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気になる日本語
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出版社で編集を5年、フリーライターを30年、今は雑文を書き、校正なども含めて出版関連の雑用をぼつぼつ引き受けている。
こうして長年日本語にかかわって仕事をしていると、最近よく言われる日本語の乱れ、というのがぼくはぼくなりに気になっている。
ただ、ぼくは日本語の権威でもなんでもないただのモノ書きだから、ぼくが、それは間違いですよと決め付けても説得力に乏しい。
ときにはそんなぼくでも明らかな間違いと言い切れるものもあるにはあるが、基本的にここには、疑問出し、というつもりで示してみたい。そしてそれぞれの疑問について、より多くの人が考えてくれるようになればいいと思う。
| 第一章 敬語は使えますか |
| 敬語の使いすぎ…中年世代もあやしい 再び「させていただく」…誰に対しての敬語か 敬語をなるべく使わないで |
| 第二章 現代日本語への疑問あれこれ |
| カタカナ言葉の乱用 辞書にはない現代言葉いろいろ |
| 第三章 ファミレス言葉 |
| 第四章 差別語 |
| めくら、つんぼetc 言葉の男女差別 |
| 第五章 方言と共通語 |
第一章 敬語は使えますか
若者の日本語が乱れている、とよく言われる。確かに聞きなれない言葉とか、聞きなれないアクセントなど、若い人独特の日本語が聞えてくる。言葉を知らない、漢字を知らない人が多いのも事実だと思う。
ただ、今の日本語の問題、とくに敬語の問題については、若い人だけの問題ではない、とぼくは思っている。
60を過ぎた機会に、フリーになってからずっと続けてきた旅行ライターという仕事を下りて、文筆・校正にかかわる雑用をこなすようになったら、テープ起こし、という仕事がときどき回ってくるようになった。
講演、座談会、シンポジウム、対談などを録音したものを聞いて、それを文字にする仕事である。話者は企業関係、教育関係、官吏、医者、学者、NPO…、などいろいろ。
そういうところで発言する人だから、10代、20代の若者、ということはむしろ少なくて、30〜50代、役人や会社員なら一応何らかの役職にある人、ということが多い。
その仕事を通じてぼくは、とくに企業の人たちの日本語がかなりひどいということを知った。
もちろん、そういう仕事で聞いた話の内容は守秘事項だから、ここには、企業名や話の内容がわかってしまう形では書けない。あくまで日本語、という観点で注意深く多少の引用を含めながら話を進めたい。
敬語の使いすぎ
今言われている敬語の問題で、ぼくが感じているのはまず、敬語の使いすぎだ思う。
バカていねいな、へりくだりすぎの奇妙な日本語が氾濫している。何が何でも敬語を使わなければいけないという、ほとんど強迫観念に取り付かれていて、でも、正しい敬語の使い方がよくわからないから、とりあえず丁寧にさえ言っとけばいいだろう…という心理ではないだろうか。
ある業界のシンポジウムで、
「そこのところ、もう少し詳しく伺わせていただきたいのですが」
というのが出てきた。まあよく聞く用法だし、とくにやり玉に上げるほどのことではないと思うが、一つの例として考えてみたい。
伺う=聞く、尋ねる、問うの謙譲語(広辞苑)。だから「伺う」はそれだけで十分丁寧な表現。そこにまた「いただきたい」をつけるからくどくなる。
「もう少し詳しく伺いたいのですが」
ですっきりするし、それで十分丁寧でもあると思う。少なくとも、失礼な点は何もない。
「御社では顧客の動向をいろいろと調査なさっていらっしゃるようですが…」
ここでも、「なさって」、と、「いらっしゃる」、という二つの尊敬語を重ねている。
「調査していらっしゃるようですが」、
「調査しておられるようですが」
で十分礼儀にかなっていると思う。
今、一番気になる過剰敬語の出所は、やはり企業ではないかという思いを強くしている。
企業の人が話すのを聞いていると、なぜそこまでへりくだらなければならないのか、という疑問をしばしば感じる。上下の関係にぴりぴりと神経を尖らせる世界なのだろうか。企業人にとっても、日本語文化にとっても、不幸なことだと思う。
基本的には、一つの文章に敬語は1個あればよいと思う。なくてもよいものはないほうがわかりやすいし、そんなダブりを極力排して、簡潔で美しい日本語、ということをもっと考えてみてほしい。
会社さん
企業の人に特有の言葉遣いの一つに、自社以外の会社の名前に「さん」をつける言い方がある。
これも広い意味で一種の過剰敬語だとぼくは思う。
○○銀行さんでは…
○○保険さんの方針は…
○○ホテルさんのほうでは…
企業名というのは敬称なしでも失礼にはあたらない、と考えるのが世間の認識ではないか? 直接その会社の人に対して言うときは、「御社」とか「貴社」とか言えばいいし、場合によっては、「お宅では…」という言い方もある。
「○○自動車さんは…」
自分たちは言い慣れ、聞き慣れて何も感じないだろうが、企業や実業界とかかわりのない者にはやっぱりいくらか不自然に聞える。
不自然な、奇異な表現…、そしてその不自然さを意識できなくなっている…。言葉を乱す、というのはそういうことではないか?
こういうのもあった。
「その会社さんではほかの会社さんにならって…」
これは笑えた。ふつう笑うでしょう。まして、別にその「会社さん」の人がその場にいるわけじゃない。でも、もちろん当の彼は大真面目だったし。笑い声など聞こえなかった。
部外者なら笑ってしまうことが、その世界ではふつう、というのはよくあることだが、これは世間一般ではふつうじゃないんだ、ということは、せめて自覚だけはあるほうが正常な言語感覚、という気がする。
2012年3月30日、朝日新聞土曜版の「奇妙に聞こえる仲間言葉」という文の中で金田一秀穂さんがこの、会社名などへの「さん」づけについて書いておられる。それによると、社名や部署名などに「さん」をつけるのは耳障り、とした上で、「さん」は「人にしか付かない語」であり、誤用、としている。
「御社」 2004/11/16追記
というのは、上にも書いたように、ぼくは以前からなんとなく認めていたが、2004年11月13日の朝日新聞、作家の吉岡忍さんがこの言葉に疑問をぶつけている。「貴社」は昔から使っていたが、「御社」は最近聞くようになった、だから自分は抵抗がある、というようなことで、辞書にも載ってないという。
調べてみたのだが、実は御社も貴社も載っていない(広辞苑、岩波国語辞典、学研新世紀)。ただ、電子辞書とかパソコンの漢字変換などでは両方ともOK。電子機器の世界は基本的にビジネス社会だからだろうか。
結局のところこれらの言葉は、企業社会で使われ始めて、国全体が巨大な企業のような時代が続くうちに、いつのまにか市民権を得たような顔をして、まかり通るようになっていた、というようなことだろうか。
そしてこれは結局、ぼくがここにあれこれ書き連ねたような、企業社会特有の過剰敬語の一つなのかもしれない、と、吉岡さんの文を読みながら、そんなことを思った。
とは言っても、相手の会社のことは、それじゃなんと言えばいいのだろうか。自分のほうは、弊社、というのがあって、これはちゃんと辞書にも載っているが、「あんたとこの会社」、はなんと言うのか?
