竹島問題とは何か

竹島 朝鮮日報竹島(韓国名は独島 トクト)の領有権問題にケリをつけましょう。

(写真は朝鮮日報)

 

日本海に浮かぶこの2つの無人島が、正式に日本領になったのが1905年の2月22日。その100周年を記念して、島根県議会が「竹島の日」を制定したことに対し、韓国で反日運動が盛り上がっています。

 

いまでは、ネットを通じて韓国の新聞を日本語で読めるようになりました。日本では小さな扱いのこのニュースが、韓国ではどういうふうに報道されているかがよくわかります。

 

朝鮮日報 http://japanese.chosun.com/

東亜日報 http://japanese.donga.com/

中央日報 http://japanese.joins.com/

 

ソウルの日本大使館前で抗議デモが続き、日の丸が焼かれ、日本人の乗車を拒否するタクシーが現れました。

「日本の要求はけしからん!」

「妄言(もうげん)だ!」

「日本との文化交流を中止しろ!」

「日本との姉妹都市も解消する!」

『冬ソナ』ブームと「日韓友好の年」で、日本人の対韓感情がとても良くなっていたのに、ぶちこわしにする気のようです。

 

日本はいま3か所の領土紛争を抱えています。

1.ロシアとの北方領土問題…ロシアが実効支配(占領)

2.中国との尖閣諸島(中国名は釣魚島 ちょうぎょとう)問題…日本が実効支配

3.韓国との竹島(韓国名は独島)問題…韓国が実効支配

 

中国は日本に「釣魚島を返せ!」と要求しています。これに対して日本人は、「中国の要求はけしからん!」「妄言(もうげん)だ!」「中国との文化交流を中止しろ!」「中国との姉妹都市も解消する!」と騒ぎたてたり、東京の中国大使館前でデモをしたり、中国国旗を焼くというような愚かなことはしません。「お互いに考え方が違うから、話し合おう」というだけです。

 

日本はロシアに「北方領土を返せ!」と要求しています。これに対してロシア人が、モスクワの日本大使館前でデモをしたり、日の丸を焼くというようなことはありません。「お互いに考え方が違うから、話し合おう」というだけです。

 

もし、「海上自衛隊が竹島に上陸した」とか、「日本の国会が韓国への経済制裁を決議した」というならデモをするのも理解できますが、今回の騒ぎの発端は、島根県議会が「竹島の日」を制定した、という、ただそれだけなのです。「加害者」が、返還を求める「被害者」に対して、威丈高(いたけだか)に「妄言だ!」、「謝罪しろ!」と叫ぶ。むしろ、デモをするべきなのは日本人のほうではないのか。この倒錯した、奇妙な光景は、どこかで見たことがあるなぁ…と思っていたら、北朝鮮による日本人拉致問題と同じだと気づきました。

 

竹島(独島)周辺は、豊かな漁場だというだけで、島根県の漁民にとっては重要ですが、ほとんどの日本人には関心がありません。海底ガス田が眠る尖閣諸島とは重みが違います。韓国側の主張が理の通ったものであれば、日本は竹島領有権の放棄も考えていいと私は考えます。こんな無人島のために、隣国同士で争うのはばかばかしい。

 

それでは、場所を確認します。

(地図は http://www.pref.shimane.jp/section/takesima/top.html を一部修正)

竹島地図

 

独島(竹島)は、6世紀以来、韓国固有の領土である。これを1905年に日本が強奪したのだ」と韓国側はいいます。その根拠になっているのが、朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』の中の「新羅本紀」、西暦512年の記事です。ここに、于山(うざん)国が新羅に服属したという記事があります。

「于山国、溟州(めいしゅう)の正真(真東)にある海島、あるいは名を欝陵島(うつりょうとう)」

欝陵島の住民が新羅に服属したという記事です。竹島(独島)ではありません。

 

ところがこの「于山」が、実は2つの島からなっているという記事もあります。李氏朝鮮の公式記録である『李朝実録』の中の「世宗実録・地理志」(1432)の記事。

「于山・武陵二島、(江原道襄陽)県の正東海中に在り、二島相去ること遠からず、風日清明なれば則ち望み見るべし」

 

「2つの島が隣接していて、天気がよければ江原道から見ることができる」と書いてあります。実際、江原道から欝陵島は見えるようですが、竹島(独島)は見えません。では、もう一つの島とは?

