番外編の話
 昔から格闘技が好きで(自分ではやったことない)、とくにプロレス系・・・ネットで知り合った格闘技好きなかたがいます。
 その方は、わりと最近のファンなので、昔の話を知りませんでした。年の功(笑)にまかせて、昔のプロレス事情をメールで、お話したら、サイトにアップすればおもしろい、と言われました。
 おだてに弱い、自分は、すぐその気になりました。
 プロレスの昔話、ほかにも好きな競輪の男たちの話(とってもプロレス的なのですっ!)を書き留めたくなって、このページをアップしました。
 ただ、不思議というキーワードからは、離れるため、密やかに・・・リンクしてます。
競輪話はこちら


プロレス話
(1)マスカラス初来日の話
 記憶が正しければ、初来日は昭和44−5年のころ、日本プロレス時代です。日本のエースはG馬場・・(猪木の記憶はないのですが)・来日最初の対戦相手は、今は魔界倶楽部の星野くん!彼も空中殺法でならしてました・・・・
 し、しかぁーーし、マスカラスの空中殺法は、当時の日本人がみたこともないものでした・・・10発もの連続のドロップキック、フライングクロスアタック・・そして、一番唖然としたのは、立っている相手に向かって、コーナー上段からやるボディアタックでした。
 日本でも山本小鉄がやりますが、通常はダウンして寝ている相手、もしくはタッグマッチで星野くんが羽交い絞めにしている相手です・・
 しかも、身長が185cmもあるマスカラスが飛んだ・・それは脅威の光景でしたね。。(当時は・・いまじゃなんともないけど)
 マスカラス来日前に、「ゴング」立ち読みして情報通だったボクは、”USヘビー級タイトルマッチでグレート小鹿にスリーパーで失神負けしたマスカラス”をあまり高く評価してませんでした。それで、そのことを情報通らしくみんなにしゃべっていたので、最初の試合光景はボクをうそつきにしてしましました・・
 「なんだ、コウスケこいつ強いじゃないか」とオヤジが言ったものです・

 シリーズが進み、マスカラスは負け知らず。アメリカで負けた小鹿にも軽く勝って汚名返上・・・やっぱる、強いのかなぁ・・なんて思ってた時でした。
 シリーズメインのタイトルマッチでは、馬場(猪木組だったかなぁ・・)はいっしょに来日していた、スパイロス・アリオンとマスカラス組とのタッグタイトル(インターナショナル)はやったものの、インターシングルはアリオンとしかやらず、マスカラスとはやりませんでした。
 馬場は「マスカラスじゃ試合にならない」といってマッチメイクをしなかったのです。その理由は後にわかりました。別の試合で、やはりタッグマッチでマスカラスとやったときです。
 衝撃的シーンはその試合でありました。マスカラスが攻めにはいって、馬場にお得意のドロップキックを見舞います。倒れる馬場・・・しかし、直ぐ立ち上がります。これは、マスカラスのパターンですね、連続ドロップキックが始まる!・・
 たった瞬間、素晴らしいタイミングで2発目のドロップキックを浴びせます。
 そのとき、馬場はなんと両手で、マスカラスのキックを払いのけたのです。マスカラス墜落・・・
  なんか、格の違いを感じちゃいました・・・
 マスカラスはアリオンとのタッグでも、アリオンピンチでも決して助けに入らなかったのですが・・・・それって、フェアプレイというのとは違うし・・・
 やはり、ボクの評価は正しかった・・・


(2)ブルート・バーナードとスカル・マーフィー
 このレスラーの名前を知っていたら、確実にオールドファン(笑)日プロ時代、何回か来日した、いわゆる「悪役レスラー」です。
 二人とも、スキンヘッドなのですが、ブルート・バーナードが頭以外(笑)は剛毛におおわれていて、「野獣」というあだ名、マーフィーは、子供のこと熱病で全身の毛がないというふれこみ・・
 マーフィーがインテリっぽかったのに対して、ブルーとはまさに野獣!試合中ずっと「ウォッウォッ」と吼えまくり、ろくな技もやらず凶器攻撃専門・・ボブサップの野獣とはワイルドさが全然違う・・
 当時の悪役レスラーは凶器を持ってきます。栓抜き、ビールの王冠とか・・(さすがにフォーク使ったのは、ブッチャーが初めて)
 しかし、ブルートは凶器は持ってこない。試合中に現地調達(笑)をするのです。
 あるとき、大木金太郎(キム・イル)と試合したときにリング下から角材を探してきて(って、なんで、リング下に角材が??・・・確信犯じゃないの?)それで大木の横っ面をぶん殴った・・・さすがに、その試合はテレビ放送はなかったけど、あとの放送のときに大木は、ヘッドギアをつけてきている。(耳保護)なんでも、耳がとれそうになったらしい(怖)・・・・(ほんとうか??・・でも、当時の僕らは信じていた・)
 ブルートとマーフィーは基本的にタッグチームで、野獣をマーフィーが操るという感じで試合を進めます。まぁ、凶器振り回すので、ほとんどが反則負けなのですが・・
 しかし、あるときG馬場とシングルで(たしかセミファイナル)ブルートは試合しました。
 なぜか、このときはほとんど暴れず(笑)馬場の十六文キック一発でフォール負けしていました。解説では「馬場の敵ではない」と言ってましたが、大木と馬場の差ってそんなに大きいとは思ってなかったので・・・妙な試合でした・やはりエース大事かな・


