北辺に斃れたタコ労働者
小池喜孝
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幽霊が出るトンネル

旭川駅を出た列車は、上川をすぎて間もなくすると、大雪山系をあえぎながらのぼりはじめる。
石狩国と北見国の国境にある石北トンネルの中程から急に速度を増し、トンネルを出た列車はオホーツク海に向かう斜面を一気にかけおりる。 湧別川が刻んだ谷はせまく、山と樹木が車窓にせまって視界をさえぎり、まるで林のトンネルの中を走っているようだ。
 遠軽で空を見たのも束の間、列車は再び樹林につつまれ、足をひきずりはじめる。
おそい列車の足取りが単調さを増幅する。 視界がぐんぐんひらけ、列車が速度をますのは、第二のトンネルを出てからだ。
窓いっぱいに広がる空を見て、解放された気分になる。 北見盆地に入ったのだ。
 盆地の入口にあるこの第2のトンネルは、常紋トンネルと呼ばれる。 常紋とは、北見国常呂郡と紋別郡の郡境を意味する。
常紋峠と呼ばれる山はさほど高くはないが深く、40分の1の勾配が長くつづく。
40分の1という鉄道勾配の限界をのぼるとき、機関車はあえぎを一段とはげしくする。
 このあえぎながら峠をのぼるSL(蒸気機関車)を撮影しようと、SLマニアは全国から常紋トンネルに殺到した。
摂氏マイナス30度に下がる冬の夜半、常紋信号所前の広場は、寝袋に入った人々で埋まった。
夜中に汽車がのぼってくる音は、10キロもはなれた留辺蘂駅を出発するときから聞こえ、マニアはそれを録音した。
『SLよ永遠に』という八ミリ映画のサウンド版はこう謳っている。
  「吹雪をつき  D51三重連は常紋を  越えていった……
  日本列島を北へ南へとおいやられ、仲間は減りにに減った蒸気機関車たち。  北海道行雪の常紋峠をS51三重連は今日も走った。  栄光の日々を走り抜け、今、滅びようとしている蒸気機関車を追い求め、カメラは北海道へ……」
 1975(昭和50)年のSL廃止まで、日に300人、多いときには1500人ものマニアが集まった。 これらの人々のなかで、常紋トンネルにまつわる幽霊話や怪談を知る人は少ない。 ましてこのトンネル工事に使役された人間の、SLよりもはげしい血を吐くあえぎを、知る人はいない。
「工事のとき人柱をたてたから、雨の日に常紋トンネルと通ると、“腹へった、ママくんろ”という声が聞こえる」
 と、地元の人たちはいう。
「トンネルを抜けて信号のガス灯を点滅しにいくと、駅員はよく幽霊に出会った」
 とは、元常紋駅員たちの談話である。
「機関車の前に血だらけの男性が立ちはだかったので、急停車した。 機関士がおりて調べると誰もいない。 出発しようとするとまたあらわれる。 機関士はとうとう発車できず、他の機関士がかわって動かした」
 と、元国鉄機関士は言う。
「常紋駅長の官舎に幽霊が出て、何代もの駅長を苦しめた。 幽霊が出るのは、床の間あたりにかぎられていた。 母さんがお産のとき、床の間に出たタコの幽霊を見た父は、生まれた弟が大きくなってからも、“おまえはタコの生まれ変わりだ”と言っていた」
 とは、その駅長の長男の言葉である。
 20数年前に、東京をはなれ北海道・北見に移住してきた私は、常紋怪談をよく耳にした。 だがそのころの私は、この幽霊話をどこにでもある「怪談」程度にしか受け止めていなかった。
文字や記録する術をうばわれていたタコ労働者が、幽霊伝承によって歴史を伝えていようなどとは、思いもよらなかったのである。
 SLマニアがカメラを持ってむらがった常紋トンネルから、留辺蘂側に1キロほどくだったところの330平方メートル(100坪)ほどの草原の前に、なんの変哲もない地蔵様がある。 その地蔵さまの横の表札には、次のように書かれている。
   歓和地蔵建立の由来
湧別線工事中最大の難工事とされていた常紋ずい道(507メートル)は、大正元年にはじまり3年の年月をかけて、大正3年10月に完成しました。 工事は本州方面から募集してきた労務社を飯場に収容し、通称タコと呼ばれたものによって行われた。
 労務者は人権を無視された過酷な取扱いをうけ、粗食と重労働で病気にかかるものも多く、医薬も与えられず、体罰を加える。 そして使役不能とみたものは、一定の箇所に監禁し、死者はそのまま次々と大きな穴の中へ投入してしまうという、残虐非道なことが、公然と行われたといわれている。 このずい道工事中、百数十人の若者が犠牲となり、ずい道付近に埋められております。
