100STORIES<不幸中の幸い>
■放浪のころロンドン、冬

冬の嵐
ベルギーのオステンドからドーバーに渡る船が冬の嵐に揺れた。酔って甲板に出ると、物凄い波しぶきが強風にあおられて襲ってきた。船の中の椅子やテーブルがみんな床に根を生やしていることも初めて知った。ぼくは生まれて初めて船酔いというものを経験し、ぐったりしてドーバーに着いた。
そして、ドーバーの入国管理官がそんなぼくをさらに打ちのめした。
「この国にはどのくらい滞在しますか?」
「3ヶ月」
「目的は?」
「英語学校に通います」
「学校はどこですか? 生徒証を見せてください」
「学校はLTCスクール・オブ・イングリッシュ…」
言いながら生徒証を取り出した。「授業料が切れてますね」。生徒証は裏が授業料の受領証になっている。そこを突かれるとは思わなかった。「それは、その、たまたま切れたところだったので…」、ちょっとしどろもどろだった。
これまでの入国では何も聞かれなかった。最初は去年の夏だった。その年の春にマルセイユに着いたばかりで、もちろんイギリスに入るのは初めてだった。
それからロンドンには4ヶ月ほどいて、冬は北欧に、それからあちこち旅行して2年目の夏にまたロンドンに戻って来た。そのときも形式的に滞在期間を聞かれただけだった。
その2回目の滞在もまた冬になってしまった。クリスマス休暇に5日間ドイツに出かけて、今帰りだ。
「大変失礼ですが、お金はいくらお持ちですか? 見せていただけますか」。直訳すると「あなたはお金を見せることをお気になさいますか?」と、あくまで最上級のていねいさだというのがまた気に入らない。
船酔いの余韻が突き上げてきたのもあって、ぼくはいくらか不機嫌なしぐさでポケットから有り金を取り出した。「ここにはこれだけ。あとロンドンの自分の部屋に米ドルであと500ドルあります」。ほんとはあと100ドルのTCが一枚あるだけだった。
「残念ですが…」、係官は少し声を落として言った。「今ここにお持ちの分しか認められません。とりあえず3週間の滞在を許可します。それ以上の滞在は授業料を払って、領収証とパスポートを持って近くの役所に行ってください」。パスポートには「1月18日までの滞在を許可する」と記入したゴム印が押された。
霧雨の街
テムズ川沿いには
画架を立てる人も多い。
向こう岸が
チェルシー・エンバンクメント
この夏から、チェルシー・エンバンクメント13番地の日本クラブに住み込みで働いていたが、ドイツに行く直前、そこをクビになった。ドイツから帰ったらすぐ出て行くことになっている。
つまらないトラブルだった。常連の日本人客たちが麻雀室の設置を要求し、マネジャーはぼくを追い出してぼくの部屋をそれにあてようとしたのだった。
マネジャーは、部屋を明け渡してほしいとは言ったが、仕事を辞めろとは言わなかった。「きみはどこかに部屋を借りてそこから通ってきなさい」。それならと、ぼくは部屋代を要求し、その当然の要求が却下されたことから口論になった。
放浪の身の気楽さや、無責任な立場がぼくの言葉を棘立たせ、あげくは「クビだ」「ああ辞めてやる」の最悪の結果になった。仕事と、そして住まいを緊急に見つけなければならないという事態が、突然ぼくに襲いかかった。
ぼくはこの年老いたマネジャーよりも、週末になるとここにたむろして夜更けまで麻雀に明け暮れる同胞を憎んだ。
そして、戻ったらすぐにここを出て行くという厳しい条件を背負って、ぼくはドイツへの旅に出たのだった。
チェアリングクロス駅に着くと、その足でハイドパークの隣りにあるホランドパークYHに向かった。仕事と住居を一度に失って、しかも今度はあと3週間したらこの国からも出て行けだ。早く何とかしないと…。ちょっと焦っていたし、それに日本クラブの自室に戻ってもあそこはもう気持ちの安らぐ場所ではない。
年末のYHは閑散としていて、とてもヘルパーを必要とする状態には見えないが、一応聞いてみた。受付の、神経質そうにやせ細った中年の紳士は、イギリス人らしいていねいな言葉づかいで、思った通りの答をくれた。
「ごらんの通りの状態ですから、今私たちはヘルパーを必要としません。6月頃になったらまた来てみてください」礼を言って振り向くと、日本人が立っていた。「仕事、さがしてるんだ」、「うん、ここはダメみたい」、「うん、聞いてた」
