天保水滸伝の舞台を訪ねる/2004.7.17〜7.19

飯岡助五郎は、相州三浦郡田度村で、家は代々漁業を営む石渡助右衛門の長子として寛政四年(1792年)一月に生まれた。18歳で相撲を志し、江戸相撲友綱の弟子となる。一年有余で師匠友綱の急死で相撲を廃業して、上総国九十九里浜沿岸作田村の網元文五郎の家に漁夫となるが、すぐに飯岡浜に移り、 下水井村の網元半兵衛の家で働きだす。助五郎は性剛毅果断、体力力量が衆にすぐれており、漁夫仲間の兄貴分となる。23歳で主家半兵衛の娘すえと結婚し網元となるが、当時から銚子生まれのサイと懇ろの仲であった。25歳正月に、飯岡一帯に縄張りを持つ銚子五郎蔵の乾分となり男を売り出し、三十歳の時、五郎蔵より飯岡一帯の縄張りを譲り受け、一本立ちの貸元となり、傍ら三浦丸の網元として漁業を経営しこれを本妻に委せ、遊侠渡世親分としての交際は別に一戸を構え、愛妾のサイに委せたのです。助五郎は優れて社会政策家であり政治力もあった。飯岡の漁船は出漁中にしけに遭い度々遭難したが、その都度、故郷三崎や房州、上総より若い船方を雇ってきて、飯岡浜の漁業の滅亡を防ぎ、これ等の船方に結婚政策で飯岡に永住させた。飯岡海岸が海触で削り取られるのを、大勢の乾分や若い者を総動員し防御につくした。助五郎は人情家で、乾分や漁夫、雇人や旅人に至る迄よく面倒を見て、死後は自らが施主となり永代供養している。この当時、銚子御陣屋より十手、捕縛を預かり、関東取締役出勤の際には、道先案内を努める身分となった。(二足の鞋を佩いたのが、これが助五郎の評判を落とした。もっとも、他に網元としての実業家の顔を加えると三足の草鞋になります)。八州廻りと呼ばれる関東取締役は文化2年(1805年)6月に設けられます。勘定奉行の指揮のもとで天領の村々を巡察し取締りと逮捕の権力を一手に担当する移動警察です。風紀の乱れ、博徒の横行に手を焼いた幕府がその取り締りの為に作った制度であるが、節操と魂を失った武士階級が権力を「かさ」に横暴に振舞い、その手先を利用し多くの庶民を迫害して起きた事件が多く伝えられる。権力の象徴ともいうべき十手、捕縄を博徒の親分である助五郎に与えるなど全く暗黒政治の極みであった。しかも下部機関として各村々の大小総代を連合させた寄場組合なるものを設けさせた。助五郎は太田村寄場役人代と言う役職で八州廻りが来ると道案内と称して丁重にもてなし金を贈り女を世話した。一にもニにも賄賂が通例であった。

この頃、利根川沿岸の香取郡須賀山村笹川に笹川繁蔵が現われた。先輩の大親分である助五郎を蹴落とすために地元の諏訪神社で花会を開いたり、若さに委せて無謀にも助五郎の縄張りを荒らしたり、助五郎の帰途を襲うようなことをし、さらに天保十五年八月四日夜半、勢力佐助(富五郎)その他乾分4、5名と共に、助五郎の本宅を襲撃するに至った。それまで我慢を重ねていた助五郎は、もはや力づく以外解決出来ないとついに決心した。天保15年(西暦1844年)8月6日の夜明け前、三艘の伝馬船に分乗した飯岡一家約50数名が喧嘩仕度に身を固め夜霧の下利根忍の河岸から出発し、笹川岸の笹川繁蔵宅へなぐり込みをかけた。天保水滸伝"利根川べりの大喧嘩"の幕開けです。なぐり込みではあるが、表向きは「御用」の為に召し捕るとの名目で「繁蔵及び同類の者召捕御用状」を用意し秘密裏に進め、手筈に万全を期した。笹川方は飯岡一家の「殴り込み」の情報が入り監視の手を緩めなかった。早々と迎え撃ちの計画を練っていた。笹川勢は半数足らずの20数名であったが、待っての戦さと地の利を得ての戦法がうまくいき、戦いが始まると、一時足らずで優勢になる。多勢であるが押され始めた飯岡勢は、はずみのついた笹川勢に追い詰められ数人の犠牲者を出し、親分助五郎も手傷を負ってついに 退却してしまう。笹川勢唯一の犠牲者が平手造酒です。桜井村の医師宅で病気療養中であった平手造酒は急を聞いて一里の道を馬を飛ばして駆け付けます。太刀を構えて笹川親分のそばを離れなかったのは、一宿一飯の義理以上の恩義からか。夜が明けて、退路を求めて河岸の舟まで引き上げる飯岡勢の前には、独り立つ平手造酒がいた。いかに達人といえ、病には勝てず、しかも多勢を相手にただ独りで立ち向かったのは覚悟のことか。繁蔵の子分が駆け付けた時には、飯岡勢は退却のあとで、平手造酒は重傷で倒れていた。全身十一ケ所を斬られていて、繁蔵宅に運ばれたが、左脇腹八寸の傷が致命傷で「親分の前途を見ずに死ぬのが心残りだ」と言い残し八月七日暁の子の刻に絶命します。