 

地図をよく見ると、欝陵島の北東に小島があります。韓国ではこの島を竹嶼(チュクト)と呼び(ああ、まぎらわしい…)、17世紀に日本側に捕えられた安龍福(後述)が、「鬱陵島の北東に当たり大きなる島これ有り、…于山島と申し候」と証言していることから、「于山・武陵二島」とは「欝陵島とその東北の小島」という意味だと断定できます。

 

15世紀の日本海では倭寇が活動しており、また逃亡者が欝陵島に逃げ込むことも多く、この島が倭寇の拠点になることを恐れた朝鮮政府は、欝陵島に居住することを禁じ、軍隊を送って住民を捕えています。

 

要するに、中世までの段階では、欝陵島は明白に朝鮮領ですが、竹島(独島)が朝鮮領か、日本領かを断定する証拠はありません

 

050320更新)

 

その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱という)を経て、17世紀の江戸時代になると日本側に竹島(独島)の記録がたくさん出てきます。

 

出雲(いずも)松江藩(鳥取県)の隠岐(おき)郡代という役人を務めた斎藤豊前(ぶぜん)という役人の書いた調査報告書『隠州視聴合記・国代記』(1667)

「隠州(いんしゅう)は北海中にあり、隠岐の国という。これより南、雲州(出雲)美保関に至るに35里」

戌亥の間(北西)に、ニ日一夜行けば、松島あり。また一日ほどで、竹島あり。俗にいう磯竹島、竹・魚・海鹿多く、按ずるに神書にいう五十猛(注1)か」

 

(注1)五十猛…イソタケル。日本神話で、スサノオの息子。樹木の神。父とともに高天原(たかまがはら=天上界)を追放され、新羅を経て日本にやってきた。

 

この報告書を地図にあてはめると、こうなります。

竹島地図(国代記)

 

また、話がややこしくなってきた…

当時、日本では欝陵島を「竹島(磯竹島)」、竹島(独島)を「松島」とよんでいたのです。「松島」が「竹島」になるのは明治以降。韓国側がこれを独島と呼ぶのは、1906年以降です。史料を読むとき、それがどの島のことなのか、はっきりさせなければなりません。江戸時代の文献で「竹島」と出てくれば、欝陵島のことなのです。『国代記』には、続けてこうあります。

 

「このニ島、無人の地、高麗を見ること、雲州(出雲)より隠州(隠岐)を望むがごとし。しからばすなわち、日本の乾(いぬい=北西)の地、この州をもって限りとなす」

磯竹島・松島は無人島で、ここから朝鮮がみえる。まるで出雲から隠岐がみえるように。だから、日本の北西の限界はこの州までである。

 

文脈からいって、「この州」とは、無人島である磯竹島(欝陵島)のことでしょう。しかし、韓国側は「『この州』とは隠岐のことである」、「だから欝陵島も竹島(独島)も日本領ではない」と主張しています。「だから韓国領だ」という議論になるのはおかしいのですが、水掛け論になるので、この論争は放っておきましょう。

 

次は、17世紀の日本政府(江戸幕府)が、欝陵島を実効支配していたという証拠です。

 

1617年、米子(よなご)で廻船(かいせん)業(船を使った運送業)を営む大谷甚吉が日本海で遭難し、無人島だった竹島(欝陵島)に漂着します。帰国した大谷は、仲間の村川市兵衛とともに幕府に願い出たところ、翌1618年、幕府は大谷・村川両家に対して、「竹島(欝陵島)渡海免許」を与えました。毎年春4月になると船2隻、乗員50名で隠岐を出航、途中で松島(現竹島)に立ち寄り、竹島(欝陵島)に到着。夏まで、魚・あわび・アシカの漁をして8月に帰港しました。

