オスマン帝国

◎先生、トルコ人っていろんなところに出てきますね。

世界史、とくに中国史を勉強していて不思議に思うのは、五胡十六国を統一した北魏(鮮卑族)とか、唐の時代の突厥(とっけつ)人とかウイグル人について、「トルコ系遊牧民です」と説明されますが、現在、中国の北方にトルコという国はなく、トルコという国は遠くアジアの西の果て、黒海の南の半島部分(古代には小アジアと呼ばれた地域)にあるということです。

 

この2つのトルコには何か関係があるのかといえば大ありで、中国の北方にいたトルコ系遊牧民が、長い時間をかけて西に移動し、最後にたどり着いたのが今のトルコなのです。現在のトルコ人は、もともと小アジアに住んでいたヨーロッパ人(ギリシア人)と混血してヨーロッパ系の顔になっていますが、もともとのトルコ人は、モンゴル人や日本人みたいな顔をしていました。言語についていえば、トルコ語というのは、モンゴル語や朝鮮語と同じく「アルタイ語族」に属し、主語+目的語+述語、の順に文を作ります。日本語の文法もこれと同じですね。日本人がトルコ語を勉強するのは、英語を勉強するのよりずっと楽なのです。

 

トルコ人がどうやって西に移動したのか、ざっとお話しましょう。@唐の末期、ウイグル王国がキルギス族の攻撃で崩壊し、ウイグル人は天山山脈の周辺(漢代に西域と呼ばれた地域)へ移動します。これを、ウイグルの西走といいます。A西ウイグルの住民が、イスラムに改宗します。これがカラ=ハン朝です。Bカラ=ハン朝の支配下にあったセルジューク族が、バグダードに入城します。セルジューク朝の成立です。C彼らはそのまま西に向かい、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から小アジアを奪います。トルコ人が小アジアに入ったのは、このときです。Dセルジューク家の分家が、小アジアで独立します。ルーム=セルジューク朝です。E13世紀末、モンゴル(イル=ハン国)の侵攻でルーム=セルジューク朝が崩壊したあと、小アジアはトルコ系豪族の群雄割拠となりました。その中の一つがオスマン家です。

 

◎そのオスマンが、どうやってあんなにでかくなれたんですか?

海峡を押さえたからです。初代オスマン1世は、ブルサという町を拠点に東ローマ領を次々と奪い、半島の西北部を統一します。3代ムラト1世は対岸のバルカン半島に攻め込み、東ローマ帝国のアドリアノープル(「ハドリアヌス帝の町」という意味)を奪い、ここに遷都します。どうも始めから、ボスフォラス海峡をおさえて、黒海・地中海貿易を独占しようという考えだったようです。アドリアノープル(エディルネ)は、日本の鎌倉のような落ち着いた感じのいい町で、町の中心にすばらしいモスクがあります。のち、イスタンブルに遷都するまで、ここがオスマン帝国の都でした。

 

ギリシア正教の総本山があるコンスタンティノープルが危なくなったので、同じ正教のセルビア王国が東ローマを助けに来ます。セルビア軍とオスマン軍は、コソヴォの戦いで激突、敗れたセルビアはオスマン帝国に併合されました。このとき、近くに住むアルバニア人はさっさとイスラムに改宗し、オスマン帝国に協力します。オスマンは、セルビアからコソヴォ地方を取り上げ、アルバニア人を移住させました。この「コソヴォの恨み」をセルビア人は親から子へと語り継ぎ、19世紀末にオスマンから独立したセルビアは、アルバニア人の住むコソヴォを併合したのです。以来、コソヴォ紛争と呼ばれるセルビア人とアルバニア人の対立が、現在も続いています。

 

◎現代史でやったような気がする…負けたセルビア人とかはどうなったんですか?

