黙示録


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すべては宇宙の采配  
奇跡のりんご農家 木村秋則・著  東邦出版  2009年刊


 きっかけ

  婿養子に入ってすぐの、23〜24歳ころです。
  実家から持たされた持参金で外国製の大きなトラクターを買い、さらに雑草か生い茂っていた土地を買いました。その土地で、新たにトウモロコシを作ることにしたのです。
  わたしの憧れはテレビで見た広大なアメリカ農場でした。地平線まで続くような広々とした畑を作ってみたいと思ったのです。
  そんな畑を作るには、ちょっとやそっとのトラクターでは面白くありません。アメリカからカタログを取り寄せて、150万円もする45馬力のトラクターを購入しました。半分趣味の世界ですが、さすがは大規模農地を耕せるトラクターです。みるみるうちに荒れた土地を立派な耕作地に変えていきました。
  栽培を始めたのは農薬をパンパン散布していたころです。りんごも順調にとれていましたし、始めてすぐの年からトウモロコシも順調に育っていきました。
  憧れていた見渡す限り一面の農作物、デキも良好で、すべてが順風満帆でした。
  しかし、トウモロコシが収穫できるくらい大きく育つと、動物による被害が頻発するようになりました。なんの動物かはわかりませんが、きれいに実をつけたトウモロコシをどんどん食うやつが現れたのです。
  これはたまりません。山にはクマやカモシカが出ることは聞いて知っていましたが、もしかしたら、近くで飼われている犬が散歩の途中で食べているのかもしれませんし、想像もつかないような動物が夜ごと畑に現れているのかもしれません。どんな動物の仕業かわからないことには手の打ちようがないと思いました。
  「ヨッシャ、ちゃんと犯人を見つけよう」
  もし本当にクマがかかったらどうしょうかと思いましたが、とりあえずトラバサミを仕掛けて様子を見ることにしました。
  翌日に畑に行くと、罠に動物が掛かっていました。予想していた種類ではなく、タヌキでした。よく見ると子供のタヌキ。
  付近にタヌキが出るという話は聞いたことがなく、大変驚きました。想定外の結果でしたが、動かぬ証拠です。
  捕まえてはみたものの、殺す気はありません。トラバサミにかかった子ダヌキを逃がしてやろうとしましたが、おびえているのか、罠を外すために近づくと歯を剥いて、「シャー!」と威嚇するのです。
  小さなタヌキですが、このままではおちおち外すこともできません。可哀想でしたが、足で顔を踏んづけて、動かないようにして触ることにしました。
  仕掛けが外れて自由になった瞬間、飛んで逃げるだろうと思われた子ダヌキでしたが、どういうわけか逃げないでそのまま留まっていました。すると、母ダヌキと思われる大きなタヌキが警戒しながら現れて、怪我をした子ダヌキの足を、その場で舐めはじめたのです。
  しばらくのあいだ、親子は動こうとしませんでした。
  タヌキからしたら、人間は憎き敵です。恐怖を感じる相手でもあるでしょう。わたしが怒って、母子もろとも叩いて懲らしめてやろうと思えば、余裕で届くような距離なのです。
さっさと逃げるのが普通です。
  しかし、母親はその様子を、見せつけるかのように続けました。
  延々と子ダヌキの足を舐めている母ダヌキを見なから、なにかすごく悪いことをしてしまったという、申し訳ない気持ちになっていました。
  自然を利用している農家にとって、そこに生きる動物と雑草は、仲間でも同志でもなく敵です。自然を人為的に操ろうとしている人間にしてみれば邪魔者です。
  そのことに疑問を持ったことはなく、深く考えたこともありませんでしたが、このとき初めて、人間側の一方的な論理であることに気がついたのです。
  わたしがトウモロコシを栽培したのは、元々タヌキの住処で、平和に暮らしていた場所だったかもしれません。そうだとすれば、タヌキのほうが被害者になります。「土地は買った人のものになる」ということなど、タヌキはまったく与り知らぬことです。「畑にタヌキが入ってきて被害を受けた」というわたしのほうが間違っているではありませんか。
  だからといって、荒らされつづけるのは困りますので、タヌキと共生する道を選ぶことにしました。
  その日以降、粒が欠けて売り物にならないトウモロコシを畑の横に積み上げ、タヌキたちに提供しはじめました。
  置いた次の日は、綺麗さっぱりなくなっていました。その場で食べてもよさそうなものですが、食べかすはまったく残っていませんでしたから、どこかに運んで食べたのでしょう。
  これを収穫のたびに行ったのですが、結果は毎回同じで、結構な量の不良品トウモロコシを積み上げておいても、ごっそりなくなっていました。
  「下手をすれば餌付けになってしまうなぁ」
  タヌキが増えて被害が大きくなることを恐れましたが、逆に最初にトウモロコシを提供した日から、被害はまったくなくなったのです。提供されたものにだけ手をつけ、収穫前の瑞々しいトウモロコシには一切触れませんでした。もうトラバサミが仕掛けてあるわけでもないのにです。
  気持ちが伝わっているとしか思えない出来事です。
  トウモロコシを栽培していた3年間ずっと交流は続き、動物による被害は全然ありませんでした。
  最初にトラバサミに子ダヌキがかかったとき、現場にいたのはわたしだけでしたが、1時間か2時間経ってから、洗濯を済ませた女房がやってきました。
  「トラバサミに、なんかかかった?」
  女房に訊かれましたが、こう答えました。
  「いや、なんもかかってなかった」
  女房はわたしの性格を知っていますから、薄々気づいていたようです。あとで顛末を知
って、
  「本当はお父さんが逃がしてやったんだろうって思ってた」
  といっていました。
  タヌキがどう思っていたのかはわかりませんが、「お前たちが住む場所を奪ってごめん。これをあげるから、もう荒らさないでくれよ」という気持ちでトウモロコシを積んでおいたら、被害がパッタリとやんだのは事実です。
  この出来事は、ほかの農家と同じように農薬を使い、人間側の都合だけを全面に押し出して作物を栽培していたわたしに、大きな変化をもたらすきっかけになりました。

