伏見人形
千体仏(伏見人形の前身?)
              
宝塔寺千仏堂
千体仏(鬼子母神)
江戸初期
(7cm)
表裏2体が分離した千体仏 宝塔寺の千仏堂
徳川初期創建子育安産守護の鬼子母神・
千体仏がまつられている。
京阪深草下車徒歩7分
宝塔寺の千体仏(広田長三郎氏の「郷土玩具研究」1による。)
 宝塔寺は、伏見区深草宝塔寺山町にあり、深草山鶴林寺と号する日蓮宗妙顕寺派の寺で、境内に日蓮・日朗・日像三代の遺骨を納めた塔があるので宝塔寺と云う。もと藤原基経の遺志により、時平が創建した極楽寺の後身で、鎌倉時代末期真言宗より日蓮宗に改宗した時、現在の寺号に改められた。この境内にある千仏堂に安置してある千体の鬼子母神が、従来伏見人形の創始に関係あると云われているのである。
 塩見青嵐氏著「伏見人形」の中に、鎌倉末期の延慶年間に深草の山麓にある日蓮宗の宝塔寺境内に、当寺の中興日像上人が建てたという小さな堂宇がある。室内に二寸位の鬼子母神像が千体祀られている。最初の十体を上人が自ら作り、残りの九百九十体は、伏見の人形師仲間に命じ、手伝わせたという記録が、伏見人形の史料として初見だとされているが、これは今から約六百五十余年以前のことになる、と出ている。
 これは、大変な誤りで、日像上人に依って改宗されたもので、千仏堂は、同寺の十世演法院日ずい(元の字は瑞の王がしんにゅう)が、正保四年(1647
年)建立したのである。法統の師中正院日護は、元来彫刻に秀でておられ、これを祝って木彫の鬼子母神一体と十羅刹神十体を日ずいに贈られた。日ずいは、これを謝し、千体の小さな鬼子母神を作り祀った、と云うのである。
千体仏は、高さ約七センチの土製で、型に依って作られ、表裏二枚を合せ、天日乾燥の後、極彩色した小仏である。この型に依る製作技法を見ると、土人形の基調になる様な感じがする。
  又、誠に興味あることは、同寺の江戸時代中期と思われる古文書の中に、「小工器師」と
して、姫宮御遊行のふし、作らせ給いしに始まると云う、宝塔寺門前伏見街道入り侯南、世変り物移りそのもとうしない侯らいしも云々、と記されている事である。
 果して、千体仏を土器師に作らせたか否は、わからないが、同寺の南に土器師が住んでいた事は事実である。