「未開の惑星」

太田出版 F×comics

松本次郎


 狂っているっていうのは、読み手にとってとてもわかりやすい記号だと思う。普通の状態と区別しやすいし、理屈が通じないから理由を考えなくても物語を受け入れられる。キレた性格というだけでキャラは立ちやすく、物語も転がしやすいだろうから、書き手にとってもわかりやすい記号だと思うのは、読者の浅慮だろうか。
 松本次郎が単に狂っているだけではない点は、ちゃんとユーモアを含んでいるからだろう。露悪的な性描写も、この人が描くと艶やかさがあまりなくて、はっきり言うとすげぇ汚い。気持ち悪いんだ。おまけに執拗に描き込まれた線が狂気を一層煽っている。で、不思議なことに、この狂った登場人物たちを描くだけで、彼らを囲んでいる世界自体も狂っているような錯覚に陥ってしまい、なんとも名状しがたい・平常のない不安定な物語が立ち上がってくるのである。
「フリージア」しか読んだことのない私が松本次郎を語るのはおこがましいことだが、たとえば作者のサイトを見るだけでも、作者のキチガイ好きが笑いという形で伝わっきて、読み手を不愉快にさせず、娯楽として狂気を扱っている。つまり心得ているのだけれども、今回の「未開の惑星」が自然と狂っていることに成功しているところが、進駐軍の統治下におかれたある田舎町を舞台としているという設定にあることに異論はないだろう。大戦中のドイツ軍を想起させる占領軍と、閉塞された町の中でもがく若者達の姿、これだけで気違いじみた物語が用意できる。物語はその若者達の中で、幼馴染の三人を中心に据える。
 まず主人公のコロ、妄想癖のある彼の唯一の腕が絵を描くこと。クッキーは、ダンサーを夢見つつ町の若者達を率いて闇物資の横流しで大金を得ようと身体を張り、ナオミは平凡な生活を望んでコロにそれを託そうとする。ここで狂っているのは、主人公のコロなんだけど、状況が状況だけにクッキーは身体を餌に男を釣って仲間にし、ナオミはコロの夢のために進駐軍の娼婦になり果て、みんな狂っていくことで悲愴感が漂ってくる、この感覚、この空気、青春映画のそれにそっくりなのだ。
 自分を置いて狂っていく周囲、特にクッキーとナオミの崩壊が進行するにつれて、コロの妄想がむしろ普通に見えてくる。プリン隊員とホゾノフ隊員のやりとり自体も異常な事態に陥っていくにもかかわらずである。まるでコロの心境のようにグタグタになっていくが、現実よりもましに思えてくる。そしてホゾノフ隊員がナオミになったりクッキーになったりして読者は翻弄され、彼の空想世界の描写に混乱していく。妄想と現実を共存させることが出来たコロに対し、どっちがどっちなのか本物は何なのかを見失い、絶望めいた三人の前途に読者は(正確に言うと、私は)作者の性描写より多くの気持ち悪さと自閉を感じていくことになる。どうなっちまうんだ、こいつら……と呆然としつつも読み進めていく。
 私が唸ったのは下巻44頁だ。この場面が強烈だった。妄想を捨てて現実を生きようと決意した矢先の宇宙空間の現出である(妄想を捨てるきっかけとなる挿話の衝撃も凄まじいんだけどね)。水中の浮遊感、脇を通り抜ける弾丸、炎の明滅と月明かりによる仄かな闇、死の狭間で見た狂気、彼の妄想が間違っていなかったことの証明、とにかく印象的な場面である。それに対し、クッキーが死の狭間で見た妄想はどうだったろう、拷問によって下巻96・97頁で彼女が見たものは、真っ黒なゴキブリの群れではないか。「あたんとは永久に分りあえそうにないわね」という彼女自身の言葉を読者が実感した瞬間だ。
 さてしかし、物語は突然終局を迎える。連合軍の攻勢によって町が解放されたのである。狂気からの解放に他ならない……はずだった。だが、コロが見たものは、相変わらず狂ったままの町だった。公開処刑される進駐軍にかかわった人々、焼き討ち、そしてナオミの死。以前のように男どもを連れて威を張るクッキーにコロが納得するはずがなく。
 えー、今回はちょっと感傷的であります。あらすじが多いのもそのため。最終話に感動してしまったのである。物語のけりのつけ方、ペンダントを掘り起こすコロとか、ベタベタの展開なんだが、ここでまた当初感じていた青春映画の匂いがどっと流れ込んできたのである。正直、上巻の落ちていく彼女達の描写にはあまり真面目になれなかった。本当にこの話はどこへ行くんだろうかって全然予想が付かないわけ。予想する余地がないから、冒頭のコロの涙を頼りにだらだらと読んでいる感じだった。一応プリン隊員の話がちょうどよい息抜きとして機能していたけど、どんどん麻痺していくのである、読書をしているという感覚が。なんか何も考えられないのだ、青春映画の匂いが消えて、上巻は全体がぼやけた印象しか残らなかった(もちろん、演出という点からはそれなりに見るべきものはあった。一例を挙げれば170頁下段のコマのひそひそ話する人たちとか。)
 それが下巻の冒頭で打ち壊されたわけだ。続く宇宙を見たコロ、ここで物語の輪郭が俄然見えてきて面白くなってきたのである。加速されたのだ。連載が打ち切られたらしいという経緯がある(最終話は描き下ろし)けど、それを抜きにして、下巻の勢いに夢中になっていた。物語は冒頭から終盤の展開を成立させるために動かされていたんだけど、すっかり作者の術中に嵌っていたらしい。過激な描写に隠されがちだった真摯さがクライマックスに至りようやく姿を現す段階になって、やっとこ物語の未来が見えてくるんだから、私もとんだ甘ちゃんである。
 読み終わって見えてきたものがもうひとつある。劇中で唯一具体的な妄想を見ていないナオミが妄想したものである。それがコロの未来であることを指摘するのは野暮だろうか。画家になったらしいコロの姿は、おそらく読者の妄想によって描かれ、そうして物語は完結するのだろう。

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