オスマン帝国はバルカン半島(ヨーロッパ)に深く領土を広げ、住民もキリスト教徒が多数を占めるようになりました。これら多数派の異教徒(非イスラム教徒)を統治する方法として生み出されたのがミッレト制です。これは、異教徒を宗派別に組織化し、信仰の自由を認める代わりに徴税義務を課すもので、たとえば、ギリシア正教会に信者の管理をまかせ、徴税を請け負わせるというものです。人頭税(ジズヤ)さえ支払えば信仰は自由という、イスラム世界のルールがここでも生きていますね。

 

軍隊のしくみもオスマン帝国独特のものがあります。オスマン軍は2つの部隊に分かれます。一つは、伝統的なトルコ人騎兵(シパーヒー)で、スルタンから給与の代わりに一定の土地の徴税権を与えられます。これをティマール制といいます。イクター制と同じですね。ということは、彼らは地方領主化し、スルタンのいうことを聞かなくなります。それを避けるために彼らには裁判権を与えず、スルタンの任命するイスラム法学者(ウラマー)を郡の裁判官に任命しました。もうひとつの部隊が、スルタン直属の常備歩兵軍、イエニチェリ(新軍)です。これは、キリスト教徒の少年たちを奴隷として徴収し、体格のよいものを軍人にするのです。異教徒を奴隷兵にするというのは、アッバース朝が改宗前のトルコ人を奴隷兵(マムルーク)にして以来、イスラムの伝統です。

 

◎昔、祖先がやられたことを、今度はキリスト教徒に対してやっているわけね。

そう。でも、キリスト教徒の普通の農民の子が徴収されるわけですから、乗馬は苦手です。そこで、歩兵にするのです。歩兵の弱さを補うために、大砲・鉄砲などの火器を装備します。火器は、モンゴル軍がヨーロッパ・イスラムにもたらし、西欧では百年戦争のときにはじめて英軍が使用しました。一方、イスラム世界で最初に本格的な鉄砲隊を組織したのが、オスマン帝国のイエニチェリなのです。ヨーロッパのほとんどの国では、重装騎兵の長槍(やり)戦法でしたから、イエニチェリの破壊力は圧倒的でした。もとキリスト教徒の軍隊にキリスト教国を征服させる…。なかには、何も知らずに自分の祖国を侵略したイエニチェリの隊長もいたようです。

 

この日の出の勢いのオスマン帝国に、突然、背後から襲いかかったのがティムールでした。ふいをつかれた4代バヤジット1世は、アンカラの戦い(1402)で大敗し、捕虜になります。ティムールは、バヤジットを鉄のおりに閉じ込めてサマルカンドへ連行し、途中でバヤジットは死にました。その後、ティムールは明の征服計画を立てて東へ向かったので、オスマン帝国は滅亡を免れたのですが、国内では反乱があいつぎ、帝国の再建に50年かかりました。

 

統一を回復し、再び東ローマ帝国に立ち向かったのが「征服者」メフメト2世です。メフメトは50万の大軍を動員し、東ローマの都コンスタンティノープルを包囲しました。すでに東ローマは衰退し、この町に立てこもった軍は1万人以下でした。しかし、さすがはローマの都、三角形の都は、左辺が三重の城壁、右辺は鎖で封鎖された金角湾、底辺はボスフォラス海峡に面した断崖という鉄壁の守り。メフメトは、得意の大砲をずらっと並べて城壁を破壊しますが、夜間に東ローマ兵が壊れた壁を修理するのできりがない。

 

そこで思いついたのが、「オスマン艦隊の山越え」です。右辺の金角湾とボスフォラス海峡をへだてる半島の樹木を切り払い、ロープでオスマン艦隊の軍艦を引っぱり上げ、金角湾に滑り込ませたのです。この結果オスマン軍は、城壁側と金角湾側の両方からの攻撃が可能になり、ついに市内に突入しました。

 

1453年、コンスタンティノープルは陥落1000年続いた東ローマ帝国はここに滅亡、ギリシア正教の総本山だった聖ソフィア聖堂の屋根の上の十字架が倒され、イスラムの礼拝堂(モスク)になります。メフメト2世が白馬に乗って入城し、大地に接吻してアッラーに感謝し、この町をオスマン帝国の新たな都と宣言します。イスタンブルのはじまりです(トルコ語の発音では「イスタンブール」と伸ばさない)。

 

◎だから「征服者」なのかぁ。次にエジプトに向かうのはどうしてですか?

