| ● ひふみ神示(日月神示)・黄金の巻 2007年9月27日(木) |
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本日は『ひふみ神示(下巻)』(岡本天明・筆/コスモ・テン・パブリケーション)の「黄金(こがね)の巻」を抜粋してご紹介します。同書の上巻につきましては、早くからその一部を当サイトにアップしていますので、この機会にぜひご覧いただきたいと思います。
→ 『ひふみ神示(日月神示)』(上巻)の超解釈
この上巻もまだ未完成なのですが、下巻と並行して年内には完成させる予定です。
それでは下巻の冒頭にある「黄金の巻」にお目通しいただきたいと思います。ちなみに、ここに抜粋しましたのは特に終末の時代の生き方に関する内容だけということで、文章量は「黄金の巻」全体の3〜5%ということになります。
●外にあるもの内にあるぞ。(第8帖)
●自分の中にあるから近寄って来るのであるぞ。厭なこと起こって来るのは、厭なことが自分の中にあるからじゃ。(第66帖)
●世界がそなたに映っているのぞ。世界見て己の心早う改心致されよ。(第71帖)
「外にあるもの」とは、「私たちが五感を通じてこの人生で体験していること」です。「内」とは「奥の心」つまり仏教でいうところの「末那識(まなしき)」「阿頼耶識(あらやしき)」の領域をさしています。一般的には「潜在意識」と理解しておけばよいでしょう。
私たちが体験している「現実」は、潜在意識の中身が反映されたものであるということです。もし不愉快な「現実」を体験させられているとすれは、それは私たちの心の中に、そのような「現実」を起こす要因が含まれているということです。
私流の表現をするならば、「類は友を呼ぶ」という波動の法則によって、心の磁石が外の世界の「現実」を引き寄せて来るという真理を述べています。「笑う門には福来たる」「泣き面に蜂」などの諺がそのことを表現しています。
「世界が映る」も「映る=体験する」という意味で、同じことを述べています。
●霊人と語るのは危ないぞ。気つけくれよ。(第18帖)
●霊媒通じてこの世に呼びかける霊の九分九分九厘は邪霊であるぞ。(第50帖)
●悪神憑かりたれば、自分では偉い神様がうつりていると信じ込むものぞ。可哀想なれど、それも己の天狗からぞ。取り違いからぞ。(第57帖)
正式な修法に則った修行をしていない普通の人が、霊的存在(一般的に神様や高級神霊の名を語りますが、最近は進化した宇宙人を装う場合も多いようです)と交信することの危険性を述べています。当サイトを登録している「精神世界」サイトには、そのような霊界通信をもとに作られたサイトやプログがたくさん登録されています。それらは普通の人では審神(さにわ)が難しいので、十分な注意が必要です。
●己の行できておらんと、人の悪口言わなならんことになるぞ。(第19帖)
「身・口・意」をコントロールするのが行(=身魂磨き)です。他人の悪口を言わなければならないのは、身魂磨きができていない証拠だということです。
●国々、所々、村々、家々、みな何なりとしてめぐりだけの借銭済まし致しくれよ。(第19帖)
めぐり(=カルマ)は自分だけのものとは限りません。自分が属している集団――家庭はもちろん、勤務先や市町村、国、民族――が生み出した善くないカルマもきれいに借銭済まし(=清算)してしまわないと、みろくの世へのアセンションができないということです。
●悪も善も、もう隠れるところなくなるぞ。(第30帖)
カルマが清算されるということは、隠されていた秘密が人々(=利害関係者)の前に明らかにされることを意味しています。今日、政治や行政、企業などが行なってきたさまざまな不正や不祥事(年金問題や食品の原料の偽装表示など)が暴かれつつあるのは、その表れとみてよいでしょう。
●めぐりないもの一人もこの世にはおらん。(第37帖)
たとえ聖人君子のように見える人でも、やはりカルマは背負っているのです。
●この世の人民の悪は幽界にうつり、幽界の悪がこの世にうつる。(第38帖)
カルマが生まれるメカニズムを表現しています。私たちが発信している善くない「身・口・意」は幽界に届き、そこからまためぐりとなってこの世に戻ってくるということです。
●平等愛とは、差別愛のことぞ。公平という声に騙されるなよ。数で決めるなと申してあろうがな。群集心理とは一時的の邪霊の憑きものぞ。(第56帖)
「多数決の論理」は間違いであるということは、拙著『2012年の黙示録』でも力説しています。マスコミに誘導された大衆には、一時的に邪霊が憑依していると見るべきです。昨年夏の「小泉フィーバー」や、今年の参院選における「安倍バッシング騒ぎ」も、邪霊に誘導されたものと見て間違いないでしょう。今後も「二大政党化」を旗印に、多数決の論理を追求するわが国の政治はますます不安定な状態が続き、結果として、この国はたいへん悲惨な事態に導かれていくと思われます。
●世を捨て、肉を離れて天国近しとするは邪教であるぞ。合わせ鏡であるから、片輪となっては天国に行かれん道理じゃ。迷信であるぞ。(第59帖)
●天国に行く人、この世でも天国にいるぞ。(第60帖)
●死ぬ時の想念がそのままつづくのであるから、その想念のままの世界に住むのであるぞ。この世を天国として暮らす人天国へ行くぞ。地獄の想念、地獄生むぞ。(第75帖)
この世は大切な「身魂磨き」の場ですから、この世での生活をおろそかにする考え方は間違っているということです。この世での厳しい「現実」に負けて、死ねば天国に行けると思って自ら命を断つ人は、死後も同じような「現実」に直面するのです。そもそも現在の心の状態がこの世での「現実」を創り出しているのですから、肉体を捨ててあの世に行けば、同種の「現実」がさらに過酷さを増して表れることになります。あの世では、心の状態がこの世の数十倍、数百倍のスケールで展開されるということを、新約聖書の中でもイエスが「からし種」や「パン種」にたとえて説明しています。
●金で世を治めて、金で潰して、地固めしてみろくの世と致すのぢゃ。(第59帖)
●学問や金を頼っているうちは、まだまだ改心出来ないぞ。(第82帖)
