なわのつぶや記

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宇宙は「空」で満たされている  2008年9月2日(火)
  当「つぶや記」の執筆がずいぶん後回しになって間が空いてしまいました。本日は前回お約束しました通り「般若心経のなわ・ふみひと的解釈」を綴ってまいります。
  最初に、般若心経そのものをあまりご存じない方もいらっしゃると思いますので、「般若心経とは何か」ということについて述べられた文章をご紹介しておきます。以下は、私が般若心経の解説書として高く評価している『般若心経は知っていた』(コンノケンイチ・著/徳間書店)からの抜粋です。

  「般若心経」の正式な名称は「般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)」と称し、古代インドの上流社会で使われたサンスクリット語(梵語)の「プラジュニャー・パーラミター・スートラ」を音写したもので、「仏陀の深遠な悟りと、大いなる智慧の完成の真髄を説いた経典」という意味である。
  「般若心経」にはいくつかの訳がある。私たちの知る「般若心経」は漢文で書かれているが、中国の有名な僧である玄奘(げんじょう)三蔵(西遊記でお馴染みの三蔵法師)の訳によるものである。
  三蔵法師は唐の時代にシルクロードを通ってインドに入り、16年間インドで暮らし、大量の経典をインドから持ち帰って中国語に翻訳した。その中の一つが、現在の「般若心経」の原典である「大般若波羅蜜多経」である。
  「大般若波羅蜜多経」は1巻の経典の厚さが約2センチあり、それが600巻もあって、積み上げると約12メートルの高さになる。それをわずか276文字に凝縮したのが私たちの知っている「般若心経」で、三蔵法師は訳文の際に古代インド語と中国語(唐の言葉)の表音を合致させながら、同時に漢文の意味も原典と同じにしたのである。(中略)
  弘法大師「空海」も自著『般若心経秘鍵』の中で、「般若心経は仏の悟りの境地を語りながら、じつは大日如来の膨大な生命エネルギーを秘めた偉大な呪文(真言)であるゆえ、唱えるだけで般若菩薩の功徳が行きわたって、人の心が清められていく」と語っている。
              ―― 『般若心経は知っていた』(コンノケンイチ・著/徳間書店)


  漢文で書かれた「般若心経」の全文を、読み仮名をつけて当サイトにアップしていますので、プリントアウトしてご活用ください。一応こちらにも全文を載せておきます。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経


  さて、コンノケンイチ氏の解説によれば、「般若心経」は600巻にも及ぶ「大般若波羅蜜多経」のエキスともいえるもので、唱えるだけでも功徳のある経典であることがわかりましたが、実際の経文の意味も気になるところです。
  じつは、この経文の意味が難解であるために、わが国ではただ「ありがたい経典」というとらえ方が先行し、その意味については十分理解されないままになっています。参考までに現在も「般若心経」の解説の第一人者として知られる方々の解釈をご紹介しておきますので、比較しながらお目通しください。

  最初は『自分さがしの般若心経』(松原哲明・著/NHK出版)の現代語訳です。

『般若心経』現代語訳

  大きな智慧が完成するこころの教え

  尊敬される観自在菩薩が、深い智慧の完成を行じつつあったときに、空気のような「仏心仏性」の中には、形あるもの・感覚・心理・動き・教えという五蘊(ごおん)は存在しないことを見抜き、一切の苦しみから逃れることができました。
  仏弟子の舎利子(しゃーりーし)よ。存在するものは恒常ではなく無常であり、無常なものが存在するのです。存在は実体がつかめないし、実体のつかめないものが存在です。時々刻々と変化していくからです。実体がつかめないのが、形あるもの・感覚・心理・動き・教えです。
  舎利子よ。諸々の形あるものは、実体を捉えることができません。空気のような「仏心仏性」には、生じるものも、滅するものもない、「無生心」です。垢つくものもなく、浄らかなものもない、増すことも滅ずることもない。無生心ですから。
  だから、仏心仏性である無生心には、眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もありません。仏心仏性には、形あるものもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れるものも、教えも存在しません。
  仏心仏性には、眼識界から意識界までありません。無明もないし、無明が尽きることもない。老死もないし、老死の尽きることもないのです。苦しみもないし、苦しみを集めることもない。苦しみが滅することもなければ、正しい道もないのです。
  すべて仏心仏性・無生心だからです。仏心仏性には、智もなければ、得るものもない。
なにも所得はないのです。
  そこで尊敬される観自在菩薩は、智慧の完成により、心が融通無碍(ゆうずうむげ)になり恐怖もなくなりました。すべての倒錯・夢想が消えて、心が静まり返りました。
  三世の諸仏とあがめられる悟った人は、坐禅修道によって無生心と無住心をひらいて、仏と同じになりました。坐禅修道は、神のような、光明のような、これ以上のない、比較にならないよびかけです。
  無生心である仏心仏性になれば、すべての苦しみを除きます。真実であり、嘘ではありません。
  だから、坐禅修道の真言は次のように説かれました。
  ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スバーハ
  〔
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、悟りよ、幸あれ〕
  智慧の完成のこころは説き終わりました。
               (
この語句の訳は、中村元夫先生訳を用いました)
               ―― 『自分さがしの般若心経』(松原哲明・著/NHK出版)