でも、考えてみたら、他社の人に言う場合は、「お宅の会社では」とか、「そちらでは」とか、でいいのではないかとも思う。すると、やっぱり御社も貴社も必要ないのかもしれない。
やられている・やっておられる
「御社ではユニークな社員研修をやられているそうですが」
という発言。「やる」に敬語を使って、「いる」は平たいまま、というところにぼくは引っかかる。もちろん両方敬語にして、
「やられておられる」
にすると二重敬語になるが、むしろあとのほうを敬語にして、
「やっておられる」
のほうがすっきりするとぼくは思う。ここで「やる」という言葉自体適切かどうかは別として。
「自社の製品を使われているお客様は」
というのも同じ。
「自社の製品を使っておられるお客様は」
にしてほしいとぼくは思う。一般にこのようなケースでは、あとのほうの動詞に敬語を使うほうがすっきりする。
最近アナウンサーなんかでも、「使われている」とする人が増えているが、受身の意味なら別だが、敬語としてはやはり
「使っておられる」
だと思うが、どうなんだろうか?
それとはまた少し違うのだが、
「今御社でお進めされているプロジェクトは…」
というのも出てきた。この場合は、
「今お進めになっている…」
が正解だろう。
「進めておられる」
「進めていらっしゃる」
でもOK。ただ、
「お進めされている」
はない。それは明らかな誤用と言ってよい。
申し上げる
あるシンポジウムで、他の出席者の発言を指して、
「さきほど○○さんが申し上げたように…」
というのがあった。この言い方は40代ぐらいまでの会社員にはときどきある。
申す=言う、告げるの謙譲語(広辞苑)
「申し上げる」の使い方としては、「私が申し上げたように」ならいいのだけど、これでは○○さんにへりくだらせることになる。
「○○さんがおっしゃったように」
が正しいと思う。
もちろん、この○○さんが自社の人間なら、敬称の「さん」も取って、
「さきほどうちの○○が申し上げたように」
でいいのだが。
2004.12.01追記
この「申す」だが、金田一春彦さんが、学校などでこれを謙譲語としているのは間違いである、と指摘している。そういえば、大河ドラマで武士が「殿が申されたように…」というのがしばしば出てきて、いつも納得のいかない思いで聞いていた。ついでに、「参る」も同様。「以前江戸に参られました折に…」。
現代語に直せば、「殿がおっしゃったように」、「以前江戸にいらっしゃったときに」、となる。辞書に「謙譲語」とあるのは何なのか?
この件、まだ納得はいかないが、申される、を間違いとするのは、とりあえず保留にしなければいけないようだ。
ただし、上記の例の「さきほど○○さんが申し上げたように…」は、それでも、「○○さんが申されたように」でなければならないと思う。申し上げたように、ではどう見ても謙譲表現になる。
ともあれ、敬語の使い方については、新人教育を「しておられる(「されている」ではなく)」会社が多いそうだが、そういう講習会なんかで専門の講師を呼んで教育しても、日常、直属の上司や先輩がへんな敬語を使えば、そっちに「学ぶ」機会のほうが多いのではないか、と思う。
そしてそういうへんな敬語を使う上司や先輩は、40代、50代、ときには60代にまで広がってきていることを、ぼくは仕事を通じて感じている。
中年世代もあやしい
もちろん、日本語がひどいと感じるのは企業人だけではない。ちょうどこれを書いている最中に、NHKの取材番組で、中年の女性レポーターが、
「あなたはそのときに○○さんにお会いしたのですか?」
とたずねるシーンがあった。
「お会いしたのですか?」
ではなく、
「お会いになったのですか?」
だろう。こんな簡単な敬語が、この年齢の、しかもこの職業の人でさえ、使えなくなっている。
そもそも大人たちの敬語がかなりヘンだと思う。それは前述の企業人だけでもなく、またよく言われるような若者たちだけでもない。
数年前、入院保険をかけるために生命保険の営業マンを家に呼んだ。40代の、わりと感じのいい男性社員が、新卒で見習い中という女性社員をつれてやって来た。説明を受けている間に、彼がぼくの娘のことを聞いた。
「娘さまはもうご結婚されてますか?」
あっ、と思った。若い社員も、こんなふうにしてへんな言葉を覚えていくんだな、と、今の日本語の置かれている環境を思った。
ところが、話しているうちに見習いの彼女のほうが、
「お嬢さんは…」
と、さりげなく口を挟んだ。彼女が上司の間違いに気付いてさりげなく訂正したのかどうか、そのへんはわからないが、若い見習社員のほうが正しい言葉を知っていたわけだ。
この場合、正解はやはり「お嬢さんは…」ではないか。まあ「娘さん」でもとくに失礼ではないと思う。彼はこの「娘さん」をより丁寧に言おうとして「娘さま」と言ったのかもしれないが、そんな言葉はない。
もう一つ、ここで「ご結婚されていますか」というのもおかしい。されていますか、しておられますか、なさってますか、と敬語を使うのなら、「結婚」に、「ご」は不要。「結婚されていますか」あるいは「結婚しておられますか」が正解だろう。
昔は、敬語というのはとくに習うものではなかったと思う。別に知識階級に限らなくても、大人はみんなふつうに敬語は使えた。大人が使えれば、子供だってある年になれば聞き憶えで敬語を使う。そういうものだったと思う。少なくとも、ぼくは敬語を「習った」記憶はないが、そんなに努力などしなくてもまあふつうには使えるつもりだ。
でも今はその大人に敬語の使えない人が多いから、就職活動の前ににわか勉強をしなければならなかったりする。
こと敬語に関する限り、若い人はそんな大人たちの被害者なのかもしれない。
再び「させていただく」
たとえば、何かの会合が始まるとき、司会者が、
「では始めさせていただきます」
などと言う。
別に間違いというのではないのだが、もっとシンプルに、
「では始めます」
では失礼だろうか…
この「させていただく」は、最近やたら聞くようになった。たとえばテレビに出ているタレントなんかも、
「前にこの番組に出させていただいたときに…」
なんて言う。あれも
「前にこの番組に出たときに」
で、別に失礼はないと思う。駆け出しの、ほとんど無名の新人タレントが言うなら、その心情はわからなくもない。しかし、毎晩のように出てるタレントが、そんなふうにへりくだると、へりくだっているのは言葉だけ、という気がしないでもない。
別に「出てやるぜ」とまでいくことはないけれども、何もそこまでへりくだらなくてもいいと思う。
ちょっと話がそれるが、この「出させていただく」というのを、ほとんどの人は
「ダさせていただく」
と言う。これは、主語は「私」だから、自動詞の「出る」のはず。すると、「デさせて…」なのかな? あるいは、「出していただく」のほうが…、とも思う。この件、実のところぼくもあまり自信はないが。
ただ、どっちにしてももたもたして、簡潔で美しい日本語にはほど遠い。やっぱり、
「この前この番組に出たときに」
ですっきりするし、それで誰にも別に失礼はないと、ぼくはいつも思う。
これはスポーツ選手の例だが、インタビューに答えて、
「ぼくなりにがんばり…、がんばら…」
で行き詰まったあと、
「がんばら、させていただきます」
と言った人がいた。がんばります、と言うのをていねいに言うために、なんと言ったらいいか、迷った挙句だと思う。聞いていて気の毒になった。最初に言いかけた「がんばります」でいいんだよ別に。みんな苦労してるんだな、と思った。
この「させていただく」の用法では、
「拝見させていただきます」。
がよくやり玉にあがる。「拝見」はそれだけで十分へりくだったていねいな言葉
(拝見=見る、の謙譲語(広辞苑)) だから、それにさらに「いただく」をつけるのは二重敬語になる。昔から二重敬語の例としてよく挙げられる。
「拝見します」
で敬語として十分丁寧で、そして言葉としてもすっきりする、というよりそれが「拝見する」の正しい用法である。
TV朝日系の「ジャンク・スポーツ」という番組に出てくるアナウンサーが「拝見させていただく」を連発しているのを聞いたのは、2005年2月6日。ウッチーではなく、男性アナのほう。
誰に対しての敬語か
もう一つ、ぼくが気になっているのは、誰に対して敬語を使うか、という問題である。これも、敬語の難しさの一つなのだろうか。
たとえば、食品会社の不祥事のニュースで、街頭インタビューに答えている主婦なんかが、
「消費者を裏切らないでいただきたいですねえ」
なんて言う。この場合、裏切るという行為はその食品会社がするのだから、「いただきたい」という敬語は、消費者を裏切った食品会社に対して使っていることになる。
その会社に敬語を使わねばならないだろうか? 直接その会社の人に言うなら別だが、話している相手は放送記者とその背後の視聴者。
「消費者を裏切らないでほしいですね」
で、どこか失礼だろうか?