(3)ウィルバー・スナイダーとダニー・ホッジ
 またもや、ロートルファンには懐かしい名前でしょう。
 日本プロレス史上で最強のタッグチームは?と言われるといろいろな回答があると思いますが、ロートルファン(笑)なら、「馬場、猪木のBI砲」という回答がもっとも多いのでは・・
 その、BI砲最盛期には負けはたった2回(確か・・)ひとつは、「ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー組」・・でもこれは。不戦勝だったはず。
 ほんとうに、強くて勝ったのは「ウィルバー・スナイダー&ダニー・ホッジ組」です。
 ダニー・ホッジは当時NWAのジュニアのチャンピオン、体重は100Kgなかったはず。スナイダーは無冠とはいえ、当時のNWAチャンピオンのバディ・ロジャースと死闘を繰り広げてた選手です。
 馬場が、自分のみた最高の試合で「ロジャーズvsスナイダー戦」を挙げているくらいです。

 まず、ホッジの強さから・・・
 来日はじめての相手は、例によって(笑)山本小鉄・・ホッジが180cm95Kgくらいなので、体格的にも別にさほどの差はありません。
 現役のNWAジュニアヘビーチャンピオンだという触れ込みなので、期待をもってテレビをみていました。
 試合は終始、山本選手のせめっぱなし・・ホッジいいところがありません。そして時間も10分ほど経過後です。なんと、山本選手の得意技のチャンスです。
 相手をボディスラムで叩きつけ、トップロープへ!!!そうです、「ロープ最上段からのボディプレス」・・当時の山本選手の決め技です。
 あ・・これは、ホッジがよけて逆転勝ちするんだな・・と、ボクは思いました。
 次の瞬間、なんとボディプレスが決まっちゃったのです。ホッジは「よけませんでした」。中継のアナウンサーも興奮気味です。「おぉっ山本小鉄っこれは大金星かぁっ!!」って
 しかし、信じられない光景が、繰り広げられました。カウント2で跳ねのけたホッジ選手・・・驚く山本を、ロープにふり、ほとんど技らしい技をだしていなかったのでほぼ初技でしょう・・・
 山本に、いまでいう「掌底」を一発、のど元に打ちました。山本選手も倒れはしましたが、KOされるほどではありません。
 しかし、ホッジはそのままフォール・・・そして力まかせに押さえます。
 跳ね除けようとする山本選手・・ しかし、肩は上がらず、そのまま3カウント・・
・・・・唖然!!
  これじゃ、ホッジはいつだって山本には勝てたんじゃん・・・つ、強い・・
 あとでわかったのですが、ホッジはジュニアの体格とはいえ、りんごを潰すほどの握力の持ち主・・さらには、アマレスのオリンピック代表だったはず・・
 あとで、馬場とも試合しますが、馬場の巨体相手でも少しも見劣りはしません。
 相手になならなかったマスカラスファンには申し訳ないけど、ホッジは別格・・・

 つぎはスナイダー・・
 スナイダーは、うまくて強くてというタイプで、ラフもテクニックも一流です。記憶に残っている試合はBI砲との試合だけ・・(他のやつでは相手にならない)
 当時、猪木は若手とはいえ、馬場につぐ2番手で売り出し中。ファンの中には、すでに馬場より猪木の方が強いという声さえ上がり始めてる頃でした。
 タッグタイトルマッチ(インターナショナル)の試合です。スナイダーは猪木をほぼ子供扱い。
 ロープにつめると、猪木の顔を、「軽く」ビンタして、「お前なんか目じゃないよ、この小僧が」って態度をあらわにします。そのとおりに、スナイダーは猪木に、技を次々とかけ猪木の出る幕がありません・・
 怒った猪木は、スナイダーをロープにつめると「思い切り」ビンタの仕返し・・しかし、テレビみている方から見ると「虚勢」をはっているかのようです・・
 試合も進み、すごい場面になります。ここが勝機をみたか、スナイダーは猪木を場外に落として場外戦に持ち込みます。(こういったラフも強いのがスナイダー)
 場外で、猪木を「飛行機投げ」で、ぶん回すと、なんとかついだまま、鉄柱に猪木をぶつけます!!!猪木、KOっ!
 こいつら、すごすぎだ・・・当時のボクはその強さにしびれました。
 どうやって、試合終わったのか忘れました、「強い」という印象だけが残ったものでした。
 ボクの中では、後になって全日本プロレスで「ハンセン&ブロディ組」が結成されるまで。外人タッグチームNO1は、スナイダー&ホッジ組でした・・
 ファンクスなんて目じゃないぜっ!


(4)タイトルの話・・
 今、日本のプロレス界において、たくさんのタイトルが存在することはご存知のことでしょう。興行的にタイトルは必要なのです。そして今のファンはどのタイトルが正統か?なんてことはあまり言わないでしょう・・
 それぞれ、スタイルの異なったっ格闘技で、それぞれのタイトルがあることに納得していると思われます。

 その昔、日本プロレス時代のタイトルは、力道山がル・テーズから奪った(もらったというべきか・・)インターナショナル・これはNWAが認定しているタイトル。もうひとつは日プロが作ったアジア選手権・・両方ともシングルとタッグのタイトルがあります。
 力道山の死後はG馬場がインターのチャンピオン、馬場&猪木がインタータッグ、大木金太郎がアジアシングル、大木&吉村がアジアタッグという布陣でした。
 当時のプロレスはやはりアメリカ主流・・アメリカの有力団体が認定するタイトルが欲しかったのでしょう。
 そのころのアメリカは主流団体は3つ・・ニューヨーク中心の東部地域をWWWF(チャンピオンはブルーノ・サンマルチノ)ロス中心の西部地域はNWA(チャンピオンは、たぶんジン・キニスキー)そして南部地域はAWA(チャンピオンはバーン・ガニア)・・・
 日本は日プロだけなので、NWA、WWWF、AWAとも親交があったようですが、時のAWAチャンピオン・バーン・ガニアは日プロのリングに上がることはありませんでした。
 そして、日プロ(もしくは分裂後の全日プロ、新日プロともに)アメリカのメインタイトルを奪取するということが「悲願」とされてきたのが当時のタイトル観でした。
日本人として初めてアメリカのメインタイトルをとったのは、G馬場でした。時のNWAチャンピオンのジャック・ブリスコから日本で奪取しました。(決め技はランニング・ネック。ブリーカ・ドロップ!)その後、ハリー・レイスからも2回目のNWAをとりますが、予想通りシリーズの最終戦で、取り返されています。
 いわゆるレンタルチャンピオン(借り物王者)というやつです。