  次の『入門 般若心経の読み方』(ひろ さちや・著/日本実業出版社)は、私が最初に購入した般若心経の解説本です。1981年に出版されたものですので大変古い本ですが、著者は現在もさまざまな仏教経典の解説書を世に出しておられます。

<般若心経現代語訳>

釈迦牟尼仏が説きたまえるすばらしい般若波羅蜜多の精髄を示したお経

  観世音菩薩――(別名、観自在菩薩。つまり、観音さま)――が、その昔、深・般若波羅蜜多を実践された時、物質も精神も、すべてが空であることを照見されて、一切の苦厄を克服された。
 舎利弗(あるいは舎利子。サーリプッタ)よ、あらゆる物質的存在は空にほかならず、空がそのまま物質的存在にほかならない。物質的存在がすなわち空、空がすなわち物質的存在なのだ。知ったり、感じたり、判断したり、意欲したりするわれわれの精神作用も、これまた同じく空である。
 舎利弗よ、すべての存在が空である――すべての存在に実体がない――ところから、生滅もなく、浄不浄もなく、また増減もない。したがって、実体がないのだから、物質的存在も精神作用もなく、感覚器官もなければ、対象世界もない。そして、感覚器官とその対象との接触によって生じる認識だってない。人間の根源的な無智迷妄がなく、また無智迷妄が消滅するわけでもない。そして、老死という苦しみもなく、老死という苦しみが消滅するわけでもない。仏教で説かれてきた「四つの真理」もなく、智もなければ得もない、もともと得るということがないからである。
 菩薩(求道者)たちは、般若波羅蜜多を実践しているので、その心はなにものにも執着せず、またわだかまりがない。わだかまりがないから、恐怖もないし、事物をさかさまに捉えることもなく、妄想に悩まされることもなく、心は徹底して平安である。過去・現在・未来の三世にまします諸仏たちも、般若波羅蜜多を実践されて、この上ない正しい完全な悟りを得られたのだ。
 だから、このように言うことができよう。般若波羅蜜多というのは、すばらしい霊力のあることば、すなわち真言であり、すぐれた真言、無上の真言、無比の真言である、と。それはあらゆる苦しみを消滅させてくれる。じつに真実にして虚ならざるものである。そこで、般若波羅蜜多の真言を説く。すなわち、これが真言である――。
 往き、往きて、彼岸に達せる者よ。まったき彼岸に達せる者よ。悟りあれ、幸あれ。
           ――『入門 般若心経の読み方』(ひろ さちや・著/日本実業出版社)


  私の本棚にはさらにいくつもの般若心経の解説本が並んでいますが、前出のコンノケンイチ氏の本を除くと、どの解説本の内容も「空」の解釈で行き詰まっている感じがします。ですから、般若心経の中でももっとも有名な「色即是空」という言葉の解釈がまったく抽象的で、読んでも理解できないのです。
 ここでご紹介した2つの訳文の中から、その「色即是空」を含む内容の解釈を抜粋して見てみましょう。

原文 
 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

松原哲明氏の訳文
 仏弟子の舎利子(しゃーりーし)よ。存在するものは恒常ではなく無常であり、無常なものが存在するのです。存在は実体がつかめないし、実体のつかめないものが存在です。時々刻々と変化していくからです。実体がつかめないのが、形あるもの・感覚・心理・動き・教えです。

