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14/12/6 田 英夫

黒柳「本当にしばらくでございました。であの私全然知らなかったんですけども腎臓を悪くなさって今日も透析をしていらっしゃった。


≪そうです午前中やりましてね


「あれすごい時間がかかるんですって1回が。


≪私は3時間半をですけども普通皆さんは4時間。その間動けないですよ。


「週に何回?


≪3回。


「うわー。じゃ外国にいらっしゃれない?


≪それがもう本当はねぇ私は外国を飛び歩くのが好きですから残念なんですが。でもねあの頑張れば旅行社に頼むと飛行機をとってホテルを取ってもう一つ病院をとっている


「それもやってくれている。じゃあ大丈夫は大丈夫なんですね。ずーっと乗っているんでなければ大丈夫なんですね。


≪そうでしょうね。


「まあそんなわけであのさっきご紹介したようにTBSのニュースのニュースコープ。これ毎日だったんですがそのうちの月火水を


≪そうです


「大変ですよね。ニュース当時ニュースキャスターの草分けとさっきご紹介したんだけども本当にそうだったんです。で木金土が古谷綱正さん。でその時は共同通信の


≪共同通信から最後は両方やるなんてのは無理だと思ってもう移りました。


「ニュースの方に。


≪しかられながらね。


「共同通信の記者でもいらっしゃったんですが社会部長までおやりになったんですが。ですが本当にニュース専門の方でいらっしゃる


≪そうですねん政治部にもいましたし南極観測隊の隊員になったり


「まあそうですねTBSで6年間そのニュースコープをおやりになったんですが月火水毎日と。その中で有名なのがハノイ。あれはすごかったですよねぇベトナム戦争中


≪そうです。ほとんど日本で入手できるニュースというのはアメリカから、アメリカ側から見たベトナム。


「てあのころでいえば南ベトナムの方ですよね。


≪そうそうそうそう


「それをハノイというのは


≪本当のことかどうかわからないんじゃないか。北からみたらどうだろう。まあ交渉して北側がようやく許してくれて入りました。入りましたら全く日本で考えているのとは違いましたね。もうアメリカが負けるなんてのは想像できなかったんですけども


「日本にいらっしゃる時はねぇ。


≪北ベトナムに行って見ましたら私が帰ってきてから書いた本「ハノイの微笑」という本の題をつけました。本当にほほ笑みながら爆弾を受けてやられながらしかし頑張っているんですねアメリカ相手に。


「相手にね。で結局は勝ったんですからね。でもその時全部アメリカからの情報でこっち側からなのに北に回ってご覧になるというのはそれは大変なことでしたでしょうね。


≪やっぱりねああいう戦争ですから対立しているのに一方側からだけのニュースで報道していては間違うじゃないかと思って思い切ってね。


「で思ったよりも向こうがベトコンと当時いったんですけども。あの方たちが元気であったということ。それはハノイ証言ということで有名になったんですね。それでずいぶん後に成田の三里塚とかいろんなことをなさったんですが


≪ありましたね。


「それでいろいろあって参議院議員におなりになってこれも凄いですよねぇ30年。


≪まあテレビのおかげもあったんですね。名前顔を知っていてくださって入れてくださるということがのが原因でしょうけれどもしかし体の方は頑張りました。


「そうですよねそれで5期お務めになったんですから。そういうときの疲労ですかねを今の腎臓というのは。


≪そうですね、いや飲み過ぎですよ(笑)新聞記者時代からの。


「そうでしょうか。そうなんでしょうかね。まあ元気でいらっしゃるんでねぇ。それはまあよろしいんですけども。で今はこれから伺うのは戦争の語り部として全国行脚をやってらっしゃるんですね。12月8日というのは日本が太平洋戦争を始めた日でございますのでもう計算するとびっくりするんですよ61年前。


≪いや本当に私が高校1年生でした。


「ああそう。本当にねぇ田さんの年齢の方がそうなんですけどもはどうしてというぐらいに次々次々戦争ですよね。


≪小学校に入った年に満州事変。中学校に入った年にそれが日華事変に拡大しました。そして高等学校に入ったその年の12月8日に太平洋戦争


「突入。あかでもその前にも515、二・二六事件それも全部ある程度わかる年齢でいらしたということなんですものね。本当に全部が戦争の年代といってもいい。だからもう随分同じ年の方って少ないでしょう。


≪もう本当に死んでいますねぇ。学校の同級生もそうですけども軍隊で一緒だったのは半分以上、3分の2ぐらいで戦死していますね。


「多分小林圭樹さんも同じぐらいの年齢ですよね。小林圭樹さんもおっしゃっていましたねほとんどいないって。本当にねぇ辛い年齢でいらっしゃると思うんですけども。それでって全国行脚をした。それをなさるというそもそもがって去年の4月のことなんですけども小泉内閣になったときに


≪そうなんです。いやねぇ私に比べればうんと若い方が議員になって新しくこられだんだんだんだんそのお話しを聞いているともう戦争の体験のない世代ですから


「外交防衛委員会のメンバーで


≪参議院の外交防衛委員会のそれを30年のうちほとんどずっといたんですが。そうすると相手が変わってきてどんどん若くなってくるとねもう戦争のことを知りませんから本当にきやすくね日本も戦争のできる国にすべきだとかね、まあ憲法改正して自衛隊を軍隊にしようとをはっきり言われるんですよ。


「20名いたそうですけども


≪そうです。委員は20人ですか。聞いているとこっちは戦争の体験がよみがえってきてねぇ。戦争というものはどんなにつらいものかひどいものかあなた方に話してあげようといってそこで初めてね戦争の語り部になりますよと言って


「お話しになった。


≪大臣があの田中


「真紀子さん?