オスマン1世の建国以来の宿願である、海峡両岸の制覇を実現したメフメト2世は、黒海北岸のクリム=ハン国(キプチャク=ハン国の地方政権)を服属させ、さらにヨーロッパ遠征の計画を立てたところで病死しました。ちょうど時代は大航海時代となり、ポルトガル艦隊がインド洋に進出して、エジプトのマムルーク朝と激突、1509年のディウ沖海戦でエジプト海軍が敗退します。このニュースを聞いた9代セリム1世は、エジプト征服計画を立てます。1517年、オスマン軍はエジプトを占領、ここにマムルーク朝は滅亡し、東地中海全域がオスマン帝国の支配下に入りました(ルターの95か条と同年ですね)。なお、マムルーク朝に保護されていたアッバース家のカリフは、このときオスマン軍に連行されて行方不明になりました。ずっとのち、19世紀になってオスマン家は、「あのとき我らはアッバース家からカリフの位を譲られた。だから、オスマン家はトルコ人の王(スルタン)であると同時に全世界のスンナ派の指導者(カリフ)なのだ」と言い出しました。これをスルタン=カリフ制というのですが、この話はどうも怪しい…

 

さて、マムルーク朝の滅亡に一番衝撃を受けたのがヴェネツィア共和国です。すでにインド新航路の発見で地中海貿易が衰えていた上に、大事な貿易相手国をほろぼされてしまってはどうにもなりません。かといって、ヴェネツィア単独で大国オスマンに戦いを挑むには危険すぎる…

 

一方、本格的なヨーロッパ遠征に乗り出した「立法者」スレイマン1世は、ハンガリーを征服し、神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の都ウィーンを包囲します(1529 第1次ウィーン包囲)。さらにスレイマンは、ハプスブルク家の背後の敵であるフランスと同盟し、フランス人に治外法権の特権(カピチュレーション)を与えます。周囲を敵に囲まれたカール5世が、あわててルター派諸侯と和解したのは有名な話。ドイツ諸侯軍の救援と、冬の到来によりウィーンは救われました。オスマン軍はハンガリーを得ただけで満足して撤退します。ハンガリーでなくなったスレイマン1世は、イスタンブルの丘の上の大モスクに埋葬されます。このモスクはスレイマン=モスクと呼ばれ、聖ソフィア聖堂のドーム建築を模倣して作られています(だからそっくり)。

 

◎これって、同じ建物かと思ってました…

さて、ウィーン包囲の知らせは、スペインにももたらされました。当時、スペインもハプスブルク家領であり、異教徒撲滅に執念を燃やすスペイン人が参戦の決意を固めます。教皇が仲介してヴェネツィアと連合艦隊を編成、東地中海に向かいます。最初の決戦はプレヴェザ海戦(1538)ですが、スペイン人とヴェネツィア人の非協力のためキリスト教徒連合艦隊は敗北しました。カール5世の死後、息子フェリペ2世がスペイン王になり、リターンマッチがおこなわれます。このレパント海戦(1571)はキリスト教徒側のチームプレイが成功し、オスマン艦隊を撃破します。しかし、勝利もここまで。スペインは、オランダ独立戦争に忙殺されて地中海への興味を失い、ヴェネツィア単独では戦えない。オスマン帝国は、失った艦隊をたちまち再建します。レパント海戦後、オスマンの宰相はヴェネツィアの大使にこういっています。「我々はひげをそられただけだ。ひげはまた生えてくる」

 

結局、オスマン帝国の優位は揺るぎません。ヨーロッパ諸国はたえずオスマンの圧迫を感じ、これに対抗するため、オスマンのシステムを採用しました。君主独裁、官僚制、火器を装備した常備軍…こういうシステムを、世界史では絶対主義というのです。

 

◎あぁ、ヨーロッパ史も復習しなくちゃ…ありがとうございました。

 

030710 更新