黙示録

     
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仏教聖典

財団法人 仏教伝道教会  1981年刊
  この本は、最近では著名なホテルの部屋に聖書と共に置かれるようになりました。
  膨大な仏教の経典を非常にわかりやすく、コンパクトにまとめてあり、さらさらと読むことができます。ここでは、さらにそのダイジェストを載せていますので、まさにお釈迦様の教えのエキスの、そのまたさわりの部分だけをご紹介したことになります。ぜひ本を購入して、じっくり読んでいただきたいと思います。              (なわ・ふみひと)
 心の構造

  迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。

  人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。

  絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。
  心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。

  ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。

  迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。

  このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現われる。

  すべてのものは、みな心を先とし、心を主とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。

  しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。

  善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。


 心のけがれ

  仏性を覆いつつむ煩悩に2種類ある。
  1つは道理に迷う理性の煩悩である。2つには実際に当たって迷う感情の煩悩である。
  この2つの煩悩は、無明(むみょう)と愛欲となる。
  無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、死を願うような欲望ともなる。
  この無明と愛欲とをもとにして、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさ、邪見、恨み、嫉み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。

  この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさは、世の3つの火といわれる。貪りの火は、欲にふけって真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害する人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。
  まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、――さまざまな火によって炎々と燃え上がっている。これらの煩悩の人はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身・口・意の3つの悪い行為に導くことになる。

  貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。貪りの罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。

  人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。
  人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。
  人は欲のために争い、欲のために戦う。また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺をはたらき、姦淫する。
  また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。

  外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、4つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。

  心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさがあるときは、口には偽りと悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。意の3つ、口の4つ、身の3つ――これらを十悪という。

  人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚かさからくる。人の不幸も難儀もまた、愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。

  人は煩悩によって業を起こし、業によって苦しみを招く。煩悩と業と苦しみの3つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。
  この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。しかも、人はこの輪廻から逃れるすべを知らない。永劫に回転する輪廻に従って、人はこの現在の生から次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

  迷いのすがた

  この世の人びとは、身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。

  富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。

  貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。

  人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。
  この世の争いは、互いに害し合ってもすぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生を変え、死を変えて、互いに傷つけ合うようになる。

  人は愛欲の世界にひとり生まれ、ひとり死ぬ。未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらねばならない。

  善と悪とはそれぞれの報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらすことが、動かすことのできない道理によって定まっている。しかも、それぞれがおのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。

  まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つない。この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りと言わなければならない。

  このような有様がこの世の姿である。人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。

  栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。この世の快楽も何一つ永続するものはない。
  だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。

  ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。善悪にかかわるすべてのことを信じない。
  ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。

  どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。ただ、これについて苦しみ悲しむことだけ知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。

  人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。しかも今日に至ってもなお、迷いは絶えることがない。いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。
  だから、よく思いを重ね、悪を遠ざけ、善を選び、努め行なわなければならない。

  仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。また仏の教えをおのれだけのものとすることなく、それを実践し、それを他人に教えなければならない。

  心を清める

 一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。

  第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。

  見方を誤るから、我という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。

  第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。

  第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためであると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。

  第四には何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても耐え忍ぶ。この忍びを受けることによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。

  第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。

  二、世には五つの欲がある。眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。
  多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕えられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。

  三、その方法は一つではない。例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕えて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。

  このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその往みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このために互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられてゆく。

  ちょうどこのたとえのように、人びとは目に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。

  またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。

  これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。

  四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。

  名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。

  愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。手を焼き、身を焼くのは当然である。

  貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分の心をほしいままにしてはならない。心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。

  五、さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。                                      

  美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。

  道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。

  道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。

  六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。

  身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。

  宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。

  貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福とを得る人である。

  七、人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。貪(むさぼ)りを思えば貪りの心が起こる。瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。損なうことを思えば損なう心が多くなる。

  牛飼いは、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、また殺されたりすることを防ぐのである。

  人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋(いか)らず、損なわない心を育てなければならない。

  牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。

  人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。

  八、釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。

  そのときアーナンダは釈尊にこう言った。
  「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います」

  「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか」
  「世尊よ、また他の町へ移ります」

  「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう」

 善い行ない

  一、道を求めるものは、常に身と口と意の三つの行ないを清めることを心がけなければならない。身の行ないを清めるとは、生きものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。口の行ないを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。意の行ないを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。

  心が濁れば行ないが汚れ、行ないが汚れると、苦しみを避けることができない。だから、心を清め、行ないを慎しむことが道のかなめである。

  二、昔、ある金持ちの未亡人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの女中がいて、これも利口でよく働く女であった。
  あるとき、その女中がこう考えた。
  「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」

  そこで、女中は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。

  「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません」とことばを返すと、主人は怒った。

  女中はさらに次の日も遅く起きた。主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、未亡人はそれまでのよい評判を失った。

  三、だれでもこの女主人と同じである。環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。

  自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行ないとを持ち続けることができるであろうか。

  だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行ないをしても、それはまことによい人とはいえない。仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。

  四、すべてことばには、時にかなったことばとかなわないことば、事実にかなったことばとかなわないことば、柔らかなことばと粗いことば、有益なことばと有害なことば、慈しみのあることばと憎しみのあることば、この五対がある。

  この五対のいずれによって話しかけられても、

  「わたしの心は変わらない。粗いことばはわたしの口から漏れない。同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように」と努めなければならない。

  八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。人はこの反作用に用心しなくてはならない。それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。それは風に向かってちりを掃くようなものである。それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。

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