信じ易きを信じる心理

[2001/08/23 Up]


 「信じる/信じない」という言葉が適用される事象とは、そのものが事実かどうか 不確定のもののみ に用いられます。例えばあなたが今、この文章を読んでいる限り生きているのは確実ですから、そのこと(あなたが今、生きていると言う事実)を他人に「信じてもらう・もらわない」で語る話ではないでしょう。

 しかし、国家・国際レベルの陰謀、スポーツの八百長、UFOや超能力などのトンデモ理論、そして都市伝説やウワサ。こちらは“事実”として厳然と横たわっている話ではありません。つまり、「信じる/信じない」で語られるべき話であり、そのことに異論は無いはずです。

 ただ、これらを「ある」もしくは「ない」と言い切って、それを信じ込んでいる人にとっては、私の挙げた例の括りに異議を唱える人はいるでしょう。では、 ある人から見れば笑い話でも、別のある人にとっては常識以前の当たり前の話 になってしまう原因は何でしょうか?

 私は心理学者でも専門家でもありませんし、大学時代に教養部で心理学を学んだ程度です。そんなシロウトがこれらの心理を解析するのもおこがましいとは思いますが、私が思うに得た情報が

 その人にとって納得できる・つじつまが合う・都合がいい

といった場合に「不確定」から「確定」へ情報は昇進していくのではないでしょうか?

 例えば競馬で勝ち続けた人がいるとします。その人をうらやんでいる負け組みの人の耳元で「あいつは競馬関係者と知り合いで、予めレースの結果を知らされている。そう、競馬自体はギャンブルを装った 競馬協会の集金システム で、その協力者への報酬は税金の掛かる給与と言う形ではなく、 当たり馬券の情報 として支給される」と囁いたとしたらどうでしょうか?
 普通の人は一笑に付すでしょう。しかし、そう信じ込んだら最後、見るものすべて 「当たり馬券での報酬説」を証明するもの に見えてしまいます。「競馬で勝ち続けた人」がまた勝てば「やっぱり」負ければ「このシステムを悟られまいとするためのカモフラージュ」などと言い出します。結果がわかっているレースに全財産をつぎ込まないのも目立たないようにするためとか…。

 このような例を笑えるでしょうか?ある異説を信じてしまった人とそうでない人は、同じ物を見てもまったく違う印象を持ってしまいます。いくつかのパターンで検証してみましょう。





- 超常現象の場合 -

 おでこに重ねた一円玉がくっ付くというデモンストレーションが超能力の一種としてTVで取り上げられているのを見た方も多いでしょう。その“信じられない”光景の説明に「超能力」という言葉が『納得できる・つじつまが合う・都合がいい』人にとってはそう信じてしまいます。しかし、納得の行かない人は当然疑うでしょう。その批判精神が大切なのです。批判もせず、 「あぁ、超能力なんだ」で済んでしまえば TVからの「垂れ流し情報」を鵜呑みにしてしまう 「スポンジ頭」に近づいていきます。 そうなってしまうと、今後目の当たりにする不思議現象に批判的目を向けられなくなり、「これは○○です」と言われればそれと信じてしまうようになってしまいます。仮に超能力と信じたとしても、鵜呑みにするより一度疑いそしてその疑いが晴れたから信じる方が態度としては正しい事は理解していただけるでしょう。

 2001年5月頃にあるTV局で放送されていた不思議現象を取り扱った番組で、この能力を宝くじ当選に向けての超能力開発プログラムに使っていました。おでこに1円玉を重ねてくっ付けることが出来れば宝くじに当たるのか?もちろん、番組中でもそんな極端な結論付けはしていませんが、「スポンジ頭」になった人の中には短絡的に考えてしまう人もいるでしょう。なんせ、批判能力に欠けてしまっているのですから。そんな人たちはもはや 「そもそも超能力はあるのか?」というスタート地点に戻ることすら出来ません。そして、超能力開発と称した詐欺まがいの新興宗教や自己啓発セミナーの餌食になる可能性が高くなるのです。(この1円玉パフォーマンスは以前にも超能力開発の手段として「ぎみあぶれ〜く」という番組内で秋山氏指導のもと、子供達が挑戦し成功しています)

