「    」ed,
a.honma

〜2〜

結局、佐渡汽船運輸の近くの駐車場で一晩寝泊りをした僕らは、 明けた次の日のフェリーで悠々と佐渡へ渡った。駐車場には、 「車庫代わりの駐車ご遠慮願います」の文字が躍っていたが、 僕はあえて見て見ぬふりを押し通した。
一晩ぐっすりと眠った美穂は船内で随分とはしゃいでいたような気がしたが、 昨日レム睡眠を繰り返し、あまり眠れていなかった僕は、さっさと二等室の一角を陣取ると、 溶ける様に眠った。結局佐度の大地を踏みしめたのは、日も高く登りきった頃だった。
「すごいねぇ、ハトが船の周りにぴったりくっついてた」
まるで子供のようにはしゃいで興奮冷めやらぬ様子の美穂は、車の中でもなお、 その興奮を引きずっている。
船の回り飛んでいたのはハトかどうかには疑問が残るものの、 佐渡を早くも気に入ってくれた様子の美穂を見て、僕もまんざらではない気分だ。 やっぱり連れて来て良かったな、と思う。
ちょうど、僕たちは港のある両津を通過して、金井町に差し掛かる所を僕たちは走っていた。 この街も越えて、真野という町に入ると、そこに僕の家がある。少し前に、 拉致被害者が帰ってきたと一時的に知名度の高くなった町だ。 随分長いこと乗り物に乗りっぱなしだが、それももう少しで開放されると思うと、 少し気が楽になった。
これまでの高速道路の無機質な景色とは違い、田舎らしい緑に覆われた景色が僕を癒してくれる。 佐渡に住んでいるときには気づかなかったけど、僕が生まれたときから吸い続けている、 木々の匂い。
僕は毎年、この匂いに誘われてこの島に戻ってきているんじゃないだろうか、 と思うときが時々ある。どんなに環境問題が深刻化していようとも、町が近代化して行こうとも、 僕にとっては昔のまま、同じ姿で出迎えてくれる。それが僕を懐かしく昔を 懐古させてくれているんだろう。
「ねぇ、あとどれくらいで貴方の家に着くの?」
思いを彼方に馳せていた僕は、美穂の声ではっとなった。 どうやら僕は随分と彼女を放り出しておいていたらしい。
「そうだなぁ、あと三十分くらいで着くと思うけど」
「なんかここまで来たら逆に落ち着いてきたよ。肝が据わる、って言うのかな」
「かもね」
「それにしても、ここってどこから見ても絶対に山が見えるんだね。東京とは大違い」
ころころと話題が変わるのは、美穂もテンションが上がっているんだろうか。 普段は、どちらかと言えば落ち着いて見える彼女も、佐渡へついてからははしゃぎっぱなしだ。 全開になっている窓から首を出すと、風をいっぱいに浴びている。こんなこと、 東京じゃ絶対にする人じゃなかった。
「ねぇ」
しばらく外の景色を目で追いかけていた美穂は、首を引っ込ませて僕を見た。心なしか、 声のトーンが落ちた気がした。僕は、ん、と相槌を打って彼女の次の言葉を待つ。
「これから行く貴方の家には、貴方の昔の部屋なんかも、あったりするんだよね」
文節ごとに言葉を区切りながら、美穂は言った。そりゃそうだよ、 と返しながら僕はブレーキを踏む。赤信号に引っかかってしまった。
「やっぱり、そうだよね」
「……どうしてさ?」
「うん、ちょっとね」
そう言いながらかぶりを振る。止まった車内に小うるさい蝉の声が流れ込んで、 僕は時間が止まったのではないかと言う錯覚に陥った。
「そこには、私が知らなかった頃の、貴方が居たっていう証があるんだよね」
「貴方が学生だった頃の、貴方が生きて。生活していた証があるんだよね」
「……どういう意味?」
美穂が何を言いたいのかさったぱり分からない。
「だからさ、私と出会う前の、貴方がいた証が、そこにはあるの」
「部屋だけじゃなくて、例えばリビングにしろどこにしろ」
「そういうの見ちゃうと、少し寂しい気がするなぁ、って」
後ろの車がクラクションを鳴らすのを聞いた僕は、慌てて車を発進させる。 それでも意識は美穂の言葉に捕らわれているままだ。
「本当はね」
僕と視線を合わせようとはせずに、どこか遠くをみている。
「そういうの見るのが嫌で、ついてきたくなかった、っていう部分もあったの」
「……そっか」
そうとしか言う言葉が他に見つからなかった。そんな事考えているなんて、 僕はちっとも思ってもいなかった。
東京へ上京して、彼女と出会い、そして恋をした。
思えば、僕も美穂のことは全然知らない。昔のアルバムをいつだったか見せてもらったとき、 制服姿の彼女には凄く違和感を覚えていた。その時は、そんなこと全く意識していなかったけど。
「なんていうか、知りたいのに、本当は凄く知りたいのに、どこか知らずにそのままに しておきたい自分もいるっていうか。ごめん、意味わかんないよね」
「いや、少し分かるよ……」
国道350号線を走らせながら、僕は少しだけ、昔のことを思い出していた。
僕が初めて本気で恋をした、初恋の女性のことを。
夢は絶対に叶うと、叶えられると信じて突っ走っていた幼い頃の僕のことを。
「私は、まだスーツ姿の貴方しか知らない」
そう呟く美穂の声が、少しと遠くく感じられた。
ふと僕は、彼女のことをどれだけ知っているんだろうか、と思った。それとも、 知っている気になって、自己満足に浸っているだけなのだろうか、とも思った。
「なんてね。少しカッコつけすぎたかな。ちょっと恥ずい。反省!」
場の空気を察したのか、急におどけて場を取り繕ってくれる彼女。
なんだよそれ、なんて笑いながら僕はそれに合わせた。

