北辺に斃れたタコ労働者
小池喜孝
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大資本の北海道・樺太進出

 日露戦争後の北海道には、王子製紙・富士製紙(のち王子が併合)や日本製鋼などの大企業が進出した。 タコは大資本の工場に原料・燃料を運ぶ鉄道線路をつくっただけでなく、工場建設にも使われた。 『王子製紙社史』は、1909(明治42)年の支笏湖の王子水力発電工事現場の模様を記している。
「大*組では多数の人夫を使用して、……その人夫というのは世間で問題になっている内地から誘拐されてきた者が多く、……酷使に耐えかねて逃走する者も多い。 ……山線(軽便鉄道)で行くと山林中にセメントの空樽が山と積んであるのを見るが、それは逃亡人夫が死んだ時に使う棺おけだと云われていた」
 この王子製紙は国有林の立木払い下げに力を入れる反面、原木獲得のため、鉄道敷設が予定された地方の国有未開地の払い下げを受け、また私有林を買収した。 1910(明治43)年には500町歩(約500ヘクタール)だった所有山林は、1918(大正7)年には26000町歩に達し、1926(大正15)年には、わが国新聞用紙の75%を生産するに至った。
 この間、藤原銀次郎社長は、日本一の酷寒・豪雪地帯である雨竜川地域の森林と水に目をつけ、函館本線深川から朱鞠内を回って宗谷本線名寄に出る鉄道深名線の敷設をはかり、1923(大正12)年から14年の歳月を費やして、全線を開通させた。 土地の人々は深名線を「王子鉄道」と呼んだ。 王子製紙は、朱鞠内(雨竜)湖の水力発電と深名線による森林開発で、その生産を発展させた。
 4メートルに及ぶ豪雪を水源に持つ朱鞠内湖に、水力発電所を建設した多くの労働者の中に、強制連行・労働の朝鮮人が含まれている。 そのタコ部屋での死亡者は、いまだに確認できないほどの数に達し、現在地元の人々や僧侶が集まってつくった「空知」と「幌加内」の「民衆史をかたる会」の手で、発掘調査が進められ、大資本の道内進出がタコ労働者を使って行われたことを明らかにしつつある。
 日露戦争後、北炭も製鉄所を建設した。 日本製鋼がこれである。 日本ではじめての鉄鋼・石炭・鉄道・港湾をつらねる軍事工業組織の誕生は、やがて北炭を傘下に収めた三井資本と海軍軍閥と英資本とを結合させた。
 この日本製鋼の建設工事では、100人余りのタコが死んだという。
 大資本は、原料資源を追って奥地にも工場を建設し、その土木工事にタコを使ったことを、1906(明治39)年の『社会新聞』が伝えている。
「北海道空知郡金山(下富良野村)富士製紙会社(1933年王子と合併)水路部工事の人夫は百余名にして、其の多くは前年の凶作の為一時糊口を凌ぎ兼ねたる宮城県人が悪周旋屋の甘言に載せられて連れ来たられしものなり。 彼等は毎朝三時頃より労働を強いられ終日寸暇もなきより苦痛に耐えず、逃走せんとするも監督者の昼夜銃を手にして立番せるより其道なり、やむなく史を決して後方の山中に逃げいり暗夜空知川を越えんとして急流に溺死するもの其数を知らず」
 大資本はタコ部屋をたずさえて、植民地へも向かった。 朝鮮・満州(中国東北)・樺太(サハリン)の鉄道敷設や土木建築に、タコ労働が進出した。 旭川の荒*初太郎は朝鮮に渡り、朝鮮土木協会初代会長になった。 荒*ら業者とともに朝鮮に渡ったのは棒頭・世話役で、労働者は朝鮮人だった。 「世話役は棒頭及びピストルを携帯して人夫等を督励した」と『業史』にある。
 中国東北(旧満州)における戦時中の中国人労働者にたいする経過を、本*勝一氏は「タコ部屋的生活が、全東北地方の中国人にとっては、日常だった」(『中国の日本軍』)と記している。 函館の竹*組のように、北海道でタコ部屋を経営した土木請負業者が満州にも進出した。
 樺太の開発は、タコにはじまってタコに終わったといえるほどタコ部屋が盛んで、その「盛況」ぶりは、北海道以上である。 樺太では鉄道・道路・港湾・工場の建設が、1906(明治39)年の日本領有後いっせいにはじまり、建設業者は樺太を天国といった。
「樺太は日本領有以来、人手不足なうえに、定着して事業をする人が少なかったから、建設業者にとってまさに天国であった。
 仕事の切れ目がなかったから浮き沈みどころか、浮き一方で苦労知らずの業者が多かった」(『北海道建設業界史』1970年刊)
 業者が「浮き一方」だった状況は、次のような背景から生まれた。
