黙示録

     
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アガシャの霊界通信 (上)

ジェイムス・クレンショー ・ 著   正法出版社  1992年刊
 正しい法則の普遍性

  トーマス・A・エジソンは霊界の存在を信じていた。この世とあの世をつなぐ霊界電話はできないのかという実験をしたことは広く知られているが、まだそういう電話はできていない。

  リチャード・ゼナー師は霊界通信によって、この世と死後に行くあの世は全然別個の世界ではなく、次元の違いであり、この世において正しいとされる法則(正法)は、あの世においても正しいとされる普遍的なものであるといっておられる。
  このことを仏教には「色心不二」といっているのである。「色」とは、色彩の世界、色のついたこの世の世界、「心」とは、目に見えない心の世界、あの世のことで、あの世とこの世は一つの連続した世界であるというのである。

 波長共鳴の原理

  霊界通信は、波長が合わないと通じないのである。ラジオでもテレビでも、合わせた波長によって、その波長に合ったものが聞こえるし、見えるのであるのと同じように、霊界通信即ち霊がかかってきていわせるという現象も、低い心の次元の人には低い霊が、高い心の次元の人には高い霊がかかってくるので、低い心の次元の人に、高い霊がかかってきていわせるということは全くない。
  だから霊がかかってくるという人の人格、品性は、その人の雰囲気、態度、言葉遣いなどとなって現れるが、それを見ればその人にかかってきている霊がどの程度かということがわかることになる。

  死後の世界においては心の力や心の現れは非常にはっきりしている。地上界におけるよりもさらに鋭敏であるのみならず、さらに直接的であり、より一層はっきりしている。
  この世では、直接行動に出さえしなければ思うことぐらいはよいだろうと思うが、
あの世は、思ったら思ったことが即座に現れる世界であるからきびしいのである。

  われわれはすべて想念を放送している放送局であり、その念波は電磁波と同じような波動性を持っている。われわれが不調和な念の霊波を出していれば、類は類を呼ぶという波長共鳴の原理によって不調和な混乱した念が侵入してくる。そうすればわれわれの敏感な環境にどのような結果が現れてくるかは誰にでも想像がつくであろう。

  アガシャの教え、真理の「道」の要点は、神によってつくられた「普遍」なる法則の下に個人の責任ある生活が送られていることと、完全なる精神的な自由があるということである。そして、それは物理学で説いていることと同じで、自然界にはつぎのような根本法則があるのである。

 
すべての作用には、大きさが等しく、方向が反対である反作用がある。

 
これを「償いの法則」といっているし、物質と精神とをともに支配している非人格的な力であり、いかにして自分が目覚めてゆくか、いかに自覚してゆくか、に目覚めさせる「業の法則」に他ならないのである。

  宗教と科学とは一致しているという法則は、

 
1.原因と結果の法則、因縁‥‥これを物理学では「因果律」という。
  2.動・反動、作用・反作用の法則。
  3.宗教的に「業」というのは、物理学で「慣性の法則」というものである。
  4.輪廻転生、すべての天体の回転、地球上の春夏秋冬、分子・原子の回転運動を「循環
    の法」という。
  5.波長共鳴の法則、類は類をもって集まる。


  この法則をいかに使うかは各自の責任であり、例えば運が悪いという人は、悪い原因をつくり、悪くなるように法則を応用したからである。自分の責任であって、他に責任があるわけではない。

 
救われるとは

 
この法則と作用を完全に理解し実践することが、人生経験のゴールであり、人生の意義、目的を悟ることになるのである。真理をはじめて学ぼうという心になった者は、来世はどのようなものであるかということについて、今まで伝えられいわれてきた深い迷信をまず除き去るということが、もっとも大切である。
 
第一に、肉体を去った後には、「最後の審判」がくるまでは覚めることなく眠っているというのは嘘である。あの世は毎日毎日が審判と修業の日々である。
 
第二に、地上生活を卒業した霊は、永久に怠惰と休息と恩恵の状態の中で、地上で生活していた時の悩み苦しみを慰められ、また、悪いことをした者は永遠の呪いの世界に入る、ということはないのである。もし万一そのような状態が起こるとすれば、あの世もすべて唯心所現の世界であるから、その本人の意識の状態によって起こるのであり、彼の魂が目覚める前の一時的休眠状態以上のなにものでもないのである。
 