≪真紀子さん。


「もう外務大臣でいらしたんですか。


≪それから中谷防衛庁長官もそこに座っておられるですけども30分ぐらいの持ち時間でひとりでこの特攻隊を志願したときの苦悩とかね、そういう話をしてあげたというかしましたね。4回ぐらいやったんじゃないですか。


「若い人は分かってくれたようですか?


≪いや大臣はお二人とも真剣に聞いてておられたけども若い人の中には何だという顔をしておられた方もいます。


「そうですよね。私本当につらいと思うのは戦争が終わった8月15日とかそういう時に渋谷とかああいうところ若い人たちに戦争、日本がアメリカとかと戦争したの知っていますか?というとほとんどのそこにいる人たちが「うそ」って戦争勝ったんですかなんて言っているのねぇ。そうするとその子たちは原爆は何だったの沖縄は何だったのって大空襲は何だったのっていうことを何の疑問も持ってないんだなと思うとこれは教育も学校でもちゃんと教えてないんだし


≪だから恐いと思いますね。同時にしかし考えてみるともう60年近く日本は戦争してないということはいう。だからうれしいといういいことですね。


「そうですね。普通25年たつと繰り返すと言われていたんですってね。。


≪実はで明治維新から太平洋戦争が終わるまでの間とこの終わってから今日までの間とそうちがわないですね。60年前後でねぇ。だからその間にね明治からの日清戦争、日露戦争を日本はずっと何か間欠的に戦争やってきたんですね。


「そうですねぇでもそこのところご存じない。私たちの子供のときに日露戦争始まった♪ってを言ってたんですけども今の人たちはもっと長く戦争知らないということですからね。だからそういうことでは今やってらっしゃるお仕事は大変な仕事だと思うんですけども5・15の時ももう騒ぎはご存じだったんですってね。


≪知っていました。二・二六事件の時は小学校高学年でしたからよく知っています。


「そのへんに血なんかはいたりしていたのご覧になった


≪こっちも野次馬でしたからねわざわざ見に行きましたよ。亡くなった方の高橋大蔵大臣とかね。


「是清さんですか。


≪それから斎藤実内大臣のお宅へ行ってみたら弾の跡があったりするんですよ。近くの電信柱にね。異常な時代ですね。


「そうですよねそういうのが実際に行われる中でみんなは普通の暮らしをしてたわけなんですけども。1部だったにしても大変な時代。そういうものをご覧になったりなんかしてさっきもおっしゃったように中学入学するときに日中戦争。そして高校にお入りになったときは太平洋戦争に突入したということでで学習院にずっと行っていらっしゃいまして。でも戦争が太平洋戦争が始まったときはあれだったんですって割とのんきに


≪ええ寮にいましてね。東京に家があるのに寮に入ってまして。そしたら朝早くにで隣の寮の親友がねぇ大きな声で何かを叫んでいるから窓を開けてみたらね「戦争が始まったぞ」と言っていたんですよ。でそれがまさに開戦のハワイですね。


「まぁいわゆる真珠湾攻撃とみんなが言っている。


≪ところがその朝私たちはね4人で同級生4人でテニスをやろうということになって学校が始まる前に朝学校に行ってテニスをやりましたよ。その時も


「なるほどね。昭和16年日本でいえば昭和16年の12月8日に始まったわけですよね。


≪だからそれから3年後に自分が言ったんですね大学に入ったとたんに本人が戦争に行くことになっちゃった。


「大学はそれでアレなんですよね。学習院ではなくて東大に。


≪はいそうです。学習院は大学なかったんです


「当時はなかったんですか。


≪それで高等学校を2年半に縮められましてね9月に卒業して10月に大学に入ってそれで12月に2カ月後に12月にお前たちは徴兵延期を取りやめるから徴兵検査を受けなさい。


「そうするとあの東大の生徒が行進をしていく有名なニュースいつもありますよね。雨の小雨の中を。あれとだいたい同じくらいあの時と同じぐらいの年齢


≪私どもはねまだ新入生でお呼びでなかったんです。だからあれには参加していない。


「入っていらっしゃらないニュースの中には。でも大体あの時にもう東大には入ってらしたということなんですよね。


≪それでいわゆる学徒出陣ですよね。


「だって本当に何歳ですかね本当に腹立たしいと思うんですけどもね。仕方がないですけども戦争だったんですけどもまだ10代


≪20歳ほどですかね


「20歳


≪ということは徴兵検査は20歳になると受けなくてはいけない。


「そうなんですね。そして海軍の航海学校というところにお入りになって。


≪そうですね。基礎訓練をまず半年やらされましてねぇ。その後航海学校で本当だったら軍艦を動かすという航海していくその航海士というのになるんですね。ところがもう乗る軍艦が少なくなってきているから


「その時にはねぇ本当はねぇ。でもまあ日本の政府はそういうふうには言ってはいなかったんですけども。とにかくこれからは行脚になるお話しだと思うんですけどもさっきちょっと特攻隊の話が出ましたが、本当におつらい話だと思いますけどもお話ししていただきたいですがみなさんもぜひこういう特攻隊20歳、21の人がこういういわゆるなんでしょうねそういうことを自分で判断しなければいけなかったという時代があったということでぜひお聞きいただきたいと思いますちょっとコマーシャルがございますのでコマーシャルです。





黒柳「まあとにかく海軍に学徒出陣ということでお入りにならなくてはいけなくなって海軍にお入りになりました。21歳でこういう決断をもし迫られたらもう今の若い方はどうなさるだろうと思います。21歳ですよ。特攻隊に志願せよと。そして3種類あると言われたんですって。


≪全員400人ぐらい航海学校にいたんですがそれが剣道場に集められましてね何か異様な雰囲気だなと思ったんですがその学生体調という人が壇上に登ってお前の中から特別攻撃隊を募集する。種類は舟艇、船によるもの魚雷によるもの潜水艦によるものの3種類であると。希望者は明朝0800午前8時ですね、までに教官に申し出る。こう言われたんですよ。


