の終焉ではないということも知り抜いていた。滅法のそのとき、「神界が開く」ということまで、この覚者は感得していた。そしてそれを「弥勒の世が来る」という表現で後世に伝えたのである。

  弥勒の世とは、魂が滅び去る前に、魂の転生空間を、この現界と神界の間に創造すること、新界を作り出すことなのだ。この新空間こそ弥勒世界なのである!
  釈迦の魂は、この新界を感じ取っていた。だからこそ釈迦は、弥勒の世が訪れたら、自分は是が非でもこの現界に生まれ変わりたい、必ず生まれ変わるぞと言い遺した。なぜか? ひとつには天地創造の大事業に参加するため、そしてもうひとつは、釈迦自らの魂を救済するためである。弥勒の世はもう始まっている。それは同時に、滅法が刻一刻と進行しているということをも意味している。
  われわれは今、かつて経験したことのない魂の振り分けの時代の真っただ中にいる。
  魂を求め、魂の存在に気づき、すべての基準を魂に置いてみることのできるようになった人の魂は、新界に転生するだろう。
  けれども、魂を無視し、心を追い求め、今いる場所から動こうとしない人の魂は、転生場所を失い、生命の循環がとぎれて、消滅するだろう。
  ここ数年来、私は何かお話する機会があるごとに、人間は「人間位(にんげんい)」に就かなければならないということを、くり返し強調してきた。人間位の「位」とはポジションのことだが、これだけでは理解していただけないかもしれないから、もう少し説明する。
  ものごとには、すべてポジションというものがある。たとえば幽体は、幽界というポジションにいる魂の投射投影像といえる。同じように、霊体は、霊界というポジションにいる魂の投射投影像だ。
  では、人間のポジションはどこなのか?
  肉体は現界にある。だから、肉体人間のポジションは現界だと考えてしまいがちだが、そうではない。人間は、肉体と同時に心を持ち、幽体を持ち、霊体を持ち、さらに究極の魂を持っている。さあ、どうだろう。人間のポジションはどこにあるのだろう。
  これから書くことはとても重要なので、じっくり考えながら読んでいただきたい。
  まず、人間は肉体と頭脳だと思っている人――この人のポジションは現界である。物質界の住人である。
  人間は、つまるところ心だと思っている人――この人のポジションは心界である。
  人間は、心を超えた世界に本体があると思っている人――この人は幽界、もしくはそれ以上の世界にポジションを持っている。
  人間の本体は霊であり、幽体も肉体も、霊をくるむ衣のようなものにすぎないと思っている人――この人のポジションは霊界である。
  けれども、以上述べたすべてのポジションは、人間の本来立つべきポジションではない。人間は、神界を除いたこの現界と霊界、幽界を含む全空間の外側――魂の空間に本来のポジションを持っているのだ。なぜなら人間のみが、肉体も心も頭脳も、幽体も霊体も持つと同時に、魂も併せ持つ存在だからだ。
 すべてを持つように造られているということは、すべてに気づけるように、すべてを見通せるように造られているということだ。そしてそれに気づいた人のことを、私は「人間位に就いた人」と呼んでいるのである。

  人間位に就くことは、けっしてむずかしいことではない。特殊な修行も、能力も、一切いらない。お経を覚える必要も、祝詞を覚える必要もない。ヨガもメディテーションもしなくてもいい。チャクラを開く必要もない。先祖供養もいらない。徒党を組んで教団をつくり、信仰生活に入る必要もさらさらない。
  必要なのは、自分の魂をみつめることだ。頭脳や心に幻惑されずに、すべての物事を感性でとらえ、魂の基準から見据えることなのだ。
  人間は、だれ一人として例外なく、魂の声を聞いている。あなたも聞いている。それは「良心の声」だ。良心とは、魂の声が通る心の中の道なのだ。「良い心」ではなく、それは「魂の声の道」なのである。
  この声に耳を傾け、「素直」と「感謝」と「信」という3つの状態が腹からわかり、いつでもスッとこの状態に入れる人は、もう魂の位置にいる。人間位に就いている。
  この人間位に就いた人々によって、弥勒空間――新界は創造される。そして、この新界からの新たなる現界への投射投影―それこそが過去から今日に至るまで、すべての宗教で唱え続けられてきた「地上天国」の本当の意味なのである。

 

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