ぼくより少し若いだろうか。こっちに来て最初の年は、日本人といえばたまに見かける商社マン風の人ぐらいだったが、放浪二年目も後半に入ったこの頃、大都市ではときどきこういう一人旅の若い日本人を見かけるようになった。
「仕事、いっしょに探さないか。オレも探したいんだけど、取っ掛かりがつかめなくて弱ってる。シベリア経由でヨーロッパに着いたばかりなんだ」、サエグサ、と彼は名乗った。それからYHのコモンルームでお互いの事情を話し合った。
ここにはもう一週間以上滞在していると彼は言った。すぐに日本クラブの部屋を明渡さなければならないぼくと、いつまでもここにいるわけにはいかない彼の事情が一致して、しばらくいっしょに暮らそうということになった。ぼくたちは、その日のうちにキルバーン地区に安い部屋を見つけて移った。ロンドンの街に冷たい霧雨の降る12月28日のことだった。
ジェントルマンの職探し
「パリのユースで会った日本人に聞いたんだけど…」、そう前置きして、その夜三枝が話してくれたことは、そうでなくてもかなり追い込まれた気分のぼくをさらに緊張させた。
イギリスはこの年末から外国人の不法労働への取締りをこれまでになく強化している、というのだ。無許可で働いて国外追放になった日本人がいるそうだ、と彼は言った。
YHを泊まり歩いていると、こういう情報はよく手に入る。少し甘く見ていた、と思った。三枝の言うように、事情が変わったのだろう。3週間以内に仕事を見つけて授業料を払わないと、もうこの国に留まることは出来ない、という事情が迫っていた。
翌日から仕事探しが始まった。見当をつけておいたのは、バンク周辺のビジネス街のレストランや、ピカデリーあたりのカフェテリアといったところだった。しらみつぶしに、それらを一軒一軒当るほかはない。
去年の夏はロンドン在住の先輩の紹介で柔道場の掃除、そしてこの夏からは日本クラブの台所手伝いと、順調に稼いできた。ドイツでも、JYHの紹介状を持っているお陰で、いつも簡単にYHの仕事にありついた。こういう体当たりの仕事探しは初めてだ。
店に入るととりあえずティーでもとって客を装う。それからウェイターを呼んで、マスターに会えるかとたずねる。最初からまっすぐ奥に入って行ってそう言えばいいものを、回りくどい。格好つけるな、勇気出せ、と、我ながら思う。客を装ってティーをとることで、その先の行動への踏み台にしている。そういうステップを経ないと先に進めない、というのがぼくのひ弱さだ。
日本のYH運動に少しばかり協力したのをよいことに紹介状をもらってきたのも、そんな場面を避けるための準備だったのだと思う。JYHにはあんなに批判的だったくせに…
でも今度ばかりはそうはいかない。3月に英語検定試験がある。英語学校の担任のバーンズ先生も、きっと受かると思うからぜひ受けなさいと言ってくれた。それまで3ヶ月、何とか滞在を延長したい。
何軒か回るうちに、そんなぼくもようやく少し開き直ったらしく、いきなり店の奥に突進して「店長に会わせてほしい」と切り出せるようになった。「店長。このジェントルマンが仕事を探しておられます」、取り次いでくれた店員はみんなそう言った。
ジェントルマンというのは照れるが、この国の習慣だから仕方ない。トイレにだって
Gentlemenと書いてある。この国では排泄をするときはみんなジェントルマンかレディーになる。
「失礼ですが、国籍は?」
「日本人です」
「日本人…、労働許可はお持ちでしょうか?」
香港など、英連邦の東洋人には労働許可が下りるが、日本人にはまず下りない。だから出入国管理の甘さを利用してちょこっと働いているわけだ。
ただ、人は慢性的に足りないから、こんなちっぽけなカフェテリアなんかではそんなもぐり労働者だって使わないとやっていけない、という事情もあるはずだ。
だが、労働許可がないことがわかると店長は、申しわけないが、と、言葉重くこう言った。「このところ取締りが急に厳しくなってねえ、ばれるとこっちも罰せられるんですよ…」。取締りが厳しくなったという事実がひしひしと迫ってくる。
でも、納得できる説明と、店長の誠意ある態度がせめてもの慰めだった。「うちを訪ねてくれてありがとう。幸運を祈ります」。どの店でも対応はこんなふうにていねいだったが、答は同じだった。
