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幸いな者とはだれでしょう





「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」
 
   これは、新約聖書『マタイの福音書』に記されてある、有名な「山上の教え」の
  イエスのことばの一部です。
  でも、どうして悲しんでいる者は幸いなのでしょうか。
  このことは、神の存在を無視しては理解できません。

   神は、人の目には見えませんが、この世界を造り、治めておられる方です。
  政治的な力は、目に見える世界を治めますが、神は目に見えない世界を含めて
  支配しておられます。たとえば、人は自分の寿命を知ることができるでしょうか。
  明日のことは誰にもわからないのです。
  これらは、「神の領域」に属することなのです。

   その一方で、神は、ご自分のかたちに造られた人間を心から愛してくださって
  います。その証拠に、神は、その愛するひとり子(イエス)を天から地上に送り、
  神の愛がどのようなものであるかを、具体的に人々に示されました。
  そして、最後には、このイエスが十字架で自分のいのちを捨てることによって、
  人間の罪のための身代わりとなりました。

イエスは、伝道の途上、町で出会った生まれつき盲目の青年を見て、
  「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に
  現れるためです。」
  と言われ、その人の盲目をいやされました。
  この青年がイエスに出会わなければ、自分の境遇を生涯のろい続けていたかも
  知れません。しかし、イエスに出会うことによって、自分の盲目は神に導かれる
  ために必要なことであったと知ることができました。


   神を知らない人生は、泥沼の中で、もがいていて、かえって自分の状態を悪く
  してしまっている人のようです。しかし、神を知った時に、自分の置かれていた
  状況は神の素晴らしさを知るためであったのだと、悟るようになるのです。

イエスは、約2000年前に、疲れている人、病の中にある人、苦しんでいる
  人、貧困の中にいる人、日々のプレッシャーで押しつぶされそうになっている
  人、世の中の不正にいきどおっている人などに、心の平安を与えられました。
  そのイエスが、今日の私たちに対しても呼びかけています。

   「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの
    ところに来なさい。
    わたしがあなたがたを休ませてあげます。」