北辺に斃れたタコ労働者
小池喜孝
タコ部屋暮らしを長年やった山*さん(1907・明40年生まれ)は、埼玉県越谷の農家の次男に生まれ、現在北見市の近くに住んでいる。 民衆史講座は氏を招いて、タコ部屋について語って貰った。 下飯台のタコの話を期待していたが、その日山*さんは、主催者の期待した通りには話さなかった。
初め下飯台のタコの立場に立っていた氏の話は、途中から棒頭の立場に変わり、下飯台のタコを「弱者」ときめつけた。 山*さんの話は、今金町の宗*朝司さんの話を思い起こさせた。
タコ労働の目撃談を聞きにいった今金町の教師たちに、宗*さんが語ったのはこうだった。
「くちいれ稼業というのはおもしろい世界でね。 とにかく他人より能率をあげればすぐ階級があがるんだな。 軍隊以上だな。
犠牲になったのは能率の悪い人だ。 あの時代の軍隊と同じでタコ部屋も実力主義だった。 とにかく人より物が大事な時代だったんだから。
タコは金で買った奴隷ですよ。 奴隷に人権なんかないですよ。 お役所だってそれを知っていて予算を組んだわけで、とにかくそんなあまい時代ではなかったですよ。
使う者と使われる者が同等などとは、考えられない。 要は金で買った物だ。 観念的に今の労使関係と同一に見ることはできない。 北海道の開拓は監獄部屋にはじまり、いわずもがなそれが基準になっていたわけだ」
タコ部屋を、弱肉強食の実力の世界だから、男らしいやりがいのある仕事だったと見ている点、宗*さんと山*さんの考えは似ていた。
民衆史講座での山*さんは、自分に似た短躯で胸幅の広い人体図を黒板に描き、肩の部分を盛り上がらせて毛をかきそえて、こう説明した。
「仕事に慣れてくると、こういうふうに肩のタコが盛り上がり、石のように堅くなり、ここに毛がはえれば一丁前になる。 これがほんとうのタコだ。 一丁前のタコは、道路工事ののり(寸法)も切れたし、仕事はなんでもできた。
弱いやつが病気になる。 病人はタコ同士でモッコに入れてかついで運び、現場に寝かしておく。 現場に寝かされたタコには、アブがとまる。 これを払えば、『なんだ! 動くな!』と怒鳴られ、手足をしばられるから、アブに食われっ放しで、顔を腫らしてしまう。 かわいそうだが仕方がねえ」
完全に「強い」棒頭の立場に立った山*さんの話に、会場は白けたが、山*さんは一こうに構わず、話を進めた。
「逃走者が出ると、人夫を飯場に閉じこめて、幹部がいっせいにつかまえにつかまえに出動する。 なにしろ、タコぐらいいいもんはない。 女を抱いて酒飲んで、300円の前借りでタコ部屋へはいる、そこのタコ部屋がわるけりゃ逃げる。 木の陰に逃げ込んで4、5時間かくれてりゃあ、追っかけてきた連中ももどる。 そこで農家にかくれて朝になる。 農家で『もう少しいなさい』というのを出ていくと、爺さんが着物や高杖を貸してくれる。 それを借りて逃げ、旭川へ行き、中*遊郭へあがってまた酒と女だ。 金は旭川の『大*』が払ってくれて、前借りになる。
逃走者を追っかけてつかまえられない幹部は制裁くらったり、もとのタコに落とされたりするから、つかまえられなきゃ逃げてしまう。 つかまえて帰ってくれば優秀な幹部とされる。
タコをつかまえるには要領があって、『コラッ』と大声でやると相手が震え上がる。 そこで足をやっつけてしまい、連れ帰って週番に手当てさせる。 週番はおっかさん役だ。
タコが死んだ場合は『逃走届け』を一枚警察に出せばよい。 『逃走届け』っていいもんだった」
「追い回し」にはボッコ(棒)の先に針をつけ、それで尻をつっついたりもした。 「追い回し」のコツは、トロッコの前と後ろをかため、先頭を速く走らせ、おしまいの尻を叩くのがよかったという。
弱いタコは「幹部さん、便所出たいんです」と泣きつくから、「屁でもしておれ」と行ってやる。 長く便所させないで、「いつまでやってるか」と怒鳴ると、「まだ出ません」という奴もいたから、途中でやめさせた。 「早飯、早ぐそできねえうちは、一人前のタコとはいえねえ」と山*さんは語る。