 常紋信号駅が開駅してから、誰れ云うとなく「火の玉が出る」「信号が消える」などの噂も出たり、常紋に居住している歴代の職員家族に、病人が多く出るのも、怨霊のためではないかと云われていた。
 そこで、これらの痛恨で眠れぬ迷える魂の供養を営むべく、留辺蘂町長を始め町議会議員、各業者等個人の援助と、中湧別保線区の協力により、昭和34年に歓和地蔵尊を建立し、同年6月24日には、地蔵祭を行い霊を慰めている。 地蔵尊は、ここで鉄道建設に捧げられた尊い犠牲者の御霊を永久に祭り、今日石北本線の一環である常紋信号場の安全と、職員ならびに家族の精神の安定に、寄与されているのである。
  昭和四十六年 月 日 建
 1912(大正元)年から3年がかりで完成したこのトンネル工事で「百数十人の若者が犠牲となり」「死者は……大きな穴の中へ投入」されたと「由来」は記している。 いわば多数の犠牲者を出しながら、その死体を遺棄したというわけだ。 もしこれが事実とすれば、たいへんな歴史がこのトンネルには隠されていることになる。
 常紋怪談のうしろに歴史があるのではないか、と思い始めたのは、私が北海道開拓に使役された囚人労働を調査しているころからだった。
 北見に鉄道が開通したのは、1911(明治44)年だが、道路はそれより20年前の、1891(明治24年)に開通した。 網走から北見を通って留辺蘂へ出る。 そこから常紋の難所を避けて迂回して遠軽へぬけ、大雪山系をこえて旭川に達する道路のうち、網走から北見峠までの全長165キロが、ロシアのシベリア鉄道計画に対する軍用道路として一年間で完成された。 その労働力に囚人が対象となり、1891(明治24)年に網走集治監(刑務所)をつくり、1200人の囚人が道路工事に出役させられた。 この道路を網走道路というが、別名「囚人道路」とも呼ばれた。
 北見盆地の東端にあたる端野町緋牛内の網走道路の坂の中腹に、三つの塚がある。 のちにこの地に入った屯田兵家族の人々は、道路わきにたくさんあった土まんじゅうから、鎖のついた囚人の死体が出てくるので、「鎖塚」と呼んだ。 開拓とともに消えてしまった土まんじゅうのうち、緋牛内の三つの塚だけが残った。
 遠軽から大雪山系へ向かう中央道路が湧別川沿いをさかのぼる遠軽町瀬戸瀬にある囚人墓地で、1958(昭和33)年5月3日、瀬戸瀬青年団と婦人会が、67体といわれる遺骨のうち、45体を発掘した。 また、1973(昭和48)年10月10日には、大雪山麓の白滝村に埋められていた囚人の遺骨6体を発掘した。 頭蓋骨は樹木の細根が食い込んで、怒髪天をつくかのようだった。
 いずれの発掘も地元の言い伝えが事実であることを証明したのだが、「鎖塚」はもちろんのこと、他の囚人の墓についても、官側の資料には一行も記されてはおらず、発掘や供養のいっさいは、地元の人の手で行われた。
 私はこの道路工事で死亡した囚人の殉難者名を知ろうと、過去帳を探した。 「収(囚)人過去帳」は、札幌の東本願寺別院の、宝物庫の中にあった。 1881(明治14年)年の樺戸集治監設置から、1934(昭和9)年までに、北海道と樺太(現サハリン)で獄死した4600人の氏名が記されていた。 また「網走刑務所過去帳」によれば、1891(明治24)年の死亡者は238人で、そのうち道路工事以外の死亡者26人を引いた212人が、囚人道路の殉難者だった。
 行刑の本文は、囚人の改悛更生にありながら、囚人の人権を無視して開発に酷使したのだ。 行刑は懲戒を第一とすべしと命じたのは山県有朋であり、懲戒の他に「労働力」として資本の鞭を加えさせたのは、太政官書記官金子堅太郎だった。 金子は1885(明治18)年、太政官(のちの内閣)の命令で北海道を視察し、次の復命書を提出した。 「彼ら(囚人)はもとより暴戻の悪徒なれば、その苦役にたえず斃死するも、尋常の工夫が妻子をのこして骨を山野にうずむるの惨情とことなり、また今日のごとく重罪犯人の多くして、いたずらに国庫支出の監獄費を増加するの際なれば、囚徒をしてこれを必要の工事に服せしめ、もしこれに堪えず斃れ死して、その人員を減少するは監獄費支出の困難を告ぐる今日において、万止む得ざる政略なり」(現代仮名遣いに改める。 以下同じ)
