100 STORIES<不幸中の幸い>


旅が好きアイルランドの虹


写真 市谷健

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アイルランドはひと月ほどの滞在だった。入国したその日から爆弾テロ騒ぎに遭ったりしてドタバタしたが、あとは平穏、というよりも退屈なファームステイだった。「アイルランドのような田舎へ行こう」という歌があるけれども、ぼくのアイルランドの旅は、「アイルランドのそのまた田舎」の旅 だった。
この項は、国際情報社  「素晴らしい世界」 第7巻 (1978年刊) に掲載したものに加筆した。


ミンストレル・ボーイ

イギリス西部の港町リバプールを深夜に出発した船は、ほとんど揺れもせず、行く手に見え始めた島影を指して進んでいた。

ロンドン・ユーストン駅を午後の列車で発って、船に乗り込んだのは深夜だった。寝不足のまま、ぼくはけだるい気分で朝を迎えていた。

雑魚寝の船室で、額の禿げ上がった男がアコーディオンを弾き始めた。最初はイングランドの民謡「The ash grove トネリコの林」だった。無邪気で爽やかなメロディーが、窓から差し込んできた朝日の光の束を揺らした。それから男はイギリスと、アイルランドの歌を次々と弾き、人々は歌った。ぼくはとても幸せな気分になっていた。

男がぼくを見つけてあれを弾きはじめた。スキヤキとかいうタイトルで世界中に広まってしまったあの歌。それはやめてほしいとぼくは男に話しかけ、それよりも「ミンストレル・ボーイ」を、と言うと、男は、はいョ、とすぐに弾きはじめた。

  ミンストレル・ボーイは戦場に行った
  剣と、竪琴を引っさげて
  「歌の国」を守るために…
  ミンストレル・ボーイは敗れ、囚われた
  彼は竪琴を引き裂き、打ち壊した
  誇り高き歌を 敵には聞かせぬために

歌詞には、今も続くあの不幸な反英抗争の陰が濃いけれども、メロディーは素直で親しみやすく、愛らしい。窓の外に、アイルランドの島影が近づいていた。


IRA

平和な旅はそこまでだった。ダブリンの外港ダン・レアレに着くと、思いもかけず厳重な入国審査が待っていた。

古めかしい官吏の制服を着た女性の審査官は、ぼくのリュックの中身を全部テーブルにぶちまけ、洗面具の入った小さなバッグや多少の常備薬を入れていた袋などもその中身まで全部取り出して広げた。

そんなことは初めてだった。こういう検査は、ちらりとパスポートを手に取って、「よい旅を」なんていう言葉といっしょに返してくれる、そういうものだと思っていた。

「これは一体何ですか。何かあったのですか」、ぼくの質問には答えず、審査官は事務的な口調で次々と質問を放った。パスポートを出させて、住所、氏名、年齢、職業などを言わせ、何日滞在するか、宿は、目的は…、としつこく問いただした。「何かあったのですか」、ぼくの何度目かの質問に、彼女がやっと答えてくれたときには、船が着いてからもう二時間がたっていた。

「爆弾。昨日、爆弾テロがありました。ダブリンで」、ぼくは納得した。したけれども、それでどうしてぼくが、というところがやっぱり納得できなかった。「で、あなたにはぼくがIRAのテロリストに見えるとでも…」、「ええ、見えますとも。あたしは最初から怪しいと思ってたんです」、そして初めてちょっと笑って、長い時間引き止めてごめんなさいと言った。


ダブリンの朝食

ダブリンのコノリー駅に着いたのは七時半だった。朝食を摂りたかったが、駅の食堂はまだ閉まっている。駅の周りは貧相な建物が立ち並ぶばかりで、まともに朝食などできるところはなさそうだ。仕方なく駅の食堂が開くのを待つことにした。初夏だというのに朝の空気が結構寒い。

ベンチにリュックを下ろしたところへ一人の紳士がやって来た。どこから来た、どこへ行く…、とひと通りの質問を終えると、このグレーの背広がよく似合う気さくそうな紳士は、ぼくが手にした地図を取り上げて説明を始めた。

「キラーニへはみんな行く。とくにアメリカ人の観光客なんかはキラーニに行かないと満足しない。でも、あそこは商業化されてるね。私はあんまりすすめない」、
「リング・オブ・ケリーは」、
「ああ、あそこはいい。確かコークからバスがある。あそこはぜひ行きなさい」

