梓屯「能面展」

                  
 面打師の歴史   

面打師の歴史を知ることの出来る文献は非常に少ないがまず
世阿弥の「申楽談儀」があげられる。
   面の事。翁は日光打。弥勒、打手也。この座の翁は弥勒打也。(中略)
   近江には赤鶴(サルガク也)、鬼の面の上手也。
   近比、愛智(えち)打とて(中略)女の面上手也。
   越前には石王兵衛、其後竜右衛門、其後夜叉、其後文蔵、其後小牛、其後徳若也
   文蔵打の本打也。この座に年寄りたる尉、竜右衛門。
   恋の重荷の面とて名誉せし笑尉は、夜叉が作也。
   老松の後などに着るは、小牛也。
   男面、近比よき面と沙汰有し、千種打也。若き男面は竜右衛門也。
   出会いの飛出、この座の天神の面、大べし見、小べし見、皆赤鶴也。(後略)とある。

時代的にいえば、これらの面打師は南北朝時代から室町時代の初期に活躍したと考えられる。能面の面打には
、古く聖徳太子・弘法大師・春日など極めて実在性の薄い、神聖化された説話的な名も挙げられるが弘安年間
(1278〜1289)活躍した赤鶴がその最初とされている。面打師についてはこれ以降、室町時代をつうじてほとんど
知られてない。やっと室町末期から桃山時代にかけて世襲面打家が輩出してくる。それをまとめて編纂されたのが、
寛政七年(1795)喜多古能によっての「仮面譜」である。古能は面打師を次のように分類している

神作  聖徳太子・淡海公・弘法大師・春日
十作    日光・弥勒・夜叉・文蔵・龍右衛門・赤鶴・永見・越智・小牛・徳若 
六作  増阿弥・福来・春若・宝来・千種・三光坊
古作  般若坊・真角・東江・千代若・ヒコイシ・虎明・等月
中作   愛若・慈雲院・宮野・財蓮・吉常院・智恩坊・大光坊
中作以後   角ノ坊・ダンマツマ・山田嘉右衛門・野田新助・棒屋孫十郎
世襲面打家  井関家・大野出目家・越前出目家・児玉家・弟子出目家

                                 
〔1〕伝説時代 
  聖徳太子・淡海公・弘法大師・春日

  時代からいえば推古朝より平安朝初期におよぶが歴史的事実はなく、伝来不明の名作  
  の古面を神聖化するための伝説と伝えられ、翁は聖徳太子が自ら作った面を秦河勝につけて舞わせたと伝え
  られるもので能楽発生の源である。 
 
〔2〕創作時代(前期)
  日光・弥勒

  平安朝末期、能楽の完成される以前、樂面から能面への過度期で翁系の面のみ

〔3〕創作時代(中期)
   夜叉・文蔵・龍右衛門・赤鶴・永見・越智・小牛・徳若・増阿弥・福来・春若・
   宝来・千種・三光坊

   鎌倉時代中期から能楽の完成された室町時代に至る作家たちで、能面の最も優れた
   作品をだしている。

〔4〕創作時代(後期)
   般若坊・真角・東江・千代若・ヒコイシ・虎明・等月
   愛若・慈雲院・宮野・財蓮・吉常院・智恩坊・大光坊・出目満照

   三光坊以後、世襲面打家の生まれるまでの期間で室町末期から戦国時代にあたる

〔5〕興隆時代
   井関家初代宗信  三代家重・大野出目家初代是閑 五代洞水
   越前出目家二代則満 四代元休・児玉家初代満昌・弟子出目家初代元休栄満
   下間少進仲孝・角ノ坊・大宮大和真盛・野田新助・棒屋孫十郎

   世襲面打家初期の名工達の活躍した時代で、安土桃山から江戸時代初期に至る。
   能楽の降盛に伴い能面製作が職業化して世襲面打家を生じ、河内家重(1657年)歿  
   是閑吉満(1616年)歿。の如き名人を出した、
   能面史上、創作時代につぐ重要な時期である