 猪木は新日で(WWWFと提携していた)当時のチャンピオンのボブ・バックランドと試合して勝ったのですが不可解な返上という形でしたが、結局はレンタルチャンピオンということでしょう。
 AWAにしても、全日の当時のエースJ鶴田がニック・ボック・ウインクルからベルトをとり、そのままアメリカ遠征にいきましたが、遠征の最終戦で、リック・マーテルに奪われます。これも、形の異なったレンタルチャンピオンでしょう・・

 その後、日本のプロレスの方が、はるかに発達していき、アメリカのチャンピオンシップが実力的にも必要とされなくなってきます。
 はっきりいって、J鶴田はリック・マーテルくらいの選手に負ける選手ではないことは、観客は見ればわかるのです。

 NWAチャンピオンでさえも代が変わっていくにつれ、小粒になっていきます。昔のジン・キニスキーやドリー・ファンク・Jrのような強烈な強さをもったチャンピオンが出ません。
 日本がNWAを必要としなくなった、象徴的な興行を見ました。全日の何かのシリーズの最終戦です。
 ダブルメインイベントとは銘打っていましたが、あきらかにそれはセミファイナルの試合でした。
 当時のNWAチャンピオンのリッキー・スティムボードのNWAタイトルマッチですが最後の試合のひとつ前です。そしてチャレンジャーは2代目タイガーマスク・・そう三沢光晴です。
そのころの全日本のエースはJ鶴田と天龍の2枚看板・・・ そのどちらも、挑戦しません・・・昔なら考えられないことです。
 小兵のリッキーですから、J鶴田は実力から言って負けるはずがありません・・・そう、まずいことに勝たないと客が納得しないマッチメイクになってしまうのです!!
 鶴田の格を全日としては落とすわけにはいかないのです。引き分けでも落ちてしまう・・・・
 やむをえずのタイガーマスクの挑戦だったのでしょう。しかし試合はどうみても、三沢選手の方が実力が上なのです・・・・リッキーもいい選手なのですがNWAのチャンピオンの看板は重い・・否、NWAは日本にはもう不要・・・・三沢は仕方なく負けたような試合でした・
 盛り上がりに欠けたタイトルマッチの後のメインは鶴田天竜とハンセン・ブロディの看板試合で、すさまじい盛り上がりを見せたものです。

 猪木が、IWGPを創設し、全日本も、もともとは海外認定だったインター・PWF・UNを総称して「3冠タイトル」と言う権威にしてしまいました。

 今は、アメリカのタイトルに執着する選手もファンもいないでしょう・・・



(5)真剣より強い木刀・・
 先日、後輩とプロレスの話をしていたとき、ふと言ったことです。
ご存知の通り、プロレスには全日、新日、ノアなどの従来プロレスがあります。そして一方には、PRIDEで代表される、いわゆる「真剣勝負総合格闘技」があります。
 格闘技素人の後輩に、違いを話したところ、剣道に喩えたのです。ショープロレスやっている選手も、総合格闘技のレスラーも基本的には同じことができるけど、いわば、ショープロレスは剣道でいえば「竹刀」で試合しているようなもので、PRIDEは真剣を使っていると思えばいいと。
 そして、ショープロレスの選手の中にも、時折真剣をちらつかせる選手がいる。・・なんて話をしました。

 まぁ、藤原選手や佐山選手、前田選手、PRIDEの高田選手(引退しました)なんかが、新日時代はそういう選手であって、その真剣の部分を切り出してきて、藤原組やリングスや、PRIDEになったのです。
 そのときにふと武藤選手のことを思い出しました。過去に新日を離脱してUWFインターという、「プロレス風の真剣勝負をする団体」を作った高田選手が、新日の当時のチャンピオンの武藤選手と試合をしたのです。
 自分は武藤選手は「真剣を持っていない選手」というイメージがあったので、相手の技を受けないシビアなプロレスをする高田選手には勝てない・・と思っていました。それも、メタメタにやられると予想したものでした。

 さて、試合です。予想通り、武藤選手は普通のプロレスの展開にならず高田選手はビシビシとキックを蹴りいれます!
 あーー。、やはりなぁ・・武藤選手は真剣を持っていない・・と、おもったそのときでした。

 高田選手の蹴り足を武藤選手がキャッチしたのです。
 そして、「片足タックルで倒して寝技に持ち込む」のかと思ったら・・
 武藤選手が放った技は「ドラゴンスクリュー!!」です。自分の開いているヒジをキャッチした相手の足の関節に、ぶち込んでその瞬間相手の足を捻って倒すという、「実にプロレス的な技」でした。
 つまり、武藤選手はやはり真剣は持っていないのです。そのかわり強固な「木刀」で立ち向かったのです。
 そして、その「木刀」は見事に、高田選手に致命傷を負わせたようでした。その後、2−3回のドラゴンスクリューを見舞ったあとに、決め技は、またしても「古典的なプロレス技」の「足四の字固め」でした。

 そういえば、宮本武蔵は佐々木小次郎と戦うときに、小次郎は真剣を使い武蔵は、「長い木刀」(常人では振り回せない)で戦って勝っているわけです。ふと、武藤と武蔵がダブった時でした。
 現在では高田選手は体を痛めて引退していますが、武藤選手は団体を変わって、いまもプロレス界のトップに君臨しています。

 ショープロレスのレスラーだって強い!プロレス技で、本当に決めれるんだ・・・ファンは、そんなことを再確認しショープロレスに喝采を送った試合でした。



競輪話
(1)鬼脚!!!!