 木に話す

  いまでも畑に行くと必ず木に一本一本話しかけます。
  「元気にしてたか?」
  「よく頑張ってるなあ、ありがとう」
  「ちょっと病気してますね。いまから外科手術をしてあげますから」
  自宅からいちばん遠い畑は車で40分のところにあり、近いところ15分くらい、あとのふたつは20分くらいのところにあります。作業によってはひとつの畑にかかりっきりになることもあります。そういうときは残りの畑へ行き、
  「いまこういう作業をしているから、ちょっとしかいられないけど頑張ってちょうだいよ」
  と挨拶だけして、また作業している畑に戻ります。
  講演や農業指導で長い出張が入り、数日間どうしても畑に行けないときは出かける前に事情を説明して、
  「しばらく来れないけど、頑張ってね」
  と伝えます。
  出張先から女房に電話をして、木の様子を教えてもらうことも度々です。わたしが電話で、
  「元気にしてるか?」
  と聞いたら女房のことではなく、女房が畑に行って見てきたりんごの木のこと。実を言うと女房や子供に対しては、わざわざ電話をしてそういう言葉を使ったことがありません。
  その辺は女房も心得ていて、
  「りんごの木のことだけど」
  と前置きしなくても、
  「心配しなくても大丈夫だよ」
  と返事をしてくれます。
  長年連れ添って苦労を共にした夫婦。わかってくれているでしょう。
  だから、安心して出かけていられるわけです。逆にいうと、そうしないと出かけることもできません。
  りんごの木も、わたしにとっては家族のようなものです。そしてわたしたちは、ともに大変な時期を乗り越えて、頑張って生きてきた仲間なのです。
  よその人から見たら、「りんごに話しかけたって、言葉がわかるわけでもないのに」と思うかもしれません。
  でも、りんごの木はきっと理解してくれていると思っています。人間の言葉というのは、肥料にも農薬にもなるのです。かつてわたしが話しかけなかった木が、一本も残らず枯れてしまったことは紛れもない事実なのですから。
  これはりんごの木に限ったことではないと思います。
  すべてのものに言葉の力は有効だと思うのです。有機物に限らず、車や機械だってそういう一面を持っていると思います。
  わたしが使っている中国製の重いパソコンは、4年間まったくトラブルがありません。つねに持ち歩いて酷使しているのですが、
  「いつもありがとう、お前が必要だから壊れないでくれよ」
  と話しかけているからでしょう。
  よい言葉をかければ、よい木霊(こだま)が返ってくるのです。
  最近は小さくて性能のいいパソコンが4〜5万円で買えるようになりました。次はそちらを買おうかなという思いが頭をよぎるのですが、2台は必要ありませんので、いま使っているのが動いてくれているあいだは、「ありがとう、頑張ってな」といいつづけるつもりです。

