伏見人形
土人形のふるさと・日本の各地への影響
伊藤若冲と伏見人形
 伏見人形は土人形のふるさとと言われ、古くから日本各地の多くの人々に親しまれてきました。日本各地の土人形・郷土玩具の原型となったのです。(伏見人形は、稲荷人形・深草人形・伏見焼・深草焼・稲荷焼ともいわれています。)
  
犬と童子 丹嘉所蔵
犬と童子
今の伏見の深草には古くから(5世紀中ごろから7世紀前半)土器が造られ、土師部(はじべ‐埴輪や土器を造る職人)が、奈良の菅原(西大寺の南)から移住された記録があります。遺跡も発掘されました。深草には、良質の土があったので、土師部(はじべ)は、ここに住み着き、さらに、豊臣秀吉の伏見城建造時(1594年)、播州(今の兵庫県)などから瓦を造る人々が深草に移り住みました。これらの人々の生業が、伏見人形の起こりに大きな影響をあたえています。
 以下、京都府総合資料館監修(1970年)の「ふるさとの土人形:伏見人形を中心にして」からご紹介します。
伏見稲荷神社
伏見稲荷神社

 『ここでは、伏見人形について熱心な研究を続けられている京都市在住の広田長三郎氏の説(<伏見人形発祥地に対する私見> 「郷土玩具研究」1 郷玩サロン 1968年・昭43 所収)を紹介します。同氏の説を整理すると、@稲荷の南に当り良土を産する深草の地で、土師器の流れを伝え、建保2年(1214)の「東北院職人歌合」にも詠まれたように”かわらけ”が造られていたこと A室町時代に入るととも‘に、それに加えて火鉢、小壷などの日用品や茶器なども併せ作られるようになったこと Bそのなかに稲荷社の土が農業に霊能があるとしてもち帰るためのでんぼ、つぼつぼ、あるいはひねり禽獣、さらに人形もあったと思われること C深草の西部に瓦焼きがあるが、江戸時代に入り経済生活の安定や稲荷社信仰の発達から、AB特にBの稲荷社参詣の土産品の量産が必要とされ、その際瓦焼の手法である”型”の使用が始まったこと、そして手づくり時代の品を深草細工と呼ぶに対して、型による量産開始以後の品を深草人形と呼ぶべきであろうとすること D深草人形の生産の中心は京都から稲荷への参詣路である伏見街道に沿って北へ移り、やがて伏見人形とよばれるようになったこと、というようになると思われます。』  
昭和初期の丹嘉
昭和はじめの丹嘉
伏見人形の原型より
複写(許可済)

しかし、江戸時代の最盛期・文化文政のころ(1804〜1829年)50戸もあった窯元(他に小売商約15戸)も明治維新後(1868年)、淀川の水運が陸路(鉄道・電車)に変わり、伏見街道の往還を変え、ブリキ製、セルロイド製の玩具の普及なども伏見人形の衰退の原因になります。丹嘉の5代目大西重太郎は、1930年にはPR用の冊子も作り、全国への普及に努めました。しかし、戦争の影響、戦後の新しい生活様式によって、いっそう衰え2001年現在では、伏見稲荷神社周辺で窯元は一軒(土産店や神具店の一隅で伏見人形を販売している店は数戸)になりました。
  
 「伊藤若冲と伏見人形・石峰寺の五百羅漢」
 
全国に影響をあたえた人形
---(塩見青嵐著・「伏見人形」より 抄録)
 さて、伏見人形が最も盛んになった時代は、やはり文化・文政の頃であった。当時、奥田頴川に学んだ、青磁焼の欽古堂亀祐が、この伏見街道に住み副業に伏見人形を造りはじめた。亀祐は本姓を中村と称し、屋号を亀屋欽古堂と号したという。生来名人肌の陶工だった・・・。当時立派な伏見人形を造っていたので、そのデザインを真似る者がたくさんあった。彼の作品には背筋に亀甲の陶印がおされている・・・亀祐の出現によって人形の種類は増加し、各地方にまで送り出され繁盛したものらしい。殊に大西人形店の帳面を調べると岡山県の倉敷、玉島、高梁、広島県尾道、愛媛県の道後、松山、徳島県の富岡、兵庫県の加古川、山崎、龍野地方などがその主な送り先であった。例年十二月になると、倉敷の問屋伏見屋へは、天神、牛、戎、大黒、福助、布袋などの大小各種類を百五十余籠搬出している。また、大阪の今宮神社の十日戎や宝塚清荒神の縁日には主として布袋が送られ販売された。・・・昔は現在のように交通が開けていなかったため、主として伏見港から淀川船を利用したもので、偶々川ざらえの時川底から伏見人形が出て来ることもあるという。
・・・最近も四国の高松市九番町で墓地を移した際、元禄年間(一六八八〜一七〇四)の子供の墓の中から「伏見人形のおぼこ」と、安政元年(一八五四)の墓からは「子供乗り這子」が発見された報告があり、当時、子供の玩具として伏見人形が愛用されたことが証明できる。
・・・大阪千日前の子供の墓地から出た伏見人形がある。すでに色彩などきえているが、形がとてもおもしろくできているそうだ。また、淀川の水底から拾われた伏見人形もある。・・・古い伏見人形の研究には、川底や墓地などにもまだまた秘められた幾多のものが残されているように思う。
娘(産地不明)
松田高治氏所蔵
産地不明