〔6〕模作時代 
   河内家重の歿年(1657)年以後明治元年(1868)年に至る。

「十作」

赤鶴吉成  越前大野の人で一刀斎と称した。強い表情、恐ろしげな面を得意とした。
越智吉舟   和泉貝塚の生まれ越前、越智山の僧、中年の淋しい表情の女面を得意とした
石川龍右衛門  京都四条の人。能面独特の無表情とも見られる静止的な美しい表現 は龍右衛門が工夫したものと いわれる。  福来と同じ頃の活躍か               
夜叉    千秋丹波守頼定という。面はあくまで慰みに打ったと伝えられる。
文蔵    性を福原といった。夜叉のころに続いて強い面の表情のものを好んだという
小牛清光  気品の高い尉面の上手。世阿弥の時代、大和名人と呼ばれる
徳若忠政  大和万歳の太夫であった。世阿弥時代の作家で超人間的な中年の男面が得意
永見宗忠  越中日永の出身16世紀初め。淋しさや哀れさの漂う表情の面を完成  
日光
弥勒

                                         
「六作」

増阿弥久次     有名な増女の創作者。品格のある玲瓏とした美しさを得意とした。
福来石王兵衛  越前一条の人。朝倉家に仕えて尉面を献じたので後世、朝倉尉と呼ぶ
春若    徳若の甥。日永のやや前の人。徳若の作風を受け継ぎ男面を得意とした
宝来    福来の子。春若と同じ世代。父の作風を受け継ぐと宝来女・景清など工夫する
千種    代々千種と称する大和の鼓の胴を作る家系の出身。千種怪士や錦木男を工夫
三光坊  夜叉の血をひくと言われる。彼の弟子から世襲面打の三家が生まれる 

  「古作」

般若坊  三光坊と同人物とも言われる。般若の面を得意としたと伝えられる
真角  怪士の一種真角の創作 
東江  怪士の一種東江の創作 
千代若  大和の人で姥の一つの形を作った 
長霊  長霊べし見を創作   

                        
「中作

慈雲院  とくに彩色に特徴
宮野  奈良の神官
財蓮   越前平泉寺の僧
吉常院  奈良興福寺の僧  
智恩坊  奈良興福寺の住僧
大光坊  三光坊の弟子、是閑の師

                                                          
「中作以後」

角ノ坊   秀吉の命により観世と金春の古面を作り「天下一」の号を与えられる。面裏に焼印を押した最初の人物          
ダンマツマ  主として狂言面を作る
山田嘉右衛門  ダンマツマの弟子
野田新助  狂言面の作者
棒屋孫十郎  孫次郎と同一人物とも云われる
孫次郎   十六世紀前半に活躍した金剛右京久次。亡き妻の面影を忘れかねて作られた孫次郎は有名。27歳 の若さでこの世を去る。永禄七年(1564)歿           
下進少進    とくに面の彩色にすぐれる 「万媚」は古源助との創作

                                                   
「是より面打家」

井関家  三代河内家重77歳で歿。その子家正を最後に不明
出目家(大野出目家)  初代是閑吉満は元和2年歿、90歳。十二代丘作、明治5年没後  面打はしてない                          
出目家(越前出目家)  十二代満守、明治19年没後滅亡。人形師松本亀八が彩色法を学び能面作家中村直彦氏がその    秘伝を 受ける               
児玉家   初代近江満昌寛永元年歿、三代で絶える。其の後不明
弟子出目家  時代も短く三代で絶える。其の後不明
上総介親信   近江井関家の初代。
河内家重   近江井関家の四代目。作品は優れ当代隋一といわれる。正保二年(1645)歿
大宮大和真盛  河内の弟子となり江戸で活躍。天下一を号し寛文十二年(1672)歿
満照 みつてる   越前出目家の初代。三光坊の甥。天文の頃活躍
則満 のりみつ  越前出目家の二代目
古源助    越前出目家の三代目、豊麗な若い女面の「万媚」は彼の考案
古元休    越前出目家の四代目満永という。出目家はこれ以後元休を称したので彼を古元休というよう になった。寛文二年(1662)歿             
是閑吉満 ぜかん  大野出目家の初代。大幸坊の弟子
友閑満庸 ゆうかん  大野出目家の二代目。承応元年(1652)歿
助左衛門  大野出目家の三代目。
洞白満喬 とうはく  大野出目家の四代目。古元休の養子となるが離縁され助左衛門の弟子となる
洞水満矩 とうすい  大野出目家の五代目。とうはくみつたか洞白満喬の子で享保十四年(1729)歿
甫閑満猶 ほかん  大野出目家の六代目。寛延三年(1750)歿
友水庸久 ゆうすい  大野出目家の七代目。明和二年(1765)歿
長雲庸吉 ちょううん  大野出目家の八代目。安永三年(1774)歿
宮田筑後   児玉満昌の弟子で、のちに天下一を号した 
古元利吉満  弟子出目家の初代。古元休の婿になるが後に離れ弟子出目家を興した 