少し古い話になるが、韓国との共同開催となったサッカーのワールドカップで、NHKの中堅どころのアナウンサー♂が試合前にこう言った。
「ぜひいい試合を見せていただきたいですねえ」
試合をするのは選手である。選手や監督に言うならそれでいい。
「今日はぜひいい試合を見せていただきたいですねえ」
「はい、いい試合をお見せできるようがんばります」
ということになる。
つまり、敬語の対象はこれから試合をする選手たちになる。でも、このアナウンサーの場合、話してる相手は選手ではなく視聴者だから、この敬語はおかしい。
「いい試合を見せてほしいですね」
でいい。少なくとも、それで誰に対しても失礼ではない。
誰に対してへりくだるのか、誰に敬意を表するのか、という判断が出来なくなっているのではないか、という気がしている。
そして、わからないから、自信がないから、とくにテレビカメラの前とか、多くの人たちの前とかで、多少なりともきちんと話さなければいけない、と思ってしまうと、ともかく全部丁寧に言いさえすればいい、何でも「させていただく」をつけとけば無難、ということになってしまうのではないだろうか。
だからぼくは、敬語の混乱にストップをかけるには、とりあえずの段階として、この「させていただく」をなるべく使わないでやってみる、というところから始めたらどうか、と思っている。とくにアナウンサーやテレビの司会者あたりから始めてほしい。
「させていただく」という言い方がすべて間違ってるとか、そういうことを言っているのではない。ぼくのように、国語について特別の資格も権威もない者がこんなことを言うのは、それこそ「あえて言わせていただくならば」ということだろうけど。
敬語をなるべく使わないで
縦型社会といわれた日本でも、最近では世の中少しは平たくなったと思っている。そしてそれは、とくに国際社会を意識するとき、望ましい方向ではないかとぼくは思っている。
たったの1年先輩だというだけでも、「先輩、お先に失礼します」なんて敬語を使うのは、ぼくは少なくとも好きにはなれない。そんなふうに人を縦に並べることが礼儀だ、けじめだという思想には、ぼくはどうしても馴染めない。
そんな中で、何が何でも敬語を使わなければならないという強迫観念、そしてその結果としての過剰な、美しくない敬語の氾濫を、何とかしてほしいと思っている。
そのためには、敬語をどう使うか、ということよりも、とりあえずは、いかに敬語を「使わないか」、ということを考えたほうがよい、という気がしている。敬語はなるべくシンプルに、そして本当に必要なときにだけ使うようにすることが、敬語の混乱に歯止めをかけることになる、と思う。
そしてそんな中で、現代に通用する本当の礼儀、というか、もう少し横並びの人間関係の中での礼儀、みたいなことを模索していくほうが、ずっと現代的だと思うのだが。
一般に、丁寧語の部分を取り除いてみて、それで別に失礼じゃない、ヘンじゃない、という場合は、その敬語はもともといらなかった、ということだと思う。いらないものを出来るだけなくした表現が、要するに簡潔で美しい言葉、なのではないか。
第二章 現代日本語への疑問
カタカナ語の乱用
企業の人たちのことは、敬語のところでも取りあげたが、もう一つ気になる特徴として、カタカナ語の乱用がある。
メリット、デメリット、みたいなのは、今では、誰でもとは言わないけれど、多くの人が理解するようになった。ぼくはなるべく使わないようにはしているが。
インフラ、なんていうのも、ずっと、なんや? と思っていた。infra というのは接頭語だから、頭に
infra〜 とつく言葉はたくさんあるし、ぼくが知ってるのはそのうち
infra-red = 赤外線、ぐらいだった。
世間で言っているインフラとは、 infra-structure のことだと教えてもらったのは結構最近のこと。要するに道路、水道、電気、公共交通機関とか、そういうののことだそうである。それでいいですか? 今でもあまり自信はない。だからぼくは使わないが。
その前に、リストラ、というのもあった。re-structure、再構築。そんな英語の意味なんて知らなくてもいい。知っても大して意味はない。要するに会社クビになること、つまり古い言葉で言うと人員整理みたいなことらしい。いずれも、実業界や官庁あたりから出てきた言葉だろうか。それとも新聞・テレビの造語だろうか。
でもまあこのへんまではまだ許せる、というか、ここまで普及した今となっては許すほかない。
でも、次のようなのは、出来ればあまり世間に出回らないうちに消えてほしいと思っている。
ベネフィットを見込む、
モチベートする、
リマインドする、
ファシリテーションする、
キャッチアップする
などなど…
それぞれ
=利益(利潤)を見込む、
=動機付けする、
=思い出す、
=利便化する、
=巻き返す、追い上げる
とか、まあそんなふうな意味らしい。
これらは、企業の人の話にはよく出てくる単語だが、たとえば「リマインドする」は、ぼくが聞いたのは、企業の社員教育についての話題で、研修で教わったことをときどき思い出す機会を与える云々、という話の中に出てきた。
つまり世間の言葉で言えば、「復習する」ということのようだった。それならべつに英語で言わなくても、と思うのだが。
法的にまずいことをやってしまった企業のトップが、テレビカメラの前で、
「以後はコンプライアンスに従って…」
と言った。ここで「コンブライアンス」は法や決まりに従うことのようで、企業人同士の話にはよく出てくる。
ぼくは前記のテープ起しの仕事を通じてこの言葉を知っていたが、社会全体に向けて使ってしまうのはどうなんだろうか。
なお、この言葉は長いので、彼ら自身もときには面倒になるらしく、話の中ではよく「コンプラ」なんて略したりしている。
言葉を大切にしない人たちだなと思う。
サプライヤー、ディーラー、ファシリテーター、あたりになると、業界では日常的に使っている言葉と思われ、一種の専門用語と考えれば、まあいいか、とも思うが、
「お客様とフェイス・トゥー・フェイスで接するタッチポイントにいる人は…」
となると、日本語で言ったほうがどう考えても簡潔ではないか。
「お客様との直接の接点にいる人は…」
「接客の最前線にいる人は…」
といった意味だと思うが。
それに、タッチポイント、というのもそれでいいのだろうか? 接する=タッチ、点=ポイント、そのまんまじゃん。
で、和英・英和辞典に当ってみたら、
接点=a point of contact で、
touch point という言葉は見当らない。
もしかして英語としても正しくない?
