100 STORIES<不幸中の幸い>


■放浪のころ離人症の谷 1



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悪夢、という言葉があるけれども、あのノルウェーの山の中でのひと冬のことは、今思い出してもどこか現実感が薄い。ぼくはあのとき、本当に悪い夢を見ていたのではなかったか。長々と続く夜と、昼間にも決して零度を上回ることのない寒さ。そんな異常な夜の世界はぼくの心を狂わせ、そして……。




第一章 地の果ての駅



ミヨルフィエル

その駅で降りたのはぼく一人だった。オスロ中央駅を朝十時に出て、ミルダルに停まる頃には日が暮れた。そしてそのミルダルという町のほんの一塊の家並が、車窓から見えた最後の町になった。それから列車は暗闇の中をひた走った。窓の外には光というものが一切見えない。民家らしいものも、街路灯も。

水滴で曇った窓を手で拭い、額をガラスに擦り付けてのぞいた窓の外には、ただ激しく降りしきる雪の軌跡が走った。「次の停車駅、ミヨルフィエル」、ほの暗い車内灯の並ぶ天井から、押し殺したような低い声が次の停車駅を告げた。そのミヨルフィエルという駅で降りなさいと、ぼくは手紙で指示されていた。列車がちょっと車体をゆすって速度を緩めた。

四時になるところだった。ミルダルを出てからちょうど一時間になる。日が暮れたのはだから三時頃。北緯六十度、ということはつまりそういうことだと、当然のことに驚き「真っ暗闇の午後四時」に当惑した。

プラットホームには屋根などもちろんない。ほんのわずかな盛り土をしただけのホームには積もった雪が固く凍りつき、列車の窓からもれる黄色い光がその不規則に踏みならされた表面の凹凸を照らしている。

オスロ発ベルゲン行きの急行列車、といってもたったの二両。二両目の後ろ半分は荷物車になっている。ホームに降りた車掌がぼくをじっと見ながら「ミヨル=フィエル」と、二つのシラブルをはっきりと区切って駅名を唱えた。こんなところになぜ外国人の旅行者が降りるのだろうか、と思ったのだろう。無理もない。大丈夫、間違えたわけではないのだと、ぼくは車掌にうなずいて見せた。

雪はやんでいる。列車の窓の光の届く範囲には雪をかぶった木々がぼんやりと白く見えるが、その奥はどんなに目を凝らしても何も見えはしない。下車するとき、マフラーを入念に巻き、ここへ来るためにロンドンのマークス & スペンサーで買った厚いキルティングのヤッケを着込んだ。だが、そんな重装備を通してひどい寒さが襲ってくる。ぼくは右の肩に担いでいたリュックを雪面に下ろし、急いでヤッケのファスナーを首のところまで引き上げた。

わずか二両の客車を電気機関車が大げさに引っ張って動き出し、ぼくを小さなプラットホームに一人取り残して行った。

すると、今まで列車が停まっていた方向の闇の中にぽつんと一つ頼りなげな灯が見えた。それはあまりにも小さな一つの点に過ぎず、民家なのか何なのか、そんなことはわからない。どっちにしても、まさかそれがこれから自分が行く家だなどとは思いたくもなかった。でも、それでもともかく、何も見えないよりはましだという気がして、ぼくはその闇の中の唯一の光に集中した。

こうしてあと五分もここに立っていると心細さに悲鳴を上げてしまうのではないかと思いながら、走り去る列車の灯を追った。その小さな光の列が闇の中を遠ざかるのを見ていると、自分が現実の世界から取り残されていくような気がして、右に左に山肌をうねりながら闇に吸い込まれていく光の列を、追いすがるように見つめた。

光の列が闇の中に完全に溶け去ると、ぼくはその暗闇と寒さの中に一人取り残された自分をいやというほど意識した。ホームの端に小さな駅舎が黄色く心もとない光を投げかけていなかったら、それでもぼくは自分自身を保つことが出来ただろうか。

駅舎の電灯は細々と頼りなげで、今にもあたりの闇に押しつぶされそうに見えるけれども、それでさえこの恐ろしいほどの闇と寒さの中では限りない救いであった。

…駅に着いたら電話をください。電話は駅長室でかけられます…ロンドンでもらった手紙にはそう書いてあった。駅長室、というようなものはなさそうだけれども、あれ以外に建物はない。あの建物が改札、待合室、事務室、駅長室をすべて兼ねているのだろうと理解し、雪の上に下ろしたリュックを担ぎ上げると駅舎の前に立った。

扉の脇に大きな温度計が掛かっている。マイナス二十二度。せいぜい四メートル四方ぐらいの狭い室内を照らす裸電球の下で、古い型の石炭ストーブに火が入っているのが窓越しに見えたとき、ぼくはようやくこの締め付けられるような寒さから解放されるという期待と、そしてそれ以上に、自分以外にも人がいるということに、全身の緊張が一気に緩むのを感じた。

黒い制服の駅員がストーブの脇の粗末な木の椅子に腰を下ろし、前こごみになってストーブをにらんでいる。「ゴッド・アフテン!」、ぼくは自分自身を元気づけるように、覚えたばかりのノルウェー語で勢いよく声をかけた。

ぼくはそこで、外国人同士の下手な英語か、もし彼が英語が駄目ならぼくが知っている限りのノルウェー語やドイツ語の単語を並べれば、いくらかの会話が成り立つことを期待した。

だが、ぼくの下手なノルウェー語の「こんばんは」に答えはなかった。いや、あるにはあったが、それはたった一音節の、低い、ほとんどうめき声のような「音」だった。

「あのぉ、電話を、使わせてほしいんですが」、
「……」

長い大きな赤ら顔に深々としわが刻み込まれていて、かなりの年のように見えた。彼はけだるい動きでこっちに向き直りながら、その長い顔の中の落ち窪んだ目で「なんだ、お前は」というように、ぼくの足元から顔へと視線をずり上げた。

「あの、電話、テレフォン……ですけど」、男の大きな肩がようやくもっそりと動いて、机に投げ出されるように置かれた電話を指差した。「そこにある。勝手に使え」。うつろな目がそう言っているが、口は閉じたままだ。

ぼくは足元にリュックを下ろして受話器をとった。「そこでしばらく待っていてください。すぐに迎えを出します。あ、それからちょっと駅長と代わってください」。男が「駅長」らしい。駅長さんはストーブの脇に根を下ろしたまま、長い手をぬっと伸ばして受話器をとると、二こと三こと話して切った。回転数の落ちた録音テープの音に似ていた。

沈黙が戻って来た。頭の上の頼りない裸電球が、窓ガラスの外にそれでも淡い光を投げかけ、暗闇の中に舞う雪片を照らしていた。また少し降り出したのか、それとも風が出て積もった雪が舞い上がったのか、小さな雪の粒が窓ガラスの表面をくるくると回って落ちた。

ストーブの火が小さく音を立てた。このほとんど異様といってもよい静けさの中では、石炭が燃え崩れるそんな音さえも、ドラの音のように大きく鼓膜を打った。

石炭の入った木箱にリュックをもたせかけ、そこにあった粗末な椅子に腰掛けて雪片の舞うガラス窓を見詰めていると、心細さはいよいよつのる。この闇のどこにぼくが行くユースホステルがあるのだろうか。