なんだよ、肝が据わったんじゃなかったのか。
無事に実家に着いた僕は、隣で強引に狸寝入りを押し通す美穂に愛想をつかして、一人車を降りた。
実家の庭は非常に狭く、僕の車と義兄さんの車を入れてしまえば、もうろくなスペースも ないぐらいだ。
僕らの気配を察したのか、一足先に帰ってきていた姉さんと母が出迎えてくれた。
「お、きたきた」
と、手ぬぐいで額の汗を拭きながらにこやかに笑う母。もう六十をとうに超えているのに、 一人農業を切り盛りしている。そんなに規模の大きいものではないので、日々の生活は やはり年金に頼っている部分が大きい。
「……ただいま」
何故かすんなりと帰宅の言葉が出ない。なんて言うか、そういうものかとも思ったけど。
「なんだ随分と遅かったなぁ。今朝にはもうついてる頃だと思ったのに」
エプロンをかけたまま、姉さんは温かく迎えてくれる。お互いに折り合いがつかなくて、 二年近くも連絡を取り合っていなかった。久しぶりに会う姉さんの顔は、僕が最後に見た ときと全然変わっていない。
「ごめん、ちょっと色々あったんだ」
昨日一晩の失態を、僕は「ちょっと」で全て端折った。
「あんな夜分遅くに電話してくるもんだから、なんかあったのかと思ったぇ」
「ごめんごめん」
「まぁなんにせよ無事に着いて良かった良かった」
そう言うと、母はもう一度「良かった良かった」と繰り返して、家の隣にたっている 納屋の中へ消えていった。
腰もすっかり曲がり、必要以上に小さく見えるその背中を見送る。姉さんは、 「お母さんもだいぶ年取ったわよねぇ」と言いながら母を見ていた。 僕と同じ事を考えていたのだろうか。そう思いはしたけど、あえて口に出しはしなかった。 僕が口に出してしまえば、年月の重みが、一気に圧し掛かってくる。そんな気がした。
「そういえば、何ていったっけ。あんたと同棲しているとか言う娘は?」
不意に思い出したように、姉さんは突然僕を見た。話題の転換には丁度良かったのだろう。 僕は一応美穂を立てて、なんか疲れて寝ちゃった、とだけ答えたが、 「どうせなら家の中で休んでもらいなさい」と姉さんは言った。それから、 姉さんは意地悪くニヤニヤ笑いながら、
「それにしても、ついこの間まで鼻垂れ小僧だったお前もやるようになったわねぇ。 同棲なんてねぇ」
と言った。
「うるっさいな。いつまでも子ども扱いしないでくれよ」
「冗談よ。でも本当に車内で寝てたら熱中症にでもなるから」
分かったよ、と言うと、姉さんも家の中へと引っ込んでいく。
僕は家の中に入って言った姉さんに、義兄さんは?と聞いた。
「直樹と一緒に釣り道具買いに行ったわ。明日から毎朝早起きするんだってー」
大きい声で答える姉さん。それを聞いた僕は、とりあえず美穂を起こすべく車へと 引き返していった。