 では、予告とおりに競輪の熱い野郎どもの話を・・・・自分は競輪を見始めたのは、1990年代・・・それほどの競輪歴ではないのです。 そんな、短い経験でも、心に残ることはあるのです。
まずは、題名の「鬼脚」の話でも・・・

「鬼脚」とは、今は引退した九州佐賀県の名選手「井上茂徳選手」の綽名です。彼は、競輪50年の歴史(ちなみに競輪は日本発祥の競技。世界選手権でも「KEIRIN」といいます)のなかでも、全タイトル(競馬でいうG1)を優勝した、たった3人の選手の一人です。
 ちなみに、3人とは井上茂徳選手、滝沢正光選手、神山雄一郎選手です。ミスター競輪といわれ、世界スプリントで10連覇した中野浩一選手でも達成できなかった偉業です。
 自分は井上選手のファンではありません。逆に嫌いなタイプの選手かもしれません。でも、彼の凄さには、頭が下がります。勝負師としては、尊敬できる人間でしょう・・・
 そう彼は、スポーツ選手というよりは「勝負師」といった風情がぴったりする選手です。
 ボクがテレビや実際のレースで見た、そのすごい場面のお話をしましょう。

1.番手争い
 競輪は変わった形態のレースです。自転車競技の場合、最大の敵は風圧です。トップレベルの選手は、時速60Km以上で走ります。ということは秒速20mくらいなので、無風のバンクを走っても、風速20mの中を向かい風で走っているのと同じことになります。
 そこで、競輪の場合、のこり2周くらいになるまでは、先頭誘導員という人がいて、選手の風除けになります。打鐘(ジャン)がなるあたりまでは、一列で走るのは風圧を避けるためです。
 しかし、1列にいたのでは、後ろの方のひとは勝負権がなくなってしますので、残り2周くらいなら、風にあたって走っても、勝負できると判断すると、列をくずして前のほうへ行きます。すると、A選手が前に行くのならその後ろについていこうという選手が出ます。このように先頭を走る選手を先行選手、通称「逃げ屋」、その逃げ屋の後ろに付く選手は追い込み選手、通称「マーク屋」といいます。
 さらにその後ろにマーク屋が並ぶこともあります。このように、何人かで並んでまとまって行動するのを「ライン」と呼びます。ラインは基本的に練習仲間で組むので同地区の選手でラインを組みます。

 競輪で一番有利なのは、「逃げ屋」の真後ろ「マーク屋」です。3番手になると2人抜かないといけないので、やはり2番手が有利。「逃げ屋」はなぜ、不利なのに風圧を受けて逃げるのかというと、脚力や持久力に自信があり番手の選手との差である1車身はゴールまでの距離では抜かせないというもくろみがあるからです。(現実はもっと複雑ですが・・・)
 また「マーク屋」は他のラインの選手が、捲くってきたら、身を呈してそれを止める(ブロック)仕事もあり危険度が高いです。逃げ屋とマーク屋は選手の性格も関係します。

  さてさて、話の井上選手は「マーク屋」です。そして、そのころ先行日本一であった吉岡稔真選手は九州福岡の選手です。九州は結束がつよく九州ラインというものを結成します。
 そして「マーク屋」日本一は井上選手です。吉岡選手と井上選手がラインを組むレースでは彼らの1着2着で「180円」位の低配当が多いです!!つまり、超一番人気です。
 そして、吉岡選手の番手はいつも井上選手の指定席です。当然、はたから見ると、日本でもっともおいしい指定席です。
 しかし、1990年代、井上選手も年をとって脚力が落ち、往年の差し足からつけられたあだ名の「鬼脚」もかげりをみせています。すると九州の若いマーク選手が、いつまでも井上選手が番手主張するのはおかしいっ!というのです。
 それを象徴する出来事が・・はっきりと記憶にないのですが競馬でいうG1クラス、競輪では当時「特別競輪」と呼んでいます。そのレースの勝ち上がり(予選)でのこと・・・吉岡選手にいつものように井上選手が番手につきます。すると同地区であるH選手が、井上選手の真横にならんで並走します。いわゆる「競り」です。番手を争って、レースが進行すると相手に体当たりして自分が先行の番手をとる戦法なのですが・・・・普通、同地区の選手はやりません。しかも相手は日本一の井上選手・・・場内に緊張感が走ります。
 結局祖のレースは、井上選手がH選手を競り落とします(別に落車させるわけではない)、しかし競りで脚力をつかった井上選手は先行日本一の吉岡選手にはついていけず敗退したと記憶しています。
 そして、井上選手は言います。「Hもオレの後輩だ。番手を、ゆずってやってもいいが、結果をだしてからだ。3番手にいて、オレをまず抜いてみろ。確実に抜ける力をもったら、番手からオレは下がる。」と・・・
 さて、その何ヵ月後かのことです。井上選手の地元佐賀県武雄で、G2クラスのレースがありました。当然、吉岡選手も出るのですが、吉岡選手は世界選手権から帰ってきた翌々日くらいなので、最初から「九州の引っ張り役に徹します」と言う弱気発言。
 当然、番手はだれかってことになります。注目の井上選手は決勝前のインタビューで「決勝はオレは3番手でいい。番手は佐々木だ」と・・・

 佐々木選手というのは、井上選手よりも武雄が地元で、ほぼ同年代、友人でその実力も同等レベルと認めていたので、地元に譲るという形でのこの発言でした。
 吉岡は疲労、井上は3番手・・・ということで、1着佐々木2着吉岡の車券が一番人気になります。