  明治以降大正期までの作者としては昭和9年に雑誌「謡曲界」より「能面小面頒布会」の解説書のなかに

出目源助啓通 (明治30年頃歿)  (弟子出目家)
森如件 (大正年間歿)
下村清時 (大正11年歿)
入江美法  明治28年〜昭和50年  彫刻家、下村清時に入門、養子となり名工と言われる。
 「感じを写した作品は形において多少の相違はあるが本面のもつ本質的 なもの を把握している。形を写したものは本面に似てはいるが感じが全く 違い生命感がない。」
野村萬造  狂言師、
中村直彦  明治11年〜昭和20年  東京美術学校卒 細川家の面の修理、各流家元家の面の修理 製作し た能面 の数は500面を超えると言われる。 「能面は能楽の生命である 」  
西村雅之
朽木静雄 (京都常願寺住職)

 があげられるが幕末から維新の混乱期を経て、旗本並みの知遇を得ていたとされる世襲面打家たちの
其の後は多くが不明で、経済的な不安と、それまで作られた多くの能面から需要がなくなるのではない
かとの職業としての見きりがあったとされ、其の後の面打師には世襲家の流れはなく明治末期、維新に
よって絶えていた能面製作は彫刻家の下村清時、美術大学で彫刻研究科出身の中村直彦清時没後
その門人、入江美法らの活躍するところとなる。。
高村光雲門下からは西村雅之・鈴木慶雲が出て活躍する。昭和初年からは北沢如意が活躍し多くの弟子
を育成する。
能面作家が芸術家としての位置を確立したのは中村直彦、入江美法、北沢如意らの努力によるところが
大きいと言われる。(早稲田演劇博物館)
そして現代の能面製作復興のもととなるところに「面生会」の結成があった。
昭和33年12月、技術の向上と会員同士の親睦を目的として結成され、会員は
北沢如意・長澤氏春・堀安右衛門・石倉耕春・布野上慶・福井洞雲・磯野健一・村上鋭夫の8名であった。
幹事は中村保雄氏でその月、第1回面生会新作能面展を京都府ギャラリーで開催、以後、昭和40年11月の
第10回展まで8年間続いた。
平成5年10月4日〜11月28日には
能面展 ー現代能面作家を中心としてー が早稲田大学で開催された。出品者は11名。入江美法・
鈴木慶雲・長澤氏春・橋岡一路・谷口明子・中村直彦・北沢如意・堀安右衛門・石倉耕春・北沢一念・見市泰男

出品はされなかったが、北沢三次郎・岩崎久人・羽生光善・安部和子・高橋養悦の名が第一線で活躍している能面
作家として挙げられた。

現代の面打師

鈴木慶雲 (明治28年〜昭和46年)  高村光雲に師事、宝生流能面師
 「現代の能面は模作に始まり模作に終わる。あくまで流儀に伝わる本面の型を  忠実に追うこ と。
北沢如意 (明治44年〜昭和56年)  彦根藩士の家柄に生まれる。金剛流先代金剛巌氏に師事、其の後面打 師となる。多くの弟子 を育てる。          
 
「何も考えず無我の境で打つ、そこに名面が生まれる。面打ちは心である」               
長澤氏春 (大正1年〜)    14歳の時、職業面打師、橘清伍に弟子入り、3人の息子に技を伝授。人間国宝  。
 
「伝統の型を忠実に守りながら、どれだけそこに作者の個性、厚みやらを 注ぎ込めるか。そこが一番難しく、やりがいのあるところでもあるんです」                         
橋岡一路 (昭和6年〜)    能楽師の家に生まれ、美大で彫刻を学ぶ。鈴木慶雲の弟子でヲモカゲ本 面の写  し、小面「花」の修復にたずさわる。  
 「無心の境地こそ、創作期の作者の心をしかと斟取るための大切な条件である」              
堀安右衛門  (昭和6年〜)  53年狂言師、茂山忠三郎に師事、狂言面の修理、写しをおこなう北沢如 意に能面技法の基礎を学び58年独立        「大切なことはその面 が昨日見たときよりも今日、又、今日よりも明日と日ごとに大きく、広がり をもって見るものに迫ってくるものを持っていることです。」             