 日本の植民地になった1906年の人口が12000余人だった樺太は、太平洋戦争がはじまった年の1941(昭和16)年には40万人になっていた。 この人口は、大企業による水産・森林・鉱物資源の乱獲といえるほどの開発に使われた。 樺太経営は資源乱獲の40年であっただけでなく、中国人・朝鮮人・アイヌを含む鉱夫・そまふ・漁夫・タコの労働力摩滅の40年だったと、堅田精司氏(『旧樺太内国貿易史』)1971年刊)は指摘する。
 大泊・豊原間の鉄道(1910年開通)や王子製紙大泊工場(1941年操業)に始まる鉄道・工場の建設は、北海道・内地から連れてきたタコによって行われ、タコ部屋は樺太植民地経営の根幹におかれた。
 労働者の体験談を記そう。 1923(大正12年)、17歳で樺太に渡り、徴兵検査までの3年間を労働者として暮らした木*国巳さん(1905・明38年、長野生まれ。 小学校時代に置戸に移り、在置戸町)は、こうかたる。
 2人の兄と共に出かけていった先は、豊原と真岡の間の逢坂の奥で、真岡支庁へ行って5町歩の土地の払い下げをうけたが、原始林だったので立木つきで土地を王子製紙に売り、「じゃこしか」になった。 「じゃこしか」とは、樺太にいるジャコウジカ(鹿の一種)がよく跳ねて飛び歩くところが島内を転々とあるく底辺労働者に似ているので、タコなどを含む底辺労働者をこう呼んだ。
 樺太鉄道(落合・知取間)や豊間線(豊原・真岡間)の工事中で、方々にタコ部屋ができ、朝鮮人も働いていた。
「タコ部屋の折檻を見たことがある。 上飯台(棒頭たち)が相談して折檻がきまると、ほとんど人間扱いされねえだ。 ロープでまいてつるされ、中には足をしばって逆さまにつるされるものもある。 下から松葉でいぶしをかけられ、くたくたにされ、そのあげくにまた叩かれる。 死ぬか生きるかのトコトンまでやられる。 翌日動けない奴は、モッコにのせて現場に運ぶわけだ。
 タコは、土間の方を枕にして寝た。 枕は長い丸太で、不寝番が土間を歩けば、タコの顔が見えた。
 朝は小口をがーんと叩けば、たいがいのもんはそれで起きた」
 樺太に「ジャコしか」が多かったことを、1928(昭和3)年に、東京から募集人夫(タコ)として、樺太西海岸の泊居に行った青*徳市史が手記(弓削小平「北辺の労働と出稼ぎ関係」所収)に書いている。
 青*氏が泊居の飯場を逃げ出して海岸を行くと、30人ほどの「ジャコしか」を置いて高く売っている店があり、“内地に帰る旅費がない以上、「ジャコしか」になるしか道がなかった”人たちが売られていたという。
 現役の海兵団を脱走、樺太のタコ部屋に潜入し、ソ連領への越境を考えたができず、憲兵に逮捕されて衛じゅ監獄生活を送った人がいる。
 豊*正義氏(1917・大6年生まれ、学校に4番目の弟を背負って通い、小学校を卒業すると奉公に出され、前借金による契約期限が切れるたびに家へ戻るという生活を続けた。
 1938(昭和13)年の徴兵検査に合格し、横須賀海兵団で半年訓練を受け、茨城県稲敷郡の鹿島基地に配属された。 小作の父親がうけた地主のむごい仕打ちに反感を抱き、「天皇の命令に絶対服従」という軍隊に反発し、外泊先から脱走した。 巡羅(海軍の憲兵)の目を逃れて一週間、キュウリを食べて山中に隠れ、農家から浴衣を無断借用して軍服を山に埋め、財布の底をはたいた金で荒川沖駅から上野に着いた。
「兄さん、樺太にいい稼ぎ口があるよ」とぽん引きに誘われるまま、上野駅近くの周旋屋に行き、二階へ上げられた。 北海道の友達の名を使って警察官の調べをパスし、タコ30人に10人の運び屋がついて、稚内から連絡船で大泊に上陸した。 途中の汽車や船では運び屋が、だますようにして運んだが、脱走兵の豊*氏にとっては、樺太のタコ部屋は絶好の隠れ家に思われた。 
 着いた現場は西海岸北部の西柵丹近くで、斗運から気屯に通ずる軍用道路の大塚組の工事場で、部屋には約200人のタコがいて、35人くらいの 棒頭がついていた。 傾斜地のトロ押しとモッコかつぎの苦しさは、豊*氏の想像以上で、身体がまいってゆくのが目にみえてわかった。
 計画した集団逃亡の機会がなく、数ヶ月後に5人で逃げたが4人つかまり、豊*氏は一週間、毎日リンチをうけながら働かされた。 ダルマストーブにくべる薪の上に正座させられ、その膝の上に米俵を一俵のせられ、両手を上にあげて水入りの洗面器を持たされた。 力つきて水をかぶると、その罰といって裸で戸外に立たされた。 11月の樺太は寒く、凍傷にかかった豊*氏の足指には、今も傷跡が残っている。
 殺され兼ねないと知った豊*氏は、部屋の解散までつとめようと観念した。 解散後、仲間5人で恵須取まで南下し旅館に泊まったが、ほかの4人は「ジャコしか」で、飲めた歌えしているうちに、周旋屋の監視がつき、名好の三菱系炭坑のタコ部屋に連れていかれた。 樺太の旅館は内地の旅館とちがい、ほとんど周旋屋と同じだった、と氏は云う。
