| 孔融篇5 |
ちょっと見方を変えて孔融に関する事を時系列にしてみます。 この年数は憶測も含まれています。 179年 司徒楊賜に召される 184年 侍御史。その後司空の属官北軍中郎将 | 河南尹何進が大将軍に栄転の時、孔融去る 189年 董卓の機嫌を損ね議郎へ 190年 董卓、孔融を北海相に推挙 鄭玄、彭キュウ、ヘイ原を推薦 〜193年 王修を主簿に任命 太史慈が孔融の元へ救援、太史慈、劉備の元へ応援要請 鄭玄の孫を孝廉に推挙。 193年前後 陳登が孔融の事を尊敬する人物の一人に上げる 194年 孔融が陳羣に会う 孔融が劉備に徐州を治めるよう薦める 孫邵を功曹へ 196年 袁譚が孔融を攻撃 将作大匠から少府へ 王朗へ手紙を送る 禰衡を推薦 197~199年 馬日テイを告訴 198年 孔融と荀ケが肉刑を反対 対袁紹に臨んで荀ケに言い負かされる 200年 献帝の子が死、孔融が奏上する 204年 ギョウ城陥落に当たり、曹操を皮肉る 盛憲を救うために孔融が曹操に手紙を送る 204~206年 禁酒令をからかう 204~208年 千里四方を畿内とするようにと奏上 チ慮、孔融を弾劾 曹操が孔融にチ慮との不仲を直すよう手紙を送る。すぐ返書。 孔融、太中大夫として復活 路粋が孔融を弾劾 孔融56歳で斬罪 個々の面子に関する話をすると長いので大まかにいきます。 ざっと見た感じ如何でしょうか? まず気付くのが孔融の対人材関連です。 曹操の下に来る前まではいろいろ引っ張ったり、有名にしたりと努めています。 しかし対袁譚戦あたりになるとぱったりやみます 献帝のそばに参じた時には北海の時とやってることが違うのがお分かり頂けることでしょう。 言動もだいぶ違います。 ほとんどと言って良いほど推挙の働きが残っていません。 良いように解釈すれば職務に忠実。 地方に出ては安んじられる人を見出し、帝のそばでは諮問に応じる。 怠慢な所はないとは言えませんが、まずまず与えられた範囲内で動いています。 普通に仕事をこなしていると言えるのではないのでしょうか。 及第点を与えても良いでしょう。 ではなぜ北海を追われる身になったのか? 平時の応対しか出来ない、もしくは知らないのでは? 今回袁譚や賊に敗れたのはしょうがいない。 このあたりは大目に見ましょう。(←なに様ダァァァ) もともと武勇に長けているわけではないですし、それを売りにしているわけでもない。 そこだけを責めるのは酷というものでしょう。 談笑していたのは頂けませんが。。。鄭玄のまねでもしてたのでしょうか。 それなら笑い者!? まぁ、戦争に関することはこの辺でよしとしましょう。 しかし中央に着てから推挙がさっぱり止むのは如何でしょう? 考えられることをみていきます。 まずは第一にヌーディスト禰衡の件。 多分献帝の元に着てから最初に(少なく見積もっても早期に)推挙した人物に当たるでしょう。 しかしこれはものの見事に失敗。(禰衡篇を参照) このことから孔融の推挙する力が薄まり人材推挙をできなくなった。 もしくは孔融に推挙する意思がなくなった。(面子を潰されたと受け取って) 第二に推挙を続けたが有名な人がおらず足跡が残らなかった。 面子を立てたが充分に名を残こす働きをしている人がいないともとれます。 ではどこからそう推測できるのか? それは孔融が追放された時のことです。 弾劾後にも関わらず、孔融の自宅の前は門前市をなすありさまとあるからです。 まるで呂不韋! 地位を失っても孔融を頼る人が絶えなかった証明です。 またはお世話になった人が不遇の孔融に今までの恩返しをしようと集まったともみられます。(詳細は一部例を参照ください) 他人がそんなことをするのは孔融が復活した時に見返りが期待できそうだからです。 実際名誉回復の可能性は大ですから人は寄ってくるでしょうね。 第三に推挙の方法が変化してしまい孔融のパターンが通じなくなった。 これは孔融だけで見てるより、曹操や荀ケと比べると移り変わりが分かります。 悲しいことですが、彼らの方が一枚上手! 孔融が曹操の下に来た時にはもう勝負の行方は決していましたから。 それ以前に人材の置かれている状況が著しく変化してます。 おそらく孔融はそれを読み取れなかったか、あくまでも自分のやり方にこだわっり続けた結果、変化に対応できなかったのでしょう。 以上の三点は大まかに見た話です。 それも面子に関してのみ。 全体でも絶対でもないのでご注意を! 最後に、曹操と孔融の軋轢はどこにあるのでしょうか? どこから生じたのでしょうか? 残念ながら逐一は不明です。 ちょっと強引かもしれませんが面子の効用と範囲で話を探っていきます。 そうすれば多少は筋道が見えるかもしれません。 ちなみに出だしの楊賜は弘農の人です。 続き |
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