 さて、レースは始まり、吉岡ー佐々木ー井上でラインは組まれます。ジャンがなり、他のラインが牽制気味に先行しますが、世界選手権帰りといっても当時の吉岡選手は化け物のような強さ!最終ホームから、全速力で一気に行きます。佐々木ー井上もついていきますが、一瞬佐々木が遅れます。しかし、もちなおして最終バックではブッチギリで、吉岡ー佐々木ー井上で、回っています。
 そして第4コーナーまわります。3車が横にひろがり、佐々木選手が抜きにかかります。
 しかぁーーーし、吉岡選手ほんとうに疲れているのか、全然スピードが衰えません。佐々木選手のほうが着きばてでしょうか、全然進みません。

 すると、信じられない光景を目の当たりにします。インタビューでは優勝を佐々木に譲るみたいな発言だった井上選手が3番手から、猛烈に追い込んできます。しかも、佐々木選手に痛烈なブロック(早い話が頭突きみたいなもの)をかまします。・・・・・
 1位吉岡選手(逃げ切り)2位井上選手(追い込み)・・・・・

 いーー井上ぇっ・・お前は本当に鬼かぁ・・・と思ったとき、前のレースの井上の言葉がよぎりました。「3番手から抜いてみろ・・・」
 そう、井上は自ら3番手から抜いて見せて、吉岡選手の番手はオレの指定席だってことを、天下に示したのです。まさに、勝負の鬼っ・・・・・

2.最後のビッグタイトル
 さて、鬼脚の井上選手も、寄る年波には勝てず(とはいっても、ずっとトップクラスだけど)その年は、ビッグレースで吉岡選手の番手を死守するも、1回も吉岡選手を抜けずにいました。
 年末は、競輪のビッグイベント「KEIRINグランプリ」があります。これはその年の、競輪選手(全国で、4000人ほどいます)の、トップ9人が一発勝負のレースをします。プライドもかかりますが、賞金もすごい・・当時でも優勝すれば3000万円!!
 その年も、吉岡選手が好調で、ほとんど、吉岡選手からの人気です。番手が有利なのですが一番人気は吉岡1着、2着井上・・・・

 さて、レースです、さすがに、年末のビッグイベント!レース場である立川競輪場は超満員!4時30分ころ発送です。

 レースが始まり、淡々と周回を重ねジャン近辺で動きはじめますが、吉岡選手は自信があるのか、自転車を下げます。岐阜の山田選手が最終ホームストレッチをトップで回りますが、全速ではありません。これでは、吉岡にやられると思った千葉勢、鈴木選手と滝沢選手が、カマシ(一気に出る戦法)ます。しかし、吉岡あわてずに、ホームから全速で追います。
 さすがに日本一の先行屋、あっという間に、鈴木選手を抜き第2コーナーでトップに立ちます。滝沢選手も切り替えて吉岡ー井上のあとにつきます。

 この展開では、吉岡選手の独壇場!!!・・いい感じで、バックストレッチをふかしてきます。だれも捲くれません!!
 最終4コーナー!!そのまま吉岡ー井上ー滝沢でまわってきました。
今年、井上選手は吉岡を抜いたことがありません。このとき、吉岡ー井上の一番人気の車券、または吉岡ー滝沢の車券を持っていた人は、「やったー!!」と思ったはずっ!

 しかし、直線にはいって、井上選手が抜きにかかります。おぉっ井上調子いいのかっ・・そして、吉岡選手の横まで並んだときです。
 井上選手が吉岡選手に強烈なブロック!!!!肩口に頭突きですっ!それで、吉岡選手は失速して3位、1位井上2位滝沢の5000円の穴車券・・(ボクは当たりました!ちょっと自慢)
 まさに、鬼です。4コーナー過ぎれば、ライン関係ないとはいうものの・・ここまでやるか・
・・おかげで、吉岡3着じゃないか・・・

  でも、それが井上らしい、勝負根性のなせたレースだったのでしょう。井上選手がとったビッグタイトルはこれが最後でした。

 鬼のような井上選手ですが、後輩をかわいがることもします。吉岡選手が最初のタイトルとったときも、井上選手が最終バックで、インつまりの吉岡選手にわざわざ、自分の前をあけて、いれて優勝させているのです。
 周回中は、先行、マークの仕事をきっちりして、4コーナー過ぎたら自力で勝負せいっ・て井上の声が聞こえてきそうですね。
 井上選手も今は引退して、解説にまわっています。

 プロ選手も凄いあだ名がつかなきゃ一流じゃない・


(2)天才レーサー

 スポーツの世界では、早熟なプレーヤーが世界中にはたくさんいます。高校生くらいで世界のトップレベルになってしまう選手・・・・サッカー選手では、アルゼンチンのマラドーナ、イングランドのオーエン、日本だったら女子柔道の田村選手・・・・
 自転車競技はKEIRINが日本生まれといっても、ヨーロッパが本場・・中野選手の世界スプリント10連覇なんて異例・・・
 そんな、自転車競技でも世界をあっといわせた高校生が日本にいました。今はバリバリの競輪選手です・・・・群馬の稲村成浩選手
 前橋で自転車の世界選手権が実施されたときのとこです。日本は前橋をドーム型競輪場に新調し、スプリントからKEIRIN種目のメダルを狙う中野浩一選手らが地元開催での活躍を期待されてました。しかし、結果は・・・惨敗・・・・スプリントもKEIRINも・・なにもかも現役の競輪選手が出場したのですが・・・見事な惨敗・・

 そんな中、最後の種目になった「タンデムスプリント」・・タンデム(2人乗り)自転車で、タイマン勝負をしてトーナメントを勝ち上がっていくものです。
 惨敗続きの日本チーム・・当初予定していた大学生選手では実力からみてメダルは無理・・ということで、伸び盛りの高校生コンビを抜擢!!!
 それが、稲村成浩と斉藤登志信の高校3年生コンビです。とくに稲村選手は父親が稲村雅史という競輪界のスター選手でそのスジでは有名(笑)