迎えに行きます、と、電話に出た女性の声は言ったけれども、迎えは徒歩か車か、いやもしかしたらソリということもある。いずれにせよ、そうやすやすとたどり着けるような平坦な道があるとはとても思えない。

そういえば、どうしてこんなところに駅があるのだろうか。それが不思議といえば不思議だ。駅というものは本来、その付近にいくらかの生活の場があってこそ成り立つものではないのか。

何もかもがもうほとんどあり得ないことのように思えた。そしてそんなところに今自分がいるという現実が、ぼくをあらためて打ちのめした。瞬間、ぼくはもう自分が現世から遠くはみ出してしまったような思いに立ちすくんだ。

心細さは限界を超え、ぼくはほとんど衝動的に駅長に声をかけた。

「あの、どこに、その、ユースホステルは、あるのでしょうか?」
「……」
「このあたりには民家はないんですか?」
「……」

英語に、知っている限りのノルウェー語の単語を混ぜた。今度こそはなんとしても口を開いてもらわねば、という思いだった。何秒かの重い沈黙の後、駅長はいかにも面倒というようにのっそりと顔を上げると、しばらくぼくの顔を、なにか珍しいものでも見るようにじっと見詰めていたが、やがて薄い唇を動かした。「××××……」、ひとこともわからなかった。それに、暗い、相手の気持ちを重く沈ませるような、鉛色の声だった。そしてまたすぐ、ストーブのほうを向いてうずくまった。

六十を過ぎているだろうか。いや、それならもう退職しているはずだ……。しわの中で、落ち窪んだ細い目が、おどおどと何かを恐れているように見えた。「ちっ!」、ぼくはいらだちをその沈みきった空気に投げつけた。駅長はやっぱり動かなかった。真っ赤に焼けたストーブが駅長をにらんでいた。


乗り物

外に物音がして一人の男が入ってきた。時計を見た。一時間も待ったような気がしたが、まだ二十分しかたっていない。ぼくは立ち上がってリュックに手をかけた。

男は扉が外れるのではないかと思うような乱暴な仕草でドアを押し開けると、いきなりあごをしゃくってぼくをうながした。巨人ゴリアテのようにたくましい、そして動作の粗野な若い男だった。その横柄さに思わずムッとしながらも、この重い沈黙と不安からとりあえず解放されるということがぼくの気持ちを少しだけ軽くした。リュックを担ぎ上げながら駅長に挨拶すると、駅長はそれでもようやくこっくりとうなずいて見せた。

雪は降っていないが少し風が出ている。ホームに出ると男は厚いフェルトの帽子の耳当てを下ろした。保線工事用の無蓋車が停まっていて、エンジンがかけっぱなしになっている。男はこれに乗ってきたらしい。屋根も囲いも、もちろん座席もない。

台車、というのだろうか、電車の車輪の部分だけにエンジンをつけたような四輪の乗り物。まさかぼくがこれに乗るということはあるまい。この寒さの中、こんな外気に対してまったく無防備なものに客を乗せるなんて…。それ以上にこんな危険なものに一般人を乗せるというのは多分、ノルウェー国鉄の決まりで禁じられているに違いない……。

そんなぼくの目の前で男はそれに乗っかり、足元のレバーを引いた。エンジン音が上がり、ぼくが思わず後ずさりしたそのときだった。「××××!」、男は振り返りざま何かを叫んだ。言葉はわからないけれども、彼の右手は明らかに「乗れ」と叫んでいる。ギクリと、ぼくはたじろぎ、そして聞こえなかったことにした。

全身がこわばっていた。「××××!」、男がまた同じことを叫び、今度はゼスチュアで「乗ってここにつかまれ」と、自分の両肩を叩いている。もう覚悟するほかない。第一、これに乗らなかったらどうなる。オスロに戻るにもベルゲンに出るにも、今日の列車はもうない。これに乗るか、それともあの駅長とストーブをにらみながら夜を明かすか、二つに一つだ。

ぼくは観念して男にリュックを預けると、おずおずと「乗車」した。大変なところに来てしまった、という思いがこみ上げた。操縦席には小さな鉄の板がはめ込まれているが、それ以外には細い鉄材、いわゆるL型鋼が何本か渡してあるだけで、むき出しの鉄材の下には二本の丸い車軸と四つの車輪、そしてレールも枕木も線路の砂利も、みんな丸見えである。

ぼくは操縦席に座った男の後ろの鉄材に両足を踏ん張り、彼の広い肩に両手でしがみついた。エンジンがフル回転に移り、乗り物は動き出した。覚悟を決めるほかない。

ただ、この小さなエンジンならそんなにスピードは出ないだろう、という計算をした。そしてそんな計算はすぐに吹き飛んだ。レールの継ぎ目を刻む音はみるみる早まり、思いもかけないスピードでそれは走り出した。ぼくは前から来る風圧と乗り物の揺れに耐えようと、もう恥も外聞もなく男の肩にしがみつき、鉄材を踏まえた両足に力を入れた。

マイナス二十二度の空気が激しくぶつかってくる。その寒気が厚いヤッケをやすやすと通して襲いかかり、ぼくの内臓を吹き抜ける。しかし、それ以上にこのスピードで振り落とされたらおしまい、という恐怖の前には寒さなどにひるんでいるゆとりはない。

ベルゲンの方向にそれは走っていた。必死だったからどんなところをどう走ったのかまったく記憶がない。もっとも、平静であったとしてもあの暗闇で、薄暗いヘッドライトの光だけではどれだけの「風景」が見えたわけでもないだろうけれど。覚えているのはトンネルをいくつか抜けたのと、やたらにカーブが多かったことぐらいだ。

それはもっと途方もなく長い時間に思えたけれども、実際には二十分も走っただろうか。前方右手の下のほうに灯火が見えた。その光はずっと下の谷間に見えるほんのひとかたまりの建物から洩れていて、あたりの雪景色をほんのりと照らしている。

乗り物がようやく停車し、耳元を吹きまくった地獄の風が収まったのは、その灯火のすぐ上だった。助かった、とぼくは胸をなでおろしながらあたりを見回した。暗くて何が見えるわけでもないが、鉄道が斜面の中腹を走っていて、あの灯火が谷底にあるらしいことだけはわかった。よく見ると建物は意外に大きくて、窓の明かりがいくつも闇の中に並んでいる。

谷底に人の気配がして、暗闇の急坂を懐中電灯の光がホタルのように揺れながら登ってくるのが見えた。生きた心地もない寒さと恐怖からようやく解放されそうだと、ぼくはほっと空を仰いだ。

谷間の狭い夜空に星がひしめいている。北極星がばかに高いところにあって、そこから左手のほうへ点々と小熊座の星々が並んでいる。そしてカシオペアのWはほぼ天頂に近い。ぼくは今、自分が北緯六十度にいること、そして丸い地球のことを考えた。

いくらか人間らしい心地を取り戻したぼくは登り着いた懐中電灯にうながされ、リュックを担いで斜面を下った。斜面は雪深い新雪で、腰まで雪に埋まりながらほとんどずり落ちるように懐中電灯に従った。


第一印象

玄関の大きな扉に体をぶつけるようにして中に入ると、冷え切った体を暖房のきいた空気がわっと取り囲んで、体の芯にジーンと音がするように血が巡り始めた。目の前に何人かの人が立っていた。

