2007 春








『月山』 森 敦











 






『月山』 森 敦

最近 『月山』 を読みました。以前からこういった本があることと、同じタイトルで合唱組曲が作られていることなどは知っていたのですが、といって近所の書店に陳列されているわけでもなく、いずれ読んでみようと思いながらもそのまま目にすることなく忘れ去ろうとしていました。

先日、親しくしている学生さんが 「先生に月山って本を薦められたんだ」 と言っていたので、ああそうだそうだ私も読もう、と思ったのです。

私は気に入った本は何度も読み返すほうですが、読み終わってすぐに再読したのはこの月山が始めてでした。
これまでは漱石の 『草枕』 が座右の書でありましたが、これに匹敵する一冊がとうとうでてきたなと、今かなり嬉しい気持ちがしています。

では、この2冊をちょっと比較してみたいと思います。

草枕は、人間生きていくうえでの苦しみを存分に体験した後の、苦渋を通り越した後に こんな生き方があっても良いのでは? と提起した作品ではないかと思います。
月山は、その苦しみに耐えるべきかどうかを模索したというか、とりあえず一旦は苦から遁れておいてしばらく考えてみようとした、そんな作品ではないかと思います。

つまり、草枕は冬を通り越えたあとの春を 月山は冬そのものを奏でているように思います。

草枕に春の暖かさがあるとすれば、月山は冬の冷たさでしょうか。
草枕はその暖かさを描かれている花や鳥などの自然風景からイメージすることができるのですが、月山では雪山や吹雪の様子をいくら描写しているからといって、不思議とその冷たさをイメージすることはできません。

これは月山主人公の 私 が、人の通常感覚とはまた違った感覚で何かを受け止めようとしているから、またそこに何かを感じようとしているから、ではないかと思います。

もともと肌で感じる冷たさとは、知覚を通してそう感じているわけですが、月山を読んでいると知覚とはいったいなんぞや、という思いが頭の中を占めてきます。

あまり奥の深いところまで突き詰めていくと、私のこれまでのあさはかな知識と複雑に絡み合ってくるものがあって、もうそうなると枝分かれした先の先まで調べないといけなくなっちゃって、菩薩なんだか如来なんだかが文面の中に座って居そうな気がして、コーヒーをいれようと立った瞬間ひっくり返りそうになるので、もうこのへんでいいやと、作品そのものが奏でるものを鑑賞するに留めようと思います。

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それでは月山の内容を少しだけ書いておきます。

山形のお寺(注連寺)を訪れた主人公の私は、寺の爺様に世話になりながらそこでひと冬を過ごす、という話です。たった2行ですね。



次に内容に即して感じたことを少し書きます。

初めて寺を訪れた私は、辺りに花の香りがただよっているのに気づきます。しかし花はいったいどこにあるのか見ることができません。

ここでは嗅覚だけが働いて視覚は閉ざされている。つまり嗅覚と視覚の不一致があります。

吹きつける雪に、そこにいるはずの爺様の姿が隠されてしまう。雪と影の水墨の如き世界が描かれているわけですが、ここで主人公の私は 爺様は現実に存在しているのだろうか と思うわけです。ここには視覚と知覚の不一致があります。

人間の感覚とはいったい何なんだろうと。そして時間の感覚もどこかおかしくなってしまいます。

こういった描写はよく夢幻とか幽玄だとかと言い表わされていますが、このようなありふれた言葉で表現すると、この作品の良さが台無しになってしまうように思います。

明るい空を小鳥が飛び交っている、そういったイメージの楽曲を聴いていても、縹渺としたラフマニノフの楽曲を聴いていても、感情移入の違いはあれ鑑賞の心地よさはどちらにもあるわけです。それがクラシックであれジャズであれ、筝曲であれポップスであっても、音楽というものは中空に浮いている酔いのようなものを引き出してくれます。

また、こういったことは文学においても同じだと思います。音であるか文字であるかというだけで、どちらも同じように酔うことができます。

この2冊の本、とくに月山の方は奏でられている音響が大きいです。文春文庫から安価なものが出ていますので、興味のある方はゆっくり酔って頂きたいと思います。

「月山・鳥海山」 森 敦 著

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