 現在、能面を製作している人たちは全国で2000人〜3000人以上と言われています。             
そして、ほとんどの方が型紙を使って模作しています。
桃山時代から江戸時代初期の頃の写しはどうであったかというと全くの「打放し」でした。
その頃の面打師たちは、模写したいと思う能面を直接手にふれることが出来なかったので床の間にかけられた
能面から少し離れたところから、手をついてそれをじっと拝見した。その理由は、能面が神聖なものであるから、直
接手に触れさせないというのが当時の心得であったと言って良いでしょう。
 「模作」という言葉はいつ頃からはじまったのであろうか
室町時代中期を過ぎると諸大名は競って能好きの将軍家に倣って能を演じるようになり
そのため、能面の需要が増えてくる。
そうした状況は桃山時代にかけても続く。時の権力者、秀吉でさえ、古い能の家々の能面を勝手には召し上げる
ことは出来ず、茶の湯好きであった秀吉は、部下の戦勝の褒美に茶器を利用していたが利休、切腹後には、それ
を能面に代えた。その為秀吉は能面の模作や能面の作者を育てる必要に迫られる。
 その一人が角ノ坊という人物で(元は仏師)秀吉は彼に摸面「天下一」の称号をあたえる。江戸初期の小瀬
甫庵による「太閤記」の文禄二年(1593)の記事によると、能を愛好した秀吉は朝鮮出兵の時期に肥前名古屋に陣を
構え、そこに観世、金春の大夫を召しだし、両家の名物面を持参させているが時の権力者とはいえ神聖視されている
能面を召し上げることはできず、山城醍醐寺の角ノ坊に住んでいた仏師角ノ坊光盛法印にその面を写させた。
角ノ坊は十日ほどで五面を仕上げた。(角ノ坊とは光盛・光増親子のこと)
「何れが本か、何れが摸しか、見え分からざる」ほどの出来に、秀吉は彼に銀子五十枚と「摸面天下一の朱印状を授ける
文禄二年六月のことである。この御朱印は現在、日野の角の坊に保管されている。

さらに数年後に秀吉は是閑吉満にも同様の称号を与える。
是閑吉満  (天下一是閑)
 江戸時代に入り家康が幕府を組織すると能を式樂に採用し能役者を庇護するようになる。
諸国の大名たちもそれに倣って演能を盛んにする中で能面の需要も急速に高まり、こうした事情から世襲面打三家が
派生する。
その中には公家たちの推挙により秀吉にならって「天下一」の称号を与えられる人物が出てくる。
角坊光増 (天下一若狭守)
友閑満庸 (天下一友閑)      大野出目家2代目。承応元年(1652)歿
洞白満喬 (天下一備後(淡路)  大野出目家4代目。元禄の頃江戸で活躍
井関家重 (天下一河内)      近江井関家4代目。面は優れ当代隋一といわれる。正保2年(1645)歿
大宮真盛 (天下一大和)      河内の弟子、江戸で活躍。寛文12年(1672)歿
児玉満昌 (天下一近江)      児玉家初代、古元休の養子となるが洞白と同じく離縁となり児玉家を興した
                       宝永元年(1704)歿
 の6人である。しかし天和2年(1682)幕府の奢侈禁止令によってこれ以降の称号は廃止されてしまう。
明治維新を経過する中で諸大名も演能することはままならくなり、明治中頃となるとわが国の経済不況ははなは
だしく、旧大名たちは能面・能装束を売却し大半は古美術商の手により海外に流出させてしまう。(ヨーロッパへ
2000点、アメリカへ500点) 
しかし、問題はいかに多く海外に流れたのではなくその内容であり、ほとんどが江戸中期以後の写しがほとんどであった 
                

「能面論考」野上豊一郎著によれば

イギリス Victoria-Albert-Museum(ロンドン) 能面17・狂言面7、江戸中期以後の写しがほとんど
ドイツ Neue-Museum(ベルリン) 能面12・狂言面1「大喝食」は龍右衛門作か「敦盛」は角之坊
Vor-und-Fruhgeschichte(ベルリン) 能面200余、いずれも明治の新面で刀法も彩色も粗悪
オランダ Ryks-Museum(アムステルダム) 能面6・狂言面2 いずれも作品はよく室町の作も
Ethnographical-Museum(レイデン) 能面7・狂言面数点 いずれも作品はよく室町の作も
イタリア Museo-Artistico(ミラノ) 能面「大べし見」が2、「熊坂」1 江戸中期頃
アメリカ Metropolitan-Museum(ニューヨーク) 能面3・狂言面4 「弱法師」は近江作で可憐で美しかった
Museum-of Fine-Arts(ボストン) 能面6 「翁」そうとうの古作で岡倉天心の寄贈とか