みんな黙ったままぬっとそこに突っ立っていて、そしてぼくをじっと見ている。やあ、いらっしゃいと、ヨーロッパの人らしい歓迎が待っているとばかり思っていたぼくは、その場のちょっと思いがけない雰囲気に戸惑いながら、衣類についた雪を払った。

「ミヨルフィエルへようこそ。私がウォーデンのエリクセンだ」、目つきの鋭い中年の男が前に出て右手を出した。そして上目遣いに、「ようこそ(Welcome)」などという言葉とは裏腹な、何かを警戒するような表情でぼくを見た。毛の薄い頭がぼくの目の高さにある。長身の人が多い北欧では珍しいな、と思いながら、ぼくは差し出された右手を握り返した。なぜか、暗く重々しい印象が右手を走った。

「こっちがワイフだ」、「こんな遠いところへようこそ」、奥さんはもっと小柄で、しかもやせこけた貧相な体格だが、主人のような暗い印象ではない。「実はね…」、彼女は挨拶を終えると、おかしそうに笑いながら話し始めた。

「あなたのことを、私たちは女の子だと思ってました。だからみんなで言ってたんです。さあ、働き者の日本の女性が来るよ、って」、そしてみんなくすくす笑った。

この五月、神戸から船でマルセイユに着いた。そこからぼくの放浪が始まった。フランス、イタリア、スイス、ドイツ、そして北欧をざっと回ってロンドンにたどり着いたぼくは、ちょうど転がり込んできたアルバイトを頼りにロンドンに滞在した。

そして冬の間はノルウェーあたりのスキー場で働くというのも悪くないかな、なんていう軽い気持ちでノルウェーのユースホステル協会に手紙を書いた。そして協会が紹介してくれたのがここだったというわけだ。

考えてみればその手紙には性別は書かなかった。そしてこの人たちには名前から性別の判断は出来ない。その上ぼくは「できれば台所の仕事がしたい」などとも書いた。女の子だと思い込むのも無理はない。ロンドンで受け取った返信の宛名に Miss とあったのは、単なる誤記ではなかったわけだ。

「あ、べつにいいんですよ、男だって。台所の仕事はお好き?」、「はい、料理は好きです。食べ物に触っているだけでも幸せなんです」、会話の分だけ雰囲気が和らいだと思った。

奥さんがみんなを紹介した。主人の息子のクリスティアン、スキーインストラクターのカール、事務のインゲ、キッチンの手伝いをしているルシンダ、彼女はイギリス人。「ほかにコックのマルタと、あなたのルームメイトのペーターがいます。ペーターはちょっと変わってますけど、気はいい青年です。仲よくしてやってください」、

ぼくは紹介された一人一人と握手を交わしながら、一時は和らいだと思ったその場の空気が、またどんどん凍りついて行くような気がした。初対面の形式的な挨拶とはいえ、それはあまりにも淡白な、冷ややかとさえいえる出会いだった。握った手と手の間に血が通い合うような、そういう温もりのある握手は一つもなかったという気がした。

それでも、あのひどい乗り物の恐怖と、内臓を吹き抜けた寒風とで震えが止まらなくなっていたぼくは、室内の明るさと暖かさにようやく人間らしい落ち着きを取り戻そうとしていた。

「こっちへ」、主人があごをしゃくってぼくをうながし、ぼくは心持ち右足を引きずって歩く主人のあとに従った。声もなく引き上げて行くみんなの背中が、激しくぼくを拒んでいるような気がした。

玄関脇の大きな木の扉の中が主人の事務室だった。ごつい木製の机がぽつんと置かれたその部屋は事務室としてもあまりにもわびしくて、ぼくはついさっきの駅長室を思い出した。駅長がにらめっこしていたあの粗末なストーブがないだけだ。

「君は今ヨーロッパで何をしている」
「放浪、というか、ちょっと働いては小旅行をする、というような…」
「それで、金がなくなったからここで働きたいと、そういうわけか」
「金は、まだ少しあります。でも冬は旅には向きませんから」
「そうだ、だからうちでも仕事は少ない。給料はあまり出せないが」
「いくらぐらい」
「五百クローナ」
「ぼくの仕事は」
「室内の掃除、それと台所の手伝いだ」
「時間は」
「朝は七時から昼食の片づけまで。午後は四時ま休みで、そのあとはまた夕食の片づけが終わるまでだ」

主人はまた上目使いにぼくを見ながら、押し殺したような声で説明した。ぜいぜいと雑音の多い、濁った声だった。

「すぐに夕食だ。荷物を部屋に置いたらすぐに食堂に来い。食堂は二階だ」

窓ガラスの外に、さっきまでぼくを取り囲んでいたあの恐ろしい寒気と闇が張り付いていた。玄関ホールの古ぼけた柱時計が物憂く六時を打った。日本ならようやく日が暮れた頃だ。ここは北緯六十度なのだと、また思った。

十二月二十三日、明日はクリスマスイブ。



第二章 蝕まれる心


ルームメイト

食堂や事務室のある本館とは別棟になっている男子宿泊棟の一階の一番奥がぼくの部屋だった。三メートル四方ぐらいの板の間に、二段ベッドと小さな木のテーブル、そして窓際に作りつけのパネルヒーターという、簡潔な、しかし暖かくて、とりあえずは快適な部屋だ。

だがその二段ベッドの上段に何かが横たわっているのを見たとき、ぼくは思わず息を飲んだ。何か巨大なものが茶色の毛布に包まれて長々と伸びていて、その一方の端に赤茶けた毛髪の塊がある。

それがさっき奥さんが言った「ちょっと変わってますけど、気のいい青年」のペーターだということはすぐ察しがついたけれども、それにしてもこの現われ方は異様だった。「ハロー」、ぼくはともかく声をかけることでこの恐怖に近い驚きから逃れようとした。だがベッドの上の塊は動く気配もない。「ハロー!」、少し声のトーンを上げてみた。

どうやらそれは眠っているらしく、よく見ると全体がゆっくりとしたリズムで呼吸している。ぼくはとりあえずベッドの脇に荷物を置き、主人に言われたとおり本館に戻って食堂に出た。

「ペーターはいましたか?」、奥さんが聞いた。「はい、よく眠ってます。起こしてきますか?」、「そうね、夕食が冷めないうちに…」、「ほっとけばよい! 夕食は六時と決まっている。来ないやつがいけないんだ」主人の一喝で奥さんは黙り、空気がまた重くなった。

タラのクリーム煮、ブロッコリーとニンジンのソテー、ゆでジャガイモ…。夕食はとてもおいしかったが、会話は少なくて、みんなただ黙々とナイフ・フォークを使った。

「ロンドンでは何をしてましたか?」

奥さんが聞いた。

「いろいろアルバイトをしながら英語の学校に通ってました」
「そう、じゃ英語はもう大丈夫ね」
「それが、そうでもなくて…」
「平気よ、この連中の英語も、まあそこそこだから」

ぼくに話しかけてきたのは奥さんだけだった。事務のインゲとイギリス人のルシンダがときどき小声で話す以外、会話はほとんどなかった。そして、料理を運んできたのがさっき奥さんが言ったコックのマルタだと思ったが、彼女はそれっきり食事の席には姿を見せなかった。

食事が終わり、コーヒーを飲み終わると、ぼくはすぐ自室に戻った。食後、長居をする雰囲気ではない。ベッドの上の物体は上体を起こしてベッドから長い足を垂らし、ぼんやりと宙を見詰めている。