その上、これはまあ話の勢いだろうけれども、「時間のタイムラグが」とか、「その場合のオケージョンが」とか「トップの上層部は」、なんていうヘンなのも頻出する。
言葉を大事にしない人たちだな、とまた思う。
カタカナ言葉や省略語、さらには過剰な敬語、そしてその上、やたら早口の人が多いのも企業人の特徴といえる。忙しいのはわかるが。
もちろん、必要以上に外来語を使うのは企業人ばかりではない、政治家やマスコミ関係者など、ちょっとしたいわゆるインテリ階級に多いように思う。
世の中には、外国語などとはなんのかかわりもなく生きてきた人も少なくない。まして、昔の小学校しか出ていない人だって、もう数は少ないがまだ生きておられる。そういう人にも、どういう人にもよかれと配慮するのが優しい社会だと思う。
せめて外に向かってモノを言うときには、そんな配慮もあってほしいと思う。
辞書にはない言葉あれこれ
…とりあえずの基準として…
すでに自分なりに日本語を使って生きてきた人にとって、人生の途中から出現した新しい言葉、というのはなじみにくいものである。
でも、言葉も文化だから、当然移り変わりはある。
ただ、言葉が人の口から口へとしか伝わらなかった時代と違って、マスコミの発達した現代では、新しい言葉も、間違った表現も、テレビや雑誌などを通じて一気に何万、何十万の人の耳に目に届く。
ときにはそれは「言葉の変遷」などではなく、どう見てもマスコミという巨大な力による「言葉のねじ曲げ」としか思えないこともよくある。
ぼくたちのように、日本語を扱う仕事をしている者は、それらの新しい表現や耳慣れない言葉にどう対処するか、常に考えることを強いられる。
ぼくはとりあえず仕事で言葉にかかわるときは、まだ辞書にない言葉は基本的に使わないようにしている。かたくなに使わないことだけがあるべき姿勢とは思わないが、マスコミにかかわって仕事をする者は、言語文化を守る立場にあるとぼくは思う。マスコミがまだ辞書にない新語や誤用を積極的に流したら、言葉はどうなるだろうか。
人々は、本に書いてあるのだから、テレビで言ってるから、その言葉は正しいのだと思ったりする。
だから、マスコミで仕事をする者は言葉に対して保守的であっていいのだと思っている。あくまで基本的に、だけれども。
ぼくが使っている辞書は、
広辞苑の第五版、
岩波の国語辞典第六版、
学研の新世紀
など。
ほかにデジタルの辞書類。
辞書が絶対、なのかどうかは、それはそれで疑問もあるところだが、ぼくのように、とくに国語について万全の知識を持っているわけではない者にとって、とりあえず基準になるもの、といえば、やはり辞書しかない。
ただ、辞書も最近それらの新造語や誤用を、その普及度に応じて意外に簡単に載せてしまう傾向が気になる。それこそもっと保守的であってもいいと思うし、載せるとしても、誤用が慣用化されたものである、など、あくまで但し書きをつけてほしいと思っている。
食材
この言葉が市民権を得たのは比較的新しいことと思う。広辞苑第五版がこれを掲載したことで、この言葉は広く認められたことになったようだ。
ちなみに、広辞苑の第四版までは、「しょくざい」で引くと、「贖罪」(罪をあがなう)しか出てこなかった。
ファミリーレストランの業界用語だったそうで、だとすると、いつ頃発生した言葉かはかなりはっきりしている。業界用語が世間に出回るのは最近よくあること。
演劇界の専門用語だったという「目線」は、今では広く使われるようになったし、ときどき耳にする「かつぜつ」なんかも(「滑舌」と書くそうだが)、多分、元は放送業界あたりの専門用語だったのではないか。
ちなみに、目線は「元、映画、演劇、テレビ界の用語」の但し書きがついて辞書にも出ている。滑舌、のほうはぼくの辞書にはなく、パソコンのワードでも出ない。
少し古い話になるが、精進料理を扱ったNHK朝ドラがあった。ファミレスやファーストフード店のお話ならこの言葉に今さら違和感はないのだが、上記のように、いくら今は市民権を得たとはいえ、禅寺の尼僧が精進料理の素材を「食材」と言ったときは、さすがに、えっ、と思った。
ちなみに、主演は池脇千鶴、その尼僧役は野際陽子だったと思う。タイトルは忘れた。
シナリオを書いた人は、またNHKのプロデューサーや製作現場の人は、この言葉を使うとき、そんなことを考慮した上で使っただろうか? ようやく辞書には載ったけれども、本来日本語にはなかった言葉だということを、承知の上で使ったのだろうか? ドラマが語っている時代には存在しなかった言葉であることは間違いないと思う。
2004.1.19追記
この「朝ドラ」とか、ファミレスとか、そういう省略語を気にする人も少なくないと思う。言葉として決して美しいとはいえないし、ぼく自身もひどく抵抗があって使えなかったが、あるとき、朝の連続ドラマで、とか、ファミリーレストランでは、みたいに、これらの言葉を全部省略しないで使ったときの、冗長な感じが気になった。そしてそれを言いわけに解禁しちまった、というわけだ。
ほかにも、セクシャルハラスメントがセクハラ、スターティングメンバーがスタメン、みたいなのはたくさんある。どう考えたらいいのか、ぼく自身、まだ割り切れたわけではない。
なにげに
60年代以降に生まれた人がよく使う言葉のようだ。多分、それ以前に生まれた人には通じないと思う。「何気なく」、と同じか、近い意味らしい、ということは話の前後からわかる。
もちろん辞書には、「何気なく」は出ているが、「なにげに」はない。テレビなんかでもときどき聞く。
ただぼくは、それを使う人が、少なくとも今の時点で、辞書にない言葉だということを、誰にでも必ず通じる言葉ではないことを、わかって使っているかどうかが問題ではないかと思う。それもとくにマスコミ関係の人が。
あぶらっぽい
辞書では「あぶらっこい」。最近ではテレビのアナウンサーなんかも言う。
そういえば最近、何々っぽい、という言葉を拡大解釈して使うのをよく聞く。「あいつ最近失恋したっぽいよな」というふうに。「失恋したんじゃないかな…」みたいな場合。
「忘れっぽい」「怒りっぽい」「男っぽい」…は昔からよく使う。
〜っぽい=体言、動詞の連用形に付いて形容詞を作る(広辞苑)
それを少し拡大使用しているのだろう。で、「あぶらっぽい」もその流れかどうかは知らないが。
ただ、あぶらっこい、とあぶらっぽい、は微妙に違う、というのはわかる。たとえば、焼肉は「あぶらっこい」食べ物だが、お肌があぶらっこい、と言うよりは、この場合は「あぶらっぽい」のほうがいいのかな、ということはありそうだ。そういう必然から生まれた言葉だとしたら、それはむしろ認めたほうがいいのかもしれない、とも思う。