ひろさちや氏の訳文
 舎利弗(あるいは舎利子。サーリプッタ)よ、あらゆる物質的存在は空にほかならず、空がそのまま物質的存在にほかならない。物質的存在がすなわち空、空がすなわち物質的存在なのだ。知ったり、感じたり、判断したり、意欲したりするわれわれの精神作用も、これまた同じく空である。


  いかがでしょうか。これらの訳文を読まれて、般若心経の意味するところがおわかりになりましたでしょうか。仏教経典の第一人者と言われる方々の解釈がこの程度ですから、般若心経がただ読誦用の「ありがたいお経」として、あるいは写経などの素材として普及するのもやむを得ない気がいたします。
  ついでに、同じく仏教経典の解説者で知られる花山勝友氏(二代目)監修による『[図解]般若心経のすべて』(光文社)からも同じ箇所の訳文を載せておきます。

花山勝友氏監修の訳文
 シャーリプトラよ。形があるとは空と同じことなのだ。しかし空であることもまた形なのだ。形があるからこそ空であって、空であるから形があるのだ。人間の精神もまた同じである。

  この『[図解]般若心経のすべて』は、仏教全般の知識がコンパクトにまとめてあり、大変参考になる良書です。「空」の解釈については他の著者と同じように戸惑っている感じがしますが、般若心経全般を理解する上では大変参考になります。仏教の入門書としてご購読をお勧めします。

  さて、何れにしましても、仏教関係の方の解説では「空」の意味が理解できなかったのではないでしょうか。般若心経が「読誦や写経をするだけで功徳のあるありがたいお経」であるのは確かでしょうが、その意味するところが理解できないままというのでは寂しい気がします。
  その般若心経の意味を完全に理解していたと思われるのが弘法大師「空海」なのです。前出のコンノケンイチ氏の書籍には、そのことが次のように述べられています。

  弘法大師「空海」は幼少名を「真魚(まお)」と称し、20歳で剃髪して「教海」と称し、その後「如空」と改め、22歳のとき東大寺戒壇で具足戒(出家として守るべき規律)を受けて「空海」と改名したとされる。
  宇宙とは「空の海」であり、「空海」という名前そのものだった。
  空海は、現代科学における死角的な盲点の発生と、「般若心経」が教える宇宙の究極の真理を知っていたと言い切ってしまってかまわないだろう。その名(空海)のみならず、その言動や施策を知れば知るほど、宇宙の真理と深淵を見た人物という印象が強くなる傑出した人物なのである。
              ―― 『般若心経は知っていた』(コンノケンイチ・著/徳間書店)


  ということで、そのコンノケンイチ氏の解説に耳を傾けてみたいと思います。

  「般若心経」を読んでまず素朴にわかることは、そこでは「空の理」と、この世は仮想現実(バーチャル・リアリティ)であるということを教えてくれているということである。
  前半は‥‥(中略)‥‥「この世のすべてが空」だと教えてくれている。後半は「無の作用」(この世は仮想現実のバーチャル)であると語っている。
  いったい何を申し上げたいのかといえば、「般若心経」は「無」と「空」を完全に区別していること。「無」と「空」は異なるのだと、しつこく宇宙の真理を私たちに教えているのである。
  「空」と「無」は異なる! 一見、なんのことはないと思われるこの一文に、じつは現代科学の死角的大盲点が隠されていたのである。
  現代科学(理論)には、「無」と「空」の区別が存在していない。というよりも、「無」と「空」の区別がアイマイのままに放置されてきた。現代科学の認識では「空」と「無」はまったく同じものであり、数学的な表現を借りれば単なる「ゼロ」の存在にすぎない。 しかし「般若心経」は「色即是空」「空即是色」と教えている。
  では、「空」とは具体的に何なのか?
  「般若心経」の「色即是空・空即是色」とは、この世(宇宙)の森羅万象を生じさせている素源(究極)物質こそ「空」(空間=真空)であり、万物は「空間」から生じ、また空間に還っていく。空間こそが万物の母体物質だ! と私たちに教えていたのである。

              ―― 『般若心経は知っていた』(コンノケンイチ・著/徳間書店)

  これだけではまだ「空」について理解するのは難しいかも知れません。あとはぜひ本書を購入して読み込んでいただきたいところですが、ここでは私のほうでさらに噛み砕いた解説にチャレンジしてみたいと思います。

