ビスマルク時代のドイツ

◎統一後のドイツについて教えてください。

普仏戦争のどさくさ紛れにドイツ帝国を建国したビスマルクでしたが、数百年間続いたドイツの分裂状態が、そう簡単に一つになるわけもありません。隣では、第三共和政のフランスが、アルザス奪回を狙っています。

 

プロイセンのユンカー(地主)出身のビスマルクには、3つの「敵」がありました。

@      南ドイツのカトリック教徒…プロイセン(プロテスタント)の支配を嫌い、中央党を結成。

A      労働者(社会主義者)…マルクス直系の共産主義者ベーベルが、ドイツ社会主義労働者党を結成。暴力革命を主張。

B      ラインラントの産業資本家…英製品に高関税をかける保護貿易を主張。自由貿易で穀物輸出を拡大したい地主と対立。

 

この場合、3つを同時に敵にすればビスマルクの負けです。外交と同じで、個別に撃破していくのです。まず、@カトリックをやっつけます。ビスマルクは議会でカトリック教会に対する文化闘争を宣言、聖職者の政府批判を禁じ、公立学校の教師から聖職者を追放、反政府運動をした4000人の聖職者を投獄します。「私は、カノッサへは行かない!」(カノッサの屈辱のように教皇には屈しない)とビスマルクが演説すると、ドイツ人の多数派であるプロテスタント(ルター派)は、資本家も労働者も拍手かっさいです。

 

ただし、中央党(議会中央に席があったためこう呼ぶ)の政治活動は認め、参政権も認めます。中央党はドイツの有力政党として存続し、第二次大戦後はキリスト教民主同盟(CDU)と改名しました。2005年にドイツ初の女性首相となったメルケル首相は、CDUの政治家です。

 

次の標的は、A社会主義者です。テロリストによる皇帝狙撃そげき事件(暗殺未遂事件)をきっかけに、社会主義者鎮圧法を制定、社会民主労働党を弾圧すると、産業資本家がビスマルク支持に回りました。その一方で、貧しい労働者がテロや革命に走らないように、社会政策(福祉政策)を打ち出したのもビスマルクです。けがや病気に備えた保険制度、老後の生活に備えた年金制度は、このときビスマルクが始めたものです。アメと鞭を両方使うわけです。

 

社会主義労働者党は、のちに社会民主党(SPD)と改称して暴力革命をやめ、議会を通じて社会主義を進める穏健な政党に変身します。現在、ドイツの国会でCDUと並ぶ2大政党です。

 

最後は、産業資本家。自由貿易か、保護貿易か、この対立でアメリカでは南北戦争が起こったほどですから、深刻な問題です。しかし、時はビスマルクに味方しました。クリミア戦争に敗れたロシアが近代化に乗り出したころです。機械を買うにもカネがないロシア、穀物を売って資金を得ようと考え、ヨーロッパ向けに安い穀物を大量に輸出してきます。あわてたプロイセンの地主たち、保護貿易主義に転じ、ここに保護関税法が成立します。資本家・地主が和解して、この2つの勢力がビスマルク政権を支える車の両輪となり、「鉄と穀物の同盟」と呼ばれます。

 

 

第三共和政のフランス

◎普仏戦争に負けたフランスはどうなったんですか?

ナポレオン3世失脚後、フランスは第三共和政となりました。男子普通選挙、大統領(名誉職)も首相も議会が選出するという徹底的な民主主義です。ドイツではビスマルクが20年間ずっと宰相だったのに対し、フランス議会では過半数を握る有力政党がなく、政府はいつも不安定な連立政権で、40年間に50回も首相が代わるという、政治混乱が続きました。国民の間に政治不信が高まり、「このままではドイツに勝てない…」、「ナポレオン3世のような強力な政権を!」、「軍事クーデタを!」という声が出始めます。これに便乗したのが軍部と右翼で、@ブーランジェ事件、Aドレフュス事件という2つの事件を起こします。

 

@ブーランジェ事件は、普仏戦争の英雄ブーランジェ将軍をクーデタで大統領に、という陰謀です。クーデタ直前に計画が漏れ、肝心のブーランジェ本人が優柔不断で、逮捕を恐れて国外へ亡命してしまったため、失敗に終わりました。

 

A名誉挽回ばんかいをしようとあせった軍部が、次に起こしたのがドレフュス事件です。まず、フランス軍の機密情報をパリのドイツ大使館に漏らしているスパイがいることが判明します。筆跡鑑定が行われ、ドレフュス大尉たいいが逮捕されました。彼は、ユダヤ系フランス人であり、新聞は「ユダヤ人の陰謀!」、「ユダヤ人はドイツのスパイ!」と書き立てます。本人は無罪を主張しますが、軍法会議(軍人を裁く裁判)は有罪を宣告。ドレフュスは軍籍剥奪はくだつ、島流しになりました。これで、軍部は国民の支持を集めることに成功したのですが…

 

まだ続きがあるのです。判決に疑問を持ったドレフュスの兄が真相を探っていくと、実は容疑者がもう一人いたこと、その人物は「フランス人だから」取り調べも受けずにいること、弟は「ユダヤ人だから」有罪にされたこと…が明らかになったのです。兄の訴えを聞いた共和派の指導者クレマンソーは、議会でこの問題を追及。マスコミに影響力のある作家のゾラは、新聞の一面に「私は訴える!」という記事を載せ、ドレフュス無罪を訴えます。世論は一転し、軍部はやむなく裁判をやり直し、ドレフュスは無罪、真犯人は逮捕直前に自殺して、事件は終わります。

 

この2つの事件は、軍部の信用を失墜しっついさせ、逆に第三共和政を安定させる結果となりました。クレマンソーら共和派(資本家)の小政党が結集して急進社会党を結成、社会主義者もジョレスを党首に統一社会党を結成します。クレマンソーはのちに第一次大戦のときの首相として、フランスを勝利に導きました。

 

もうひとつ、ドレフュス事件の直後にアフリカで起こったのがファショダ事件(1898)です。イギリスの大軍に包囲されたフランス軍は本国に援軍を求めますが、フランス国民が軍部に愛想をつかしているときに戦争なんかできません。やむなく、フランス軍はファショダから撤退したのです。

  

    ゾラのドレフュス擁護記事 『私は訴える!』

051125更新)