「ペーター」、声をかけるとそろそろと緩慢な動きで視線をこっちに向けたが、その長い大きな顔にはほとんど表情というものがない。そのくせ「よろしく」と、ぼくが手を差し出すと、一挙にだらしなく顔を崩して、よだれを垂らさんばかりに笑った。 

同室者がいるということは、一方ではわずらわしいと思いながら、一方、心強くもあると思っていた。まして、この環境ではなおのことだ。だが、ぼくのそんな思いは吹き飛んだ。同室者は、とてもまともな会話など期待できない人だったのだ。

その夜、ぼくは奇妙な感覚に襲われた。二段ベッドの下段に横たわってぼんやり上を見ていると、上段でペーターが寝返りを打つたびに、むき出しのスプリングが大きくたわみながらきしむ。ぼくには、そのキュッキュッときしむ音が、どこか遠くのほうでしたように思えた。そしてそのくせ、その音はひどくぼくの神経をえぐった。

何かがおかしいと思った。ぼくは起き上がってあらためてあたりを見回した。手を伸ばしたところにパネルヒーターがある。何気なく、ぼくはそこへ手をかざした。それは直接はちょっと触れ難いぐらい熱くて、少し手を近づけすぎたぼくはあわててその手を引っ込めた。だが、ぼくにはその熱さがまるで自分自身の感覚とは思えなかった。今、熱を感じたのは、誰か他人の手のように思えた。

細かい赤の縦じまのカーテンをそっと分けて窓の外を見た。暗闇に雪が舞っている。どんなに目を凝らしても見えるのはそれだけ。ぼくは、自分が今どこにいるのかということを認識しようと試みた。

ここはノルウェーの中西部、北緯六十度、海抜千メートルの山の中。そしてここに住み込んでこの冬を過ごそうとしている…。

わかってはいる。すべてははっきりしている。問題は、それを実感できないことだ。夢を見ているような自分の周辺を、もっときちんと認識しろというぼくの理性が宙に迷っている。ぼくの中で、知識と、知覚が明らかに食い違っている。すべてのものに現実感が失われていた。

異次元の世界に迷い込んだような、とでもいうか、何もかもが薄いベールの向こうの別世界のように思えた。少し疲れたのかもしれない…。ぼくはそう思うことでこの奇妙な感覚を理解しようと試みた。だが「疲れた」などという簡単なことではとても説明しきれない何かが心の中に生じたのであることを否定できなかった。

恐ろしかった。自分が狂ってしまうのではないかと思った。ペーターのいびきが聞こえてきた。それはいびきというよりは、安らかな、かすかな寝息なのだということはわかっていた。だがぼくにはそれが非現実的なぐらい遠くの物音のようにも思え、そしてそのくせ、まるで大波の打ち寄せる音のように轟いてぼくを恐れさせた。電灯を消して毛布を深々と被った。眠りだけが、この恐怖からぼくを救ってくれるのだと思った。


星々の朝

目を覚ますと電灯の鈍い光が部屋を照らしていた。二段ベッドの上段はすでにからになっている。六時五十分。

「明日から仕事だ。七時に台所だぞ」、昨夜主人はそう言った。遅れたら承知しないぞ、という言い方だった。カーテンを開けてもまだ真っ暗だけれども、とりあえず朝には違いない。ぼくはカーテンをそろそろと引っ張りながら窓の外を見た。一夜明けたといっても昨夜と少しも変わらない暗闇が気に食わない。

身支度を整えて外に出ると、厚い衣類の上から寒気がわっと全身を締めつける。立ちすくみながら、空を見上げた。北極星がやっぱり真っ先に目に入った。昨夜と同じ位置にそれがあるというのが、当たり前のことなのに妙に気になる。回りに黒々とした山が立ちはだかり、まるで井戸の底から眺めるように、ここの天空は狭い。北極星の周辺ばかりが目につくのもそのせいだ。

寒さに耐えてその小さな天空を見上げながら、ぼくは昨夜のあの奇妙な感覚がまだ去っていないことを意識した。現実の世界と遊離したような不思議な感触が、じつとりとぼくにまつわりついている。

これは一体なんだろうか、などと、自分の内部を分析しようとする。そしてそれはぼくを恐ろしい闇の世界に引きずり込もうとし、もう二度と正気に戻ることが出来なくなるのではないか、などという恐怖にとらわれる。だがまたしばらくするとその奇妙な感覚を見詰めずにいられない。

それが何なのかを知ることで、あるいは解決があるかもしれない、などと思う。だが、この得体の知れない恐怖は、そう簡単に姿を現わそうとはしない。あげく、払っても払ってもしつこくこびりついてぼくをあざ笑うそいつを、なんとか追い払おうとむなしい努力を繰り返す。

そして、ここは地の果てのような僻地、出て行きたくてもことは簡単ではないのだと、今の自分の立場に思い至る。覚悟を決めるしかない。

このばかばかしく長い夜も、あと二時間ほどで明ける。日が昇ればまた気分も変わるだろうかと、思い直してぼくは本館との間の十メートルばかりの雪の道を駆け抜けた。風が粉雪を巻き上げ、ぼくのヤッケにサラサラと乾いた音を立てて雪の粒が当った。

玄関に吹き溜まった雪を黒いヤッケの大男がシャベルで掻き除けていた。いつか本で読んだヒマラヤに住むという雪男イェーテのことを思い出した。

「ペーター」、声をかけるとのっそりと振り向き、ほとんど動物的といってよいような低い声で一声うめいた。「ゴッド・モルイェン」、「ゴッド・モルイェン!」、そして、ぼくが挨拶を返したことがさもうれしいというように、相好を崩して笑った。
そんな喜びの感情だけが、その場のどんな状況にも優先して突出してしまう彼の幼児のような純朴さにぼくは激しく親しみを感じ、何かもう一言言葉をかけようとしたけれども、言葉の壁はこういう相手にはなおさら厚く、もう単語さえ出てこなかった。

玄関を入ると右手の受付にインゲがいた。見事な金髪を長く垂らした典型的な北欧美人だが、上目遣いに人を見据える大きな緑色の目を、ぼくは初対面のときから激しく拒絶した。

「Good morning」と声をかけると、ヤッケを脱ぎながら足早に階段を駆け上がろうとした。「If I were you…」、後ろから声がかかった。その得意げな英語も気に障る。「私がもしあなただったら…」仮定法過去、あり得ない仮定。

「あたしだったら、ヤッケは外で脱ぐわね。あなたのヤッケについた雪が、ほら、あたしが今掃除したところにたくさん落ちたわ」、細かな雪の粒が、暖房の効いた床の上で点々と水滴になっていた。「ソーリー!」、ぼくは最小限の言葉でとりあえず謝って一気に階段を駆け上がった。

階段を上がると右が集会室、左が食堂、その奥がキッチンになっている。コーヒーの香りがぬくぬくと漂うキッチンでは、一人の大柄な女が象のように広い背中をこっちに向け、流し台の前で立ち働いていた。