 癌と仲良く

  同い年の知り合いか癌になりました。気がついたときには末期で、国立がんセンターに行ったのですが、「もう手の施しようがない」といわれてしまいました。
  最初は直腸癌だったのが肺に転移し、それも進行している……。そのときでも煙草が好きで吸いつづけていたような人です。からだはボロボロで、「余命1年」といわれました。
  わたしがそのことを知らされたとき、九州にいる実のお兄さんは葬式の準備に動いていました。本人も「もう1年も、もたないくらいにダメだ……」と諦めていました。
  「ダメだと思ったら負けなんだ」と諭しました。
  そして、言葉療法を提案したのです。
  治療をして排除しようとするから、癌はしゃかりきになって進行するのかもしれません。自分の癌に向かって、「俺のからだが完全にダメになったら、お前たち癌細胞も生きていけないんだよ」とよくいい聞かせてみればいいのではないかと思ったのです。ヘタな化学療法を行なうより、手術ができないほど進行してしまったなら、「共生してさぁ、末永く共に生きていこうよ」と仲良くなったほうがいいに違いないと思ったのです。
  彼は癌に毎日のように話しかけ、すごく元気になりました。余命1年と宣告された直後は死人のように生気がなかったのですが、見た目にも元気を取り戻し、3年経ったいまもまだピンピンしています。
  わたしは無農薬栽培を通じて、「活かして生きていく」ということを自然から教えてもらいました。人間は人間同士だけで生きているのではなく、虫や微生物や土と共生しているのです
  もちろん、病人に関していえば、早期に発見した病巣は化学療法で治すことも大事でしょう。しかし、もう手の施しようがないくらいに広がってしまったのなら、「共に生きよう」と語りかけることも有効だと思うのです。
  そういう実感があって、言葉の力を信じています。
  いまは人も言葉も殺伐としすぎている世の中です。経済の発展=心の崩壊といいますが、言葉の崩壊でもあると思います。
  だからこそ、すべての人や物に愛のある言葉をかけるということは、とても大切なことだと思うのです。
  個人主義が強すぎるいまの人間社会は、それを忘れているのではないでしょうか。