「その舟艇というのは爆弾を積んだものでそれで体当たりをする。


≪それで結局はいったんですけどもモーターボートのような船の頭に爆薬を積んでぶつかって相手の船をしずめよう。


「でも特攻隊というものはもともとその人は死ぬんですからね。それは決まっているんですからね。それは魚雷によるというものは


≪人間魚雷。回天です。


「回転しながら行くやつですね。


≪それから2人乗りの潜水艦ですね。


「特殊潜航


≪特殊潜航艇。


「真珠湾攻撃のときはこれだった


≪そうですそうです使われましたね。


「私それが何か模型だかなんだか見た事ありますけども本当に狭いですよね。こんなものに2人乗ってそれでこれでもって向こうにぶつかってそれで死ねと行けという。21で言われてそれでみんないったんですから。いくら教育が当時はそうであってもつらかったろうなと思うんですよね


≪本当にでその日は夕方食事をして勉強して


「何人かいたんですがその時手を挙げた人が


≪結局40人いたんです。


「400人の内


≪400人の中40人。もうみんなねほとんど一睡もしませんでしたね。その日の夜は。


「そうですよね。


≪みんなが悶々としているがわかるんですよ。で階段ベットで寝ていましてね私の上にいた人は結局志願しなかった私も志願しなかった。隣が上下しました。これも2人とも死んでいますね。


「でもしなかった人も同じくらい生涯ね、私とってもそれを思うと分かるんですけども一生涯ねぇどうしてあの時志願しなかったんだろうって


≪後ろめたいようなね。最後私は戦争が終わって生きて帰ってきましたか。その時に上に寝ていた人は戦艦大和で死にました。だからこの4人で生きているのは僕1人なんですよ。何かね戦争の話をするのは嫌でしたね。


「そうですってね


≪特に特攻隊でみんな死んでいったそのことを考えるとね。


「自分が卑怯者になるのも嫌。だけどもだからといってその時にすぐにはいと言って手を挙げるでもないというつらい。


≪結局朝になるまでにもうもうとしていてねぇ走馬灯のようにという言葉が本当にこの通りだと思ったのは映画じゃなくてスチール写真で子供の時の楽しかった旅行に行った思い出とかで友達と遊んだこととかそれと天皇陛下のために命をささげなさいというそういう思いとで教育を受けたそれが功を次々次々と頭の中に繰り返して


「だから始め手をあげた方たちは潔く行くぞと。


≪しかし全部死にましたよ。


「そうですってねなくなったんですってね。そして残りの360人というものは悶々としたけれども結局最終的には特攻隊に振り分けられたんですって


≪そうですね。だから大和で死んだり特攻隊で死んだり


「さっきおっしゃった田さんが乗るべきものは何かベニヤ板でできていた


≪ベニヤ板でできていたシンヨウ特別攻撃隊。地震の震という時に太平洋の洋。25隻で1部隊で2人ずつ乗っているんです。だから52。その50人はみんな予科練を出たね18歳ですよ。本当に


「たまんないですよね。でみんな口に出してつらいなとかそんなこと、今だったらみんなわからないんと思うんだけどもとんでもない話で


≪いやいや死ぬ覚悟しているものというのはねお互いに死ぬんだなとかね靖国神社で会おうとかそんな甘っちょろいことは言いませんでした。みんなじーっとしまっているんですね。


「そうですってね。でも最後にご家族とお撮りになった写真今日はお持ちいただいたんですけどもあのご家族で多分これが最後になるだろうということで。このときのお父様とお母様の気持ちとか何かでこの時そうですよね。白の後ろのが田さんですけども。


≪海辺でね右側が兄貴です。


「でもお母さんはニッコリしていらしてやっぱり心配させまいとね。下の眼鏡をかけてらっしゃる方がお父様。


≪そうです。


「その隣がお兄様だそうですけども。まあ21歳ですよ皆さん。それで結局そのベニヤ板でできたようなシンヨウというその地震の震に太平洋の洋という字を書く震洋特攻隊というので爆弾300キロを積んで軍艦に2人ずつ。敵の軍艦に体当たりして死ぬのだと。それでさっきのお写真があるんですけどもどこに行くというようなことは一切言えなかった。


≪そうですねですから両親もね最後まで戦争終わって私が帰ってくるまでどこに行ってたか知らなかったわけです。こつ然として9月になって戦争が終わってもう半月以上たって家に忽然と現れたもんでびっくりしたようですけども。


「特攻隊ですから多分もう駄目だったろうということで


≪特攻隊にいたということも知らなかった。


「そういうこともご存じなかったんですか。


≪それも言ってはいけなかった。


「それも言ってはいけなかったんですか。それで出撃が宮崎県の延岡の近くの赤水


≪赤水という漁村ですね。


「そこに基地があったんですか?


≪そこに基地を作ったんです。ですから本土決戦と言われたんですがそうなると1番あそこ海岸線が長いですからアメリカをまずそこに1番最初に上がってくる。ということでそこに張り付いて、沖縄に行った人はみんな死にました。


「だから沖縄はもう終わっていて。本当に大変な悲惨なことが起こって終わっていた時ですよね。それで昭和20年の8月4日もう終戦の11日前それでいよいよ


≪爆装せようというね爆薬を詰めといういう命令が。


「300キロの。


≪徹夜で25隻に積んだんですけども。


「でもベニヤ板のものにですよ、まあ5メートルの長さだそうですけどもそのベニヤ板のものに300キロのその爆弾というものは詰めるですか?そんなに。


≪ちょうどそれに合わしてできているんですけどもクレーンで結構もちろん重いですよ。すると船がへさきが下がっちゃう。


「そうでしょうね。


≪それで走りだすと頭が上がってくるんですよ。27ノットということになっていましたけども相手は黙って見ているわけじゃありませんからも機銃掃射をやってきたり


「そこに爆弾300キロを積んでいるということはそれに何かがだったらこっちが爆発することになりますからね。


≪もちろん全員死ぬんですよ。


「そうですよねみなさん若い方はねぇ映画でたくさん見てらっしゃるからああやってるけどもその映画ではあの俳優は死んでないわけですけども今おっしゃってる田さんたちは死ぬんで死に行くわけですからとにかく向こうの大きなものにぶつけて死のうということですよね。


≪そうですね。


「まぁそこで待機してらしたいよいよさっきおっしゃったように出撃じゃなくてなんでしたっけ?


