2006.02.10 作成

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病気とともに gori

CONTENTSなんとなく人生会社生活身体の異常パーキンソン病職場への復帰

1 なんとなく人生

 私は田舎で生まれ育った。静かな変化の少ない退屈な日々が続いた。
 東京へ出て暮らし始めると毎日が変化に富んでおり、見知らぬ土地を飛び回っていた。
 食事は外で食べ、定食屋さんに毎日のように通うことが多かった。
 その当時の世の中は学生運動が燃え盛り、社会の様相が日々変化していた。
 田舎から出てきたものには、変化の速度が速く、世の中への関わり合いが難しく感じられていたのかもしれません。
 アルバイトばかりしていたが食生活がメチャメチャで身体に悪いことばかりしていた。
 一日は充実していたが明確な人生設計を持たず、自分は何をやりたいのかも解らず時の流れまますごしていた。
 職に就いたのもその延長だった。
 この時点で人生の運命が決定してしまったように思います。


2 会社生活

 会社に入り基礎的な業務の研修を受けた。
 無目的の多くの同類がいた。しかし明らかに考えが異なり、しっかりした目的をもった人がおり、驚いた。それらの人々に感化されこの会社でがんばってみようと思った。
 そして、格好だけは「フレッシュマンの企業戦士」になり、地方の店に赴任した。
 その店は、営業のセールスを主体に事務や集金など100人を超える人がいた。
 女性が多い職場だった。
 今、つくづく--「企業は 人 なり」-−ということを考えます。
 そこに働いている人が企業を発展させ、また企業が人を育てる。そして、人を大事にする企業が競争社会でも勝ち残ると思います。
 すでに終身雇用制度や企業への忠誠心など無くなりました。
 会社を大事とする考えは昔の日本の良き時代の遺物ですが、仕事への取り組み方は学ぶべきものが多いと思います。
 会社にはそこに働く人のためいろいろなことをやっています。
 働く人はそれぞれの立場、事情が違います。
 会社は働く環境に合わせて福祉を提供しています。
 社会的な義務となる福祉もあります。
 福祉制度が充実した企業は人を大事にすると思われ、自ずと人が集まり、会社もますます発展してゆく。
 企業の業務は永続的でなければなりません。
 今は、働く人も即戦力が求められ、派遣制度で容易に必要な労働力が得られます。
 短期的なものも必要ですが、企業の永続性には長期的にモノゴトを考える必要があります。
 人を育てる、人を大事にするということです。
 当たり前のことですが、実際に仕事についたとき、どうでしょうか?

 私の仕事は目が回るような忙しさだった。
 また仕事は、速く仕上げればそれで終わりということは無く、やればやるほどドンドン新しいものがやってきます。自分の時間などありようがなかった。
 仕事は会社の就業時間内に終わらせるのが本当だが、そんなことは理想でしかなかった。
 もともと不器用で音痴(ここでは関係ないことですが・・・)の私には時間内で終了させるのは無理だった。
 事務をするには算盤が必要だった。まだ電卓が世の中に出始めた頃で高価で個人では購入できなかった。
 不器用さに泣いた。仕事の内容がそれまで考えたものとは大きく違い、細かい手先のものであり不器用な身体にはストレスが溜りに溜まっていった。
 人間関係に戸惑うことが多かった。
 とにかく何をするにも初めてのことばかりで大変苦労した。
 仕事は毎日毎日遅くまでしていました。
 そのうえ人間関係の難しさが加わり眠れない日々が続いていました。
 ここでの食生活も乱れていた。朝食はなし、お昼にやっと食にありつく。
 夜に一人、開いてる食堂を求めて繁華街を彷徨する。体重は瞬く間に48kgになった。
 このころ仕事の大変な様子を知人に話していた言葉を覚えています。
 「トゲトゲだらけのヤスリで心臓や胃をゴシゴシ擦られる」

3  身体の異常

 仕事は忙しかったが楽しいこともあり、一日一日が張りのある生活で気持ちは充実していた。
 ここで結婚し、子供も生まれた。
 そういう時、パーキンソン病が現れた。
 最初の頃、足を引きずっているなど会社から言われた。またお客さんから「身体が震えている、あんた大丈夫なのか?」と言われた。
 そんな身体であったが仕事はしていた。
 同期入社が本社に集まり研修会が開かれたときだった。宿泊設備の揃った研修所につくと足が震えでスリッパも履けない状態だった。それでも昼の研修は何とかこなし、夜の部になった。
 身体中震えている。研修途中であったが、飛行機で帰されてしまった。
 研修途中に帰されるとは前代未聞のできごと。帰り着いた職場は大変なことになった・・・・。
 