 囚人の死を、監獄費支出の減少として奨励した金子は、囚人の血に染まったその手で帝国憲法法草案を執筆した。 
 1885(明治18)年に提出された金子復命書によって、翌年、北海道庁が開設され、その道庁によって死の囚人労働が実行に移されたのである。
 幌内炭坑のために設置された空知集治監では、1886(明治19)年以降、囚人の死傷者数が急増した。 1886年に、アトサヌプリ硫黄山(釧路支庁弟子屈町にある)の硫黄採掘と精錬のため、標茶に釧路集治監を設置し、その囚人を使った。 彼らは硫黄で失明し、栄養失調と過労で倒れた。 硫黄山経営者安*善次郎(安*財閥の創始者)は、ここに釧路鉄道をしき、純粋度世界一の硫黄を釧路港から輸出し、利潤が保障された。 しかし囚人の生命は保障されなかった。
 官側の歴史には、偽りや歪曲や隠蔽が多いことを、この囚人労働を調べたとき思い知らされた。 官は自分に都合の悪いことを記録しないし、記録させない。
私は、次第に、「常紋怪談」にも隠され消された歴史があるという確信を持つようになった。  私は、歓和地蔵の由来を書いた元常紋駅長(1971〜73)の岩*徳明さんや、駅長時代(1951〜55)に初めて遺骨を供養した手*年正さん(1903・明36年生まれを訪ね、トンネル近くにある地蔵様の由来を聞いた。
「常紋信号所には駅員と保線区員が15,6人つとめていたが、常紋勤務はいやがられた。 火の玉を見たとか、お化けが出るとかの噂があっただけでなく、家族に病人が出たり、事故がたえなかった。 タコのたたりであろうと思って、部落会議をやってタコの骨を町の寺に移葬することにしたんです。 留辺蘂の町役場にも交渉して話が決まったころ、私も不眠症にかかり、知り合いから『そりゃあ、霊魂が最初の土地に眠っていたいといってるからだ』と言われ、移葬を中止したんです。 常紋駅長の終わりごろですから、昭和30(1955)年ごろです。
 なにしろそのころは、山菜採りに来た人が落ちた穴から、ちょいちょい白骨が出たりしたもんです。 セメント樽に入れて埋めたのもあるらしく、穴の中から腐った木と骨が出たりしました。 その骨は、私がやめたあとに建ったお地蔵山の下におさめてあります」
 手*さんの不眠症も、神主さんのお祓いをうけたら全快したという。
 北見相生(津別町)駅長に転出していた岩*さんは、「由来」をまとめるのに、言い伝えを聞いて回ったという。
留辺蘂町西照寺の住職小*珠諦さんなどから「百数十人が死亡」したとか、「病人は一箇所に監禁して、死亡すると遺棄した」とか
「ずい道の中にも埋められた」と聞かされたという。
 地蔵様建立のとき、歓和地蔵裏の空き地を掘った人がいた。 元国鉄職員田*丈夫さんの奥さんしずえさん(1910・明43年生まれ)である。 「あのとき(1959年の歓和地蔵建立のとき)は、国鉄営林支区長の相*泉さんに頼まれて、出面(出稼ぎ)に出たんです。 国鉄職員の奥さんたち8人で二日間掘り、49柱の仏さまを掘り出しました。 まだあったかもしれないが、もう体力の限界でした。 お地蔵山の祀りに間に合わせようとしたんだから、6月20日ごろだったでしょう。 仏さんには一つずつ、卒塔婆を立てて供養しました。 この写真は最後の一体ですが、国鉄の職員がうつしてくれたものです」
 私は、元常紋駅長の話をたよりに、「常紋怪談」の伝承者を捜し回った。 そのうちに、由来記の「死者は……大きな穴へ投入し」たという、その大きな穴を見たという人がみつかった。 三*おしんさん(1905・明38年生まれ)である。 生田原町伊吹の親戚の家でお目にかかったおしんさんは、品のいいきれいなお婆さんだった。
 彼女は1916年(大正5)年に紋別から生田原市街へ移ってきた。 それから4年目に、兄のつとめていた斉藤木材が町の大火で焼けたので、嫁入り支度のことを考えて、友達といっしょに国鉄の植林に出た。 200人以上も出て、ひとり250本の松の苗木を、2メートル間隔に植えて歩き、1日1円20銭もらったという。
「常紋トンネルの手前にタコ部屋のくさってつぶれたのがあって、そこんとこで頭蓋骨を見たんです。 そのとき線路の向こう側で『助けてー』という声がするのでかけつけたら、友達が大きな穴の中にドボンと落ちていたんで、手を引っ張って引き揚げたら、腐った骨が足について出てきたんです。 穴の中に死骸が、10体くらい見えたんですね。