紳士の観光案内を聞いているうちに食堂が開いた。ぼくはパンにバター、ジャム、紅茶という簡単な朝食を、紳士はイギリス風のベーコンエッグやポーリッジのついたのをとった。ただ、どちらもパンはイギリス風の食パンではなく、白いのや黒いの、三種類ほどのスライスしたパンが盛り合わせてあった。

その黒いパンがとてもおいしくて、そして苦味の強いマーマレードがそれによく合って、ぼくは珍しくたくさん食べた。「この朝食は一見イギリスのものと変わりがない。しかし、パンやジャムの質は違う。そう思うだろう」、「今、そう思ったところです」

「ところで、きみの言うように、どこか田舎の農家にしばらく滞在するというのはグッド・アイデアだ。ああ、それならきっと観光協会で紹介してくれるだろう。電話してみるといい」

そして紳士は、自分は小学校の教師で、もうそろそろ行かなければならない、子供たちが待っている、と言って立ち上がりながら伝票をつかんだ。

「今日の朝食は私のおごりだ。きみはライターだから、日本に帰ったらそのうちアイリッシュ・ホスピタリティーについて書いてくれよな」。紳士は嫌味なくそう言って急ぎ足に出て行った。

ぼくは残りの紅茶を飲み干しながら、列車が入るたびに通勤者でざわめく駅の構内を見ていた。ダブリンの朝は動き出していた。


緑の着物

イギリスにアイリッシュ・ジョークという小話がたくさんある。たとえば…

ロンドンからやって来た一人の紳士がダブリンの駅の大時計を見上げました。三時五分前。切符を買って待合室に入ると、そこの時計はもう三時を五分過ぎていました。列車が来る…。紳士はホームに急ぎました。ホームの時計はまだ三時ちょうど。

紳士は駅員をつかまえて聞きました。「三つの時計がみんな少しずつ違っているのはどういうわけだ」。駅員は少しもあわてず言いました。「三つとも同じ時間だったら時計は三つもいらねえすから、ジェントルマン」

アイリッシュ・ジョークはそんなふうに一見他愛ないが、いずれもアイルランド人はちょっと間抜けか、いくらか愚鈍な人間ということになっていて、かつてのイギリスのアイルランドに対する差別意識が見える。

そしてアイルランドには、日本でもよく知られている「庭の千草」や「アニーローリー」のように叙情的な美しい旋律の民謡に混じって、先に書いた「ミンストレル・ボーイ」や、「緑の着物」のような、イギリスとの長い抗争の中から生まれたプロテストソングがたくさんある。

たとえばこの「緑の着物」という歌は、ぼくはメロディーをよく知らないけれども、イギリスの圧政への激しい抗議の気持ちを込めた歌詞が気になってちょっと書き留めておいた。

  おおパディ・ディア
  聞いたかあの噂を
  クローバーを植えてはいけないという
  聖パトリック様を拝むのもいけないという
  あのひどい法律のせいで
  緑のものを着ることもならんのだという

イギリスの激しい弾圧の中で実際に行われた法律に由来する。

イギリスはアイリッシュ・グリーンを嫌った。あの激しい抗争の中でアイルランド人が掲げ続けた色、民族のシンボル、クローバーの緑。だからロンドンの街を走る二階建てバスの色は赤、ダブリンのは同じ型だが緑である。
(注:1980年当時)

イギリスとアイルランドの間には、そんな長い差別と抗争の歴史がある。今度の旅に出る前、ぼくはぼくなりにそんなアイルランドの歴史を少しは学んだ。これから行く国の歴史をいちいち調べ上げたりしたことはないが、この国だけは、それでは何も見えない、という気がしたのだった。


電話ボックスの恐怖

ダブリンに着いた日、ぼくはあの紳士に教わったように観光協会に電話をかけた。オコンネル橋のたもとの電話ボックスで電話帳をくっているうちに、ぼくはふと変な音に気付いた。それはチクタクと小刻みに秒を刻む音なのである。ぼくはすぐ、あの入国審査官から聞いた爆弾テロを思い出した。

う、時限爆弾っ!