ほどなくして、義兄さんと直樹が帰ってきた。
いい加減車から美穂を引きずり降ろした僕は、事故で亡くなった父に手を合わせた。 美穂は僕の後ろ姿を見て何か言うかと思ったが、ただただ僕を見ているだけで、 口を開くことはしなかった。彼女なりに気を使ってくれているのが、少し分かった。
その後、姉さんから小座敷へと通されると、小休憩を挟んですぐに表へ出た。 美穂は佐渡がいたく気に入ったらしく、僕がこの近辺を案内する事になったのだ。 久しぶりといっても、毎年帰ってきている僕の実家だ。地理のほうは全く心配なかった。
「車で少し走れば海があるから、そっちのほうに行ってみない?」
と僕は誘ったが、美穂は「このへんを見て歩きたいだけ」と言って、それをやんわりと断った。
軽く儀兄さんに挨拶を済ませた僕らは、さっそく明日へ向けて竿をあーだこーだと いじりまわしている義兄さんと直樹を置いて家を出た。
「どのへんを行こうかな」
けたたましく鳴いている蝉の声をBGMに、あても無く歩を進める。
そんなに田舎が珍しいのか、美穂はうっそうと茂る木々を眺めながら、僕の隣を歩いていた。
「安心したよ」
ポツリと呟いた美穂の声を、僕は危うく聞き逃しそうになった。
「え?」
「貴方の家族のこと。なんていうか、アットホームっていうの?会う前は緊張したけど、 その、良い人ばっかで安心した」
家族のことを褒められて嬉しくないことは無い。僕は照れ隠しにそっか、 とだけ言うと、美穂は含み笑いをこぼした。
「良い人だけど、ちょっと抜けてるところあるよね。同棲者連れてきてるのに、 まるで会社の知人でも遊びに来たみたいな感覚なんだから」
「それはちょっとあるかもしれないなぁ」
と、僕が言うと、今度はあははと美穂は笑った。色で例えるなら、まさしく白い声。 と、その声に、僕は軽い既視感を覚えた。僕は前にも一度だけ「白い声」 と聞いたことがある。いや、聞いたことがある気がした。
それは何処で、いつの日の事だっただろうか。
「うわ……」
僕の思考は美穂の感嘆の声で止まった。見れば、細長い裏路地のような田舎道を通って、 田んぼが連なる開けた道へと出ていた。夏の太陽はまだまだ高い位置に顕在しており、 汗の染み出る暑さには変わりない。それでも、どこから吹くぬるい風が僕たちをすりぬけていく。 名も無い小さい川にかかる小さい橋の手すりに手をかけながら、美穂は風を真正面から受けるように 立った。肩ほどまで伸びている髪が揺らされ、なびいた。おだてようにも爽やかとは言えない 夏の風は、それでも彼女の香りを僕の鼻腔までしっかりと届けてくれた。
橋はちょうど、ゆるやかな斜面を登りきったところにあった。そのお陰で、 僕も美穂も自然と坂下に広がる田を見下ろす形になっている。僕が高校時代に、 幾度となく通ったこの道。
「見晴らしがいいね」
と、美穂は言った。昔から通いなれた身としては今さら何とも思わないのが本音で、 僕は「そうかな」とも「そうだね」とも言わなかった。僕は美穂の風下に立つと、 ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。
「昔っからね」
肺に溜めた煙をゆっくりと吐き出した。
「オレはここにチャリ停めて、一服してから学校に通ってた」
「今と全然変わらないじゃない。不良学生」
そういいながら口を尖らせる美穂。体に悪いんだから禁煙をしろ、と何回言われたことか。
「皆今頃何してるのかなぁ」
美穂は「さぁねぇ……」と言って僕から煙草を取り上げる。
「なにすんの」
「いいじゃない、たまには私にも吸わせてよ」
僕の知る限りでは美穂が煙草を吸っている(なんて知らない。僕の吸っている銘柄は、 初めての人にはかなりキツいタイプのもので、吸ったらムせる。そう思った。
案の定、加減を知らずに大きく吸い込んだ美穂は大きな声を出してむせた。 だから言ったじゃん、と言って僕が取り返そうとすると、彼女は素早く手を翻してそれを拒んだ。
「私も、短いけど吸ってた事あるの」
と言って今度は素直に煙を体内に取り入れる。それはどことなくぎこちなく、 そして似合わなかった。
「周りから似合わないって言われて、止めた。煙草を持ってる私は、私じゃなくなるんだって」
「それでも少しの間は皆に分からないようなところで吸ってたんだけどね。 だんだんそういうのおっくうになっちゃって、自然と買わなくなったな」
それは初耳だ。とてもそんな風には見えなかった。満足そうに煙を吸ったり吐いたりを 繰り返す彼女は酷く滑稽に思えた。そして、そんな小さなことですら知らなかったことに 軽い虚無感を覚えた。
まただ。また僕は彼女の知らない一面を見せられた。それは嬉しくもあるけど、 同時に悲しいような、複雑な気持ちになる。
「なんていうか、知りたいのに、本当は凄く知りたいのに、 どこか知らずにそのままにしておきたい自分もいるっていうか」
不意に美穂の言葉が浮かんでは消えた。その通りだな、と思う。 でもそれがいけないことなのか、良いことなのか。今は到底判断がつかなかった。
「この先には何があるの?」
彼女は僕の葛藤など気づいているはずもない。あっけらかんとして吸殻を踏んで消すと 軽く頭を振った。
気持ちを切り替えた僕は、
「あの向こうは何もない。ただ道路と田んぼがあるだけ」と簡潔に答えた。
「ふーん」
「あっちの方に行けば神社とかあるけど、どうする?他にはもう見るもんないよ」
「じゃぁ、行ってみよう?」
そう言うと僕らは、また歩いて来た道を引き返していく。

そして、美穂の話す他愛の話を聞きながら。僕はふと、彼女にも僕の『昔話』を聞いて もらいたくなった。
共有できなかった過去を、埋めてみたくなった。
それは、長らく僕が避けて、封印してきた事であった。


前を読む ■ 戻る ■ 続きを読む>