それでもやっぱり、「油っぽい料理が好き」というのは違うと思う。
うんぬんかんぬん
うんぬん、だけでは足りない、というか、かんぬん、をつけることでリズムが出る、ということかな、とも思う。最近ときどき聞く言葉である。
それが正しい表現だと思っている人もいるようだ。問題はこの言葉自体よりもそのへんだろうか。
たたずむ
旅行雑誌とか、テレビの旅番組などで、
「湖畔にたたずむ老舗の温泉宿」
というふうに使っている。
佇む(たたずむ)=しばらくその場に立っている。立ち止まる。(広辞苑)
温泉宿は「しばらく」ではなくずっと立っているし、そこに「立ち止まって」いるわけでもない。こう頻繁に見かけるようになると、自分が間違っているのかな? なんて思ってしまいそうになるが、これはやっぱり誤用だとぼくは思っている。
「たたずむ」は、歩いている人が一時立ち止まる様子をいう言葉のはずである。
「彼女は湖畔にたたずんで物思いにふけった」
みたいなのが一般的な使い方だと思う。彼女は湖畔を散歩でもしていたのだろう。でも温泉宿は散歩はしないから、たたずんだりもしない。「佇まい」という言葉との混同から来たのかな、と思う。
佇まい(たたずまい)=立っている様子。ありさま。(広辞苑)
「湖に映る宿のたたずまい」、
というのはもちろんOKだと思う。
ぼくは昔、トラベルライターという仕事をしていた。その頃から、旅行ジャーナリズムというのは、そういえばひどい日本語の「宝庫」だった。「たたずむ」のへんな用法も、そんな環境の中で生まれるべくして生まれる現場にぼくはいた。
旅行「作家」といっても、その中のかなりの人は「旅行家」ではあっても、「作家」とは言いがたかった。
口どけ
これは食べ物のコマーシャルに出てきたほか、料理番組や食べ歩きの番組などで何度か聞いた。もちろんまだ辞書にはない。聞いているとなるほど意味はわかる。口の中ですっととろける感触、を言うようだ。また業界用語を押し付けられているのかな、という気はするが。
数年前、「食品事典」、という本の編集を手伝ったときに、編集者の人が書いた原稿の中に出てきた。そういうのをチェックするのもぼくの仕事のうちだから、一応「この言葉は辞書にありませんが、いいですか?」とチェックを入れると、三十代のその編集者は、「え、何言うてるの?」と、きょとんとしていた。
これだけの大手出版者が、しかも事典などという堅いものに、流行語や若者言葉を載せちゃうのかな、と思っていたが、出来上がったのを見たらさすがにそこは直っていた。
耳ざわりのいい
目ざわりと耳ざわりの「さわり」は、「障り」と書く。舌触りとか肌触りの「さわり」は、「触り」と書く。「障り」というのは、「さまたげ」とか「さしつかえ」とか、こころよくない状態をいう言葉。したがって、「耳ざわりな音」といえば不快な音、ということで、「耳ざわりがいい」というのは矛盾している。
それに対して、「触り」のほうは単純に触感をいうわけだから、いいのも、悪いのもありで、「肌触りのいい」のも「いやな肌触り」もある。
それが混同されたのが「耳ざわりのいい」という表現で、最近ときどき聞く。
ところが、「耳ざわりのいい」という用法は古くは鎌倉時代にすでに見られ、近代では永井荷風の作品にその用例が見られる、といううんちくを披露してくれた人がいた。しかも、国語辞典の中にも、「耳障り」と「耳触り」、両方とも出ているのがあることも知った。
ただ、用例がある、といっても決してたくさんあるわけではないようで、やはり絶対多数は「耳障り」であり、ぼくの人生の後半になって現れた「耳ざわりのいい」という表現には違和感が消えない。
この件、どなたか正確な知識をお持ちだったら教えていただきたい。
教えてほしいといえばもう一つ、「お先に」がある。
これはずっと前から疑問に思っていて、ぼくの中でまだ答えが出ていない問題。
「お先に」というのは、
「お先に失礼します」
と、自分が相手より先になるのを詫びる、という場合に使ってきた。ところがいつからか、
「お先にどうぞ」
と、相手を先に通すときに使うのをよく聞くようになった。
世間ではどちらにも使っているようだが、とちらも正しい、とはぼくにはとても思えない。どなたか正解を教えていただきたい。
あげる・やる
「あげる」は丁寧な、あるいは正しい言葉で、「やる」は乱暴な、または間違った言葉、という認識が世の中には出来てしまっているのかな、と思う。
以前にやらせ問題で退場した「あるある大事典」という番組で、あるとき、犬猫の飼い方を取り上げていた。ぼくも猫を飼っているので見ていたが、
「餌をあげる」
という言い方に司会者もゲストも、全員が統一して使っているようだった。
この問題については、だいぶ前に議論が尽くされた、というか、とても「尽くされた」とは思えないが、なし崩しになるようになっていった、という感じで、ぼくももうほとんどあきらめているが、そのことについて、ぼくは元雑誌編集者としてある体験を持っている。
ぼくがある大手出版社で教育雑誌の編集をやっていた頃のこと。あのへんがこの「世紀の誤用」の原点だと、今でも思っている。
当時、教育雑誌なんかに記事を書いていたのは、教育学者、児童心理学者、教師、教師上がりの人たちなどだった。それもちょっと売り込み上手で、うまくマスコミに乗っかった、という人が多かったという感じをぼくは持っている。
決して文章力がある、とか、言語文化に造詣深いとか、そういうことではない。もしそうだったらあんなことにはならなかっただろう。
そしてそんな先生の原稿の中に、まさにそれが出てきた。
「うちの子に小遣いをあげる」
「犬にごはんをあげる」…
当時はほんとに耳慣れなかったから、編集部員からは当然「直すべきだ」という声が上がった。でも編集長は、権威ある先生のお原稿なんだから手を加えてはいけない、ということで、編集とはけんか腰の議論になったが、会社というところは結局上司の言いなりだから、そのまま通ったわけだ。
児童心理学の権威でも、べつに日本語の権威じゃないのだが。
後日先生に直接問いただしたやつがいて、先生はこうおっしゃったそうだ。
「お母さんたちは、やる、なんて言葉は汚い、と思われます。当然、あげる、のほうが丁寧でしょう」
違う、とその編集者は得意の文法振りかざして突っ込んだらしいのだが、権威には勝てなかった、ということのようだった。
世の中に「犬にごはんを上げる」という奇妙な表現が普及し始めたのは、確かにその頃からである。それも、若いお母さんたちからまず普及していったような気がしている。
だからこの「世紀の誤用」の犯人は、あのとき自分のお客様、つまり世の母親族におもねって変な日本語を編み出し、それを押し付けた先生たちと、そして権威に弱い編集者たちなのだと、ぼくは今でも確信している。