 かくのごとく伏見人形が全国各地に送られたため、その影響は各地に模造品がたくさんできるようになった。郷土玩具研究家の有坂与太郎氏の説によると、愛知県半田市乙川町の人形屋杉浦佐市郎の曽祖父伊左衛門は飛脚屋であったが、伏見の俵牛や狆(ちん)を持ち帰って、新しい原型を造り、土偶を造りはじめたという。また、東京浅草の今戸焼にも擬人的な夫婦狐や、虚無僧に狆などがあるのは、京詣りの土産物から摸したものと思う。なお、伏見人形に匹敵するような優秀な仙台の堤人形は、元禄の頃上村万衛門が伏見人形をまねて始めたものだといわれている。秋田の八橋(秋田市)岩手の花巻山形の鶴岡や酒田人形などいずれも伏見人形の影響を多分に受けている。宮崎県の佐土原(宮崎郡)や大阪、名古屋などの饅頭食い人形にその類型が多分に見られる。三重の津や奈良の初瀬(桜井市)などに俵牛があったり、福島県の高野(郡山市)や、久之浜町(いわき市)、岩手県の陸前高田市などにも同じ俵牛の姿が見出される。更に山形県米沢の通称「相良人形」も伏見人形からの模倣だと思われる。以上は伏見人形がいかに各地に及ぼしたかを証明するものである。

 
各地の土人形( 奥村寛純著「伏見人形の原型」より抄録)
  江戸時代末期、三河国田原藩に仕え農政改革に成果をあげた農学老大蔵永常(→七六八頃〜?)がその著「広益国産考」の中で、伏見人形から抜型をとって土人形製作方法を詳しく記しているが、当時、各地に節供用などとして大量に入荷していた伏見人形を出来るだけ地元で代用品を作ることを奨励しているのである。これは一方では伏見人形が各地へ相当に多量出荷され、それぞれの土地の生活に結びついていたことを証左すると共に、かかる方法で、各地でそれを真似て作ることが既に行われていたことを示している。よく各地の郷土人形とされている人形の中に、その土人形の原型が伏見にあり、それから二番も三番も抜型になっているようなことがよくある。伏見では抜型を作る場合でも専門の型帥によって行われるが、地方ではそうもいかないので、どうしても歪の大きい彫りの浅い人形にならざるを得ないのである。事実、全国の殆んどの土人形が多少とも伏見人形に形響をうけていることは異論の挟む余地のないところである。
 次に、若干その代表的なものを例示する。但し、土人形に記録などの明確な例証のあるもの少ないために口碑や伝承によらねばならないことが多く、異論のあるものもあるが、一応そのままにした。 花巻土人形(岩手県)は江戸時代享保年間(一七一六〜三六)に伏見人形の型をもとに、仙台の堤人形の影響をもうけて発生したという。
八橋人形 (秋田県秋田市八橋)安永・天明年間(一七七二〜八八)に伏見から人形師が秋田に来て、最初八橋の近くの川尻の鍋子山で人形制作を行ったのがはじまりと伝えている。
相良人形(山形県米沢)米沢藩士、相良清左衛門厚忠が藩主上杉治憲の命で藩窯(成島焼)を開く。かたわら、寛政年間(一七八九〜一八〇一)伏見人形をもとに土人形を制作した。
八幡人形(新潟県佐渡)村岡多平が京都へ染物の技法を習いにいったとき、伏見人形の美しさにひかれ、その型によって幕末に作り始めたという。
中野人形(長野県中野)文化年間(一八〇四〜一八一八)に奈良栄吉が伏見へ行って型を持帰り始めたという。
乙川人形(愛知県乙川)文政年間(一八一八〜一八三〇)に杉浦伊左衛門が、飛脚をしていたが、狆・俵牛等を持帰って土偶制作をはじめたという。
小幡人形(滋賀県五箇荘)享保年間(一七一六〜一七三六)飛脚の安兵衛が伏見人形の型を持帰り創始したと伝える。
稲畑人形(兵庫県稲畑)弘化三年(一八四六)赤井若太郎忠常が伏見稲荷に参詣し、伏見人形を見て、それを真似て作り始めた。
 その他、堤(仙台)・下川原(弘前)・酒田・鶴岡・今戸(東京)・名古屋・三次・長浜・佐土原・帖佐等々にしても伏見の著しい影響は免れない。勿論、中には米沢の相良人形のように明確な古文書や古記録の存在する「相良家と相良人形」昭49・伏偶舎、参照)ものもあるが、どちらかといえばそれは例外に属し、殆んどは記録も存在せず、口碑や伝承によるものであるだけに、発祥の年代等についても断定が困難なものが多い。しかし、人形の型が共通しているものなどが多く、それ等を比較検討して見ることによって、かかる地方の土人形が伏見のそれから出ていることを証明することはそう難しいものではない。  
2002/01/31追記
古賀人形  
天文年間(1532〜55)大村藩士小川金右衛門が主家を去ってこの地(長崎市古賀町)定住し、三代目小三郎が諸国巡暦中の京都の土師から土器製作の技法を伝えられた。文録元年(1592)京の伏見人形の流れをくんだ土人形をつくるようになったのが始まりとされている。九州地方の土人形としてはもっとも古い歴史を持つ。(「郷土玩具の旅」1981斉藤良輔より) 
 (注:なお、多くの研究者は古賀人形を伏見・堤とならぶ日本の三大土人形と述べている。)2002/03/19追記
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