 金属にも魂

  たまたま車の修理に行って、出会った整備工の話です。
  車の修理というのは床屋さんや美容院と一緒で、一度そこの工場に行くと、次からも同じところへ行くものではないでしょうか。自分のうちから通いやすいところであったり、なにかが気に入ったりして一度行くと、妙にご縁ができます。
  そんな調子で入った修理工場でしたが、何度となく通うようになり、その整備工と毎度顔を合わせるようになりました。
  だいぶご年配の様子でした。年寄ってきたことも関係あるのでしょう、仕事に慣れすぎて緊張感かなくなってしまったのかもしれません。とにかく仕事が乱雑なのです。一応修理して動くようにはできるのですが、彼が直すと必ずといっていいほど、また壊れてしまいます。わざとやっているわけではありませんし、人柄は決して悪くありません。仕事仲間には慕われているくらいでしたか、あまりにも信じられないようなミスをするので、ちょっと問題になっていました。
  具体的には、4つあるタイヤのボルトを全部締めたつもりかひとつ忘れていたり、エンジンを組み立てたなかにスパナを忘れたり……。危なくて仕方かありません。「とても彼には大事な仕事はさせられない」。暗黙の了解のようになっていました。
  見兼ねたわたしは、なにかアドバイスできることはないかと仕事ぶりをチェックしていると、気づいたことがありました。
  だいたいそういうミスを犯す人というのは、仕事のパートナーである道具に愛着がないものですが、やはりそうでした。とても乱暴に扱っていて、だから整備しおわった車につけたままにしてしまうのです。
  彼が使っている工具は、勤めている会社が買ってくれています。プロが使う工具は、見た目は同じようでも、100円ショップや街の小売店で売っているものとは全然違います。
  スパナひとつとっても、材質が全然違い、値段もまったく違います。そんな高い道具なのに、「べつになくしたところでまた工場が買ってくれるから問題ない」と思っているのです。思っている自覚はないかもしれまぜんが、無自覚でそう思っているのです。
  わたしはいいました。
  「あんたの道具にはみんな魂があるんだよ。心あるんだよ」
  彼はそのときスパナを手にしていましたが、
  「そのスパナにだって心があるんだ。口いわない工具だと思って使ってるから、あんたの仕事には魂がこもらないんだ」
  実際、彼がスパナで締めても、なぜか緩むことが多いのです。どんな力で締めあげても、なぜか緩むのです。
  これは力の問題や技術の問題ではないと思います。そこでこう提案してみました。
  「スパナじゃなくて、自分の手で締めている気持ちになってやったらいいんじゃないの?」
  実際はスパナで締めていても、それを単なる道具とは思わず、自分の手を使って締めている感覚を持ってもらえば、きっと魂がこもると考えたのです。
  最初はポカンと聞いていましたが、いっていることの本質がだんだんとわかってきたようで、「うんうん」と素直に聞いてくれました。
  仕事がいい加減なばかりに、もし走行中にタイヤが脱輪したら大事故につながります。
  「あんたのやった修理を信頼してみんな走っているんだよ。命を預かってると思って、やってくれなくちゃ」
  整備工の仕事の本質は、車の修理といった断片ではありません。
  そういう意識の高さと、責任感を持ってほしかったのです。
  気持ちが伝わったのか、仕事ぶりが見違えるように変わりました。
  変化はまず工具の置き忘れがなくなったことに現れました。道具をとても大切に、丁寧に扱うようになったのです。
  やった仕事を必ず点検するようにもなりました。「見直し」というのは、忙しさや慣れで飛ばしてしまうことが多いのですが、彼は必ず見直して、自分の欠点を補うようになったのです。
  聞けば、もともとは腕のいい整備士だったそうです。しかし、人間はどこかひとつ心に穴があくと、道を外れてしまうことがあるものです。一度外れると、どんどん悪化してしまいます。そういう状態だったのでしょうか、道具を大切にする心を取り戻してからは、すっかり腕のいい整備士に戻りました。
  人間がすごいのは、「思い」や「気持ち」の持ちようで、いくらでも物事を変化させられることです。心の眼が開くのです。その力は、だれにでも、いつでも発揮できます。
  わたしは作物の気持ちを理解しようとしました。
  赤ちゃんの泣き声、ただそれだけですべてを理解する母親のような気持ちで接すれば、きっと素晴らしい作物になってくれるはず。もしも自分がりんごだったら、野菜だったら、稲だったらどうしてもらいたいか、それを考えるのが百姓として当たり前のことだと思いました。
  自分が実践していることを彼に話したわけですが、これはすべてに通じる話だと思います。

なわ・ふみひと ひとくち解説
  最初に出てくる親子のタヌキの話は感動的です。近代において日本が西洋化する中で、私たちも自然を踏み台にして生きるようになりました。その反省を迫るようなエピソードです。親タヌキの心情が伝わってくるような気がします。
  この本には、ほかに著者がUFOに連れ込まれたときのことなども綴られています。この著者こそ、間違いなく新しい時代に生まれ変わって活躍されるタイプの人物だと確信します。新しい時代には「石さえも物を言うようになる(日月神示)」そうですから、このような野生の生き物たちとも気持ちが通い合う世界になるのでしょう。ワクワクしますね。。
  というわけで、とにかくお勧めしたい本です。著者の考え方には共鳴するところがたくさんあります。ここにご紹介した内容は、私自身も実感、実践しています。ただ、著者は私とは違って地獄を見るほどの苦労をされています。著者が長年にわたって味わってきた苦難の日々は、文章を通じてもひしひしと伝わってきます。圧倒される思いです。その生き方も含め、この著者を心から敬服しています。
                                      (なわ・ふみひと)

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