その頃、他社でも、教育モノといわれる分野では、これらのケンイと編集者たちによって同様のことが行われていたに違いない、と思われる。
昭和40年代の初め、1970年頃のことである。早期教育とやらの強風にあおられて、日本中の母親がわが子の教育に狂ったあの時代が落としていったウンコみたいなものかもしれない。
「やる」は決して汚い言葉でも乱暴な言葉でもない。
あげる=やるのへりくだった言い方(国語辞典)
犬猫や自分の子供に、みんなでへりくだってるわけである。
目上の者には「あげる」(さらにていねいには「さしあげる」)、目下の者には「やる」、が正常な尊敬・謙譲の言葉遣いのはずだ。
難しいことは抜きにして、ぼく流に説明するなら、「くれる」「くださる」と並列して考えればいいかもしれない、と思っている。
うちの子にお小遣いを「あげる」と言うのなら、うちの子が家事のお手伝いをして「くださる」と言わなければならないのではないか。それを変だと思うのなら、お小遣いは「あげる」のではなく「やる」が正しいのではないか、というふうに。
あれから30年余り、もうこの言葉もすっかり定着した。ぼくだってとっくにあきらめてはいる。自分ではもちろん使わないが。
それにしても、読売系テレビの某プロ野球解説者のように、「ここはもう一点もアゲラレナイ場面ですねぇ」なんて言うのを聞くとあらためてゾーとする。そこはいくらなんでも、一点も「やれない」でしょう、敷布さん、毛布さん。
ついでだから言うけど、あんたの解説はうるさい。あんたは主役じゃないんだよ。そこに映ってる選手たちが主役なの。そんなに大声で力説しないで、もうちょっと黒子に徹してよね。
…脱線したが、もちろんぼくはこれからも、猫には餌を「やり」続ける。
かも・かもね
ついでにその同じ編集部での話。「かもね」は、今はよく使う。何々かも、とか。もうみんな使ってるから、今さら何を言う、と思われそうだが、多分70年代中頃? までは言わなかったと思う。
あれはもともとテレビのバラエティー番組でタレントがはやらせた言葉と記憶している。
でも驚いたことに、編集者の中にもそういう言葉を平気で全国版の雑誌に使っちゃうのがいた。そういうのをすぐさま使ってしまう、というのが、昔の流行り言葉で言うと「ナウい」、とでも思っていたのだろうか。
もちろん多くの編集部員は反対したが、その「使っちゃう」派の人が実は編集長だったりして、それがまかり通ってしまった。その人はその番組のあった翌日にはその言葉をうれしそうに、そう、いかにもうれしそうに、という感じで使いまくっていた。でもまさか活字にしちゃうとは思ってもみなかったよ。
「かも」というのは 「知れない」と繋がって使われる言葉だった。「かも知れない」である。
(古文の「みかさの山に出し月かも」みたいなのは終助詞で、あれは別もの。)
ちなみに、87年版の共同通信社の記者ハンドブックには、「かも、で文を止めるのは感心しない」とあり、もっと最近の、2000年版岩波の国語辞典になると、「かも、だけで省略形とする用法が広まってきている」とあって、時代とともにこの言葉が使われ始めていることがわかる。
広辞苑第五版には「かも」で引いても、上記の古文に出てくる終助詞しか出てこない。一方「かもしれない」のほうはもちろん出ている。
この言葉の「変遷」にもマスコミが積極的に一役買っている、とぼくはだから思っている。
ただ、この言葉については、ぼく自身も日常の茶飲み話とかメールなんかではたまに使ったりする。「うんうん、そりゃそうかも」なんて。「猫にごはんをあげる」ほどは抵抗ないんで。そう、モンク多いくせに結構いいかげんなやつ。
でももちろん仕事では絶対に使わない。
食べ溜め
あげる・やるとちょっと似たケースなのかな、と思うのだが、ある民放の取材番組で、ペンギンの生態について話していた。ナレーションで、ペンギンが「食べ溜め」をする、と言った。「食う」を「食べる」に置き換えて、ていねいに言ったつもりだろうか?
もちろん辞書にも、「食べ溜め」という言葉はない。あくまで「食い溜め」である。
「食べる」と「食う」は同じ意味で使うが、次のような言葉はあくまで「食う」でなければならない。
食い荒らす
食い意地
食いしんぼう
食い初め
食い倒れ
食い道楽
食い逃げ
食うや食わず
食ってかかる
など。
これは「食べる」に置き換えられない。
食べしんぼう、て言いますか?
食べ逃げされた、て言いますか?
これももしかしたら、とりあえずていねいなほうで言っとけば無難、という、敬語の問題と根っこは同じなのかな、ということも考えた。
そして、「食う」は乱暴な言葉で、「食べる」は丁寧な言葉、という思い違いがやっぱりあるのだろうか。とすればそれは「あげる・やる」の問題とも似てくる。
一番大きな問題は、そういう誤用が、テレビという公器を使って行われるということではないか。
放送作家も、プロデューサーも、ナレーターも、職業として日本語を扱っているのだという自覚は持ってほしいと思う。
犯罪を犯す+大地震 2004/11/16
犯罪を犯す、はおかしいと思う。罪を犯す、であるべきだ。最近よくいわれている誤用の一つ。ぼくも、そうなのか、と、思っていた。
ところが、ある刑事ドラマで、「おまえは犯罪を犯したんだぞ」、というセリフが出てきたとき、ふと考えた。やっぱりこれは「犯罪を犯す」でいいのかな…
というのは、おまえは罪を犯したんだぞ、と言うと、たとえばキリスト教なんかでいう、神の前における罪、sin、も含まれてくる。たとえばちょっと友達を裏切ったとか、うそをついてその場をごまかしたとか。
つまり「犯罪」という言葉が、刑法上の罪 crime の意味で使われるとしたら、罪を犯す、も、犯罪を犯す、も、両方ありかもしれない。
もう一つ、大地震は「だいじしん」ではなく「おおじしん」だ、とよく言われる。ても、確かに「だいじしん」と読みたくなる。なぜだろう、と考えてみたら、簡単なことだ。「じしん」は音読みだからだ。だから訓読みの、おお、ではなく音読みの、だい。どうなんだろうか、これは?
でもこれは読みの問題で、文字面は同じだから、言葉を「書く」ぼくの仕事上は、無責任だがほとんど関係ない。関係あるのはアナウンサーとか、言葉を「話す」仕事の人である。
自己責任 2004/11/16
という言葉が一人歩きを始めた。
高遠さんたち三人がイラクで人質になったときからだ。発想は、自己批判、自己満足、自己嫌悪、あたりかな…。でも、それらはみんな言葉として成立していて、辞書にも載っているが、自己責任、は違う。
「あんたの責任だよ」、でいいのに、「あんたの自己責任だよ」、となる。何だろうか、この言葉?