シャフツベリー・アベニューのその店からソーホー地区に踏み込んで、あと2軒ばかり当ったらもう午後四時。夜になっていた。
何となく沈んでしまった気分を晴らすためにと、中国人の店でうまそうな中華麺を仕入れて通りに出ると、女がどんとぶつかってきた。「オンリー・ファイブ・パウンズ!」、女はぶつかりざま、低い、ドスのきいた声でつぶやき、「あたしと遊ばない?」と言った。凄いルックスの中年女で、何をして遊ぶにしてもたくさんだという気がした。うんざりした気分でぼくはNo
thanks! と投げ返し、逃げるようにソーホーを出た。
見つかった仕事
別々に探したほうが効率がいいからと、ぼくとは別に仕事探しをしていた三枝がその話を持ってきたのは、明けて1月5日のことだった。
「おう、あったぞ!」
「あった? ほんとか」
「あったんだ、ほんとさ」
「へえ、すげえ。で、何だ」
「ビクトリア駅近くのビリヤード」
「ビリヤード? そんなところで何するんだ」
「そこの売店の店番だ」
「そっか…、で、労働許可のことは」
「聞かれなかった。2人、いいかって聞いたら、OKだと」
翌日からぼくたちはそこで働くようになった。ビリヤードの客が、1ゲーム終わるたびにお茶を飲みにカウンターにやってくる。ティーと、たいていはスコーンをとる。スコーンなんて、特別うまいものではない。「こいつらこれしか知らんのか」などと、日本語でつぶやきながらサービスする。
これで給料がもらえるなんて、と思うぐらい、仕事そのものはラクチンだ。ともかくこれからは毎週給料が入るから、今持っている分は英語学校に払って滞在延長の手続きをすればよい、とぼくはもくろんだ。
一週間がたった。「ところで、きみたちの雇用手続きをするので、労働許可証を出してくれないか」、ぼくたちに週給を渡しながら、主人が言った。「あっ」、ぼくたちは顔を見合わせ、とっさに事情を理解した。もぐりとわかっていて雇ってくれたのではなかったのだ。
最初で最後の給料をもらった夜、ぼくたちはまた、ソーホー地区の中国人の店で買った中華麺に、ぼくがフライパンで蒸し焼きにしたチャーシューをあしらった熱いチャーシュー麺をすすりながら、仕事探しはもう無理のようだ、という結論に行き着こうとしていた。
結論
「オレは初めての入国だから3ヶ月滞在できる。でもそっちはあと一週間だろ。もういかんな」
「検定試験はとりあえずあきらめるよ。それしかないだろう」
「どこか当てがあるのか」
「この時期じゃ無理かもしれないが、ハンブルグのユースではいつでも放浪者を雇うって話を聞いている。今のところそれぐらいしかない」
「行ってみるんだな、そこへ。金、もうないんだろ」
「何とか100ドルはあるけどね。それだけ」
「え、何だ、結構持ってるじゃん」
「手持ちが100ドルを切るまでには次の仕事を見つける、というルールを自分で決めてる」
こういう生活では、そうでもしないと落ちるところまで落ちる…。そんな自分の手堅さを、ぼくは自ら結構評価しているのだ。
「そんな放浪者もいるんだ。驚くよ。シベリア経由でウィーンに出てきてここまで来る間にいろんな日本人に会ったけど、みんなもっと無計画だよ。もっと楽天的だよ。それでいいんじゃないかなあ」
「うん、少し臆病なんだよな。で、そっちはいくら持ってる?」
「オレはまだ300ほど持ってるさ。出てきて2ヶ月だからな。だけど、いつも100ドルも持ってたら行動力鈍らないか。こういうのって不安だから必死になる。必死になるから何とかなっちゃう、そういうものじゃないのかなあ」
心のどこかでぼくもそう思っている。そこを、彼は今ぐさりと突いてきた。ぼくはいつも浮き袋をつけて泳いでいるのだ。
「そうだな、この100ドルを英語学校に払ったら、週 2.5ポンドの3ヶ月で30ポンドだろ、生活費が…」
ぶつぶつと計算を始めたぼくを三枝は黙って見ていた。リュックの底に貼り付けてあるお守りのことを思い出していた。ただのお守りではない。あの中には5ドル紙幣が縫い込んである。
「とことん困ったときに開けなさい。開けないで持って帰れたらそれに越したことはない」