≪爆装せよ。爆薬を詰めということですね。


「でもそのときはアメリカの飛行機がずいぶん


≪きていました。


「でもまだそのとき21歳ぐらいでしたよね。


≪そうですね。


「21歳


≪誕生日が来て22歳になったんですか。終戦のときは22ですね。本当に18歳のその予科練出身の搭乗員という50人いたのが今思うとね高校生か大学に入ったばかりでしょ今のでいちょっと想像もつきませんね。


「そうですよね





黒柳「それでいよいよ出撃ということになるところだったんですが、そうすると8月9日の長崎の原爆のことなんか


≪それは聞きました。聞きましたけども特殊爆弾というだけでねわかりませんで実際は。


「でもそこにいらっしゃる時にとうとう爆装したんでけども出撃がなくて


≪なくて8月15日になったわけです。


「でもその時に行きましょうと


≪そうですそれはねぇ、天皇の放送を近くの漁民の家で聞いたんですよ。なぜかね。5、6人搭乗員が一緒に来ていてしかしよく分からなかったんですね。天皇のお言葉がねぇ。しかし戦争が終わったということだけは分かりました。私はねぇ瞬間これで生きていられるんだなみんなビビッと思ったんですよ。そうしたねぇ一緒に行った搭乗員の一人が艇隊長、出撃しましょうというんですよ。敵がどこにいるかも分からなくてね出撃してどうするんだといってねまぁしっかりつけたんですけども。そういう心情だった


「そのつもりでしたからね


≪決断していたから。


「もう死ぬつもりだったんですから本当にその時に上からはどうしてのみんなどういうふうにしろという命令はきたんですか?その後。


≪いや結局ね特攻隊は戦争が終わったんだから特攻隊は早く解散せよそういう命令でね。


「それも辛いですよね。早く解散しろといってもね


≪われわれは将校は後始末がありますから結局9月まで残ったんですが。


「でも広島を通りになるときに帰りの広島の大変な惨状もご覧になったんですね。


≪まあ復員列車と言ってましたけども帰ってくる列車が出てたんでそれに乗せてもらったというか乗って帰ったんですかちょうど朝方朝開ける時に広島に停車したんでと一生懸命みたら何もなかったですね。駅のそばは建物は何もなかったと。


「びっくりなさったでしょう?


≪ええ。それで復員列車というのはみんなそれぞれ陸軍も何もいっしょくたで満員で帰ってきたんですけども。で私は両親が東京の家が焼けて


「青山だったそうですけども


≪疎開していたんでそこが分かっていましたから逗子で降りて歩いてね1時間半ぐらいで家に着いたころには夜中の1時ごろだったと思います。でしまっているから雨戸を叩いたらもう本当に幽霊ができたかのようにびっくりしてね起きてきましたね。両親が


「でもお喜びあったでしょうねどんなにかね。あとでまあいろんなことがおわかりになったでしょうけども





黒柳「んまあそれから東大にお戻りになって新聞記者に踊りになって下山事件・・事件松川事件朝鮮戦争とずっと見てらしたんですけども今こうして全国行脚して戦争のことを話してらっしゃるというのはどういう


≪まあ戦争が終わったときは虚脱状態もありますし負けたということもありますがやっぱり特攻隊で私だけが生き残ったという後ろめたさがありましたね。なにか帰ってきてからも戦争の話をするのが嫌でした。それでずっと子供たちができてもう男の子もいるんですがそういう子供たちにも戦争の話をしなかったんですよ。新聞記者の間もねあまり仲間や後輩にしませんでしたね。最近になってね若い皆さんが戦争を平気で日本も軍隊もてなんて言われるのを聞いているといたたまれない気持ちでね最近になってこの戦争の話をし始めました。私だけじゃないですねあのは同じ生き残った仲間もねぇそうですね。これを本当にこのままにしておいてはいけないと思いますね。戦争の語り部というをやらなくてはいけないか


「だからほとんどの同僚というですかね同期の方たちはなくなってしまったので生きてらっしゃる方の務めとしてはやはりそれをみんなに伝える必要があるということだと思うんですよね。生かしてくださった代わりにですね。多分そう思ってらっしゃると思うんですけども。


≪いやまったくそうですよ。


「でも本当につらい話ですよねぇ。戦争の話はね。まあどうもう元気でどうぞ本当に日ありがとうございました


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14/12/9 南こうせつ

黒柳「さてさて南こうせつさんどうもどうも。今でも九州大分にお住まいで。


≪そうなんですよ今日もね田舎からこの明るいスタジオにやってまいりました。


「何といっても最近では小室哲也さんのご結婚式にいらっしゃってしかもあなたはギターを弾いて歌っていらっしゃった。





≪そうなんで。小室哲也さんミュージシャン。奥さんも同じグループのglobeというね。2人ともいわゆる社内結婚みたいな感じで。


「そうなの。


≪だからもうミュージシャンだから大勢ミュージシャンが集まってはいだれがこれを歌ったこれ何を歌ったとトントントントンという順番で僕も歌うんだと思っていたのよ。安室ちゃんもいるし。そしたらねなんとその歌を歌ったり音楽で発表したのが私とヨシキさんという方がピアノを弾いて2組だけだった。ふたを開けてみれば。しかもそこに生放送が入っている。