 炭坑では、石炭を運んだり貨車に積み込んだりするのが仕事で、朝鮮人もたくさんいた。 この部屋でも脱走計画をたて、海岸沿いに南下することにした。 10人逃走して7人つかまり、豊*氏は海岸沿いに南に走った。 太平炭坑から奥に入った山を川沿いに行くと、流送人夫小屋にたどり着いた。
 鈴*という小屋の親方は、秋田県人で親切だったが、豊*氏が越境の話をすると、「とんでもないこと」だと説教した。 鈴*さんは入れ墨が自慢だった。 「ここへも憲兵が来る」と聞いた豊*氏は、鈴*さんに入れ墨を彫ってもらい、「人間改造」による変装をした。
 鈴*さんの口利きでやっとつくことができた「正業」が、王子製紙恵須取工場の信用人夫で、主任から親切にされた者の、「憲兵が年一回調べに来る」と聞き、ここに長居はできないと、遊興して周旋屋の世話になり、道路工事のタコ部屋に舞い戻った。 ここで食事のときを利用して仲間をつくり、冷遇されていた幹部も1人引き入れて、15人が仲間をつくった。
 1939(昭和14)年8月。 工事場で幹部をつるはしで襲い、脚をやっつけて南へ向かって走った。 馬が追ってくれば山にそれ、川を泳ぎ、山と海岸を縫うようにして逃げ、昆布を拾っては食べた。 脱走に成功した5人もバラバラになり、豊*氏はひとりで真岡にたどりついた。 
 真岡で木材の積み出し人夫をやっているうちに、仕事場の主任から認められ、製紙会社への入社を進められたが、逃亡兵であることが露顕するのを恐れてことわった。 ことわったことで怪しまれそうになり、再び炭坑のタコ部屋に入った。 露天掘りの炭鉱だったが、豊*氏はその地名をも出せない。 この炭鉱を逃走するとき、胸まである雪をかきわけたことと、たどりついたところが名好だったことを豊*氏は記憶しているから、おそらくは名好近くの西海岸の炭鉱だったのであろう。
 名好の旅館に入ると、炭鉱からの脱走記事が新聞に載っていて、すぐ私服と2人の憲兵に逮捕された。 憲兵から「脱走兵だろう」と執拗な迅門を受けた豊*氏が、黙っていると裸にされ、零下25度の戸外に立たされた。 凍死寸前に追い込まれ、ついに自白した豊*氏は、両腕ごと「胸錠」でしばられ、横須賀まで護送された。 軍法会議で4年の禁固を言い渡され、海軍横須賀衛 監獄に投獄された。 1940(昭和15)年のことである。
 ここでも脱走をはかって失敗し、重営倉に入れられ、3年半で「赦免」され海兵団に復帰し、最古参二等水兵として上官に敬礼せずに押し通した。 豊*氏の、その冒険性と不屈性に彩られた数奇の生涯は、日本人ばなれしてたいへん興味深い。
 豊*氏の話からは、タコ部屋に潜入した脱走兵がいたことが実証された。 さらに氏は「越境」を考え、上官への敬礼を拒否するなど反骨精神に徹しているが、その精神は、思想によって生まれたというより、土着性に根ざしているだけに一層興味深いものがある。 なお豊*氏がその数奇な半生を公表したのは初めてで、「逃亡兵ダコとしての3年間の樺太生活」をかたるまでには、氏の古くからの友人新*利平氏の説得があったことを付記しておく。
 樺太ダコの場合、その取扱いはきわめて残酷だった。 しかも、逃亡しても島外に出られず、ふたたびタコ部屋へもどることになって、悲惨な目にあった。 タコにとって樺太は、島全体がタコ部屋で、その境涯はジャコウジカのそれのごとく、生きて島外に出ることな難事であったに違いない。
 樺太での土工に対する暴行事件は、警察が検挙した数だけでも1940年には105件に達した。 北海道の1938(昭和13)年の受刑者数62に比べ、はるかに高いことがわかる。
 鉄道・道路・工場・飛行場はタコを使って建設し、石炭をタコと朝鮮人に採掘させて、大資本は成長した。 王子製紙は1939(昭和14)年には、樺太の全工業労働者の3割を擁し、その投資企業は樺太配電、南樺鉄道、樺太産業、王子発酵、王子工作、樺太セメント、樺太鉱業などにわたり、水産業以外の全産業をその支配下に収めた(堅田精司・全出書による。
 炭鉱労働にたずさわったのは主として朝鮮人労働者で、日本政府の手で強制連行され、大資本の下で働かされた。 第二次大戦敗戦後も帰国の希望が叶えられずに残留している朝鮮人が、まだいる。
 樺太植民地40年の大資本成長の歴史は、タコや朝鮮人など「じゃこしか」の苦汗労働の歴史でもあった。 タコや朝鮮人の苦汗労働をぬきにして、北海道・樺太における大資本の急速な成長はなかったのである。
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