国内に残った例としては

尾張・徳川家  能狂言面156点  徳川美術館 赤鶴 「獅子口 」 小牛 「笑尉 」 越智 「痩女 」 天下一・多数
紀州・徳川家  能面159点  和歌山県那須郡根来寺、室町〜桃山10数面、江戸(河内・是閑・友閑・児玉等)
肥後・細川家  約200点  永青文庫
肥後・松井家  103  八代市松井文庫 金春流使用面を主に、俊寛と石王尉のみがないとされる。
日向・内藤家  能面66点 狂言面6点  延岡市内藤記念館 天下一・多数 (若狭守角坊23点、是閑2点、他5点)
備前・池田家  能面131点狂言面39点   岡山市林原美術館(赤鶴6 龍右衛門4 越智1 徳若3 日永1) 
近江・井伊家  能面230点  赤鶴 文蔵 越智 石王兵衛 春若 是閑 河内 大宮 古面多数
吉田・大河内  能面67点 狂言面15点  (豊橋魚町熊野神社)、世襲面打師の優れた面多い 赤鶴「小べし見」
山口・毛利家   能面97点  (下関市野田神社)
大聖寺・前田家  約165点  大阪市鐘紡美術館
柳川・立花家  能面38点  伝来面のうち65点は高田町宝満神社に奉納、新開能保存会の所有
福岡・黒田家  能面32点   是閑「釣眼」、福来「皺尉」、宝来「茗荷悪尉」、洞白「曲見」
上田・松平家  能面62点 狂言面8点  是閑「若男」 児玉「曲見」「痩男」「猩々」「中将」 洞白「怪士」 洞水「生成」 
名張・藤堂家  能・狂言面45  (宇流冨志禰神社) 室町中期「黒色尉」「延命冠者出目栄満「小面」
土佐・山内家  能面149点  高知市山内神社
伊代・松平家  能面194点  松山市東雲神社

 現在でも多くの能面を所蔵されている。が「天下一」の作品はそう多くはない。

昭和から平成に入ると全国各地で薪能が盛んにおこなわれるようになり、
面打ちも、能面教室など各地で開かれ、誰もが趣味ではじめることが出きるようになった。
そして、「越前出目家」「大野出目家」を輩出した福井県では池田町が町おこしに
「能楽の里」をオープンさせ、
平成10年2月全国レベルの「能面公募展」が開催され全国から343名、567点の作品が集まった。、
平成12年10月には「第二回越前池田新作能面公募展」が全国30都府県から360点の作品を
集め盛大におこなわれました。こうした企画、公募展は各地で開かれる傾向にあり世襲面打ちの
流れが消え、かわって、純粋に能を愛する外からの人々が面打ちの中心になってきた。とくに
現在はより美意識について繊細な女流面打ち師の活躍が目立っている。
公募展での入選、個展の開催など究極的には一般の人にみてもらうのと同様、能楽師の目に触れ
能舞台で自分の作った面を使ってもらうのが面打ちを志す者たちの大きな目標となっている。

公募展 会期 審査員
第1回越前・池田新作能面公募展 平成10年 2月 6日〜2月17日 観世栄夫 田邊三郎助 中西 通
新作能「大坂城」「淀君」能面コンクール 平成12年 7月 1日〜7月17日  大槻文蔵 梅若六郎   中西 通 
第2回越前・池田新作能面公募展 平成12年10月12日〜10月26日 観世栄夫 田邊三郎助 中西 通
「能・狂言大賞21」あなたの面で舞います 平成13年 6月24日 梅若六郎 野村 萬

面打ちを職業とする人、また趣味として楽しむ人も、ますます増加する傾向にありますが
平成5年、故中村保雄氏は早稲田大学における「現代の能面作家ーそしてその教養」の
講演の中で、その条件を三つあげている。
@ 製作中に、作者として演者と意見の交換ができること。
A 完成された作品を舞台で使用してもらえ、さらに本人がそれを見ることが出きる立場に
   あること。
B 古能面についての知識を十分に持ち、さらに古能面の修理の出来ること。

そして、中村保雄氏は最後に
「能面を製作される方は、室町時代初期の面打師がそれぞれの面をどのような心で創作して
きたかということから考えれば、再び“面の心を打つ”ことに専念してほしいと思う。
そのためにも初めにのべた作家のもつべき三条件をよく実行できる作者としての活躍をして
ほしい。
」と語っています。(平成7年12月3日愛面会20周年記念講演会ー面打ちをする人の心得ーより)

梓屯「能面展」  ー面打師の歴史ー siton@h2.dion.ne.jp

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