第三に、人間は肉体を去って後、直ちに天地の秘密のすべてを知りつくす者となるのではなく(日本でいわれているように、すぐ成仏して仏になるのではない)、また、この世とあの世のあらゆる問題や秘密に対して正しい回答を与えることができるようになるのでもないということである。
  実際に、人間は死んだ直後は、この世にいた時と同じ状態で、この世で無知であった人はあの世でも無知であり、この世で賢明であった人はあの世でも賢明であり、それと同じように、病気も健康も性格も同じであるのである。
  人間があの世で「天国」や「地獄」を体験するのは、すべてその人自身の人格の意識状態、つまり、その人自身が内部に持っている心の天国、あるいは地獄に他ならないのである。ただ、この世と違って
あの世は心の力がはるかに強力となるのであって、心に思ったことが瞬間的に現れる点が違っているのである。そのようにしてその人は、自分で自分の周囲に地獄をつくり出し、その中で地上で身につけた性格の欠陥を反省し、修正し焼きつくして、その上でより一層高い階層、心の状態へと絶えず進歩してゆくことができるのである。
  人間は自分自身が自分の意識の創造者であり、そして自分がつくった意識の世界の中に、その意識が変わるまでいなければならないのであるから、来世においても、自分が受け取らなければならないものだけを(よいことも悪いことも)受け取るのである。
  しかしながら、いかなる人も希望を持っているし、救われない者は一人もいないのである。人はその人自身の努力によって、いつかは自分の意識、心を立て直し、自分自身の心をより高い霊の方に波長を合わせて、次第に自分から苦悩が離れてゆくのである。

 
神の創造の展開

  現在ここに生きている人間は、男も女も、自己表現(悟り)への長い道程を黙々として歩んできた人々なのである。アガシャによれば、われわれは無数の肉体経験(輪廻転生)をくり返しつつ発展し、進歩しつづけてきたのである。そして、われわれは永い間、実在の影(物質界、肉体)を見て、それを真の実在と思って混同していたのである。けれどもこの永い一連の体験によって、われわれすべての者は、結局、神が天地を創造された目的と人生の目的を理解することができるのである。
  客観的には、われわれが心の投影である現象の姿を観察することにより、主観的には未だ現れてはいないが、自分が全知全能である神の生命そのものであるということを、内観的に潜在意識的に自覚してゆくことによって、それは理解することになってゆくのである。

 
人生の目的と信仰

  人生の目的とは、この宇宙は誰が創造したのかというようなことを探求することではない。また、神がつくられた法を実践することもなく、ただ祈っておればよいとか、拝んでいればよいとかいうような、日常生活の中に法を実践することの意義を説かないような信仰は、本当の信仰ではないのである。
  われわれの信仰は、崇高な智恵によって、善悪の行為の真の評価、即ち物質界という影の世界へ映し出されてくるわれわれの表現が、いかに真我(神の子の意識)を反映しているかという反省によって、正しき智恵を与えて、神とそして神の子の正しい関係を智恵によって直感的に理解することのできる信仰が真の信仰であるのである。

 
過ちからどう学ぶか

  われわれは体験から逃避してはならない。
苦痛であり、悩みが生じてきたということは、それは法則に外れたことを示していてくれ、未習熟の授業があるということを示してくれる合図であり、正しい調和ある考え方に導いてくれる合図であると理解して、その苦痛、悩みをなくするにはどうしたら一番よいかということを学ばなければいけないのである。

 
想念とは

  すべての人間はその想念の総計である。
  想念はものである。想念は家具のように実体のあるものであって、われわれ自身の行動を支配する力を生み出すのみならず、他の人の想念と協同してその社会あるいは集団に一定固有の雰囲気、オーラーをつくりあげるのである。
  それゆえわれわれはわれわれ自身その影響を受けるのみでなく、それ以外の多くの同時代の人々のいろいろな集団の影響も受けるのであって、それは単にわれわれが教えられたもののみによってではなく、またわれわれが見たり聞いたりしたことによってだけではなく、環境による現実的な電磁的ともいえる性質によって必然的に影響されるのである。

 

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