 それから妻との病院を求め流浪の旅が始まった。
 現在なら多少なりともパーキンソン病は知られているが、当時には知らない人が多く、一般的ではなかった。
 多くの病院で診てもらったがなかなかパーキンソン病とは解らなかった。
 妻はこのとき「運命」のいたずらに思い悩んだようだ。
 生後1歳にもならない子供がいた。
 それ故これから先のことを考え、絶望し「死」まで考えたようだ。


4  パーキンソン病

 もちろん仕事はやれず休業状態だった。
 病院をもとめての流浪の旅をした。勤務していた県の病院は廻りつくした。それでも病名が解らなかった。
 私は県境を2つ越え、検査のため入院した。そこで初めて診断がくだされた。
 その入院していた間、妻は自分の信ずるものにすがり、子供を実家に預けた。家族が散り散りになった。
 私は若年性パーキンソン病で遺伝の可能性があるが親族には過去に例がない。
 会社では、私の病気が何なのか? 回復するのか、しないのか解らず困っていた。
 仕事の流れを止めることは出来ない。後任が転勤してきた。私は帰る職場がなくなった。
 薬(アーテン)で奇跡のように回復した。3ヶ月の入院だった。


5  職場への復帰

 「勤務可能」という診断書がでた。
 こうなると1日でも早く仕事に復帰したいものだ。
 散り散りになった家族もまた一緒に暮らしたい。
 まだ20代だった。
 どうしても職場に戻りたい、という私の願いが叶えられた。
 私が再び仕事が出来るとは予想外のことだったのだろうか?
 私が店へ戻ると、働くものの定員オーバーの余剰人員となる。
 私は押しの一手で無理やり職場へ入り込んだようなものだ。
 それを許した企業に余力がなければ、実現しないことと思う。
 職場の人間関係が少しギクシャクした。
 病人だから仕事は緩やかに少しとしているわけにはいかなかった。
 現在でもパーキンソン病は社会に正しく受け入れられているとは思えません。厄介なことに、この病気の人は一人一人症状が違います。
 そのような環境の中で病気と闘いながら私は家族の生活を守らなければなりませんでした。
 しかし立場上、病気だからといって一歩退き、控えの役に徹することは出来ませんでした。
 
 今もそうですが私は薬によって生かされています。
 人の前に出るのは元気なときだけです。
 元気でない(オフ)とき人前には出るに出られず静かに冬眠状態になります。
 オフ状態には薬切れの状態と薬が多すぎる状態とがあります。
 会社で冬眠する場所はトイレしかありません。
 しかし営業の最前線ではトイレにこもるなど当時許されないことでした。
 退院後、1年間は静穏に過ごすことが出来ました。
 その後、上席者が去ったとき悟ったのです。
 『世の中甘くない、会社は私を定員以外の余剰人員として抱える余裕がないのだ』それまでの1年間、黙って様子をみていたのだ。
 これからが私が使えるかどうかの試験の本番だ。
 余剰人員を抱えるのは企業に重い負担がかかる。会社にそれほど余力があるとは思えない。
 「何処までやれるか解らないがやってみよう」
 パーキンソン病患者が民間の会社で生き抜くことは非常に難しいことです。
 営業の最前線は商品を販売するところです。
 私の症状はとても営業に耐えられるものではなかった。
 私の扱いには私の上席の皆さんは苦労されます。
 企業にとって私のような障害者にどのような仕事をしてもらうか?頭の痛い問題と思います。
 私は職場に恵まれていました。 職場へ戻ることを拒否されませんでした。

  

 この文章は第一回目の回復した模様です。
 家族のため何が何でも働く必要がありました。
 こんな身体でも仕事を続け、収入を得なければなりませんでした。
 再び元気で働けるよう入院中も必死です。
 職場への復帰できたのは、薬によって身体が元気を取り戻したからです。
 このようなことをその後2回繰り返しています。
 27年程はなんとか勤めることが出来ました。
 しかしこの病気は進行性です。
 とうとう退社するしか解決の方法が見つからなくなりました。中途で辞めることは退職金計算などサラリーマンには大変不利なことです。
 仕事は普通の人より劣り、厄介者になるかもしれません。
 仕事は出来ません。またどこまで企業は受け入れてくれるか千差万別です。
 企業には障害者を積極的に受け入れて欲しいのですが、そのために企業の経営に悪い影響を与えてはいけません。
 社会全体が障害者を働き手の一員と認識し、障害者が外の社会に積極的に入り込めるようにしたいものです。
 それは国民的課題として考える必要があります。
 パーキンソン病というハンディをもった私たちには国や地方の公的機関の援助が必要です。


友の会文集への応募文より◆2006年2月記

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