 

朝鮮を侵略したのが豊臣秀吉、その豊臣家を裏切り、朝鮮から撤兵したのが徳川家康ですから、李氏朝鮮と徳川家(江戸幕府)との関係は良好でした。日朝外交は対馬(つしま)藩を通じて継続していました。にもかかわらず、この問題について、朝鮮側からは一切、抗議も問い合わせもしていません。つまり、17世紀の朝鮮は、欝陵島領有権まで放棄していたわけです。

 

17世紀、欝陵島も竹島(独島)も、江戸幕府の実効支配下にあったのです。

この状態は、1618年から約80年間続きます。

 

鳥取藩が大谷・村川両家から聞き取り調査して作成した地図(1724)です。

『松島竹島之図』 http://toron.pepper.jp/jp/take/jpn/tizujlist.html

 

竹島松島之図(鳥取藩『竹嶋考』)

 

松島(現竹島)が、細長い2つの島からなっていることまで描かれています。

朝鮮側には当時、これほど詳細な地図はありません。実効支配していなかったからです。

 

050322更新)


竹島(独島)問題の続きです。

この問題も、徹底的にやります。うやむやにはしません。

 

これまでに明らかになったことを確認しておきます。

@西暦512年に「于山(うざん)国」=欝陵(うつりょう)島が新羅に服属し、以後、李氏朝鮮に至るまで朝鮮領だったが、朝鮮政府は倭寇対策から欝陵島渡航を禁じていたこと。

Aこの間、竹島(独島)に関する記録は存在しないこと。

B1618年以降80年間、欝陵島(磯竹島)は江戸幕府が実効支配し、鳥取の大谷・村川家がアシカ漁をしていたこと。それについて朝鮮政府はまったく無関心だったこと。

C松島(現竹島)は、欝陵島へ渡る途中の寄港地として同じく江戸幕府が実効支配していたこと。

 

「6世紀以来、1905年に日本に強奪されるまで、独島はずっと韓国固有の領土だった」

という韓国側の主張は、「于山国」=竹島(独島)という誤解もしくは意図的な歪曲(わいきょく)を前提とし、1618年以降の日本の欝陵島・竹島(独島)実効支配の歴史をもみ消したうえで成立しています。韓国は国定教科書で国民にこの「うそ」を教えていますから、歴史歪曲をしているのは韓国のほうです。でもお上品な日本政府は、韓国政府に対して「教科書を書き換えろ!」だの、「謝罪せよ!」だの声を荒げることはありません。

 

それでは、韓国側が竹島(独島)の存在を認識し、これを自国の領土だと主張し始めるのはいつなのか?

 

それが、1690年代に起こった安龍福事件です。この事件をきっかけに朝鮮側は、

「欝陵島(磯竹島)は、朝鮮領だ!」

「松島(現竹島)も、朝鮮領だ!」

と主張するようになります。つまりこの安龍福事件が、竹島(独島)問題の始まりになるのです。

 

まず日本側の記録、『大谷家文書』で事件の概要を見てみましょう。

1692年(元禄5年)3月、いつものように欝陵島(磯竹島)にやってきた村川家の船は、ここであわび漁をしている朝鮮人の一団に出くわします。紛争になることを恐れた村川家は、いったん島から引き上げ、鳥取藩を通じてこのことが幕府に報告されますが、幕府は何も手を打ちませんでした。

 

翌年3月、今度は大谷家の21人が欝陵島に出漁、ここで再びあわび漁をしている朝鮮人の漁民42人と遭遇します。事態を重く見た大谷家は、安龍福ら2名の朝鮮人を不法入国者として捕えて鳥取に連行します(日本の漁師はアシカ漁に使う鉄砲を持っていました)。幕府の命により、2人の朝鮮人は長崎を経て対馬(つしま)に護送され、対馬藩士・多田与左衛門(よざえもん)が釜山(プサン)へ渡り、2人を朝鮮政府に引き渡します。当時、朝鮮との外交は対馬藩に一任されていました。