第三章 ファミレス言葉 2004.12.22
ファミリーレストランやハンバーガーショップでは、どの店員も同じ言葉でいらっしゃいませをし、同じ言葉で注文を取り、同じ言葉で注文の品を運んでくる。あれはどうも気になる。
「いらっしゃいませこんにちは」、と言う店がある。「いらっしゃいませ、こんにちは」、ではなく、あくまで句読点なしで二つの単語をつなげて言う。それが店の決まりなのかどうかは知らない。
少し話がそれるが、本当は、こんにちは、とあいさつされたら、こっちもこんにちは、と返すのが世の中ではまあ普通なのだが、こうもはっきり、あたしは店の決まりで言ってるだけですよ、という言い方をされると、返事したくてもロボットに挨拶するみたいでしらける。だから客はブスッとしている。ブスッとしているのが普通だ。
外国だとそうじゃないことが多い。アメリカなんかだと「ハロー」とか言う。で、こっちも「ハロー」。ほかの国でも店側があいさつすれば客も答えることが多い。考えてみれば、それがまあ当たり前ではないのかなと思う。
つまりそれは、店と客というタテの関係の前に、人と人というヨコ並びの感覚があるかないか、ということなのかもしれない。日本ではあくまで客はやっぱり神様?
それはともかく、あの決り文句はどう考えても不自然だと思う。
「お席のほう、ご案内いたします」
オーダーを済ませると、
「以上でよろしいですか」
「お席のほう」の「ほう」はなくてもわかる。「お席にご案内します」のほうが自然な日本語だと思う。
「以上で…」なんて言葉もへんに固くて不自然だが、そこで「注文はそれで終わりですね、それ以上はありませんね」と、事務的な念押しをする不自然さも含めて、やはり「企業」が顔を出しているような気がする。企業の接客マニュアルを押し付けられているような…
そういう場所に入るとき、人はいわば企業的な緊張を忘れてくつろぎたいのではないだろうか。それに客の注文をそこまで念押しするなんて、そんなに完璧なビジネスをバイトのお姉さんたちに強制しなくてもいいじゃないか、とも思う。たまには間違えてもいいじゃない。たかがファミレスだよ。
そういえば、そのファミレスでこんなことがあった。ぼくが注文したパフェを持ってきたウエイトレスが「ご注文のものはこちらでよろしいですか」と言ったと思ったら、「あ、よろしくないですね」と、そのパフェをさっと持ち去ってしまった。
ぽかんとしていると彼女はすぐまたパフェを持って現れた。
「どうしたの?」
「あ、乗ってるはずのフルーツが一種類足りなかったんです。今度は大丈夫ですから」
と、ちょっといたずらっぽく笑った。つられてぼくもあははと笑った。
「あ、よろしくないですね」なんていうのは店の決まり文句にはないだろう。するとあれは彼女のアドリブ。決まり文句で注文をとったときよりも、そのときの彼女はずっとかわいかった。
個性がにじみ出るとき、その人の魅力もにじみ出る。いいねえ、やっぱりその人の個性で接したほうが、客だって楽しいのにねえ、と、ぼくは連れとそんなことを言い合った。
ねえ、お客も店も、みんなもう少しリラックスしていい加減にやればぁ…
第四章 差別語 2004.12.22
めくら、つんぼ etc.
めくら、という言葉は、出版や放送で使用を控えている言葉で、目の不自由な人、とか、視覚障害者とか、言い換えることになっている。
それはわかる。が、たとえば、めくら蛇、めくらめっぽう、めくら判、なんかもいけない、となると、少し疑問を感じてしまう。
一度、ベテランの出版人に尋ねたことがある。その人は即座にこう言った。「もちろん、それもみんな禁止です」。その人の仕事上の立場で言えば、つまり企業単位で考えれば、訴えられたりする可能性が少しでもあることは避けたほうがよい、ということだな、と、一応納得したのだが。
でももう少し突っ込んでみると、その人は明らかに個人的にも「めくらめっぽう」は使ってはいけない、と固く信じていることがわかった。そうなるとちょっと待ってくれと言いたくなる。
禁止語はもちろん、めくら、だけではない。つんぼ、ちんば、気違い、部落、四つ、などなど、たくさんある。つんぼさじき、片ちんば、釣りキチ、なんてのもだめってことになる。メクラウナギ、という魚も実在する。深海魚の一種で目は退化しているという。視覚障害ウナギ、とでも言い換える?
受け取る側の気持ちの問題だ、という考え方、というか一つの判断基準がある。でも、それでは差別語はやはり際限なく広がるという気がする。
たとえば、少し毛が薄いのを気にしている人は、ハゲ、とまで言わなくても、髪の毛にかかわる話はすべていくらか不快に思うかもしれない。自分の何かを気にしている人には、そのことにかかわる話はすべて差別語に近いものがあるのではないだろうか。
すると、受け取る側の気持ちに配慮して使用を控える、ということでは、差別語は際限なく拡大するという気がする。
少なくとも、差別の意識があるくせに、言葉だけすり替えても差別はなくならない。むしろ、言う側に差別の意志があるかないかが問題だと思う。
ただ、言う側に差別の意識がなければそれで万事OKとはならないところがこの問題の難しいところだが、少なくとも、それが根底にあるべきだと思う。
いずれにせよ、つんぼさじきも、めくらめっぽうも、気違い沙汰も、ともかく疑わしいものはすべて使わなければそれでいい、という安易な結論にだけは行きたくないと思う。無難な言葉に置き換えればいい、という安易な方法論で守られるのは、出版社やテレビ局の面子だけだという気がする。
そして、二千年とも三千年ともいわれる歴史を経てここまで進化し、変遷を重ねた日本語を、現代のマスコミ人が、そんな簡単に抹消したり変更したりするという、そのことに問題はないのだろうか。
抹消されて使われなくなった言葉はやがて消えていく。言葉を抹殺することは、歴史を抹殺することだと思う。差別の歴史に学ぶことも必要ではないだろうか。
ともかく、これはそんな簡単に結論に行き着けることではないと思う。行き着くべきではない、のかもしれない。差別語以前に、もっともっと差別そのものについて考え、そこから出発しなければいけないのではないだろうか。
言葉の男女差別
「雄々しい」はプライメージの言葉で、「女々しい」はマイナスイメージ、というのは、考えてみると、これは非常に差別的な表現だと思えてくる。こういう表現は日本語にはたくさんある。
女の腐ったような、という表現がある。男の腐ったような、とは言わない。女の腐ったような男、つまり女より「さらに」劣る男。本来、女は男より劣るもの、という思想が前提にある。そして、男らしくない男は、そんな女たちよりもっと下。つまり、この言葉はある種の男を差別しつつ、女性への蔑視を再確認させてくれる。
ほかにもたくさんある。男まさり、とか、女だてらに、とか、男泣き、なんかもその一つ。男は泣かないもの、という決め付け。子供の頃、男のくせにめそめそ泣くな、とよく言われた。女はどうせか弱いものだから泣いたっていい。でも男は泣くなって…。なんでや。
「女々しい」男を差別するその言葉の裏には、女性への根深い差別の思想がある。
選挙のときなんか、候補者が苦し紛れに叫んだりする。
「ワタクシ○○を男にしてください!」
ふーん、おまえ、女やったんか…