 ちなみに1円玉のタネアカシですが、答えは誰でも出来ます。特に 油性の人 は楽に出来ます。何度もトライし、その都度おでこの油が1円玉の表面につく。落ちた1円玉をそろえて再挑戦と言う風に何度も繰り返している間に上手いこと複数の1円玉が シャッフル され、一通り裏表1円玉がおでこに接した後はもう時間の問題です。手の汗なども手伝えば更に成功する可能性は高くなるでしょう。私もオンエアー後、批判的立場から自分の部屋で挑戦してみてこの結論に達しました。そしてこの現象は「新・トンデモ超常現象56の真相」でも紹介されていましたが、同じ結論に達していました。ただし、 「おでこの油」でたまたま超能力者(?)と同じ結果が得られた に過ぎないとも言えるかもしれません。ですから、超能力者には

・1円玉の並び順が変わらないよう注意する。
・おでこの油は洗顔してきれいに取っておく。
・手も1円玉も何回かに一回きれいに洗う。
等の条件のもと、挑戦してもらえれば、私の検証結果(及び前出の本の記述)が似て非なるものと証明できるでしょう。そうでなければ 超能力者の言う「超能力」 の一部は、 一般の人の言う「おでこの油」 と言われても仕方ないでしょう。


- ウワサの場合 -

 車を運転する人(特に西日本在住の方)で『山口ナンバーの当たり屋集団』のウワサを耳にされた事がありませんか?人がウワサを「広めたがる」心理状態を顕著に表している好例です。

 当たり屋に対する注意を喚起するチラシも出回りましたが、“当たり屋グループが○○に来ました”との見出しの後に、いくつかの注意事項が書かれています。そして車の車種とナンバーが記されています。このチラシは手書きで書き写されたり、ワープロに打ち直す、コピーに注釈が手で書き加えられる等しながら微妙に表現が変わっていっています。しかし、表現する文章は違っても注意事項の内容は変わっていません。

 注意事項はざっと以下のようなものでした。

・事故を起こしても示談せず警察に連絡する
・警察到着前に身分を明らかにしない
・社用・自家用を問わず全車両に配布する
・このチラシを社内に備えておく
・知人・友人に知らせる
 しかし、そのチラシの中で情報が狂っているのが何と 「車種とナンバー」の情報 でした。これはとても興味深い話です。注意や注釈の重要性よりも優先されるべき情報が変化し、逆に注意等が(多少表現を変えながらも)きちんとコピーを重ねられても伝えられているのに、です。ここから分かることは、事故に関する注意を呼びかけて、事故への対処こそがこのチラシの最大の情報と言うことが伺えます。(ちなみに件のチラシに載っているナンバーは実際には使われていないものや、明らかに間違いである事が確認されています)

 また、定期的に現れる天変地異のウワサも、現在の技術では予測不可能なくらい正確な地域、時間、規模の情報を伴い流れ、逆に 情報が詳しければ詳しいほど (本当は信憑性が無くなるはずなのに) リアリティーをおびて広まっていく 傾向があります。つまり、その方が「納得できる」のでしょう。