 

このときの日朝交渉の記録(『通航一覧』)によれば、朝鮮側が80年ぶりに欝陵島(磯竹島)の領有権を持ち出したのです。

朝鮮「欝陵島は、200年前から朝鮮領であり、竹を産するから竹島ともいう。日本の漁民が侵入してわが国の漁民を拘束したことは信義に反する。再発防止を望む」

対馬「80年来、欝陵島は日本領である。朝鮮側がこれを知りつつ黙認してきたのは、領有権を放棄したということである」

 

交渉は3年に及び、ついに決裂。朝鮮側は、「壬申倭乱(じんしんわらん=秀吉の朝鮮出兵)」の再来になるのではと、警戒します。幕府と朝鮮政府の間で板ばさみになった対馬藩は、藩主の参勤交代を機に江戸幕府へ判断を仰ぎました。

 

1696年(元禄9年)、老中・阿部正武は以下のような政治決断を下します。

「竹島(欝陵島)の地、…因幡(いなば=鳥取)を去ること160里ばかり、朝鮮を距(へだ)てるに40里」なので、

「彼が地界たる、その疑いなきに似たり」

朝鮮領であることは疑いない

「国家もし兵威を以ってこれに臨まば、何を求むとしてか得(う)べからざむ。ただ無用の小島の故を以って、好(よしみ)を隣国に失するばかり…」

武力では何も得られない。無用の小島のことで、隣国との友好を失うだけだ。そもそも日本は、欝陵島を奪ったわけではないから、放棄する必要もない。ただ、漁民の往来を禁じるだけでよい。

 

阿部はえらい。

 

まさに、大人の対応です。つまり幕府は、朝鮮の欝陵島(磯竹島)領有権を認めたうえで、日本が80年間続けていた実効支配を放棄したのです。ただ、放棄したのは欝陵島(磯竹島)であって、松島(現竹島)ではありません

 

竹島地図(1696)

 

幕府はこの決定を、対馬藩を通じて朝鮮側に伝え、また鳥取藩を通じて、大谷・村川両家の欝陵島(磯竹島)渡海を禁じます。

これで、事件はおさまったかに見えました。ところが、強制送還されて朝鮮の法で裁かれたはずの安龍福が…

 

050403更新)


竹島 朝鮮日報竹島(独島)問題の続きです。

 

不法入国者として逮捕され、強制送還された安龍福は、朝鮮政府により厳しく罰せられるはずでした。欝陵島への渡航は禁じられていたからです。ところが、この間に朝鮮政府内の党争(注1)の結果、安龍福はお咎(とが)めなしの無罪放免となり、翌1696年、再び日本への密航を企てたのです。密航の目的はよくわかりません。

 

(注1)党争(とうそう)…朝鮮王朝で繰り返された官僚(両班ヤンバン)の派閥抗争。安龍福の処罰を日本に約束した「南人派」が敗れ、安龍福を「日本人に拉致された被害者」と見る「小論派」が政権を握った。

 

仲間10名とともに、欝陵島から隠岐を経て、鳥取の赤崎浦に入港した安龍福は、鳥取藩の取調べを受けます。鳥取藩では儒学者を派遣して、

「筆談に及びそうらえども、その趣旨明白ならず」(『因府年表』)

漢文で筆談をしたが、彼らが何をいいたいのかはっきりしなかった。

 