「姓」という字が女へんなのは、生まれてきた子が母親の姓を名乗った時代の名残だと聞いた。奈良時代には女の天皇が8人もいたことを思うと、多分その時代にはそんなにひどい男尊女卑の社会ではなかったのではないだろうか。
これはやはり平安時代の末期から江戸時代にかけて、500年も続いた武家支配の産物だろうか。
男はすべて武士のごとくあらねばならない…。
そして、「女、子供の出る幕ではない」と、女性は子供とひと括りにされて、蔑まれてきた完璧な男社会の中で、望ましい武士の姿を強調するような形で、これらの男女差別表現が定着していった、と思われる。
雄々しい、女々しい、男まさり、女だてらに、男のくせに、女のくせに、男なら、男になる、男にする…、みんな差別語だとぼくは思っている。だから使うな、とは言わないが。
第五章 方言と共通語
ぼくは関西人だが、東京に住み着いてからはなんとなく標準語的な言葉を使っている。標準語というか、今は共通語、というそうだが。関西弁で通せばよかった、なんて今は思っている。でも、ぼくみたいに気の弱い者には、それは結構勇気のいることだ。
自分が育った土地の言葉を話すのに勇気がいる、というのは、多分問題だと思う。中央集権的なこの国では何でも東京中心の感覚が強いから、方言は異端、まあ簡単に言うとそういうことになる。異端を、あえて押し通すのは、勇気がいる。
東京に来てから、ぼくがそんなふうに標準語まがいの言葉を話すから、知らない人はぼくが関西人だということに気付かない。そしてぼくにこんなことを言う人もいた。
「どうも関西弁って、苦手なんだよね」
「関西弁て、なんか下品だと思わない?」
などなど。そんなときぼくは、自分の人格を半分否定されたような気がしてしまう。たいていは悪意なんかないだろうけど、ただ自分が、ほとんど無意識に東京中心の感覚で考えたり感じたりしていることに、意外と気づかない。人生の大半を首都圏で過ごしてきた人にとっては、それも無理はないと思う。
早い話が、東京弁イコール標準語、と思い込んでいる人は、マスコミ界にさえ結構いる。だから「おみおつけ」なんていう言葉をコマーシャルに乗せて全国ネットで流してしまったりする。
あれにはちょっとびっくりした。一瞬、え? と思ったが、コマーシャルは画面を見ればわかる。それに、東京では味噌汁のことを、おみおつけ、と言う、というのは聞いたことがあった。ああ、味噌汁か…。おかげで今はこの言葉も全国区になったが。
やっぱりコマーシャルで、おさつクッキー、というのもあった。頭に、お、をつけて後をはしょる、というのは江戸弁の一つのパターンらしい。おねしょ(寝小便)、おめざ(目覚まし)、おかか(鰹節)、おいた(悪戯)、なんかもそうなのだろう。おさつ(サツマイモ)、というのは最初、ぼくには、おみおつけ、以上に「外国語」だった。
標準語は、明治の初期に東京山の手の言葉を基準に定められたらしい。そして、藩政に代わって布かれた中央集権政治を進めるために、方言を排除して標準語を普及させる努力がなされた。
だから標準語、というか今の共通語のルーツは確かに東京の言葉である。でもそれをひっくり返して、東京の言葉はすべて標準語か、というと、それはちょっと違うだろう。
東京にも方言はある。おみおつけ、トンカチ、おっかない、たまげる、おさつ、おねしょ、片す…、などなど。トンカチ、というのはなんなんだろうか。東京に出てきて初めて聞いたときには、ふざけて幼児言葉を使ってるのだと思った。
今ではテレビなどの影響でほとんどの東京方言は全国区になっていると思うし、共通語化した方言も少なくない。が、ここに上げた言葉はみんな、ぼくが東京に出てくる前(1970年以前)には知らなかったか、知っていても使うことのなかった言葉だ。そしてどれも多分、本来は標準語ではない、と思う。
とくに言葉を扱う業界、つまり出版、テレビ、広告、などの分野で仕事をしている人には、そのうちとくに首都圏出身の人には、そのことをもう少し理解してほしいと思っている。
それでも、地方の時代とかで、最近は方言も少しは地位が上がった。というか、地方の文化も尊重してますよ、という姿勢だけは見られるようになった。テレビドラマなどにも方言のものが増えた。
それにしても、テレビドラマの方言の扱いはどうしてあんなにいい加減なのだろうか。
京都迷宮…、事件記者モノだが、ときどき笑えるのでよく見ていた。これがもう、京都を舞台に堂々と東京弁を話す俳優ばかりで…。東京モンという設定ならまあいいわけだが (異常に多くなければね)、関西弁でまくし立てるのは兵庫県出身の悦子役・大路恵美だけ、主役級の杉浦記者役・橋爪功はじめ、ほとんどの登場人物が東京弁、というのはやっぱり、なんでや、という気がしていた。もっとも橋爪功なんか、関西出身のはずなんだけど。
まああれはいわゆる娯楽作品だから、笑って済ませてもいいが。
それより、もう少し古い話になるが、NHKで京都の染め物屋か何かを舞台にしたドラマやってて、これは一応NHKさん気合入ってる作品と見た。
ところが主役級の平幹二郎、佐藤友美といったベテラン俳優たちが、聞くに耐えない京都弁しゃべってて、あまりひどいのでとても最後までお付き合いできなかった、ということがあった。
でも、NHKの朝ドラ「ふたりッ子」で主演した菊地麻衣子、岩崎ひろみの2人にはだまされた。ぼくはあの2人、てっきり関西出身だと思って見ていた。だいぶたってから、2人とも関東の人だと知って驚いた。
若い二人の女優があれだけやれるのに、平幹二郎、佐藤友美なんて、方言をなめてるとしか思えない。
それと、もう一つ言うと、そういうことならどうして関西出身の俳優を使わないのか、ということである。これはもう俳優と、演出者、製作者の方言軽視、地方軽視の思想に他ならないと思う。
方言なんて、そこそこそれらしく聞えりゃいいのよ、みたいな。「それらしく」なんか聞えてないって。
今どき関西弁なんていくらでも聞く機会があるのだし、その気があれば俳優たちだって関西弁のニュアンスを学ぶ機会はたくさんあると思う。関西出身の俳優がたいていは必要に応じて標準語を話すのに、なんでおまえら関西弁ぐらいもうちょっとマシにできんのか、と言われても仕方ない言語環境は整っている、と思うのだが。
関西弁以外の方言はどうなんだろか。2004年の朝ドラは東北が舞台だった。かなり無理してる感じの東北弁が飛びかっていたような気がしているが、東北の人はどう見ているのだろうか、気になるところである。
もっとも、完全な方言を話すと話がわからない、という問題はある。まさか字幕とか吹き替えというのもヘンだし。まあそれにしても、そんな心配をする前に、もう少しまともに方言に取り組んでほしいと思う。
これからは地方のニュース、天気予報なんかは方言でやるといいと思っている。地方の時代、ということを本気で実現していくつもりなら、そこまでやってほしい。
「京阪神地方、明日はよう晴れてええ天気でっしゃろ。ほんでも夕方からちょっと雲が出るかも知れまへん。夜には気温が下がりまっさかい、気ぃつけまひょ」
「北九州の天気、明日は高気圧に覆われてよか天気ばい。風も弱か」
そのことの意味を、とくに出版、放送などマスコミで仕事をする中央人に、よっく考えてほしいと思っている。そして、いつでもどこでも、人は自分が育った地方の言葉を堂々と話せるといいと思う。
2005年1月22日追記.
2008年10月20日改定