「生中継が入っている


≪それでこれ緊張があったんですよ。最初のシャンパン控えめでですね。相当上等なのが出ていました。料理もいっぱい上等なのか。僕の出番のときにガンガン飲んでよれよれになると失礼じゃないですか。


「生中継ですからね。


≪それが気になる。それであのしかもですね私が歌うときに何回かお色直しがあってでけいこさんがねあそこのあれを、リヨールのジョンガリアーノさんといういっていいのかなすごい方のオートクチュールのウエディングドレスで1500万円するかな。その1着が


「1500万円とか聞いた。そんな高い洋服があるの。私もまあ芸能人なんでものを知らないですけどもそんな高いのがあるの。まあオートクチュールだから。それにしてもね。


≪着替えましたね。順番で。それで僕が歌う前に着替えてケーキがカットされてですね。それでじゃこうせつさん歌ときたわけですよ。で妹を歌って下さい。妹という歌が最初は妹よ〜♪ふすま1枚隔てて今小さな寝息をたてている妹よ。ふすま1枚を隔てて質素な歌なわけですよ。


「(笑)神田川とどっちどっち


≪神田川の3畳1間もすごいけどその妹もすごい。ところが相手は1500万円のオートクチュールで持って私は豪華な明日に架ける橋とかマイウェイとかはこういうのを歌いたいじゃないですか。でもあのkeikoさんがねその妹を歌ってほしいと。


「でもそういうのは関係ないんじゃないの。あのお二方がきっともしかすると。


≪すごい喜んでいただいてね。


「でも練習とかしたんですって。現場で。


≪現場でね小室さんが1番最初にいたグループでtmネットワークという大きな大変なグループで。そう出てましたよ徹子さんもビデオで。


「え


≪ベストテンをなさったときにTMネットワークが出てきて。


「ええすごいお道具がいっぱいで。


≪シンセサイザーがすごい。


「それがビデオに映ったんですか。


≪そうそう。


「私も出たんですか。


≪出てきました。それでそのグループにいた木根尚登さんが妹を歌うのを手伝ってくれて。それで2人でやったんですよ。


「そういうのでいろんな関係をそこでみせたわけね。


≪そうなんですよ。とにかくねぇ豪華な結婚式でね素晴らしかったですね。


「そうです。本当にあれでしたよねあの方小室さんうれしそうにしてらっしゃいましたね。奥様ももちろんですけども。


≪奥様ももちろんですよね。まぁやっぱりいろいろ前にありましたからね。小室さんも。ですからねkeikoさんは嬉しかったんじゃないですか。もう皆さんの前にわっと出て。


「奥様も最後ですかねぇお歌いになって。彼のピアノで。


≪2人でね夫婦で音楽で。飾りましたね


「私もねビデオでですけども後で芸能ニュースなんかで拝見していてねあなたも拝見したんですけども。こういう夫婦で一緒にできるというものもなかなかいいもんだなと思ってね。


≪いいですよねぇ。あの夫婦でそうやって音楽をやる方もいるし。夫婦でかたやアートで絵を描いて方や音楽家という感じもありますし。お互いが本を書いたり小説を書いたりする


「何か同じようなこう目的なもの持っていてそれで夫婦でいいなと思いますよね。


≪いいですよね。


「でも俳優同士が同じ舞台で一緒にやっているのはあれは大変ですよ。私やったことないから分かりませんけども。


≪例えば夫婦けんかしているのにえらい仲のいい役をやるときって役者さんってたいしたもんだなって


「そのへんは平気でできると思いますけどね。そんなことはまああなた役ですものなんだってできますよそれは。そう思うんですけど。役となると。


≪本当に!


「あれは役となると私どうしてかと言いますとね私ねメーンウエストという役をほんのついこないだ昨日ぐらいまでやっていたんですよ。なんだってアメリカのシンボルなんですけども。なんだって若いときから男の人を見ると本人は本当はどうかは分かりませんよ。でも世間的にはあしたはしないですぐに足を突っ込んでこすったりするようなことを平気でやっちゃうような人なんですよ。そんなの俳優さんて平気でできるんですよ。でもそれを離れるとその俳優さんとお話ししていて手がぶつかってもごめんなさいという感じですものね。だから役というのはすごいなと思いますね。


≪それはすごいですね。


「そう。どんなにキスをしたりなんかしてもこの人とキスをしたという感覚が絶対にないですからね。普段の時に。奥さんにごめんなさいとかそんなさぁ。私はよ


≪そうなの。


「だって私がしているんじゃないんだから。その役の人がしているんですから。


≪そうそうそう。ちょっとかなり前になりますけどもあの僕映画音楽をやったことがあってそれは高倉健さん主演で吉永小百合さんが相手役ですよ。海峡という映画なんですよ。その時に吉永小百合さんに初めてお会いすることがありまして。でちょっと話を聞いたらあのキスシーンとかあの好きじゃないとやっぱりできないですか?ねえとちょっと聞きましたら、これいっていいのかないやな人が1人いたと言っていましたね過去に。


「ああそう。


≪やっぱり嫌だったキスするのが。


「それは嫌だっていうのはあるかもしれませんね。いくら役柄でも。


≪でもやっちゃうの?


「それは役柄ですもの。だって私がやってるんじゃないんですから。私はそうよ。


≪でも私がやっているじゃない。


「でもそれは肉体がくっついても私がやっているんじゃない。その役の人がやっていて好きだって言っているわけですから。


≪じゃそのキスをしているときはあのタヌキのぬいぐるみをかぶったような私なの?


「(笑)イメージがちょっとタヌキのぬいぐるみ


≪タヌキじゃちょっと悪いけど。でもそれはすごいね。


「それはだってそういう人がやっているんですから。


≪だから逆に言うと私の友達の人から飲んだときに聞いたんだけども女優さんとまあ恋に落ちて抱いて大好きだと言われたけども本当なのかどうかと1回疑い出したら乗れなかったと。そのベットでうまくいかなかった。


「本当の恋人になった人なの?