この件について幕府に報告したところ、幕府は、「朝鮮外交は対馬藩のみが扱う。帰国するように説得し、追い返せ」と回答。そこで鳥取藩は、安龍福らを出航させ、国外追放処分にします。一行は、朝鮮の江原道に到着し、不法越境の罪を問われてソウルで投獄され、朝鮮政府の取調べを受けます。このときの取り調べ記録が、李氏朝鮮の公式記録である『李朝実録』の中の「粛宗実録」にのっています。ここでの安の証言が、のちに竹島(独島)韓国領説の有力な根拠となっていくのです。

 

安龍福のソウルでの証言(「粛宗しゅくそう実録」西暦1696年)。

「欝陵島には倭人(日本人)が多く来航していた。なぜ朝鮮領を侵すのか、と問いただすと、『我らは、松島(現竹島)に住んでいて、たまたま漁にきただけだ』、と答えた」

「私は、「松島は于山(うざん)島だ。これも朝鮮領だ」と答え、倭人を追って于山島に渡り、彼らを追い払った。さらに彼らを追ったが、強風のため隠岐(おき)に漂着した」

 

ここで安が明白な偽証をしていることは、子どもでもわかります。

@1696年1月には、幕府の欝陵島渡航禁止令が出ており、日本人がいるのは不自然。

A松島(現竹島)は、水も木も無い岩山であり、日本人が住んでいるはずがない。

B于山島は、欝陵島または竹嶼(チュクト)の別名であり、松島(現竹島)のことではない。

 

不法越境者として投獄され、恐ろしい裁きを待っている安が、必死になって自分の行為の正当性を主張している様子が目に浮かびます。生き残るためには何でもあり、口からでまかせ、ということでしょう。

 

「鳥取に上陸した私は、“欝陵于山両島監税”と名乗り、かごにのって鳥取城に入り、藩主と面会した」

「欝陵・于山を朝鮮領とするという関白(将軍)の命令に反し、越境してくる倭人がいるのはどういうわけか、と問いただした」

「この結果、欝陵島に渡った倭人15名は、処刑された」

 

日本側の記録には、儒学者を派遣して取調べをしたが、漢文が通じなかった、とあります。当時の東アジアでは漢文が国際語でした。朝鮮の官僚階級(両班ヤンバン)は漢文を自在に読み書きできたはずですから、安が無学文盲(もんもう)の庶民階級であることは明白です。このような、不法入国者の一庶民に対し、大名である鳥取藩主が面会した、というのは、あまりにもばかげた話です。また、日本人15名が処刑されたという記録も日本側にはありません。作り話です。

 

こういうほら吹きのたわごとが、『李朝実録』という朝鮮王朝の正史に載ってしまうというのが不思議です。そして、安龍福の作り話である「朝鮮領于山島=松島(現竹島)説」がここから一人歩きを始めるのです。

 

たとえば、この70年後に書かれた『東国文献備考』の記事。

「欝陵・于山みな于山国の地。于山は、すなわち倭のいわゆる松島なり

韓国側はこの記事を「独島が韓国領である証拠」としているのです…

 

逆に言えば、于山島=竹島(独島)説は、安龍福以前の記録には皆無で、しかも安の偽証が明らかになった以上、これを根拠に竹島(独島)を韓国領とする主張は、崩れ去ったというべきです。

 

最初に書いたとおり、私(茂木)は、韓国側の主張に理があるなら、あんな小さな無人島の領有権は手放してもいいと思っています。しかし、こうして調べてみると、竹島(独島)が歴史的に朝鮮・韓国領だったという記録は、まったく出てきません。出てくるのは于山島ばかりです。于山島は欝陵島の別名です。于山島が竹島(独島)の別名だと言いだしたのは、ほら吹きの安龍福…

 

竹島(独島)領有権問題を、国際司法裁判所で解決しようという日本政府の提案を、韓国側がいやがる理由が、よくわかりました。裁判になれば、100%韓国が負けるからです。私は、竹島(独島)領有権を主張するために、これからずっとウソをつき続けなければならない韓国人に、心から同情します。

 

さて、江戸時代を通じて「松島」と呼ばれていたあの島が、どうして「竹島」などという欝陵島(磯竹島)と紛らわしい名前になったのか。次回はこのことについて考えます。

 