コックのマルタ。昨夜彼女が食堂に料理を運んできたとき、彼女は見事にぼくを無視した。誰もぼくを彼女に紹介しようとはしなかったし、ぼくもあえて名乗らなかった。

「Good morning」、声をかけるとマルタは右手にプチナイフを持ったまま振り向いた。四十代後半といった年配だが、造作の小さな丸い顔が大柄な体にちょこんと乗っかっているのがへんにかわいい。プチナイフを左手に持ちかえ、エプロンで右手を拭いてからその手を差し出し、いかにもめんどくさそうにぼくの手を握ると、横柄な物腰で言った。

「朝は忙しいんだからね」、そして両手を腰にあてがい、威嚇するように胸をそらして続けた。「サボらないで働いておくれよ」、「はい…」、「ほらほら、そんなふうに突っ立ってないで、食堂のテーブルにクロスをかけて、食器を出して…」

木肌をむき出しにした山小屋風の造りの食堂に、やはり太い材木でがっちりと作られた六人掛けのテーブルが十五ばかり並んでいる。ぼくはそのテーブルに赤と白のチェックのテーブルクロスを掛けながら、これもがっちりと太い木枠で囲まれた窓のほうを見た。

ワインレッドの細かい縦縞のカーテンは、誰が開けたのかもう開いているが、二重窓の外はまだ闇に閉ざされている。七時半になるところだ。

階段に荒々しい物音がしてルシンダが現れた。ルシンダ・オズボーン。十九歳。キッチンでのぼくの相棒であり、かつ、ここではぼくのほか唯一の外国人でもある。

「グーッ・モーニーン! 遅刻遅刻、ボスはまだね、ああ助かった」、彼女は歌うような抑揚でおはようを言うとキッチンに駆け込んだ。「また遅刻かい、まったく…」。キッチンからはマルタの小言が聞こえる。

ルシンダの仕事は主としてコックの助手、ぼくは主にテーブルのセッティングや皿洗いだ。だがルシンダときたら「キッチンジョブなんてまっぴら。だってやったことないんだもん」と公言してはばからない。この分担はむしろ逆だとぼくは思っている。そしていずれは入れ替わることになるだろうと読んでいる。

十五のテーブルにクロスを掛け終わると、真ん中の大きなテーブルにその日の人数分の食器と食べ物を並べる。食事はそこから自由に取って食べる、日本でいうバイキング形式である。その日の人数は宿泊客プラス従業員。食事のときは従業員も宿泊客も同席ということになっている。

キッチンからルシンダの歌が聞こえてくる。音程がひどく外れているのをものともせず、コーヒーの香りとともに歌はキッチンから食堂へと流れ込む。

コーヒーがはいるとメインテーブルの保温器の上に置く。台所へコーヒーを取りに行くと、歌いながらチーズをスライスしていたルシンダが指を切ったと騒いでいる。「だから歌はやめなさいと言ってるでしょうが。それにしてもどうしてこう汚らしい切り方をするんだろうねえ。まったく、チーズ一つまともに切れないんだから」

マルタに怒鳴られたルシンダは、切った指を押さえながら馬のような足音を残して階下へ傷の手当てに走った。がさつで品の悪い、霊長目原猿亜目キツネザル科に属する容貌の女である。


夜明け前の朝食

午前八時、朝食の用意はできたが、まだ誰も起きてこない。八時といってもこの暗闇では無理もないが。

メインテーブルにはパンが三種類とバター、そしてジャムが三種類、薄切りのハム・ソーセージそれにチーズも何種類か、コーヒー、紅茶、ミルクと、なかなか豪華に並んでいるが、それに最初に手をつけるのは結局ぼくたち従業員だ。

さっきの傷に大げさに包帯を巻いてもらったルシンダがメインテーブルのすぐ脇のテーブルで、フォークを振り回しながら朝食にかかった。「あんたも早く食べれば」、「はいはい」、こいつと一緒には食べたくない。

ぼくがあいまいに語尾を濁してキッチンに逃げたら、そこではマルタがコーヒー片手に立ち食いの最中だった。「ほら、あんたもさっさと食べて。もうすぐゲストが起きてくるよっ」、仕方なく食堂に戻るとルシンダは薄切りのソーセージを乗せたパンをくわえ、手にコーヒーカップを持って立ち上がるところだった。

「ゆっくり食べればいいのに、食事ぐらい」
「ふん、ゆっくりなんてやってられないことはすぐわかるわよ、あんたも」
「え?」

ぼくはとりあえずライ麦のパンにたっぷりブルーチーズを塗って、カップに熱いコーヒーもたっぷり注いで、窓際のテーブルに運んだ。浅黒くてしっとりしたパンの生地にブルーチーズがよく馴染む。黒々とローストした苦味の強いコーヒーもとても爽やかで後味がよい。

台所からまたルシンダの調子はずれの歌が聞こえてきた。がらんとした食堂の一角で朝食をとりながら、ぼくはまたあの奇妙な非現実感と戦っていた。何か作業をしているときは忘れていても、こうして一人きりでくつろぐとまたそれがぼくを苦しめる。

昨日の午後あの駅に着いてからのことを考えた。急激な環境の変化についていけなくて、神経が反乱を起こしているのだ、とぼくはぼく自身を診断した。ただ、幸い食欲はある。夜もよく眠れる。それならばこれは直接体に響いてくることはなさそうだ。

出来るだけ無視しよう。この環境に慣れてくればきっとこの違和感は自然に消えていくだろう。といってもこれはそう簡単なものではないとも思えるけれども、どっちにしても無視しているほうが気楽、という気がした。そう思うと少しだけ悟ったような気持ちになれた。

ぼくは気を取り直して席を立ち、コーヒーのお替りをした。そして今度はせんべいのように固いクネッケにバターとマーマレードを塗り、その上にゴーダチーズのスライスを乗せてかじりながらまた窓の外を見た。

八時を過ぎているのにまだ夜明けの気配もない。額を窓の外に擦り付けた。やっぱり何も見えない。

「グッド・モーニング」、押し殺したような声がした。主人が立っていた。「グッド・モー…」、返そうとしたぼくの口を怒声がふさいだ。「いつまで食ってるんだ。さっさと仕事に戻れ!」、台所の入口からルシンダがこっちを見て「ね、だから言ったでしょ」、というように片目をつぶって見せた。べつに仕事があるわけではない。

今泊まっているのはオスロから来た九人のグループだけで、彼らが食堂に現れるのは早くても八時半を過ぎてからだという。キッチンでは保温器の上で大きなコーヒーポットが湯気を立て、ミートスライサーの上で丸太のようなソーセージがあくびをしている。

ルシンダはまだ食い足りないのかソーセージの切れ端をつまみながらまたウィンクした。

「あの人の趣味ね、あんなふうに怒るのは」
「こんなに時間があるのに、なんであんなに早くから仕事を始めるんだ」
「それも趣味ね。でも、ここにいれば彼は来ないわ」
「え、なんで?」
「ここはマルタが…」

食器棚の脇の狭い階段からマルタが下りてきて、ルシンダはあわてて言葉を飲み込み、肩をすくめた。ぼくにわかったのは、この台所の上がマルタの部屋らしい、ということだけだった。

八時半近くなって窓の外がほんのりと白み始める頃、ようやく食堂に人声がしてぼくたちは少しだけ忙しくなる。といってもメインテーブルに盛った食べ物や飲み物がからにならないように補充するだけで、食事自体はセルフサービスだから、とくにぼくたちがすることはない。

九人の若い宿泊者たちは、遅い朝食を終えると夜の明けるのを待ちながらゆっくりとおしゃべりを楽しんでいる。その三十分ほどの間にメインテーブルのコーヒーポットが何度も空になった。