≪うん


「そういうのは私もグチャグチャで私もわかりません(観客笑)それはわかんない。だって実生活でそうでもありそれで役でもそうでありという人の私ちょっと分からない。役の時はその人になっているから全然しゅう恥心とかなんせ私マリアカラスなんてやったときなんか凄い言葉連発よ。だけど普段の時なんかそんな言葉言えないもの絶対に。だけど役だったら平気で言えるっていうことがあるその人が言っているんですから私が言っているんじゃないんですから。マリアカラスが言っているんだからなんだっていちゃいますよ。彼女が言っていることはね。だけど本当に恋愛をしている人と役の中でまたそういうふうにしたときに本当の時に本当に自分を好きなのかどうかということに関しては私そこまではわからないわね。ちょっとそうなっちゃうとね。ああそういう方がいらしたの?


≪らしいですね。


「まぁとにかくお話しが進むのではございますが小室さんがおめでたいということからそこまで話がいくんですからすごいですよね私たちもね。


≪(笑)


「でもまぁお歌いになって33年ですって。


≪そうですね。あっと言う間にきましたね。


「でもアレですってねすごいあなたはいろんなことを武道館を初めておやりになった。それから6万人の人がお集まりになっているとこであなたおやりになったことがあるでしょう。どなたかと一緒に。


≪吉田拓郎さんと野外コンサートやりました。


「そうそうそうなのおやりになったでしょ。それから南こうせつサマーピクニックオールナイトコンサートというのもすごいのもおやりになって。


≪これは30代の時に10年間まあずっとオールナイトで夏の夜をやるんですけども朝が来るまで歌うんですけども。


「まあそれにしてもその6万人だ何人だってやってらっしゃるときにフッと初めのころはもっと小人数だったんだなって思う瞬間がちょっとあるんですって。その時じゃないかもしれないけども最近になってから


≪今でもそうですけどね。結果的に大勢の人がいようが1人の人と向かい合ってているわけですよね。聞く方からするとそのアーチストと一対一。だからその人を感動できなければ千人も一万人も無理だ


「本当にそうですよね。


≪だから時々こう自分が体力的に詰まってきたりとか何かスランプで今日が乗りが自分の中でうまくいかないな思う時に会場の中ですごい自分の好みの人をバッと見つけてその人に向かってラブソングを歌うとうまくいくときがありますね。


「そういうことがあるんですか。それは特別ですね。


≪特別ですかねぇ。


「だってあちらは明るいですかお客様のところは?


≪野外コンサートで。


「野外の時なんかはね。でもそういうことはあるかもしれませんね。精神というものはすごいものですよねそうやってみると。


≪そうですよね。だからホールの時でも前の方は何人かやっぱり舞台の明かりで見えますからね。そうやって歌うときもあるしあるいは本当照明に向かって先ほどの女優魂ではないですけども自分の中でストーリーに入って自分が1番理想とする相手をフワーとイメージしてそこに向かって歌っていくとときは割合声がうまく出たりとか抑揚がつけられてとかそういうのはありますけども。


「でも私今思い出したんですけども(笑)今を去ること30年ぐらい前ねの私がニュースショーの司会をしたときにあなたがお出になって皆さんこんなことがあるんですね笑ちゃうん。あれは笑ちゃうね。あなたがかぐや姫で生放送。もちろんニュースショーですからかぐや姫のときにあなたが。その時にちょうどでゲストで今すごく有名になっているんですけどもピエロファジョンニというオペラの演出家の人がいまして彼がまだ若いときにこの方ドミンゴと同期でまあすごい日本でこないだもドンキホーテというすごいオペラを演出したりしたんですけども。彼がたまたまゲストにいたのね。


≪そんな人がいたんですか。


「オペラの人はいたんですよ隣に。


≪知らなかった。


「そしたらあなたが何だかせき込んだの?


≪いや僕は歌のゲストで黒柳さんはもう生放送でじゃあかぐや姫です。まだ神田川の前。


「そうそう。


≪で僕は1人きりという田舎を愛する故郷を愛する歌を歌った。1コーラス目はうまく歌えました。2コーラス目になってふっと息をしたらゴミがここに入った(のどに入った)のどに。ゴホンと咳が出て最初の詩が1行でなかった。でその早く取り戻さないといけないと思ってさらにフンとしたらさらに詰まっちゃった。それで2コーラス目は全部咳のまま「ゴホン、ゴホン・・・」ジャーンコンコンコンで終わったことがある。


「そしたらその演出かがあの人はをプロの歌手か?と(笑)それをおかしかったですよねあの時ね。


≪やっぱりねぇ言われてしょうがないですよ(笑)


「のどに何かが入ったらしいと言ったらそれは気の毒だと言っていました。


≪あれはいまだにねぇ私のね思い出の中にいい思い出として今は整理されております。


「いい思い出に入ってますか?


