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2002/02/09 【書評の短評】富山太佳夫評・小国喜弘『民俗学運動と学校教育』

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2002/02/09 【書評の短評】富山太佳夫評・小国喜弘『民俗学運動と学校教育』

『毎日新聞』2002年1月27日
富山太佳夫評
小国喜弘『民俗学運動と学校教育』 東京大学出版会、2002年
http://www.mainichi.co.jp/life/dokusho/2002/0127/04.html
冒頭での〈贅肉のない皮肉〉に、いつもながら感心した。
すなわち、
「…したがって出版社側はこの本を教育学の専門書と判断し、二百五十頁ほどの本に五千六百円プラス税という値段をつけ、手にして読む意欲を失わせるような装丁にして出したのであろう。」
たしかに、書店で眼にするたびに価格のせいで購入を躊躇してきた。自分の研究対象からすこしはずれたときに、この価格は微妙である。
富山は
「今、この本のもつ意味と価値が分からなかったのだろうか。」
とたたみかける。この迫力はすばらしい。読むべきものを端的に読むべきだと書き、それが単調にならない。富山効果で購入してしまう本はすくなくない。結果、ふところがさみしくなっても、「損した」ということばは封印される。いわれたとおり、おもしろい本なのである。で、さみしくなったふところは、復讐の機会を逸するのだった。
ところで、わかい研究者にとって、自分の博士論文が大手学術出版社から刊行されることは、本人にとってそれ自体が「大いなる達成」であり、出版社の方も(「出してやる」とはいわないものの)そうした「権力関係」において「わかい本」を出版している。出版助成金を調達しては、それをさしだして出版を「お願い」するようなこともすくなくない。このような状況が冒頭の富山の発言の背景にある。(同業者にはいわずもがな、であるが。)
こうしたやりかたは、出版の収支がどこであうか、という点でいえば一見堅実な方法であろう。ただ、書籍自体の運命でいえば、これは書棚にうもれていく危険を予感させるだけに、考えさせられる。「カルチャル・スタディーズ」の棚が「文化史」や「民俗」のそれとはとなりあってもいない現状において、「教育」というのはさらにマイナーである。方法論的な本は多くならんでいても、教育史になってしまうと新刊でさえみられないことがある。
わたくし自身は、「カル…」を特別に評価しているわけではないが、「カル…」が一部の読書人の注目をあつめていることはたしかであり、そうした風潮をイントロダクションとして、多くの人の手にわたりうる本だということなのであろう。
書店でひとまずは立ち読みしようと決めた。


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