水槽の向こう側

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三位一体

 

水 槽 の 向 側


                          
 「クレーの黄金の魚」

パウル・クレー<黄金の魚>

 

 


 

  

 

   飄々とした表情で黄金の魚が泳いでいる。暗い海にそこだけがぼおっと明るい。谷川俊太郎の「クレーの絵本」を見ていた。初めて見たときから何とも懐かしい気がしてならなかった。魚としてはさほど美しいとも思わない。愛敬のない表情で、ただ黄色く輝いている。隅の方に描かれている魚に比べると、あまりに無表情で私には擬餌を思わせる。けれどもこの魚が気にかかる。蒼く揺れる海藻の向こうにも、うっすら海の広がりが感じとれる。もやもやと不思議な感情が沸き起こる。

−潜在意識−  これは潜在意識の海を泳ぐ魚なのだわと思う。
 私の海にはこういう魚が住んでいる。めったに出会えないのだが、つれないそぶりで、すっと過ぎていく。時には、シャガールの絵の端に薄く描かれた馬になって、荒野を疾走していくこともある。
 私は「白鯨」のエイハブ船長のようにずっとこの魚を追っていた。
何故なら詩を生み出すのはいつも私ではなく、この魚だったから。体をくねらせ、尾鰭を動かし、口を開けるたびに撒き散らすのは金粉ではなく言葉だった。私は預言者のように、巫女のように急いで言葉を拾い集める。予告もなく突然現れるので、この魚、油断がならない。
料理の途中で包丁を振り捨てることもあれば、暗闇の床の中で周囲を気遣いながらペンを走らせることもある。さっと「たも」ですくい、水槽で飼ってしまいたい心境だが、一日と生きてはいないだろう。私の海は居心地が良いだろうか。

俊太郎が書いている。

     どんなよろこびのふかいうみにも

     ひとつぶのなみだが

     とけていないということはない
                        『黄金の魚』より


 もっか餌付けをたくらんで、魚の好みを探っているところだ。

 


   「オンディーヌと観た月」


 おくんちの夜は月の美しい日だった。               
 長い階段をいやというほど登って、息がきれる時、やっと我が家に着く。だから、月夜の晩は月へ向けて登っていくような錯覚に陥る。まだ、六才ぐらいの頃だ。空想癖の激しかった私はさながらかぐや姫の気分だったろうか。しかし、あの夜は違っていた。
 おくんちは三大祭りにもあげられる。地元の子供達にも魅力的なお祭りで、十月の七、八、九日は特別な日だった。毎年、うさぎの顔型の風船を買ってもらう。天井に耳の先をつけて、床の私を見下ろしていたうさぎは、翌朝にはしぼんで同じ背丈に並んで立つ。
 映画のワンシーンのように切り取られた映像が今も残っている。
夜、暗い家の中にひとり。心細さを抱えて誰かを待っていた。静かな水の中に膝を抱いてうつむくようにじっとしている。冷たい水底で背中合わせに座っていたのはたぶんオンデイーヌ。二人でどんどん冷えていく。
 やっと疲れた父が帰ってきた。もう遅いからおくんちには行けないと言われ、頷く。沈黙の後、持ち合わせがないと言いながら、出店へと連れていってくれた。うさぎの風船も買ってくれたのだった。二人手をつないで階段を登りきった時、父は月を見上げた私に「お母さん、どこへ行ったんだろうね」と言ったのだ。思わず風船を放してしまう。あっという間に風船は月へ月へと登っていく。しっかり握っていないからと父、どうして弟だけ連れて行ったのだろうと私、二人でしばらく風船を見送りながら悲しみが水嵩を増していく。飛沫に光るオンディーヌが素早く風船をつかんで昇っていく。せつなく泡立っては、痛む心も一緒に抱いて。 

 月は濡れたように輝きを増していつもよりはるかに美しかったけれど。

 

 

   「水槽の向こう側」
 

 過剰な照明の下を脇目もふらず進んでいくと、細い通路を利用したその両壁に水槽が並べられている。そこだけは、照明が極端に落とされているため、いかにも水面下へと潜っていくような錯覚に陥ってしまう。水の住人の脚色効果を上げるためとわかっていても、エレベータに乗った時のような独特の下降気分からは抜けきれない。
 1層、2層、3層、4層…、水槽を何層かに区切ってみる。一つの水槽に何種類かが同居していて、色彩豊で敏捷な魚は水面ぎりぎりの1層あたりを泳いでいる。水底あたりを住家にしているものは、鈍重で地味な色合いの魚だ。観想状態を思わせ、非在化していくようなのに、存在の重さを訴えかけてくる。自意識の苦悩に捉われた詩人のごとくに黙されたままに。                           
 蒔かれた餌は屈託のない一層の住人にそのほとんどを奪われてしまう。まるで目前の食欲にしか生きていく意識がないような騒々しさだ。「目に見えるもの」と、「生きることは生活だ」と信じられたエネルギーに満ちている。健全で従順な幸福を受容している。一方、かろうじて底までとどいた餌に少しもうろたえない詩人。けだるそうに瞼を開けて、じっと見透かしているのは水槽のこちら側の住人、つまり私に向けられた眼差しであった。一瞬の戦慄をすぎて交感し、汲み上げられるものは決して目には見えない、言語を持たない領域のものだった。生きとし生けるもののなかで親しいもの同志が持ち合う、黙されてなお雄弁に語りかけられる「声」を聴くのだった。
 遠い水底から螺旋状に響いてくる音、次第に覚醒するように、その音は近付いてくる。携帯電話を持つように軽く拳を握って耳にあてる。

 「もしもし、そこはどこ? あなたはだれ?」

水槽の向こう側、ガラスに映った「私」が、音もなくパクついている。

 「もしもし、そこはどこ… あなたはだれ…」

むき出しの肌に触れて、水が淀んでは流れていく。