 そして、彼らは、次々と世界の強豪を破って、決勝にまで来てしまいました。惜しくも決勝では敗退しましたが、日本勢唯一のメダルです。まさに天才レーサー・・・高校卒業したら稲村選手は競輪選手になる(斉藤選手は大学へいった)と聞き、ずっと注目する存在になったのです。

 こんな話を聞いたことがあります。稲村選手は当然高校自転車界では有名な選手です。あるとき神奈川の川崎競輪場で地元の法政二高自転車部との合同練習みたいなのがあったそうです。
 法政の顧問の先生は「稲村ってどんなもんじゃい」って感じで、彼のラップを測ったそうです。1周400mのバンク・・全速で走ってラスト200m(1ハロン)のタイムを通常測ります。一流の競輪選手で、200mは11秒台の前半です。(秒速で20mくらいのスピードなので1秒違えば20mの大差ってことですよね)
 そしたら、稲村選手のラップは高校生で、なんと10秒台!!!!ラップを測ったその先生はストップウォッチを持ったその手が震えたそうです。

 さて競輪選手になるには、競輪学校へ行きます。稲村選手も卒業後競輪学校へ行き、前評判とおりの在校成績NO1で卒業しました。競輪選手は、その実力でクラスわけされてます。当時は3クラスあって、上からS級、A級、B級・・・・競輪学校の成績で、卒業生はA級かB級に分けられます。稲村選手は当然A級です。
 そして、その級で9レース(3場所)すべて1着で勝つと、特別進級といいって、上のS級に上がれます。当然級が高い方が賞金も上です。S級は他のスポーツでいえば1軍みたいなもの・・
 稲村選手は、絶対に特進すると自信があったようで、A級用のレーサーパンツ(級によってパンツが違う)は1枚しか買わなかったそうです。
 そして、9レースすべて1位でS級へ・・・しかも、S級初のシリーズでいきなり優勝!!
 そのころの競輪界は、吉岡選手の時代、そこへ新星が期待通りに現れたって感じでした。

そして、上り坂の中、彼は最初のビッグレース、日本選手権競輪(ダービー)で吉岡と対戦します。選抜レースで、吉岡の捲くりを封じて3着に入る健闘をみせるも肝心の勝ち上がり準決勝では、優勝した海田選手と叩きあいの末、力負けで敗れてしまいました。
 そして、なぜかこれ以降、彼のオーラは弱ってしまったかのように、肝心なレースで勝てません・・・

 そして、30歳を聞くとき、同じ日本選手権でようやくビッグレースで優勝した彼は、涙ながらに「親父の看板を汚してきたけど、ようやくとれた」とインタビューに泣きながらに答えました。

 長い間の、天才とスーパースターの息子という重荷から解き放たれた瞬間だったのでしょう・・


(3)風になる瞬間

 自転車競技は風圧との戦いです。特に競輪競技において、先行する選手は30秒近いあいだ、風速20mの風圧を受けながらペダルを力いっぱい踏む必要があるわけです。
 先行選手がそのまま逃げ切るレースは、展開的には興味が乏しいのですが、逆にその先行選手の力強さが一番感じられるレースで自分は好きな展開です。しかしながら、逃げ切りをいうのは全レースの10−15%程度です。それくらい逃げ切ることは難しいのです。
 それでも、逃げ切りのレースは数多く見てますが、もっとも印象的だったレースの話です。

 その選手、J選手としましょう。かれは競輪学校時代の成績はよくありません。でもその理由ははっきりしていました。先行に徹していたのです。下手に勝つ方法を覚えずに、先行しまくって脚を鍛えることに徹していました。同期の選手では、埼玉の太田選手が在校成績1位で卒業し、デビュー後もすでにS級にあがって活躍してましたからJ選手としては遅れをとっていました。
 しかし、その鍛えた脚力が遅ればせながら自力を発揮し始めました。A級で9連勝しついにS級に特別進級が決まりました。そしてS級はじめてのレースが12月の最後に行われるKEIRINグランプリレースと同時期に同じ場所で開催される「阿佐田杯」でした。場所は立川競輪場・・

 これには、若手の有望メンバーとベテラン有名選手がでて、グランプリと同時開催もあって注目されているレースです。そして、あの同期の太田選手も出場しています。
 3日間の開催で、初日予選、2日準決勝、3日決勝となりJ選手は好調で初S級で決勝に残りました。注目の太田選手は準決勝で敗退しました。

 決勝メンバーをみると(詳細は記憶にないのですが・・)、優勝候補としてはJ選手とは別ラインになる中部の小嶋選手(知る人ぞ知る、バルセロナオリンピックの日本代表です)・・そしてJ選手の番手を取る坂巻選手が候補です。
 J選手も注目なのですが、初出場であり6番車(もっとも得点の低い人の番車)だってこと、先輩の坂巻選手とは同じ県であり、強力先行選手の敵である小嶋選手がいるので、普通の予想としては「J選手は小嶋選手に先手を取られる前に、先行して主導権をとる。すると長い距離先行するので、直線の長い立川バンクJ選手はもたない・・後ろから追い込む坂巻選手と、捲くってくる小嶋選手が有利・・」というのが普通で、車券もその通りに坂巻選手の1着と小嶋選手の1着が人気を2分しています。
 新人選手の場合、自分の先行力と、行きっぷりを世間にアピールするために、多少の勝負度外視しても、思い切り先行して評判を上げることが必要なのです。そうすれば、番手だけでなく3番手4番手にも他のマーク選手がついてくれる。自分のラインが長くなることは先行選手にとって有利なレースになります。