050413更新)


シーボルト1828年、長崎・出島のオランダ商館勤務を終えた軍医フランツ=フォン=シーボルト(写真左)は、帰国の途につきました。しかし、不運にも長崎港外で台風の直撃を受けて船は座礁、シーボルトは助かりましたが、このとき回収された積荷の中に、国外持ち出し禁止だった日本地図が発見され、大スキャンダルになります。シーボルトは国外追放処分、彼に地図を渡していた幕府天文方(てんもんがた)の学者・高橋景保(かげやす)は獄死、その他、多数の蘭学者が投獄されました(シーボルト事件)。シーボルトは、一種の工作員だったようです。日本人に西洋医学を教える見返りに、鎖国日本の情報を集めていたのでしょう。

 

獄死した高橋景保の父、高橋至時(よしとき)も有名な天文学者で、その弟子の一人が、日本最初の精密な実測図を作った伊能忠敬(いのうただたか)です。この伊能図の写しを、シーボルトは手に入れたのです。帰国したシーボルトは、ヨーロッパ人が作った地図も参照して、1840年に日本全図 Karte von Japanischen Reich を刊行しました。

sieboldmap

www.lb.nagasaki-u.ac.jp/.../ map/shiborutomap.htm

 

次に、この地図の日本海部分を拡大します。

 

シーボルトの地図(原図)

 

一見正確に描かれているように見えますが、この地図には、重大な間違いがあります。

実際の地図と比較してみましょう。

 

シーボルトの地図(比較)

 

東経131度付近にあるダジュレー島は欝陵島(磯竹島)ですが、シーボルトの地図では、「松島」となっています。実際の松島(現竹島)は、シーボルトの地図にはのっていません。つまり、シーボルトは、欝陵島を松島(現竹島)だと勘違いしたのです!さらに欝陵島の西(画面左)に「竹島(アルゴノート島)」という現実には存在しない島を書き加えました。このいいかげんな地図が、「ヨーロッパ人の作った最新の地図」として幕末の日本に逆輸入され、竹島問題が決定的にややこしくなったのです。(ああ、頭が痛くなってきた…)

 

050519更新)

 

この頃、西欧諸国の東アジア進出が加速します。フランス船リアンクールLiancourt号が現竹島を「発見」、リアンクール島と命名(1849)。イギリス船ホーネットも同島を「発見」し、ホーネット岩礁と命名します(1855)。この結果、西からアルゴノート島(実在しない)、ダジュレー島(欝陵島)、リアンクール島/ホーネット岩(現竹島)と3つの島が描かれることになり、幕末に勝海舟がまとめた『大日本沿海略図』(1867)にも、そのまま転記されます。

 

勝海舟「大日本沿海略図」.gif

 

この混乱は、国境画定を進める明治政府にも受け継がれ、1877年に内務省は、

竹島および外一島は本邦に関係ない」、つまり領有権を放棄する、

という結論を出しました。この文書では「竹島」について、

「元禄五年、朝鮮人入島以来、…元禄十二年に至り、それぞれ往復相済み、本邦と関係これ無く相聞え候」

と説明しているので、江戸幕府が領有権を放棄したBの欝陵島のこと。「外一島(ほかいっとう)」は実在しないAの「竹島」のことと考えるのが自然でしょう。

 

1880年、寺島外相の要請により、軍艦「天城」が現地調査を行い、Aが存在しないこと、B「松島」が欝陵島であること、C「リアンクール島」が存在し、かつて「松島」と呼ばれていたことを確認します。「松島」が2つあっては混乱するので、リアンクール島を新たに「竹島」と命名し、島根県に編入したのが1905年、日露戦争の最中でした。

 

この戦争で、日本は韓国を占領し、戦後は保護国化したので、韓国側は、

「独島強奪は、韓国併合の最初の一歩だ!」

 

といいはじめたのです。

 

110311追記)