- 陰謀説などの場合 -

 陰謀と言えば「ユダヤ」「フリーメーソン」等を連想しますが、ここでは日本の犯罪史上に残る酒鬼薔薇事件を例にとってみましょう。「はぁ?」と言うリアクションをされる方もいるでしょう。犯人とされる少年の自供もあり、ほぼ収束したと思われる事件ですが、犯人は別にいて 犯人とされる少年は冤罪である と主張する人々がいます。その人たちにとって、あのような残虐な犯罪を少年が引き起こすことに納得がいかず、別に犯人がいると思うことの方が『納得できる・つじつまが合う・都合がいい』のでしょう。今も「真相」を究明する活動を続けています。そして犯人は「在日米軍人」だったり「カルト宗教団体(警察にも信者がいるため、手が出せない)」など、サイドストーリーも付け加えられています。本HPでは超常現象をテーマの中心に据えているため、この件に関してはこれ以上の言及はしませんが、当時はスポーツ新聞に連日容疑者を勝手にプロファイリングした記事が一面を飾ってました。その時にはロックバンド説がかなり良い所まで行ってましたね。結局は単なる暴走で『キラー&ローズ』というロックバンドの存在がまことしやかに書かれていましたが、結局その存在すら「?」という御粗末ぶりでした。

 他にも韓国を始めとするアジアの周辺国々を巻き込んだ教科書問題、靖国神社公式参拝なども何がどのように転んでも、その影に大いなる力・黒幕の存在などを疑い始めたらキリがありません。映画「パール・ハーバー」でさえ反日感情を煽るためにディズニーランドが中国進出の交換条件に作成されたものと言っている人もいますし、チョウ・ヨンピルの「釜山港へ帰れ」が日本でヒットしたのは日本人の潜在的韓国侵略精神の表れ(日韓併合を目指し、再度「釜山港」へ進めという意味)だとの評論が韓国で流れていたということもありました。

 結局これらの説を支持するもしないも、「その人にとって納得できる・つじつまが合う・都合がいい」かどうかでしょう。


- スポーツ八百長説 -

 もう、これになると枚挙に暇がないでしょう。アンチ巨人のプロ野球ファンは(冗談も含め)一度くらいは巨人有利のミスジャッジにオーナーや莫大な資金を理由に 「ミス」ではなく「故意」 である可能性を疑ったことがあるでしょう。また、「世紀の誤審」と言われたシドニーオリンピックの柔道無差別級決勝のジャッジも「柔道で独走する日本に対する反発によるもの」と言う人もいました。

 相撲での八百長の話は定期的に出てきます。ある週刊誌が率先して相撲協会の裏や元親方や元関取・付き人のインタビュー記事をもとに告発を繰り返していました。これに対し相撲協会は完全無視を続けていますが、八百長説を 信じる人にとっては「黙認」 (騒ぎを大きくしては記事の真偽をはっきりさせてしまい都合が悪い)と取るでしょうし、 信じない人は「黙殺」 (取るに足らないゴシップネタに反応する必要なし)と見るでしょう。信じる人、そうでない人という立場が違えば相撲協会の“反論せず”の態度が180度違った形で見えてしまうのでしょう。




 通説として一般的に正しいとされているものは(特に興味や疑問が無い限り)その真偽を突っ込んで調べる必要は無いでしょう。しかし、新たな学説の発表や現象の発見が報道された場合、当然あなた自身深く理解しているはずも無いし、通説にもなっていませんので「信じる/信じない」の対象です。個人レベルでは検証まではできませんので、追試の結果や追加の研究報告を待ちましょう。それがなく、いつの間にか忘れ去られているような実験成果なら「?」という判断するしかないでしょう。逆に「新たな説」が通説になるのを待てない人は、その説について調べ、他の人には「?」な状態で止まっている所に(調べた結果に基く)「確信」をもって自分の主張をすることができるようになります。その説が正しいにしろ間違っているにしろ。

 新説・異説は バカにされて当然です疑われて当然です。 それは 通説・定説になるための洗礼 であり、これなくして受け入れられてしまうことこそおかしなことなのです。
 どうも日本語の「信じる」と「疑う」とでは前者は美しく、後者は卑しいイメージが強いという事は否めません。が、トップページにも書いてあるように「疑う」を「信じる」へ向かうプロセスの1つと考えると、非常に重要なことだと分かります。疑いもなく信じるということがどんなに危険かと言うことは、ここで例をあげるまでもなく理解いただけると思います。ですから、皆さんも奇異な話があったとき、「信じる」事からではなく「疑う」ことから始めるよう心掛けましょう。

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