100 STORIES<不幸中の幸い>

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NHKのスポット番組 「名曲アルバム」にこの歌が出てきたのはいつごろだっただろううか。子供番組の「歌のお姉さん」か何かだった斎藤昌子さんの歌も朗々として美しかったし、なんといってもおおらかな沖縄の空と海の広がりを思わせるようなメロディーの美しさに惹かれた。1975(昭和50年)ごろの話である。
それから何年かして楽譜を見つけた。その楽譜の注によると、沖縄がまだアメリカの占領下にあった 1965(昭和40)年に、琉球放送のラジオ番組で、ホームソングとして放送されたのが最初らしい。沖縄が日本に復帰したのは
1972(昭和47)年。それからこの歌は沖縄全土で広く愛唱され「県民歌」のように親しまれたという。
普久原恒勇(ふくはらつねお)さんは沖縄在住の作曲家。ヨーロッパに学んだクラシック畑の人だそうだが、沖縄の民俗性に根ざした美しいメロディーを作る人である、と、知ったように書いたが、知ったのはこの歌と出会ってからで、そのあたりがまたぼくと琉球音楽との出会いでもあった。
この歌はとくに琉球風のメロディーではないし、歌詞も一部にウチナーグチ(琉球言葉)が出てくるが、全体的にはヤマトグチ(本土の言葉)で書かれている。でもこの歌をきっかけにぼくは沖縄の歌に、そして沖縄に興味を持つようになった。
沖縄の民謡や、リンケンバンド、ネーネーズ、喜納昌吉といった人たちの歌を聞き始めたのはこのすぐあと。あの「さとうきび畑」がぼくの耳に届いたのも、この歌があったから、だと思う。
2002年10月21日
「さとうきび畑」 に出会ったのは80(昭和55)年ごろだった。確か あれも「NHKみんなの歌」 だったと思う。曲が出来たのは1967 (昭和42) 年だそうで、そのときは、ちあきなおみが歌ったらしいが、そのときのことは憶えていない。
ぼくはボーチェ・アンジェリカという女声グループの歌ったものをカセットテープに録って持っていて、それでこの歌に親しんだ。多分FMからカセットに録ったのだったと思う。
この静かな、しかし強烈な反戦のメッセージは、決して声高にもならず、涙ながらに歌われるのでもなく、あくまで淡々と控えめに、作者の心の奥底にあるものを伝えている、と思う。そういうところが好きだった。
ぼくの小さなコーラスでこの歌を四部に編曲して取り上げたのは 1992(平成4) 年のこと。コーラス発足の第1曲目だった。この歌は当時のメンバーにうけてたちまち愛唱歌となり、いつのまにかみんなこのコーラスのことを「ザワワ」と呼ぶようになった。
そして 2000 (平成12)年ごろ、この歌が突然大ブレークした。そしてそのブームに乗って歌ったのは森山良子だった。それまでにも彼女はこの歌をよく歌っていたが、この歌のリバイバルとともに、彼女も再び脚光を浴びる形となった。
森山良子の歌唱は好まない。まるで演歌のように粘っこい、リズムを崩した歌唱では、この歌のメッセージが安っぽくなってしまうように思う。もっとシンプルに、淡々とリズムを刻んでほしい。各フレーズの頭をことごとくわずかにずらせたような、そういう「入り」が淡々としてさりげなく、というにはほど遠い「歌い手の陶酔」
をぼくは感じる。
表現者は自分が感情に溺れてはいけないのではないか。受け取る側に起こる感情を、もっと冷静に演出しなければいけないのではないか。
さとうきび畑にはあくまで、ザワワザワワと「風が通り抜けるだけ」、だからこそ、鉄の雨に打たれて死んでいった父のことが、そしてあの戦世(いくさゆ)のことが忘れられないのではないかと思う。
涙を流す前に、感傷に浸る前に、もっと冷静に、もっと冷徹に、沖縄の地を駆け抜けていったあの戦争のことを見詰めなければいけないのだと、ぼくはそんなふうに思っている。
この歌にはずいぶん親しんだが、あれから、森山良子の、涙を流さんばかりの熱唱が全国を席捲し、テレビドラマまで出来たりして、ぼくは少しこの歌にも嫌気がさしてきた。
ぼくのコーラスの人たちも、最近誰も 「ザワワ」 を歌おうとは言わなくなった。ブームとともに、ぼくはこの歌から遠ざかっていったようだ。
