伏見人形
歌舞伎物・成田屋人形(暫、助六、矢の根)
説話・豊干禅師

豊干禅師と虎

大西重太郎の作 13.5cm×13.5cm
村上敏明所蔵 09.10.23追加

中国・唐時代の豊干(ぶかん)禅師は、天台宗国清寺に住み虎に乗って衆僧を驚かすという奇行で知られていました。かの拾得は、豊干が路傍から拾ってきて寺に住まわせたといわれています。江戸時代狩野派を代表する狩野探幽の「豊干に虎・雲龍図」、狩野探雪守定の『豊干禅師図』などの名画が残されている。

 
 知人のご紹介で、05年3月上旬、割松屋最後の作者、大石チクさん(昭和4年「1929年」・88歳で没)の曾孫にあたる大石訓子(くにこ)さんにお会いしました。お父様が、今から30年前、兄弟姉妹6人分を、菱屋につくらせ、割松屋の伝統を残すために贈られたのでしょう。(右の画像)こうして3点そろって拝見したのは初めてのことでした。大石家のこうした努力の一端を見、聞き、あらためて伏見人形の記憶を風化させてはならないと思ったのでした。割松屋の成田屋人形の版木による刷り物(左の画像)も大切に残されていました。
(村上敏明記)    2005.3.14追加
矢の根 助六
矢の根」菱屋製 (割松屋の原型による)
伏偶舎所蔵  24cm
「暫」丹嘉展示品 24cm 「助六」菱屋製 (割松屋の原型による)
 伏偶舎所蔵  24cm
七代目市川団十郎と伏見人形  奥村寛純(ひろすみ)「京洛おもちゃ考」より 
 天保十三(1842)年七月二二日、七代目市川団十郎白猿は江戸十里四方追放の処分をうけた。
 事のてん末はこうだ。七代目団十郎の芸は当時江戸で大人気を博し、その名技は大奥女中たちをも魅了させ、争ってうちかけを彼に贈ったが、団十郎は遂にそれを身に着けて舞台に立ったのがいけなかった。時あたかも老中水野忠邦による天保改革の嵐の中、禁制の衣服をまとったかどで、著移(しゃし)禁止令にひっかかったのである。
 そこで、彼は止むなく大坂へやって来て、舞台をつとめたが、ここでも連日大当りをとった。その頃、七代目は名を海老蔵と改め、息子が八代目市川団十郎を襲名して人気を博していたが、この八代目が、実に孝心のあつい人で父の赦免をたびたび幕府へ願い出て、やっと八年目の嘉永二(1849)年の年も暮れようとする十二月二五日になって江戸への帰還がかなった。これは十一代将軍家斉七回忌の恩赦によってであった。
そこで、七代目は日頃信仰している伏見稲荷大社へ詣り、参道前の人形屋、割松屋、高木九兵衝のところで、自分の十八番「助六・暫・矢ノ根」の三つの舞台姿を人形に作らせ、三百個の人形を江戸への土産にしたという。この人形はその後、大変有名になり、割松屋の看板人形となってきたが、この割松屋は昭和初年に店をしまい、今はすぐ近くの秡川(はらいかわ)町の大石家に合併している。この型や、「暫」の原型とか、当時の七代目の興行引札などは今でも大石家に保存されている。
歌舞伎物
歌舞伎物(伏偶舎所蔵) いずれも丹嘉製

このことは「伏見人形は割れても、もとの土に帰る」といわれ、古くなった人形はよく道路の四ツ辻などへ持って行ってぶっつけて割りそれを田の水口や畑に入れると作物に虫がつかず、よくみのるともいわれたが、これが転じて、旅立ちにはこの人形をはなむけにして、もとの土へ無事元気で帰れるように祈ったし、更には流罪人のはなむけにもしたことは、大田南畝が文化六(1809)年に出した『金曽木』(かなそぎ)という書物にも、
 「京の深草焼の土偶人(でく)は、配所に赴くもの携へ行くとぞ、是は王土をはなれず、再び帰らんために持ち行くな るべし」といっていることにあやかったものである。   2001.7.15追加