氏は現場を転々と変え、戦争中には通訳を使って置戸鉱山で中国八路軍の兵士を働かせたという。 中国語を知らねばと思って、本を借りておぼえたが、日本が負けたのでタコをやめ、留辺蘂のイトムカ水銀鉱山に16年間つとめ、運良くおっかちゃんをもらい、娘も嫁にいって孫が生まれた、という。
話が終わって、参加者から山*さんに質問がとんだ。
「今でもタコ部屋あったら、どうします」
「ああ、行こうと思うね。 信用部屋なんて、あんなぬるま湯みてえのじゃなく、規律があって男らしいタコ部屋なら、今からでも行くね」
胸を張って答える山*さんを、私は呆気にとられて眺めた。
「非人道的で陰惨」とだけ見ていたタコ部屋を公然と支持してはばからない人に出会い、とまどいをおぼえた私の心を見抜いたのか、その夜、山*さんは車で送った教師にこう話したという。
「小池先生とおれのタコの見方、どうもちがうようだな。 先生の期待してた話と違って、先生困っただろうな」
山*さんは、タコ部屋酷使史観に一矢酬いた快感を語ったのであろう。 話の御礼に差し上げた金一封を、氏は帰りの車中で取りだし、「いくらくれたかな、一枚かな」とひとりごとをいい、袋をあけて「あれっ、5枚入ってらあ。 あれの話に5,000円くれたか。 よっ、先生、これで飲もう。 おれは今夜、話をする前に元気付けに1本(4合入り焼酎ビン)、会場ではトイレに立ったふりしてまた1本あけた。 こんどは先生と一緒に飲もうや」と言って、送り届け役の教師を酒場に引き込んだ。
土方稼業50年の山*さんは、現在も土建の仕事でいそがしく、冬の間だけ娘や仲間の家を転々としているが、彼をつかまえることは娘でも難しいという。
山*さんの話が、タコ部屋には、陰惨一色で塗りつぶせない面のあることを教える。 タコ部屋は住み心地が良いという人もいたし、タコ部屋以外に生活の場所を見出せない人もいたのである。 彼等のタコ部屋の楽しみとか生き甲斐とは、どこから生まれるのであろうか。 1932(昭和7)年に、青森地方職業商会事務局がまとめた「調査」は、この点にふれている(カッコ内も原文のまま)
「自分はこうして星の下に生まれついているのだ。 自分の境遇はこんなものであって、いかほど騒いだところで如何にもなるものではないのだと観念のほぞを固めているのが彼等(土工夫)の生活である。 そこには思想的なる何等の煩悩も貧農もなくひたむきに働いて面して喰っていく。 それのみではない。 中には真に現在の生活に満足し、感謝し、礼賛しつつある者すら決して少なくはないのには驚く」
私が山*さんに持ったような驚きが、ここにもある。 「タコ部屋礼賛」はどこからくるのか。
「都会の激しい生存競争に疲れ切った者、落語した者、彼等は如何に永い歳月深刻なる失業苦をなめ尽くして来たことか。 職業紹介所の軒下に幾日幾夜を待ち明かしたことか。 襲い来る飢餓と不安に、幾度街灯に昏倒したことか。 しかもなお彼等には働くべき仕事は与えられず、温かいパンの一片だに恵まれなかった。 こうした形容しがたい精神的、肉体的苦痛を体験してきた彼等に在っては、そこ(土工部屋)は唯一の楽園にも等しかった。 そこには失業というものがなかった。 達者で真剣に――それは牛馬のようにぽい廻されるものであるとしても――働いてさえいれば3度(ないし4度5度)の飯に事欠く憂いもなく、夢を結ぶ良きしとねものべられており、かつての身を刻むような悲惨さにくらぶれば、それが如何に過激な労働であろうとも、如何に獲る所の物が貧しくとも、はるかに幸多き暮らしであり喜びであった」(北海道に於ける土木労働者に関する調査)
タコ部屋は、日本の風土に根ざした土着性を吸引力にしながら、失業者群が存在するかぎり、生命をもちつづけるであろうことを、山*発言と調査資料が語っている。