それをぼくにくれた人はそう言った。ぼくが日本を出た頃は、こんな貧乏旅行なんて、ほとんど命がけみたいな冒険だと思われていた。情報はない、日本人はほとんどいない、その上、言葉は出来ない。そういう状況の中で、頼りになるのは金だけだった。
三枝に言われたことはわかるが、やっぱり何かが違うと思った。この2年ほどの間に、日本人の海外旅行そのものが大きく変質した。
シベリアルートという安上がりのルートも出来て、ヨーロッパ貧乏旅行もちょっとしたブームみたいになりかけているようだ。JALパックなんていうお任せツアーも売り出されたと聞いている。あのとき一種類しかなかった海外旅行のガイドブックも何種類か出たらしい。
つまり、ぼくの放浪と三枝の放浪は、初めから異質なものだったのではないか。ぼくが100ドルという歯止めを自分にかけ、その2年後に出てきた三枝が、そんなぼくの用心深さにあきれるのは、どちらもそれぞれの状況の中で当然のことなのではないか。
そして、ということは、つまりこの先はもう少し大胆に、向こう見ずに行動してもいいということか…
「どうだ?」
「うーん、仕事がゼロだと3月に入る頃にはすっからかんになる。ここの状況ではそれからだとちょっとヤバイだろうな」
「そりゃそうだな。どっちみち無理か」
「んだな」
結論は出た。
コンサート
気持ちが決まると、翌日からぼくはすっかり自分を取り戻し、今まで何となく馴染みそこなっていたロンドンという町を、もう一度じっくり見直してみよう、という気になっていた。
タワーブリッジ、ビッグベン、バッキンガム宮殿、大英博物館…、名所めぐりはやっぱり大して面白くはなかったが、そんなゆとりを持って眺め直したロンドンの町は、メシがまずくて、どこへ行ってもビートルズがガンガン鳴っている小汚い町、というぼくの偏見を、ちょっと違ったイメージに塗り替えてくれた。ここではいろいろと苦労ばかり多すぎたのだと思った。

出発前夜、ぼくは街角の庶民的なコンサートに、一着だけ持っていた安物のスーツを着て出かけた。地下鉄ベーカールーラインのスイスコテージという駅の前にオデオンという、まあわりと場末っぽい映画館がある。そこでときどき小コンサートがあることは知っていた。
その夜のコンサートのポスターを見たのは地下鉄オックスフォード・サーカスの駅だった。場末の映画館にふさわしく、1ポンド紙幣にお釣りが来る値段もあって、ぼくはその気になったのだった。
その夜、ぼくはモーツァルトのハ短調のピアノコンチェルトを聴いた。もちろんそれ一曲だったわけではないが、他に何を聴いたか覚えがない。
その曲を聴くのは初めてではなかった。家にはレコードも持っている。ぼくの数少ないクラシックの一枚だ。でもその夜はやたらそれが心に響いた。ある曲が、そんなふうに自分の奥深くに入り込んでくることがある。
帰り道、ぼくは遠回りしてベルサイズパークの駅まで歩いた。もう間もなく寝静まろうという夜更けの住宅街をざわざわと風が吹きぬけ、コートの襟を立てたぼくの頭の中に、終楽章のほの暗い主題が鳴り続けた。ロンドンは魅力ある町だと、初めて思った。
「あ、お帰り。遅かったな」、三枝は風邪を引いて少し熱があるから寝ていると言った。ぼくが戻ると、彼は毛布にくるまって、日本から送ってきたという週刊誌を眺めていた。
「で、どうだった、コンサート?」
「モーツァルトはな、27曲のピアノコンチェルトを書いた。知ってるだろ。でもな」
「おい何だ、いきなり」
ぼくは少しハイテンションだった。
「モーツァルトはあれ一曲だけ作ればよかったんだ。あとの26曲は、あれを作るための捨て石だ」
「すげえ偏見だな」
「いいさ、ともかくそう思ったんだ。24番ハ短調ケッヘル491、これだけ作りゃよかったんだ。あとの26曲は…」
「捨て石だ。わかったわかった。捨て石でも捨て猫でもいいが、明日の昼、どこかで送別会をしよう」
「あ、いいね、告別式ね」
「そう告別式。やっぱり仏式がいいかな」
「いや、むしろヒンズーだ」
翌日、ソーホーのインド人の店で辛ぁいカレーに汗をかいて、そしてチェアリングクロス駅でぼくたちは別れた。三枝とはたった3週間の友情だった。
放浪仲間とはそんなものだし、だからこそ結構熱い気持ちで相手を思いやるということもあるのかもしれない…
ぼくの乗った列車が動き出して、ホームの三枝の姿が視界から消えたとき、ぼくはふとそんなことを思った。
2004年5月
