価値観は変化する

[2003/04/22 Up]


 少々危ない文章ですが、ぜひとも 文意を汲み取って ください。私の主張する点は 「価値観は時代や立場によって変化する」 であり、過去に人々が取った愚行も、現在の尺度によれば愚行でも、当時は真剣そのものであったという事、そしてそれは現代でもまったく正当で真剣なものでも、100年後の人々には愚行と取られるものがあるかもしれないと言う話です。

 そして、それは時代的なものだけでなく立場的なものでも同じ事が言え、自分から見れば奇異な行動でも、その行動をとった人間には真剣そのものだったのではないかという事を考えようというものです。ただし、当時は真剣だったから、その人にとってはまじめな話だったからと言って、 過去の愚行や別の立場の人の蛮行そのものを肯定するものではありません し、未来の世界や別の立場から見て愚行であっても、 現代もしくは当人の必死な努力を否定するものでもありません

 まずは時代的背景をもとに考えてみましょう。

 別のページにも書かれていますが、かつてマヤ文明では 太陽の新生を願い“毎日”生贄を捧げていた そうです。そう、一日は一人の人間の死によって始まっていたのです。当時のマヤ人にとってはこの愚行を大真面目にとらえ、これを怠ると太陽が昇らないと考えていたのでしょう。(もっとも、「そんなことしなくても、太陽は昇るのに」と考えていたマヤ人も当時でも結構いたんじゃないかなぁ?しかし、儀式化してしまいやめるにやめられなくなってたような気がします)

 魔女裁判にしても、当時の人々は「魔女」の存在を明確に信じ、 これを取り締まらなければ大変なことになる と考えていたのであれば、現代の尺度で「罪のない人々が殺された」という事実も大真面目だったのでしょう。ちなみに、魔女裁判という言葉から、魔女の疑いを掛けられたのは女性だけの印象を受けますが、実際には男性もターゲットにされ、しかも貧富の差に関わらず魔女の嫌疑が掛けられた人物はほぼ「有罪」になっていたようです。そのため、金持ちの財産を奪う手段として用いられた例も少なくないそうです。

 さて、現代の話です。さすがにこれほどの愚行は現代にはないでしょうが… 完全に空想の話 をします。現在、脳死者からの臓器移植が一般的になりつつあり、ドナーカードの携帯を呼びかける広告などを目にしますが、この最先端医療を 100年後の人間 はどう見るでしょうか?

 「20世紀終盤から21世紀中ごろまで、(22世紀の人たちにとって) 現代では治療可能な“脳死状態”の人間を死体とみなし、その内臓を抜き取って他人に移植していた 」「(くどいですが、22世紀の人たちにとって)現代では人工臓器がそろっている事を考えると、 他人の臓器を移植するなんて信じられない 」という会話が交わされている かも しれません。

 逆に、(前述の100年後の世界とは別の世界を舞台として) 倫理面で議論の交わされているクローン人間 にしても、100年後には子供が授かったと分かった瞬間、その細胞からほぼ同い年のクローン人間を作成し、 あらゆる面での“スペア人間” とすることが当たり前の時代になっているかもしれません。曰く、「 子を持つ親として当然のこと であり、子供のかわいい親なら “スペア人間”の一人や二人用意するのは当たり前のこと 」となっているかもしれません。

 続いて立場の違いです。

 立場で言えば、別ページ「信じ易きを信じる心理」で書かれている内容と重複する部分も多いかもしれませんが、少し深い内容かもしれません。自分に都合がいいから信じる・信じないとは少しニュアンスが違うのではないでしょうか。たとえば、喫煙者と非喫煙者とで「喫煙と肺がんの因果関係」などは評価の分かれるところですが、都合の良い、悪いよりは更に深いところです。

 まず、宗教に限らず、 何かを信じている人間に「それはおかしい」と言う言葉が届かないのはよくある話 です。そんな中、ある時期に痛感した話しがあります。これはぜひ超常現象否定系・懐疑系の人たちに読んで欲しい内容です。

 カール・セーガン氏やジョー・ニッケル氏の著書にも書かれているように 突拍子もない主張をするする人間は、それに相当する強烈な証拠を必要とする のは誰でも理解できる話です。(「我が家に100sの小麦がある」と「我が家に100sの金がある」とでは前者より後者に対する疑いが強くなるという例が挙げられていました)

 超常現象を肯定的に扱っている人間に 「存在の根拠を示せ!」 と言うと 「存在しない証拠を示せ!」 と言い返されることがあります。しかし、これを詭弁にもならないバカバカしい話と切り捨てるわけには行きません。この主張は 「本気で思っている」 事であり、これを切り捨てればいつまでたっても平行線です。(もちろん、前述の通り、この様な主張を肯定的に捉えている訳ではありません)

 以前、ある掲示板で私の主張に「根拠を示せ」との反論がありました。しかし、示したところで「弱い」の一言。更にはその主張は私と 同程度の立場の人間の総意か との問いかけ。もちろん違うと言えば「お前の思い込みを押し付けるな!」との流れに。もはや 何を言っても「バカのたわ言」 とされ、どうしようもない状況に陥りました。

 今回、この話を蒸し返すわけではありません。その時には私の主張は正しいと信じていたものの、それが伝わらないもどかしさを体験しましたし、その主張自体、正しいか否かを語っているわけでありませんが、「あぁ、私が話が通じず苛立ちながら攻撃していた超常現象肯定系の人間は今の私と同じ気持ちを味わっていたのか…」と感じました。

 また、人が何かを信じる場合、 それに対して価値観を見出している からであり、価値を感じないものであれば傾倒することはないでしょう。しかし、それが行き過ぎると すべてを肯定してしまう と言う危険性があります。よくあるのはHPに集う常連が、 HPの管理人を「プチ教祖」としてしまう ことはあちこちで見受けられます。


 これらのことを踏まえた上で、今後とも 「おかしい事はおかしい」 と言えるスタンスを貫きたいと思いますし、私の主張に異を唱える人とは十分意見交換をしたうえで、 私が間違っていれば素直に認めたい という考えです。そして、「おかしな理論」を主張する人々に対しては、その意見だけを見るのではなく、 その人の立場や背景(過去の理論ならその時代の思想など)も踏まえたうえで 理解を進めて行きたいと考えています。

 と、ここまでかっこいい話をしながら、 「価値観は時代や立場によって変化する」 の一番分かりやすい例を最後に。


 某エロ雑誌での「熟女ヌード反対!」の若者の投稿に対して編集者が

「今、君が今憧れているアイドルが20年後に脱いだとしたらどうする?」

と回答していました。

 今一度。

「価値観は時代や立場によって変化する」

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