≪もちろん


「それはよかった。


≪黒柳さんは私はやっぱり九州の田舎で青春多感なころに本当にあの夢で会いましょうを見てねそれでやっぱりすごい好きだったから(笑)


「ありがとうございます(笑)


≪あのころのポップスもものすごい影響を受けています


「夢でありましょうはいい音楽をね上を向いて歩こうをはじめ本当にいい曲がたくさん出ましたから。


≪それからカバーしている曲もすごくいいカバーであのころのコリンフランシスとかリックネルソンとかプレスリーの歌をじゃんじゃんカバーして日本語で歌っていたじゃないですか。だからそれが僕の中に


「ステージ101というのもやっていましたしね。司会もやっていましたミニスカート履いてい。いっぱいやっている時代だったからというのもあって。


≪ミニスカート履いていましたかね。


「あのとき履いていたんですよ私。


≪それ記憶はあったかなぁ。


「でもそれは見てなかったでしょうあまり。でもミニスカート履いてブーツを履いてみんなと一緒に


≪当時としては大変な流行で


「みんな女の子達ミニスカートでしたから。夢で会いましょうの時もミニスカートをはいたりしていたんですけどもそういうのも見てらしたんで私はかぐや姫。その後で神田川だったんですね。


≪そうそうそう。


「その瞬間前のその何かあの生放送の後の何かあの


≪すごかったね。


「ゴホンゴホンであのも他の人は音楽をやっているね一生懸命やっているんだけども


≪ずっとね


「ボーカルの方が


≪ボーカルがセキだけで


「小さい声で彼が聞くのよ彼は何なんだって?歌手なのか?。なにかのどに詰まったんだと思うと言っているんだけどもあのなんだかオペラの人と一緒の人だからね何なんだかわからないという感じでしたけども(笑)いい思い出になっているんだからいいじゃん。


≪いい思い出でございます。でも伴奏があって全部セキというのも今までなかったですよね。


「それはなかったですよね。


≪それを達成できたという喜びがありますよ。


「それもありますけども話は違うんですけども9ちゃんの坂本九ちゃんのヒットした曲ばっかりを集めた大きなコンサートをやったときにあなたは上を向いて歩こうをお歌いになって南こうせつさんの上を向いてい歩こういいってみんなで言っていたの。


≪あれは大プレッシャーでしたね。永さんがさあ歌う順番とか何を歌うとか何も知らないで九ちゃんの追悼コンサートですよね。


「中野のサンプラザ


≪そう。黒柳さんもいらっしゃった当時のですねぼくらにするとお歴々がウワーと出て歌うわけですよ。


「歌手の人もいっぱいいてね。九チャン以外全部いてね。


≪さっきも言ったように夢で会いましょうを見て育ったからその人たちを生で見られる。そしてパラパラパラとあいさつをしてあの一応台本をみたら最後に上を向いて歩こう。だれが歌うのかなと思って南こうせつ。エーとプレッシャーでした。


「本当にあの時にみんなで泣いてよかったって言ったの。どうしてかというとねあなたの歌い方が南こうせつさんらしいんだけども見たときが何か九ちゃんを彷彿させるようなものがあったのね。何か背丈とかいろんなものからいって。あの時に奥様の柏木さん(坂本さんの奥さん)お嬢さんたちもみんないらしていてみんなないちゃってねでもあの時よかったよかったって本当に南こうせつさんよかったって大変だった。


≪本当に九ちゃんも僕の青春のひとつだったんですね。今でもあのジャケット写真B面のあなたの名前はなんていうのというのも覚えているし。


「そうですよね。懐かしいですねちょっとコマーシャルはさんで懐かしいお話しばっかりなんですがまだお話しあります面白い話もありますのでちょっとコマーシャル。


≪はい


黒柳「今コマーシャルの間にうかがっていたんですけども坂本九ちゃんが祐雄ってあなた方の楽屋に訪ねていった。うんと若いときに


≪そうかぐや姫というグループをやって。まだ神田川が出る前ですよ。また売れる全然前。


「九ちゃんはすごい有名。


≪もう九ちゃんはトップですよ。日本の歌の。で九ちゃんがトコトコと楽屋にきて坂本九が来たということでみんなワッとスタッフが騒ぎ初めて。僕たちは学園祭で人気がありましたけどもねそして神田共立講堂の今でも覚えていますけども楽屋にカケイサークルのウイスキーを持ってすごくいいとかぐや姫いいグループだ。でこれからはね君たちのような歌がね世の中にきっと出ていくじゃないからといって


「うれしかったでしょう?


≪びっくりしましたよ。うれしいもの。本当ですか。で実は僕も大好きだったんですよと話をして。九ちゃんもすごい喜んで。でその後に神田川が出てきてそして2人でテレビ局は違いますけどもにミュージックフェアとかを一緒にやれたんですよね。


「そういうことがあって。そうだったんですか。


≪もうそのときは思いっきりカレンダガールとか僕が大好きだった。


「で九ちゃんそういう歌もいっぱい歌ったんだけどもロックも歌っていたしね音楽的にはいろいろ考えていた人だと思いますよ。やっぱりねぇ。ああいうヒット曲をたくさん持ちながらその間でも自分が昔歌っていた歌のこととかねようなことで音楽的に。


≪あの辺のね九ちゃんが好きだったのね僕。アラキンとその後初めて、あのころが大好きだったんですよね。


「本当にリズムのいい人でね。ああそうだったんですがそんなことが。


≪だからあのコンサートて初めて僕はパラキンとも出会った。


「そうかそうか夢であいましょうお歌いになったときに。上を向いて歩こう。


≪あの時の打ち上げで


「あの時にパラキンに初めて会ったの。


≪ダニーイイダさんともあいさつして。嬉しかったな。


「ところでちょっとコマーシャルをはさみましてお兄様が夢枕に立ったというお話しをちょっと。ちょっとコマーシャル





黒柳「南こうせつさんのお兄様が夢枕に立ったと。何お兄様がお亡くなりになった


≪あの私より4つ上の兄がですね46歳で亡くなったんですけども。僕はすごくしたって仲良くしてもらった兄だったです。もうひとり上に長男がいるんですけども。で1番仲よかった近かった兄なんですけどもまあ病気で亡くなってね。でしばらくして夢の中に出てきてすごいリアルに出てきて。で僕もおお久しぶりという感じでね。それで話をしていてねでうちはお寺なんですよ。曹洞宗のね。それで兄も得度していましたから。お坊さんになっているシーンなんですよ。うちのお寺の本堂で檀家の人たちを集めてまあなくなった檀家の人たちを集めて説教していたんですねお経を読んでる。そのシーンにぼくはパっと入ってきたわけ。あにがコウヨウさんというんですけども兄がこっちを向いて「おお!こうせつ」で何をしているの?とかの話で僕も何をしているのという話で。でわかるようと何を言いたいのか分かるよというから「どうして?」と聞くとヒット曲が欲しいんじゃないというんですよ(笑)。そうなんだよねぇ神田川から売れてないのよねという話をして。