ここに来る途中で一泊したハンブルグのユースホステルでは、七時から朝食が始まり、七時半頃にはほとんどの宿泊者が食堂にやってきて朝食をとった。あの健康な活気に、ここはほど遠いな、とは思うが、夜明けが九時というのではまあ仕方ない。

ここではそれ以上早く起きてもたいした意味はないのだ。宿泊者たちが遅い朝食を終えて席を立ったあとは、彼らが洗い場まで運んでくれた食器を洗う。食器洗い機もあるが、今日は人数が少ないから手で洗ったほうが早いというルシンダの言葉に従った。

九時過ぎ、ようやく外が明るくなった。窓の外に一面の雪原が広がり、その向こうに巨大な山がもっそりと立ちはだかっている。朝の太陽はその向こうにあるらしく、ここには日差しが届かないが、黒々と陰の部分をこちらに向けた山の稜線が、皆既日食のときの金環のようにまぶしく光っている。

食堂と台所の片づけを終えて、ルシンダが女子棟の、ぼくが男子棟の掃除にかかる頃、その山の対斜面である裏山の岩壁に弱々しい冬の太陽が差し始める。そして、この建物のある谷間には、一月の終わりごろまで日は差さないのだという。
もう九時半を過ぎた。


つかの間の昼

昼食の片付けのあとは四時まで休みだ。部屋に戻って二段ベッドの脇の粗末な木の机に向かっていると、またぼくはあの「現実の認識」に苦しまねばならない。ベッドの上段で昼寝を始めたペーターを起こさないように、そっと抜け出して、なんとか気を紛らそうとぼくは集会室にやって来た。

ピアノの脇にクリスマスツリーがぽつんと立っている。高さ二メートルはあるなかなかのものだけれども、寂しげな感じは、飾り付けがいくらか少ないせいだろうか。でもそんなに貧相な飾りつけというわけでもない。そういえばこの家全体にクリスマスといった雰囲気がない。ツリーが何か「ぽつん」という感じなのは、そんなここの空気のせいかもしれない。

今日は十二月二十四日。

荒削りの太い窓枠に囲まれた大きな窓の向こうに、寒々とした雪原と、その向こうのもっそりと大きな山の、何とも索漠とした風景に、ぼくはしばらくの間呆然と見入った。

「大きな山でしょ」、奥さん、みんなの呼び方に従えばミセス・エリクセンが立っていた。「その山がミヨルフィエル。あなたが昨夜下りた駅の名前と同じ。フィエルていうのはノルウェー語で山のことなの」、「ミヨル・フィエル…」、南面に大きく立ちはだかって東西に長々と横たわるこの山のおかげで、この家にはほぼ一月いっぱい日が当らない。その山、ミヨルフィエルの向こうに隠れたままの太陽が低い南の天空を移動している。

そしてこの谷間は、まったく日が差し込まないままもう間もなく日没を迎えようとしている。山はこの雪原に黒々と陰を落とし、稜線には強風に吹き上げられた雪の飛沫が逆光を浴びて白く煙っている。どす黒いに岩壁に雲の塊がいつも沸いては消えるあのアイガー北壁でさえ、これよりはずっと穏やかな眺めだったと思った。

「近くに民家はないんですか?」
「駅のほうに五キロ行くと山小屋が一軒あります。それだけ」

奥さんはそう言ってちょっと笑顔を作り、そして続けた。

「そこから駅まではさらに五キロあります。一番近い町は反対の方向に、つまりベルゲンのほうへ二十キロ離れたヴォスという町」

ここは逃げ出そうにも逃げ出しようのない雪中の孤島なのだ。

「ここの宿泊者はどうやってここへ。まさかあの乗り物に…」
「それはないわ。昨夜は大変だったでしょう。でもまさかあれで宿泊者を運ぶわけじゃないの…」

奥さんの説明を聞いた。…夏は駅から十キロの道を歩いてやって来る。冬は、スキー客はグループが多いから、何人かまとまるとこの上の、昨日ぼくがあの乗り物を降りたあたりに列車が停まる。そこは仮駅になっていて一両分だけの小さなプラットホームがある。小人数の客はどれかのグループに日程を合わせてもらうのだという。

「食糧なんかはどうやって?」
「食料は毎週一回、ヴォスの町から雪上車で運んでもらうの。幸い階下の部屋が天然の冷蔵庫だから週一回で大丈夫」
「ああ、あの地下室」
「え?」

彼女はいくらかいたずらっぽく笑いながら、ぼくが何気なく言った一言に引っかかってきた。

「あなたは今、この建物の何階にいると思って?」
「二階」

ぼくは迷わずに答えた。

「じゃこの建物は何階建て?」
「二階建てでしょう。その上に屋根裏部屋と、あと地下が二階…」

そこまで言って、ぼくはようやく気付いた。あれは地下室なんかじゃない。マルタに命じられてあそこへバターを取りに行ったとき、そういえばあの部屋には窓が並んでいた。地下室に窓はおかしい。

「そう、ここには地下室はないわ。あなたが一階だと思っているのは実は三階。今使ってるのは三階の冬用の玄関よ。だからここは四階」

つまり積雪は常時五メートルを超えるということだ。それにしても、あまり上手とはいえない英語を考え考え話すこの中年の女性に、ぼくは暖かさと誠実さを見つけていた。この人が、ここでの唯一の救いかもしれない、という気がした。

窓の外に数人の人影が見えた。「スキーを始めるようね、ちょっと行ってみましょうか」、うながされてぼくも外に出た。風がやんで、穏やかな午後だった。といっても日光に見放されたゲレンデはマイナス十六度。九人の宿泊者たちはリフト一本あるわけではないゲレンデで、まずは雪を踏み固める作業から始めるところだった。

後ろを振り返ると、この谷の北側は建物の裏手からすぐ急斜面になっていて、数十メートル上の鉄道線路のところまでは針葉樹が生えているが、線路から上はさらに急な斜面、というよりは断崖で、黒々と直立する岩肌のあちこちに雪がこびりついている。

列車は一日に上り下り四本ずつ。切り立った崖の途中に細長く伸びる線路は静まり返って、ひどく無駄なもののように思える。その岩壁の上のほうにさっきまで差していた日の光がもうほとんど力を失い、夕暮れの凍るような風がぼくたちを室内へと追い立てた。

「今夜はクリスマスイブでしょ。ご馳走が出るわ」
「どんなごちそうですか、ノルウェーのクリスマスは?」
「まあそれは今夜のお楽しみね」

彼女はそう言って穏やかな笑みを残し、自室に消えた。外には闇が迫っていた。午後三時。


クリスティアンの部屋

「ちょっとオレの部屋に来ないか」、夕方の仕事までにはまだ少し時間がある。とりあえず自室に戻ろうとしたぼくに、主人の息子のクリスティアンが声を掛けてきた。「おもしろいものを見せるよ」

自室に戻っても何があるわけではない。そして沈黙がまたぼくをあの奇妙な現実遊離の感覚に怯えさせる。今は誰でもよい、人と話しているほうがよい。ぼくはクリスティアンのあとについて屋根裏の彼の部屋へ通じる狭い階段を上がった。