 したがって、ここの場面ではJ選手はもたなくても早めに先行してくるだろうという予想は正しいものです。小嶋選手は勝ちたいレースなので、早めに先行ならば、一発の捲くりに賭けるだろうと誰もが予想します。そうすれば、有利になるのはJ選手の番手の坂巻選手です。
 まぁ、こんな感じで予想して自分も車券買います。しかしA級での、強さがあまりに印象的だったJ選手と、将来の大物の予感を期待してJ選手の1着も買います。

 さてレースが始まり、J選手は周回中は後ろの方、番手は坂巻選手。小嶋選手は捲くりやすいように中断をねらっています。
 最後のジャンが鳴ります!!!!・・予想通り、J選手が後方から一気に仕掛けます。競輪場にいた観客すべてが予想していた通りの展開です。最終ホーム、J選手は目いっぱいペダルを踏みます!!!
 まさに風との戦い!!!そのままバックストレッチ・・・小嶋選手の捲くりですが、なんと届きません・・
 そのまま、4コーナーを回って最後の直線です。(立川バンクは直線が長いので大概の先行選手はここでバテます)
 番手の坂巻選手が追い込んできます。観客だれもが「坂巻の優勝だ」と思いました。しかし、J選手のスピードが落ちません!!!坂巻選手も追い込むのですが、思うように差が詰まりません・・・

 そしてそのまま、J選手は逃げ切って優勝!!!!そのとき立川競輪場は「おぉーーーっ」というものすごいどよめきが起こりました。すごい、すごい選手がでてきた!!お前すごいぞっ!!・・・
 当然車券は万に近い配当、外れた人のほうが絶対多いはずなのに、J選手を祝福します。

 自分はゴール目前の場所で見ていました。まさに、J選手は「風」と一体になった感じがしました。これは凄い・・・2年もしたら競輪界はこいつの天下になるぞ・・と思ったものでした。

 そしてその年の日本自転車競技会の1000mタイムトライアルのことです。アトランタオリンピックの選考会を兼ねたこのレースでは、競輪界の第一人者の吉岡、神山、1000mのスペシャリスト稲村選手らがでますが、なんと新人のJ選手が彼らをぶっちぎって優勝してしまい、アトランタオリンピックの出場権を取ってしまったのです。
 ご記憶のある方もいると思います。J選手とは茨城の十文字貴信選手です。オリンピックで見事銅メダルを取り凱旋しました。

 しかし、その後腰痛などに悩まされ、競輪界は彼の天下にはなりませんでした。あのときが、彼のピークだったのかもしれません。


(4)神山雄一郎が本物になるとき

 競輪界で、そのときの特別競輪(競馬でいうG1)をすべて優勝するとグランドスラムとよび、達成した選手をグランドスラマーといいます。
 長い競輪の歴史(約50年)でも、これを達成した選手は3名だけです。井上茂徳、滝沢正光そして神山雄一郎・・・・あの、ミスター競輪の中野浩一ですら達成してません。

 神山雄一郎、デビュー当時からその才能を買われ、「特別制覇は時間の問題」といわれていました。しかし、伸び悩んだのか、なかなか特別では1回も優勝できません。
 若いころから見ていますが、その甘いマスクも災いしてか、なにか「厳しさ」が感じられないレーサーだったのです。レースぶりもあまい・・・そんな印象を持ってました。
 結果として、彼より後輩の吉岡選手が先に特別競輪で優勝し、グランドスラムへの道を進み始めてしまうのです。遅れを取った神山・・・・そんな印象でした。
 平塚での競輪グランプリのとき、彼は完璧なレース運びでした。宿敵の吉岡選手をおさえて、最終のバックストレッチをトップで通過します。
 しかし、3コーナーで信じられないスピードで彼を捲くってしまった吉岡選手が優勝でした・・・

 その後、彼は執拗に先行するレースをし始めます。先行はもっとも苦しく、もっとも不利な戦法・・しかし、彼は地道に先行して、脚力と精神力を鍛え、「神山は先行する」という風評を得ます。
 あるG2クラスのレース決勝戦、あの吉岡選手と対戦です。そしてついに、先行で吉岡選手に勝ったのです。

 その後、地元宇都宮で行われた「オールスター競輪」でついに念願の特別初制覇をします。吉岡、神山2強時代の始まりでした。

 しかし、厳しいレースをする吉岡にくらべ、神山の評価は自分的にはいまいちでした。肝心なところで勝てない・・・・勝負に甘い
 そんな印象を払拭するレースを見ました。競輪祭です。九州で行われるこの特別競輪、地元出身の吉岡選手が怪我で欠場なので、神山選手としてはチャンスです。
 順調に勝ち上がり、決勝になりました。

 そのレースで、ボクは神山の「絶対優勝!」という執念を見たのでした。
 普通は捲くりに回った方が、優勝の確率は高いのですが、彼は先行しました。しかも、後ろについているのは、どちらかというと敵対する選手・・・
 先行して2コーナーまわったあたりで、後ろから、別の選手が捲くってきます。神山選手の番手の選手はブロックしてくれません。
 神山選手はなんと、先行しながら自分でブロックします。当然、インコースが開きますので、ブロックしてくれなかった番手の選手がインコースをついてきます。
 すると、今度はなんと、神山選手自分で、インコースを締めて、番手の選手を前に出させません。
 普通なら、先行してこれだけ仕事すると疲れて、ゴールまでもたないのですが、神山選手はそのまま押し切って1着・・・・優勝です。

 先行して、自分で捲くりブロックしてイン締めて・・・・もう、彼の執念を感じさせずにはいられない凄いレースでした。

 彼へのボクの評価が、ここから変わりました・
  そして、彼はその後、グランドスラマーとなったのです。ちなみに吉岡選手はグランドスラムはとっていません・・・


(5)表彰台には最も近く、優勝には最も遠い位置

 2004年9月23日・・・・オールスター競輪(G1)の決勝の日です。最近あまり競輪をみなくなりましたが、今日は丁度、家にいてテレビ中継もあり見ることにしました。
 決勝メンバーは、ついこの前のアテネオリンピックで銀メダルと取った、現在の輪界NO1の伏見選手が中心です。
 伏見ー佐藤ー斎藤ー榊枝 の東北ライン
 稲垣ー市田ー横田 の関西−九州ライン
 神山ー後閑 の北関東ライン