  コンノケンイチ氏は、「空(空間)」を海水に、「物質」を氷山にたとえて説明しています。つまり、氷山は水でできていますので、溶ければ水に戻ります。この「水」が母体物質で、そのたとえで「色即是空・空即是色」を説明しますと、「氷は水でできている。水も固まると氷になる」ということになります。
  「色」は物質全般を意味しています。コンノ氏が指摘されているように、「空」を「無」と解釈しますと「物質はあるように見えるが、実はないんだよ」という珍解説になってしまうのです。
  コンノ氏はこの本の中で、空海の主著として『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』という著書の内容を抜粋して紹介しています。
  余談ですが、この空海の著書の解説本である『空海の『十住心論』を読む』(岡野守也・著/大法輪閣)は私も購入しました。「終末期における身魂磨きの要諦」として連載中の「カルマの法則」の中でご紹介していきたいと考えています。
  さて、空海はその名に「空」を冠しているように、「空」について看破していたというのは既にご紹介してきましたが、そのことは次の内容から理解できます。

  ‥‥「存在するもの(色)」は「空」であり、「空」はそのまま存在するものである。もろもろの現象している存在もまた同様であるから、そのようでないものは何物もない。それは一水と万波とが離れて存しないようなものである。また黄金という質量と装飾品という形相とが別のものでないのと同じである。
                ―― 『密教世界の構造』(宮坂宥勝・著/ちくま学芸文庫)


  つまり、「空」は「無」ではなく、それ自体が存在しているものであるということを述べているのです。それは「波」と「水」の関係であり、「金細工の装飾物(たとえば金の指輪)」と材料の「金」の関係であると述べています。
  「波」は「水」でできていますが、時間とともに消えてもとの水に戻ります。「金の指輪」も、溶ければ「金」に戻ってしまうということです。「水」も「金」も決して「無」ではありませんが、私たちは「波」や「装飾物」の方に目を奪われるため、それを見て「怖ろしい」と感じたり、「美しい」と感じて欲しがったりするのです。

  ということで、もう一度「色即是空・空即是色」の原文に戻ってみましょう。

原文 
 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

 この意味を、上記の空海の解説に基づいて解釈しますと次のようになります。

  舎利子よ、「波」が「水」でできているのと同じように、この世の「物質」や「現象」はすべて「空(=波動)」なのだよ。「空(=波動)」が形となって「物質」になり、「現象」として現れているのだ。だから、「金の装飾物」が「金」であるように、「物質」や「現象」は「空(=波動)」であるということができる。「空(=波動)」が「物質」をつくっているということだ。同じように、精神的な作用(=受想行識)もすべて「空(=波動)」なのだよ。

  前回ご紹介した拙著『2012年の黙示録』(たま出版)の中で、私は「空」を「波動」であると説明しています。それは今日の最新科学(量子力学)が、「この空間は究極の母体物質(真空エネルギー)で満たされている」という結論に到達しつつあり、その母体物質には「粒子」としての側面と同時に「波動」としての性質があると結論づけていることに基づいた解釈です。
  前出のコンノケンイチ氏の著書にも次のような一文が紹介されています。これは、世界的に有名で権威のあるイギリスの科学誌『ネイチャー』のコラム記事をまとめて単行本にした『知の創造』(徳間書店)からの引用となっています。

 ――ごく最近可能になった観測結果から、宇宙についての理論モデルは、その多くが厳しい条件下におかれることになった。宇宙の形とその歴史についての、1980年代の一般的な考え方は、今や捨て去られ、天文学者たちは、現在、宇宙はある種の真空エネルギーでいっぱいだという可能性を真剣に取り上げている。ただし、その真空エネルギーの正体は全く分かっていない――

  この「真空エネルギー」こそ、「般若心経」が「空」と命名し、それを理解した弘法大師が自らを「空海」と名乗るに至った「究極の母体物質」なのです。「空海」にあやかって、その「究極の母体物質」を海の水に例えれば、私たちが固いと思っている物質の数々は「氷」に相当するもので、溶ければもとの「水」に戻ってしまうものだということです。
  まず、このことを理解していただいたうえで、これから「般若心経」の全文をじっくり見ていきたいと思います。
  この時点での皆さまの率直なご感想は、「氷が水でできているように、物質が空でできていることはわかった。しかし、では水が氷に変わるように、空が物質に変わるプロセスはどうなっているのか」ということではないでしょうか。
  次回はそのことの説明を行なってまいります。ご期待ください。
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