屋根裏とはいっても、彼の部屋は天井が大きく傾斜している以外は広々と明るい。窓も結構大きくて、外の眺めも十分ある。だがぼくはその広い部屋いっぱいに広がった異様な光景に息をのんだ。

「さあ、どうぞどうぞ」、上機嫌の様子でぼくを招き入れた彼の前に、大掛かりな鉄道の模型が部屋の大部分を占めて広がっていた。それは、素朴な造りの木の机と、小さな本棚、そして傾斜した天井が一番低くなったところに置かれたパイプのベッド以外のすべてのスペースを埋め尽くしていた。

「今これを動かすからね。そこのベッドにでも座って見てなよ」、彼は目を輝かせてそう言うと、あとはもうぼくの存在など目にも入らない様子で鉄道模型の操縦に熱中した。縦横に入り乱れたレールの上を何本かの列車が走る。踏み切りはシグナルを点滅させて列車の通過を見送り、一本の列車が駅に停まるとポイントが切り替わって、あとから来た列車が隣りのホームを通過していく。

おもしろくないこともない…。ぼくはその見事によく出来た仕掛けにしばらくは呆然と目を奪われていた。「さあ、次はそこの貨車と機関車の連結作業だ。見てろ」、「今度はそっちの列車を車庫に入れて、こっちのを引っ張り出す」、「どうだ、すごいだろ。その手前のポイントはよく出来てる。複雑だが、みんなここで操作できるんだ」

そうやって彼は次々と列車を動かして見せた。ぼくが話し掛けても耳に入らず、自慢の鉄道模型に完全に我を忘れているようだった。そんな彼に、そしてこのあまりにもよく出来たミニチュア鉄道に、ぼくはかなりの部分羨望を感じていた。

十代の頃、ぼくもこれに興味を持った。デパートの模型売り場を徘徊したこともあった。男の子にはよくあることだ。そしてそのあこがれは今も消えたわけではない。

しかし、実のところぼくは少ししらけてきた。そして、相変わらず「どうだ、すごいだろ」を繰り返すクリスティアンの横顔に視線を移した。

三十をいくつか過ぎているだろうか。北欧人らしい見事な金髪が秀でた額にかぶさり、青く澄んだ目が無心に列車を追っている。少年の目だ、とぼくは思いながら、そのダビデ像のように見事に整った横顔に見とれた。

いくつになっても少年じみたものを持ち続けることに、ぼくはむしろ好感を持つ。だからさっきこの部屋に入ったときには、驚きながらもどこかでクリスティアンに親しみを感じていた。

だが、あれからもう三十分以上も一向に飽きる様子もなく、またぼくの思惑など顧みる気配もなく、一心に列車を走らせる彼の顔を見ているうちに、これは「少年の純粋さ」などとは違うのだと思え、背筋に冷たいものが走った。

子供の頃、ちょっと変わった形のトンボをつかまえてもてあそぶうち、それはトンボではなく、トンボによく似たカゲロウの一種であることに気付いてぞっとしたことがある。その瞬間、わっ、とぼくそれを投げ出し、そしてそれ以来、ぼくは昆虫を嫌うようになったのだった。

ぼくはふと窓の外に視線を逃れた。外にはすっかり夜の帳が下り、厚い二重ガラスの窓にクリスティアンの広い背中が映っていた。

屋根裏部屋を下りたところでルシンダに会った。

「見たのね、あれ」
「きみも見たのか、模型」
「誰にでも見せるわ。自慢なの」
「いくつだ、あいつ」
「三十五」
「独身だろ」
「そう。わけありなのよね」

ルシンダはそう言って口の端で笑い、片目をつぶってつけ加えた。

「一人で彼の部屋に行くのは気をつけたほうがいいわ。あたしは平気。女だから」

下卑た笑いを残してルシンダは台所のほうに駆け出して行った。


クリスマス・イブ

クリスマスのディナーは、ツリーの立つ集会室で始まった。宿泊者が九人と、従業員と主人夫婦で九人、計十八人の晩餐会だった。お祈りとか賛美歌とか、そういうものがあるのかと思ったら、みんないきなりメインテーブルのご馳走に群がって飲み食いが始まった。

ここに来る直前、ロンドンの町はクリスマス気分に華やいでいた。トラファルガー・スクエアに巨大なクリスマスツリーが立ち、その回りで市民たちがキャロルを歌っていた。その人波に近づくと、白いガウンを着た聖歌隊の人が歌詞を印刷した紙片をくれた。

言葉は違っても、それはみんなぼくにはおなじみの賛美歌ばかりだった。歌いながら、ぼくはこういうクリスマスからはもう長い間遠ざかっていたことを思った。

中・高校生の頃、ぼくは学校の聖歌隊のメンバーだった。クリスマスが近づくとよくこれと同じ賛美歌を歌った。でもあの頃かかわっていた教会のうさん臭さについていけなくて、結局信者にはならなかったぼくは、学校を出てからもう長いこと賛美歌を歌う機会を失っていた。

だからといって、わけのわからない非クリスチャンのクリスマス騒ぎには馴染めず、リボンを飾ったローストチキンにシャンパンのクリスマスディナーも白々しくて、結局は何もしないクリスマスがぼくの中ですっかり定着していた。何もしないことで、ぼくは世間のクリスマスに向かってモノを言い続けてきたのかもしれない。

ロンドンの人たちとともに歌いながら、自分がかつてそういう世界を持っていたことを、そしてそれは今も自分の中にしっかり染み付いているのだということを思った。そういえばあのトラファルガー・スクエアの大きなクリスマスツリーは毎年ノルウェーから贈られるのだと聞いた。

そしてぼくは、今、いきなりご馳走に群がる人たちにちょっと面食らっていた。今どきの人はどこも同じ、と言えなくもない。でもぼくはロンドンでつい数日前に…、それともあのトラファルガー・スクエアの群集のほうが今どきどうかしてるとでも言うのか…。

ディナーのメインは羊の乾燥肉のロースト。骨付きの、獣の臭いの強い肉塊がゴロゴロと積み上げられ、みんなそれを素手で握りしめてかじった。あとはアスパラガス、いんげん、トマトなどの野菜に、お決まりのハム・ソーセージ類。一応アルコールは抜きで、飲み物はコーヒー、牛乳、コーラ。

羊の肉は嫌いではないし、こっちの肉屋なんかによくぶら下がっている獣の死骸にもそれほど抵抗は感じないほうだけれども、こうして生々しい骨付きのを積み上げられて、さあかじれと言われると、さすがにいくらか抵抗がある。やっぱり骨付きは鶏までにしてほしい…。ぼくはなるべく小さな肉片を選んでかじり、ひたすら牛乳を飲んだ。

飲み食いと何曲かのフォークダンスまでは何とかまともだった。フォークダンスではいくつかノルウェーの民俗音楽も流れて楽しくないこともなかった。

そのあとは部屋の照明が暗くなり、アルコールも入らないのに、けだるい、いくら退廃的ともいえる雰囲気がその場を支配し始めた。そしてそうなるのが当然、というようにいくつかのカップルが出来、ほの暗い光の中でチークダンスの波が揺れ動いた。やがてその音楽さえも止まった奇妙な静けさの中に、何組かのラブシーンの、ほとんど卑猥ともいえる息遣いだけが残った。