    グランドスラマーとはいえ、もう36歳。かなり力が衰えたと思われる神山選手久しぶりの決勝です。
  神山選手の後ろに付く後閑選手・・・かれもベテランですが、神山選手が全盛期の時も彼は北関東NO1の追い込み選手であり、神山選手の番手は指定席で、他の選手から随分うらやましがられたものです。
  しかし、神山選手がG1で全冠制覇したのにたいし、後閑選手は2位は多いもののついにG1のタイトルを取ることができませんでした。

   当時の後閑選手は、こう言っています。
  「神山選手の番手は確かに、表彰台にのるには最短距離の位置です。しかし、優勝するにはその神山選手を抜かなければならない。それは、もっとも遠い位置です。」
   いかに当時の神山選手が強かった・・・・この言葉が物語っています。
  つまり、神山選手の番手にいると表彰台に乗るのはたやすいけど、抜くことは不可能に近い。優勝をねらうなら神山選手とは別線で戦って神山選手の力を出させないようにするしかない。ということです。

     
 しかし、時代はかわり神山選手もその強さは影をひそめ、力では伏見選手にはかなわないでしょう。世代交代です。
  レースが始まりました。神山ー後閑前受け。以下、伏見ー佐藤ー斎藤ー榊枝、稲垣ー市田ー横田で周回します。
  打鐘前、先行したい稲垣ラインが前にでますが、やはり先行可能性のある伏見選手のラインを牽制します。
  打鐘!! 東北の榊枝選手が、イン切りします。(自分のラインを前にださせるために、先頭の選手を抑える)
   しかし、伏見選手の出方がちょっと遅い・・稲垣選手はこのタイミングで先行態勢に入ります。
   伏見選手が先頭にでようかと前にきたとき、横田選手がブロック!
   稲垣選手の3番手がぽっかりあきます。その一瞬を神山選手は逃しません!さっと稲垣選手の3番手に入ります。
   そのまま稲垣選手先行でめいっぱい駆けます!
  最終、バックストレッチで伏見選手が渾身の捲くり!!! ぐんぐん迫ってきますが、神山選手は絶好のタイミングでブロックします。
  捲くり不発!その瞬間に、神山選手とその前にいる市田選手が捲くりを打ちます。後閑選手はインにはいって最短距離を走行します。
   ほぼ3人の優勝あらそい!神山のうまいレース運びです。
  しかし、ブロックした瞬間に、自分は神山選手の優勝を確信しました。「これは神山のレースだ。」・・


そして、その通り、神山選手は1着、4年ぶりのG1優勝です。・・・そして、2着は「また後閑選手」・・・

 まだまだ、「優勝にはもっとも遠い位置」は、変わりなかったのでした・・・
たった、10cmくらいの差ですが、それは永遠に縮まらない距離のようにみえました。


 
(6)永遠の差なんて、なかった!

 前回の話で、「永遠につまらない差」の話を書いたのですが・・・・・ついに、その差が破られました。その瞬間を観戦することも出来ました・

 2005年、1月30日、本年最初のG1レース「競輪王決定戦」です。
そう、ついにその永遠の差を破った選手は、「後閑信一選手」です。

 後閑選手、昨年末の阿佐田杯を制して好調なのはわかっておりましたが・・・
しかも、自分も今回は、後閑選手の優勝と予想もしていましたが・・・・
いままでのこともあるので、多分に思い入れも入った予想だったかもしれません・・それを、目の当たりに目撃できました。

 競輪王決勝、ほぼ2分戦です。加藤ー山田ー山口の近畿ライン。神山ー後閑ー川口の関東ラインに、目標無しの佐藤、内林、望月が適当に2つのラインの後という感じ・・・

 実際の周回は 加藤ー山田ー山口ー内林ー佐藤 神山ー後閑ー川口ー望月で、回ります。当初は、神山前受けかと思ったのですが、なぜか徹底先行しそうな加藤がSをとりました。
 しかし、この展開、神山は意地でも加藤に狙い通りの位置から先行はさせたくないはず・・・・しかもうまく先行されると、7番手になる可能性大・・

 優勝するためには、神山は先行しない・・とほとんど人が思うが・・そういう大レースのときだからこそ、先行してみせる必要も、神山のような捲り専門に思われている逃げ屋には必要なこと・・・

 思ったとおり、打鐘前に、押さえた神山は、そのまま先行!

中部ラインの後ろにいた佐藤は、さすが北日本NO1のマーク屋。早々と切り替えて、神山の番手を奪おうと追い上げマークに入ります。
 しかし、神山の番手を守ってきた後閑、やすやすと渡すわけにはいきません。気合のブロックで、神山の番手を死守!

 気合で先行する神山を、絶好調の加藤が捲くって来ます。神山に並ばんとする3コーナー前、後閑が捲くり阻止のブロック。加藤の捲くりを不発に終わらせます。
  そして4コーナー、今まで、けして抜くことの出来なかった神山選手を、後閑選手は交わします・・・・

  踏み直しで、追いすがる加藤選手をふりきって初のG1制覇!!!!

 ついに、永遠の差を逆転した瞬間でした・・・・


 思えば、力の落ちた神山選手が、中部の先行をゆるすくらいなら後閑選手に優勝してもらいたかったかのような先行でした・・・
 いままで、自分の後を守ってくれた後閑選手にも、最高のプレゼントに、なったのではないでしょうか・・・・


   そう、世の中に永遠なんて、存在しないんだ・・・



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