 その穴は一坪(3.3平方メートル)以上もあってね、崖の中間の少し平らなところでしたが、今は変わってしまって、わからないと思います。 お寺の阿*さんなら、あとで卒塔婆建てて供養したそうですから、知ってると思いますよ」
 おしんさんは、人柱がたってるという話をその当時から聞かされていたので、植林のためトンネルの中を通るとき、こわくてみんな走って通ったと話した。
 植林が生田原町大火の1920(大正9)年に行われていたのを確かめた私は、「死者は……大きな穴の中へ投入し」遺棄したのは、どうやら事実のように思えてきた。 そこでおしんさんが話した「大きな穴」のところに卒塔婆を建てたという阿*正道さん(1901・明34年生まれ)を訪ねた。
 町役場の隣りにある曹洞宗法泉寺の方丈である阿*さんは、陸軍将校として出征しただけあって大声の元気のいい方だった。 阿*さんは、1926(大正15)年に生田原町に来た人だから、タコが使役された鉄道工事を見ていない。 しかし、生田原に鉄道がつくというので1913(大正2)年に車掌をやめ駅前に雑貨屋を開いた、この町の草分け的人物根*慶吉氏から、阿*さんは鉄道工事の話をよく聞かされて知っていた。
 根*氏は留辺蘂の梶*商店さんから奥さんをもらい、商品はそこから運んできた。 その往復に常紋トンネルを通り、飯場でも商売をしたので、タコをじかに見ていた。
 その話によると、工事人夫の待遇が悪くて、脚気(水腫病といった)の病人がたくさん出た。 病人が出ても治療しないし、当時この病気は伝染病だということで、生きているうちに穴を掘って、埋めてしまったという。
 また根*氏は、棒頭(タコの幹部)がタコをスコップで叩いてトンネル内に人柱としてたて、それをみせしめにして他のタコを働かせているのを目撃したと、阿*さんに話したこともある。
「卒塔婆はな、昭和12、3(1937、8)ごろ、川*徳四郎っていってな、地*組(北海道の代表的な土建請負業者で、1880年代に創業)の下請けだった川*組の親方に頼まれて、供養したんだ。 川*さんは、生田原の金山の仕事で来た人で、当時羽振りがよくてな、供養しないと祟られるからといってな、まあ縁起かついだんでねえのか。
 そこの場所はな、生田原側のトンネルを出て、最初の踏切の手前だったかな。 穴がいっぱいあってな、鉄道の用地内で木がはえてたな。 急な崖をのぼるとき、川*組の若い衆が、後から押してくれたな。 いまいってもわかるかもしれないぞ」
 そう言って寺を出た阿*さんは、72歳とは思えぬ健脚で夏草をかきわけかきわけ2時間ほど捜し回った。 植林の崖の中腹に、50センチほど陥没した畳一枚くらいの穴があった。 阿*さんの足がぴたりとそこに止まり、線香をあげお経を唱え始めた。 私も三*おしんさんが語った、10体のタコの遺体を思い浮かべながら合掌した。 同時に私はそのとき、水腫病で助からぬとされたタコが生き埋めになった跡地に、なんとか碑をたてて供養したいものだと考えていた。 このとき不覚にも、私はこのくぼ地に目印を建てることを忘れた。 翌年この地点を掘ろうと、数十人の調査団と訪ねると、夏草のしげり具合で変貌していて、その地点を確認できなかった。 高齢でめっきり体力のおちた阿*さんを、再度わずらわすこともできず、その後この卒塔婆のあったところを、戦前毎年お盆に供養していた鉄道保線区の3人の方々に探してもらったが、跡地はいまだにわからずじまいになっている。
 さて、常紋トンネル工事で、百数十人が死んだという「タコ」とは、いったいどんな労働者だったのか。
 明治政府は、当初、北海道を開拓するのに、「士族・屯田兵・囚人」という三つの拘禁労働者を送り込んだ。 優位氏で渡道したり帰郷できる者には、寒冷に堪えて原始林を切り開くことは、難しかったからである。
 失業士族は授産地として北海道に移された。 1874(明治7)年から1899(明治32)年までに、開拓と防備を目的にした屯田兵とその家族約4万人が、道内各地に移住した。 屯田兵は家族を使って、5年以内に給与地を開墾する義務を負った。 士族だけからのちには平民にも資格が与えられた屯田兵には、比較的肥沃な土地が給与された。