あとはもう夢中だった。気がついたら向こう岸のベンチにへたり込んでいた。

「旦那、どうかしましたかい?」、浮浪者風の男が近寄ってきた。ぼくが今起こったことを話すと、「そりゃあんた、考えすぎだよ」、と、笑顔を作って言ったが、橋の向こうの電話ボックスに視線をやった彼の顔は引きつっていた。

気を取り直してぼくは別の電話ボックスから観光協会を呼び出し、アイルランド西南部の町コークからバスで三十分ほど入ったところにある農家の民宿を紹介してもらった。

次の日の列車でぼくはダブリンを発った。あの電話ボックスはその日の朝も無事立っていたし、三週間のファームステイを終えてダブリンに戻って来た日にもちゃんと立っていた。あのチクタクは何だったのか、だからわからずじまいである。


次のバス

その農家の民宿に行くまでに少し旅行しておきたかったので、予約は一週間先からにした。昔「ライアンの娘」という映画があった。その舞台となったスリー岬に行ってみたいと前から思っていた。

ディングルという小さな町までは、荒地ばかりが続く寒々とした風景の中をがたがたと走るバスで何とかたどり着いた。スリー岬へはそこで乗り継いで二時間ほどだと教えられていた。

「今度のスリー岬行きのバスは何時ですか?」、この町止まりのそのバスの運転手に聞くと、彼はくわえタバコでブスッと言った。「次のバス? 金曜日だけど」。その日は火曜日だった。まさかこんな小さな町で三日も待つなんて…。ぼくはまたそのバスに乗ってコークに戻ることにした。

今度のアイルランド旅行ではそんなことはほかでもあった。ゴールウェイからアラン島に行ってみようと思ったときもそうだった。アラン島に渡る船が不便なのは十分覚悟していた。でも、驚いたのはリマリックからゴールウェイへの列車である。

駅員は、「ゴールウェイ行きなら今日はもう出たよ」、と、こともなげに言い放ち、「明日は日曜だから一本も走らないからね」、とつけ加えた。リマリツクもゴールウェイも、この国では五本の指に入る都会なのである。

そんなわけでぼくは何度も足止めを食ったり、予定を変更したり、苦心惨憺の旅を続けた。あの紳士が言っていたリング・オブ・ケリーなんて、とてもじゃないが列車とバスなんかで行けるわけがなかった。

外国人の旅行者はみんなフェリーで車ごとやって来るか、レンタカーを借りるか、それとも団体の貸切バスか、なのだろう。そして車を持たない階層のアイルランド人は、当時まだまだ旅など楽しむようなゆとりはない、ということらしかった。
(注:1980年当時)


マリーの馬車

観光協会が世話してくれた民宿は、そのあたりでは裕福な農家らしく、一キロ四方はある牧草地の中の、こんもりとした木立に囲まれた白い大きな館で、七十頭余りの牛を飼っていた。ここでの生活は、静かで、平和で、そして退屈そのものだった。

ご主人は根っからのアイルランド農民という感じで、あまり接客など得意ではないらしく、民宿の業務はすべて奥さんが切り盛りしているようだった。

その奥さんも、あまり客には干渉しない方針らしく、とくに話し掛けなければ向こうからあれこあれ言ってくることはなく、ぼくを客としてきちんともてなす以上のことはしなかった。

ぼくはもっぱらそこの十二歳と八歳の娘を暇つぶしの相手にした。姉のエディスは賢い静かな子で、学校から帰るとすぐぼくのところに来て、穏やかな口調で日本のことをあれこれ聞いた。するとそこへ活発な妹のマリーがやって来て、外で遊ぼうとぼくを誘った。

マリーはよくぼくを馬車に乗せてくれた。馬車といっても牽くのは二頭のロバで、マリーはそのロバを上手に操った。小さな御者に手綱を取られたロバはポコポコと走り、牧草地を一周した。マリーの少し赤っぽい金髪が勇ましく風になびき、得意げな笑顔がぼくを振り返った。


アイルランドの虹

そんな二人が学校に行っている間、ぼくはよく近くの城址に出かけた。近くといっても、敷地を出るだけでも十分や十五分はかかるし、公道に出てからニ、三キロはあるから、ちょっとしたハイキングになる。だからそんなときは奥さんがサンドイッチを作ってくれる。

牛の群れを避けながら牧草地を抜けると、ゆるい起伏の中を一本道が城址まで続く。道の両側は低い石積みがあって牧草地が広がっていたり、ときには雑木林だったりするが、民家はほとんどなく、もちろん店などない。たまに農具を積んだ車がのろのろと通る以外は人通りもない。