「それは神田川の後ね。


≪そうあとだからね。顔を見たらわかる。それで聞きたいんだけどもどうしたらヒット曲って僕の場合でると思うともう1曲と聞いたら、「それはねぇ」と言ったんですよこれはラッキーじゃない。半分霊と会っているというのは分かっているのよ。夢なんだけども死んだ兄と会っている。その兄が「それはねぇ・・・」緊張してもう夢の中のような気もするしここは聞き逃さないそしたらいうんですよいってパッと言おうとしたらね音声だけちゃってでも口だけは動いているの。


「あら


≪いっているんだけども口が。聞こえないというところで目が覚めるんですけども。きっとそういうことは霊界の人は教えちゃだめなのね。


「なるほどね。


≪狂ってしまうから。


「そこで音声をきっちゃうのね。


≪切られてしまう。丹波さんがきちゃった。


「丹波さんが切ったのね(笑)


≪それはやっぱり教えちゃいけないんだね。それで教えられると狂ってしまうんですね。


「やっぱりそれは教えて貰えなくてよかったと


≪この肉体界の世界の中ではねぇ。それはもう自分で苦労しながら地にはって生きるのもそれは必要としてされていることであってそれはあのいっぱい汗かきなさいということなのねきっと。


「というふうにだんだん分かってきた。お兄様がそれに考えて下さっているということがうれしかった。


≪すごくうれしかったですね。


「でも歌手にとってはヒット曲がないというのは辛いですかね。


≪そうですね。


「今はそうでもないかもしれないですけども。


≪もうそのころまで。でも今でもねそれはヒット曲があればそれに越したことはないけどもでも考えてみると僕の場合すごいラッキーで神田川という歌があったり夢一夜


「妹


≪妹があって、それ以上言うといろいろ言うと罰があたりますよね。


「でもあなたは本当に団塊の世代というんですか。


≪そうです。僕らは1番多いんです人口構成が。戦後のベビーブームで生まれてきましたから


「そうですってね。団塊の世代の方たちいいこともあったかもしれないけどもとっても大変なことも今あって


≪大変ですね。あの現実はすごい大変です。


「何か自殺をなさっている方がものすごい数が多いんですけども簡単に言っちゃうと1日約100人近い方が自殺をしてらっしゃるのはちょうど団塊の世代の方たちなんですってね。日本で。


≪100人


「うん100人近く。もっと細かく言うともっとあるんですけども


≪あのねぇこの経済不況じゃないですかここ数年で。それであのリストラとかねそれからまあ倒産とかねしかもちょうどまだもうちょっと子供にお金がいるんですよ。


「ああそうなの。


≪ちょっと。60まで行くと完璧ですよ。もうみんな結婚してねそれぞれが独立するんですけどもわれわれのころはまだもうちょっとだけお金がいる。


「あなたも小さいのね1番下の子供がやけに。


≪うち?


「あなたの家は


≪うちの場合はね。よく調べていますね。


「同じ奥様なのに他の子はすごく大きいのに、同じ奥様なのに1番下の子なんか9つかなんかなんだって。


≪8つかな。


「8つ


≪44の時にねぇポコッとできちゃった。


「上の子は24歳とかそんなに大きい


≪27かな。


「27!


≪1番上がねぇ。で1番下が小学生。


「27もいてもう1人もいる


≪23


「それでいきなり8歳


≪8歳で


「だから大変よね。


≪奥さんも変えたわけじゃなくて


「同じ奥様なのにね


≪そこは確認しておかないと


「同じ奥様などに


≪(笑)


「そういうことがまあお金が子供にかかる年代。まああなたの家は特別としてもね、よその家の人たちも団塊の世代の人たちは大変。


≪大変ですよ。


「人数が多いから頑張らないとでいけないというでものもあって。


≪やっぱり僕らのころはそのなんというか頑張ってね先行き車が持てるだやれなにが持てる家が持てるということで頑張ってきたんですよね。ところがたどり着いてみるとそうでもなかったと。結局借金が残ってしまったみたいな。


「ガラガラ音を立ててという感じですよね。


≪そうなんですね。


「でもがんばっていただかないとね。


≪やっぱりねぇ健康が1番でね。


「そうね。


≪それと小さいころ僕らの世代みなそうですけども親にねてギター買ってくれと言ったらそんなものを買えるかと高かったしねグローブを買ってもらえないボールも買ってもらえない。であの自転車も買ってもらえない子供のころ。それでもあのみんなガキんちょが集まって原っぱでね布のボールでね野球をしたんですよね。


黒柳「さて渋谷公会堂という非常に懐かしいところでコンサート。


≪はい。12月の20日21日金曜日土曜日ですねコンサートをやります。


「ああ旅の宿。というですね。


≪ええ今年新しい歌を出しましてねああ旅の宿というね。温泉に行っていやそうという歌なんですけども。それがタイトルになっています。


「ををそうですか。でもまあこういうお元気な方はお話しもお上手な方だから12月の20日21日とまあ日比谷公会堂に行って元気を出そうかいう団塊のお父さんたちもいってもいいんじゃないですかね


≪お父さん方もそうですよ。


「同じ年なんだから。もう憂うつになってお酒なんか飲んだくれていないで(笑)飲んでいないかもしれないけどもよくTVとかで飲んだくれたお父さんがいるじゃない。「いやあ俺たち団塊の世代だ」どうもいろいろありがとうございました。


≪ありがとうございましたどうも


「またね