 道路や屯田兵屋の一部は、囚人によってつくられた。 1881(明治14)年の樺戸集治監に始まり、翌82年に空知、85年に釧路、91年に網走の各集治監が設置され、多いときには7千人以上の囚人が開墾・道路工事・建築現場のほか、炭坑・鉱山の採掘・精錬などに使役され、硫黄山・網走道路で多くの囚人を死なせた典獄(刑務所長)・教誨師ら行刑官は、囚人に懲戒の鞭と資本の鞭をあてる誤りを訴え、囚人の外役労働廃止を内務大臣井上聲に求めた。 1894(明治27)年、囚人の外役労働は廃止されたが、廃止を主張した行刑官はそろって職を追われた。
 囚人に代わって北海道の拘禁労働者の主力になったのが、タコである。 囚人の鎖に代わって、暴力がタコをしばった。 誘拐または脅迫されて連れ込まれた内地のタコ(他雇ともかく)と、わずかな前借り金をもらった道内のタコ(地雇ともいう)は、逃亡できぬようにつくられた飯場に収容され、棒頭と呼ばれた幹部に監視された。 この飯場は「タコ部屋」または「監獄部屋」と呼ばれ、囚人労働の悪しき伝統を受け継いだ。
 「タコ」という名称の由来は、先に述べた術と労働を売ることを「タコを売る」と言い、このことから「タコ」と言う名がおこったという説もある。
 一方、いちどタコ部屋に入ると、抜け出せず、結局「蛸」が自分の手足を食って生き延びるように、自分の体を売って生きるので、「蛸」と呼んだとする説も、一般に普及している。 あるいはまた、タコは常に逃走の機会をねらい、逃げ足が早いので、糸のきれた「凧」にたとえたという説もある。
 「タコ」という名称の由来が一つにしぼれないのは、内地からだまされてきた「他雇」、その未熟練タコを命令監視する棒頭の熟練工、タコを雇う親方など、それぞれの立場によってこの拘禁労働に対する多様な見方ができるからである。
 小学校3、4年生が使う社会科読本『わたしたちのきょうど』(室蘭市教育委員会編、1974年刊)は、タコについて次のように記述している。
「……明治27年になって政府は囚人の労働があまりにもひどいことがわかって、とうとう、この制度をやめてしまいました。
 お墓をたてられなかったこの人たちは、北海道の開拓の土台になったのです。 北海道の道ろと、鉄道や炭坑や港などの地下に今もねむっていることでしょう。 
 やがて、このような囚人たちのことを、もう一度、深く考えてみようと調査や研究がはじまり、また、心ある人たちは、『いれい碑』と『共同墓地』などをつくって、くようすることになりました。 囚人労働はやっとの思いでやめることになりましたが、今度は土工夫たちを使って、ふたたび開拓がすすめられることになりました。(中略)
 土工夫の親方は工事を請け負うと、その現場に『土工部屋』をつくり、数十人、あるいは百人以上もの人々を集めてきました。 このような土工部屋は北海道に何百もありました。 
 土工夫の多くは、まずしい人たちでしたので、親方に借金をしていました。 かりたお金を返すために、一生懸命働くのですが、 どうしてもお金を返せない仕組みになっていました。
 土工夫たちは、朝は3時半にたたきおこされ、夜は7時まで休みなく働かされました。 食事は1日に4回、立ったまま食べるのです。 米1分、麦9分、生味噌と少しのなっぱ、時々うすい塩マスのきれはしがつくだけでした。
 休みの日もなく夜は土工部屋にカギをかけられ、ぼう頭がいつも見はっていました。
 こんなにつらい仕事でも、1日働いてわずか1円30せん、その中から、毎日、食事代に70せんひかれました。
 ちかたび1足1円30せん、これも3日ぐらいでぼろぼろになりました。
 土工夫たちは、つらい現場からのがれようと、5人にひとりは、こっそりにげたのですが、道路や橋、
 山や海岸には、みはりがれんらくしあって、つれもどされるか、そのばでころされたということです」
 この文章が「副読本」に記載されるまでのは、いろいろないきさつがあったようだが、北海道では「タコ」についての見聞・体験記や伝承が多いにもかかわらず、公に語られることが少ない。 囚人やタコを、歴史の恥部としてとらえ、隠す意識が強いのである。 とくにタコについて、その傾向は強かった。
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