「金で世を治めて」というのはこの資本主義社会の秩序がお金を中心に組み立てられていることを表現したものです。次はそのお金で「この世を潰す」と述べられています。形としては、世界大恐慌ということになるはずです。お金を持っていてもどうにもならない社会が生まれるということです。一番困るのは、お金に生活と心を支配されている人ということになります。
「お金持ちが神の国の住民になるのは、らくだが針の穴を通るよりも難しい」というイエスの言葉とも相通じるものがあります。
この世での幸せを、持っているお金の額で測るのでなく、お金がなくても十分幸せを感じることのできる人が、やがて訪れる神の国の住民に相応しい人ということになります。
●身魂磨きとは、善いと感じたこと直ちに行なうことぞ。(第67帖)
これは親子の関係に置き換えて考えるとわかりやすいと思います。親が子供のためを思って、いろいろと正しいことを教えても、それを子供が実行しなければ間違った方向に進んでしまうことになります。あるいは、時間が迫ってきて間に合わなくなるということもあるでしょう。
この「親」に当たるのが神様(守護神)であり、「子」が私たち人間というふうに置き換えれば、神様から繊細な波長で送られてくるメッセージ(善いと感じること)をすぐに実行に移してほしいと思うのは親心と同じでしょう。しかしながら、そのような微弱な神の波長は、低級霊の憑依のような強制力がないので、人は善いと思ったこともなかなか行動に移さないものです。善いことを行動に移させないように低級霊が干渉する(=「一本の誘惑」がある)ためでもあります。ひふみ神示(日月神示)の神様の嘆きの声が聞こえませんか。
●めぐりと申すのは、自分のしたことが自分にめぐって来ることであるぞ。めぐりは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん。(第77帖)
めぐりは「自分が蒔いた種を刈り取る」ということであって、他人や世の中のせいにできないのは言うまでもありません。
●先祖は肉体人を土台として修行するぞ。めぐりだけの行をせねばならん。(第78帖)
「親の因果が子に報う」という諺もあるように、肉体を失って霊界にいる先祖の霊は、縁ある子孫の守護霊や背後霊となって身魂磨きをしているのです。そういう意味では、いま終末の時代に肉体を持って人生修行をしている私たちの責任は重大なのです。
●損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによってめぐり取っていただくのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済ましぞ。世界のめぐり大きいぞ。(第83帖)
経済的な損失も、病気や怪我などの不運と思われる出来事も、すべて悪いカルマが発散されていることの現れですから、それはありがたいと思うべきなのです。終末の時代を迎えている今日、私たちには次の人生がないわけですから、いまこそ「借銭済まし(=カルマの清算)」をしなければならないのです。「世界のカルマ」の清算は、経済の大恐慌や大天変地異となる可能性大と思われます。その覚悟は必要でしょう。
●他のために行ぜよ。神は無理は申さん。初めは子のためでもよい。親のためでもよい。自分以外の者のために、まず行ぜよ。奉仕せよ。嬉し嬉しの光さしそめるぞ。(第93帖)
「与えたものが返ってくる」というのが宇宙の法則です。まずは自分の身近な存在からでも、「利他(奉仕)」の行為の実践を始めなさいということです。新約聖書やシルバー・バーチの霊言にも全く同じ内容が述べられています。
●生命捨ててかからねば、まことの理解には入れん道理。身慾信心では駄目。いのち捨てねば生命に生きられん道理。(第97帖)
「身慾信心」とは「現世利益を求める心」という意味です。この世での幸せを追い求め、財産や地位などに執着する「我善し」の気持ちでは、神の国の住人に必要な「まことの理解」は得られないということです。新約聖書にも、これと全く同じ趣旨のことがイエスの言葉として次のように述べられています。
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイによる福音書)
「あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」(マタイによる福音書)
「世が改まって、人の子が栄光の座につく時には、(中略)わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍をも受け、また永遠の生命を受け継ぐであろう」(マタイによる福音書)
●悪も神の御働きと申すもの。悪にくむこと悪じゃ。(第97帖)
「悪」とは「自分や世の中に対して害を及ぼしている存在」と考えたらよいでしょう。そういう存在を憎んだり、そのことによって心を曇らせることは、結果として善くない波動をこの宇宙に発信することになります。つまり「悪」の波動に同調して、自らも「悪」を演ずることになってしまうのです。「悪」と見えることもすべて神様の手のひらの上での出来事と考えて、心を曇らせないことが大切だと教えてくれています。
●日々の祈りは行であるぞ。百年祈り続けても、祈りだけでは何もならん。それは祈り地獄じゃ。祈り地獄多いのう。肉体人は肉体の行せねばならん。(第100帖)
「肉体の行」というのは、「この世での人生体験を通じて学ぶ」ということです。神頼みだけをしていても駄目だと戒めています。現在の人生を毎日しっかり生きることが「祈り」そのものだ、と教えています。当サイトの「フツーの人が書いた黙示録」の「祈り編」も全く同じ結論を述べています。よろしければ一度ご覧いただきたいと思います。
「ひふみ神示(日月神示)」の解説は、このような形で今後も随時続けていく予定ですが、次回は、『光への道――ホワイト・イーグルの霊示』(桑原啓善・訳/でくのぼう出版)から、終末に関する一文を抜粋してご紹介する予定です。ご期待ください。
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