主人夫婦と、息子のクリスティアンと、雪男のペーターの四人は早々に消えたし、スキー・インストラクターのカールと事務のインゲはもつれ合って出て行った。メインテーブルと台所との間を往復していたコックのマルタも引っ込み、それを手伝っていたルシンダとぼくも用がなくなった。ルシンダはすぐにラブシーンに参加した。宿泊者は男五人に女四人。彼女はその欠員を埋め合わせて五組目のカップルを作った。

「十二時で打ち切りだ。そろそろ片付けにかかれ」、主人がガウン姿で戻ってきてぼくに命じた。ラブシーンの間を縫って片付けにかかるぼくを、五組のカップルは見事に無視した。これでもかと唇をむさぼりあっているうちに耐え切れなくなったのだろうが、男の手が女の胸に激しく掴みかかっているのさえいた。

あぶれた宿泊者の一人と即席の愛を語り合っているルシンダに、お前のそっちのコーヒーカップをこっちへ寄越せと声をかけたら、ルシンダは相手の男と唇をつないだまま、ぬっと手を伸ばしてカップを寄越した。

アルコール抜きのおかしな酔いと、けだるい倦怠がホールを包んだ、奇妙なクリスマス・イブだった。ぼくの中で反乱を起こしたぼく自身の神経が、そのどこか退廃的なパーティーが続く間中、ぼくを苦しめた。


病名

年が明けると、イギリスから四十人余りの団体が来て忙しくなった。ニューカッスルからベルゲンに渡る船の便が比較的便利なので、ここの宿泊者はノルウェー人の次にイギリス人が多い。ベルゲンからは列車で二時間ほどの距離だ。そして裏の仮駅に降りる。

それにしても、こんな不便なところへよくもまあと感心するほど宿泊者は絶えない。もちろんほとんどがスキー客だが、中には一週間も二週間も、ただ本を読んでいるだけの人がいたり、変わったところでは、チェロを担ぎ込んで、来る日も来る日もチェロを弾いている人がいた。

ただ、スキーが目的といっても、外が満足に明るいのは午前九時過ぎから午後三時前まで、それに一時間に一度は部屋に戻って暖を採らなければ体が硬直してしまうような寒さだから、ゲレンデにスキーヤーの姿が見られるのは午前中一、二時間、午後また一、二時間が精一杯、吹雪いてでもいたらもう誰もスキーをする人はいない。

結局、ここの宿泊者はその長い滞在の大部分の時間を暖かい室内でのおしゃべりや、トランプ遊びなどで過ごし、三度の食事を楽しみ、そして、ふと思い出したようにゲレンデに出る。

宿泊者のほとんどが二十代の若い人たちだけに、それは何かひどく不活発で不健康な過ごし方のように思えるけれども、気が遠くなりそうな夜の長さと、ほとんど無限に降り積もるばかりの雪の中で、ほかにどんな過ごし方があるとも思えない。

ことに食事はそんな生活の中では大切なイベントだ。一番盛大なのは昼食。夕食は昼に比べると簡素ではあるが、それでも必ず肉や魚の温かい料理が出る。起きた人から食べに来る朝食は別として、昼と夜は宿泊者全員に主人夫婦、そしてぼくたちヘルパーも揃って盛大に食べる。ちなみに三食ともいわゆるバイキング方式。

主人夫婦は一番奥の隅に並び、同じテーブルに息子のクリスティアンも揃う。ルシンダは事務のインゲと馬が合うというかサルが合うというか、何かにつけていっしょだ。スキー・インストラクターのカールはインゲといろいろ噂があるが、それはそれとしてスキー・インストラクターという立場を利用していつも女性客の誰かをマークしている。

そしてぼくは残った一人、つまり雪男のペーターと並ぶ。最初それは必然的にそうなった、みたいな感じだったが、このたださえ寂しい環境で誰からも相手にされない彼を思うと、少しでも声をかけたり、それが無理でもせめて笑みかけるぐらいは、と一応努めてはいる。

そしてたまたま宿泊者の誰かがほかのテーブルにあぶれて流れてきたときにだけ、ぼくにも会話が可能になる。そんなときもペーターは、ただにこやかに頬を緩めたまま、がばがばとむさぼり食うだけである。

コックのマルタは決してみんなといっしょに食事をしない。台所であれこれつまみ食いをしているのはよく見かけるが、まともに食事をしているのは見たことがない。

そして「夫の分」と称して小鍋に暖め直した料理を抱えて台所の上の自室に消える。それもなぜか必ずみんなの前で、しかもわざわざ英語で「フォー・マイ・ハズバンド」と公言してみせる。

「マルタの夫というのは寝たきりの病人か」

ここでは古株だというルシンダに聞いてみたら、彼女は声をひそめて言った。

「その話はタブーよ。誰にも聞いちゃだめ。ボスがすごく怒るわ」
「主人が、なぜ」
「知らない」
「マルタが上に運ぶのはほんとに彼女の夫の分か」
「知らない。誰も知らないのよ、そんなことは」
「そんなばかな…」

そしてルシンダは、その話はもうおしまい、と、唇のところに人差し指を立てて見せた。結局何もわからなかった。わかったのは台所の女帝マルタの身辺には何か不可解なことがある、ということだけだった。「その話はタブーよ」、と言ったルシンダの言葉を反芻して、ぼくは地の底のようなこの家に見え隠れするほの暗い陰を見詰めた。

主人の絶え間ない怒声と、マルタの人を見下した人使い、そしてヘルパー同士のどこか冷ややかな人間関係に耐えながら、ぼくはそれでも少しずつこの異様な環境に順応していくように思えた。毎日の生活のリズムがどうにか身につこうとし、例の奇妙な感覚とも何とか共存していけそうな気がしていた。

一月八日、上の仮駅に着いた郵便物の中に友人からのものがあった。ここに着いた夜から始まったあの奇妙な現実遊離感覚のことを、医者の卵の友人に書いた。「これは何だろうか、放置してもよいだろうか」

彼は、自分の専門外だからと断って、神経科の医者によると、それは多分間違いなく「離人症」という神経症の一種で、その程度なら軽いものだから、なるべく気にしないように、と書いてあった。

そこに書かれた「離人症」という見慣れない言葉を繰り返し眺めながら、「離人」というに二文字が、今の自分にとてもよく当てはまるような気がした。

そして正体がともかくわかったことで、症状が消えなくても、どうにか精神の平静を保っていけそうに思えた。その日の午後の休憩時間に、ぼくはここに来て初めてスキーをした。離人症はしつこく続いたが、ぼくはそのことに思いを集めないように努め、スキーなどもできるだけ楽しむことにした。

午後三時、寒々とした夜の気配が迫り、スキーヤーたちは夕方の冷たい風に追い立てられるように部屋に戻って来た。彼らはこれから六時の夕食までの三時間をどうして過ごすのだろうか。ぼくたちヘルパーは四時から夕食の支度にかかり、あと片付けが終わるのが八時頃、九時に夜のコーヒーが出る。十一時消灯。

ここでは昼はせいぜい六時間、あとの十八時間は夜。人々は夜と夜の間の、つかの間の昼を生きている。そしてその昼間にさえ、日の光が直接届くことはない。長いような短いような一日が終わるたびに、ここでは誰もがその奇妙な時間感覚に少しずつ精神を蝕まれていくのではないかと思った。

そしてぼくの離人症は続いていた。現実は、常に薄い、しかし決してほころびることのないベールの向こうにあった。


2003年4月




後半へ続く