伏見人形
 福助 春駒持ち福助

 奥村寛純(ひろすみ)「京洛おもちゃ考」より 
   
 天明年間(1781-1789)には牛(撫牛)が大流行した。そのあとに続いておこったのが福助人形の流行であった。これもおそらく伏見人形屋が創り出したものであることが、当時の記録などから推測することができる。それを裏付けるかのように、伏見人形の古い窯元、丹嘉には大小たくさんの福助人形の原型が保存されている。頭の大きな小男の姿を福神として祀れば招福開運まちがいなしということで、ことに商家からひとしお歓迎された。・・・・この福助のことを、上方では「大文字屋」とも呼んだが、これはもと伏見京町北八丁目で古着行商をし、一心に商売にはげんで、わずか30年ほどで、京都、江戸、大坂、名古屋に大店を構える一世の豪商となり、巨富をきずいた大文字屋下村彦右衛門が、仁徳にもすぐれ、人々から大へん慕われたが、彼のスタイルが頭大の小男であったことから、彼をモデルにこの人形を作ったともいわれている。

 この下村彦右衝門はいうまでもなく、現在の大丸百貨店の始祖で、江戸中期に実在した歴史上の人物で、それに出身が、伏見人形屋のひしめいた深草のすぐ近くであった。 いずれにしても、この福助人形はまたたくうちに、大坂・江戸をはじめ全国的に大変な流行となり、人形だけでなく、唄や踊りまではやるしまつで、撫牛は影をひそめてしまった。
 江戸へは享和3(1803)年に大流行したことが、大田蜀山人の「一話一言」に出ているのが最初のようで、文化年間(1804〜1817年)ともなると一層その流行がエスカレートしたことが、さまぎまな当時の見聞録に記されている。流行のすさまじさは全く昔も今もあまり変らないらしい。

 現在もよく見うける袴姿でお辞儀をした童顔で大きな福耳をつけた姿の福助人形は明治33年(1900年)に堺の福助足袋株式会社(はじめは福助印堺足袋)が商標として、その後伏見人形窯元の丹嘉に依頼して作ったのが祖型で、それからこの型が人気を得て、類似品がたくさん出廻っている。もちろん、童形の福助も以前から人形をはじめ、絵本などにも出てくるが、この型は丹嘉が、当時、稲荷山にいた博多人形師石田菊次郎に原型を作らせたものである。大変上手に作られている。

追記:荒俣宏編著の「福助さん」ではこの福助起源以外の諸説が紹介されている。
(2002.01.18)
  

春駒持ち福助
春駒持ち福助 (昭和50年代)高さ9cm
吉田義和氏より贈られ村上敏明所蔵
2005.6.22追加
春駒:年の始めに馬の頭の作り物を持ち、戸ごとに歌ったり舞ったりした門付芸人(広辞苑より)
福助
丹嘉所蔵(展示品) 高さ30cm