そんな寂しい一本道の奥に、城址は小さな湖水を従えてこんもりと盛り上がっている。湖畔から苔むした石段をいくつか登りきるとそこはもうお城の中である。といっても建物はもう何も残っておらず、ただあちこちに崩れかけた石積みが見られるだけ。そんな石積みのどこかに腰掛けてサンドイッチを食べる。

湖を渡る風が水面に細かい模様を描いたり、ずっと向こうの牧草地に点々と散らばった牛たちが虫けらのようにうごめいたりするのを代わるがわる眺めながら、なるだけゆっくり昼食を楽しむ。そして、ほかにすることはない。

そんなふうに、かけがえのないその静かな毎日を、ともかく楽しんだのは最初の一週間だった。ぼくは何となく、時が止まったような、自分の周りだけが世界から取り残されていくような不安を覚えるようになった。

こんな忙しい時代に、こんな贅沢な時間はないのだとは知りながら、子供たちとのひとときも、この家のロバや犬や猫たちとの戯れも、何の刺激もない毎日の長い時間を埋めるには単調すぎた。

ある日、暇を持て余してまたぶらりと城址にやって来たのだが、その帰り道に、いつもは空家だと思っていた一軒の小さな家の前の陽だまりで、一人の女性が一心に刺繍をしているのに出会った(冒頭の写真)。

「ハロー」、アイルランドの人がみんなするように、彼女もぼくに声をかけた。「空家だと思ってましたけど、ここにお住まいですか?」、「いえ、ここは週末のセカンドハウスで、私たちはロンドンに住んでいます」。二十代の後半と見えるその女性は、刺繍の手を休めてていねいな英語で説明した。ぼくは納得してまた歩き出した。

このあと夜までどうやって過ごそうか、などと考えながら、ありったけの遅さで歩いていると、後ろに声がしてさっきの女性が追ってきた。「あの、両親がお茶を差し上げたいと言っていますが、いかがでしょうか」、もちろん、断る理由なんてない。

玄関を入ると、そこがもう日本風に言うと六畳くらいの居間になっていて、その一角に小さな台所がある。「小さな家でしょう。このほか屋根裏に寝室があるだけなんですよ」。娘と同じ赤茶色の髪の、娘と同じほっそりとして繊細な顔立ちの初老の婦人が、そんなことを言ながらぼくに席をすすめてくれた。見事な白髪に立派な容貌のご主人も「ようこそ」と、表情を崩して迎えてくれた。

お茶が入って、手製のビスケットが出て、ぼくは三十分ばかりそこでくつろいだ時間を過ごした。三人でロンドンに住んでいること、娘はロンドンで美術学校の教師をしていること、このセカンドハウスでの静かな休暇のこと、そしてぼくののんきなアイルランド旅行のこと…。

それではぼくはそろそろ…、と腰を上げようとしてふと外を見たら雨が降っていた。さっきはあんなに青空が広がっていたのに、この国ではいつもこうだ。

「通り雨です、いつもの。雨がやむまでゆっくりしていってください」。雨がまたぼくを席に戻し、紅茶のお替りが注がれた。

ぼくは、この国に着いた日、ダブリンの駅でぼくに朝食を振舞ってくれた紳士のことを話し、彼の言ったアイリッシュ・ホスピタリティを話題にした。

「アイルランド人は人懐こくて単純だから、そういうところは確かにあります。でも、一見取り澄ましているように見えるイギリス紳士にもホスピタリティはあるのですよ。ただ、アイルランド人のようにそれをストレートに現さないだけでね」。ご主人がアイルランド人とイギリス人についてそんな話をしてくれた。

「見て、虹よ!」。玄関の扉を開けて外を見ていた娘さんが叫んだ。雨がやみかけて、また日が差し始めた城址の上の空に見事な虹がかかっていた。ぼくたちは四人で玄関の前に立ち、黙って虹を見ていた。

「それじゃぼくはこれで。どうもありがとうございました」、「私たちは今週土曜日までここにいます。いつでも寄ってください。大歓迎です」。

雨はまだほんの少し降っていた。城址の上にかかった虹はさっきよりいくらか薄くなり、木々の水滴に日が差してきらきらと光っていた。

アイルランドの虹、か…。歩きながら、ぼくは詩人にでもなった気分で、ちょっと気取ってまだ空を見ていた。


2003年11月