田端義男「大利根月夜」三波春夫「大利根無情」で唄われる平手造酒は謎の面が多く真偽を問う人が多い。平田深喜という浪人が繁蔵を頼って笹川に来たのは天保八年(西暦1837年)秋である。本名を隠し平田と名乗ったのも、武士が落ちぶれて博徒の用心棒となる身には当然であった。これが北辰一刀流の達人平手造酒である。千葉周作門下の使い手として将来を期待されていたが、生まれつき窮屈な事が嫌いな性分と不身持が不幸となり道場を破門される。浪人となり浪人仲間の友人宅を訪ねては、居候の生活を送っていたようである。この頃に不治といわれる肺病を患う。利根川沿いの長山街道滝の茶店で休憩中の浪人造酒を、所用帰りの夏目の新助が見かけて、事情を聞き親分繁蔵宅へ連れ帰る。繁蔵親分は心良く造酒を客分と迎えた。その後求められるまま身内の若い者や土地の人々に剣道を教える事となる。平手は不治の病を背負った身として人間の弱さから酒 をよく呑んだ。繁蔵は心配して子分の桜井の長次をつけて桜井村で静養させていた。平手造酒は白無地の単衣をきたやせて背が高く顔は青白い男であったと伝えられている。幕末は徳川三百年の封建体制が崩壊する前夜で、長年に亘る政治の歪みから世情は混乱して民心は体制から遊離して行く。武士もそれぞれが生きる道を求めた時代である。須賀山村から程近い長部村にあっても農民を愛し中庸を説き農地の交換分合などを行った大原幽学という農村指導の先駆者がいた。幽学は世界で最初の産業協同組合である先祖株組合を結成し土地改良や耕地整地・農地指導に意欲的に取り組み、長部村を模範村として立て直した。しかし、1851(嘉永4)年に関東取締役の手先(飯岡助五郎など)により弾圧事件がおこり幽学は6年間の取調べの後、改新楼は取り壊され先祖株組合も解散、幽学は100日の押込む処分となる。刑を終え長部村にもどった幽学は1858(安政5)年3月8日未明に遺書を残して自刃して果てる。これも時の政治に不満をもつ一人の武士の流れである。平手もまた武士という名分を捨て博徒の用心棒となる迄には人生の有為転変を経験し落ちぶれの中から始めて人間としての真実を見い出し最期を遂げたと思われます。

繁蔵の生いたちについて述べます。繁蔵は文化七年(1810年)に須賀山村大木戸に岩瀬嘉三郎の三男として生まれた。岩瀬家は羽計村の物持ちの旧家で醤油と酢の醸造を生業としていた。繁蔵の父嘉三郎は、笹川河岸の繁栄を見て醸造の出蔵を須賀山に作りそこに住み始める。この頃の笹川河岸は、江戸へ通う利根の水運による船着き場で、東庄三十三郷はもとより干潟八萬石耕地から荷駄によって入る年貢米を運ぶ御用船や商船で非常ににぎわった。繁蔵は笹川河岸に生まれの 「お坊ちゃん」育ちで、母親ぬい女は須賀山一の美人といわれた。七歳の頃に諏訪明神神主から漢学を学び、剣道も百姓の道楽剣法を習っている。特筆すべきは、角力が三度の飯より好きで強く、花角力や諏訪の角力祭りに度々優勝した。そして、ついには力士となるべく江戸に出て千賀の浦部屋に入り「岩瀬川」の四股名で相撲を取る。が、田舎角力で本職には通ぜず 約1年で、天保のはじめ頃に村に戻った。この時に千賀の浦部屋に勢力を名乗る柴田佐助がおり同じく郷里に戻った。勢力富五郎である。天保水滸伝は相撲くずれ3名と剣道くずれ1名が織り成す体育会系ドラマと云えなくもない。

常陸の芝宿文吉親分が須賀山村三郎右衛門(道三)の家に賭場を立てておる所へ出入りしたのが江戸から帰って間もない頃で、これが繁蔵が渡世に入る第一歩である。金の切れがよくて度胸があり男振りが良い、俗に三拍子そろっている繁蔵には自然に若者が集まり、いつの間にか親分、親分と立てられるようになる。文吉親分がこの様子をみて駒札を繁蔵に譲り隠居した。道三の娘お豊と自分との仲人である文吉へ義理からこれを受け継ぎ、近隣の親分衆に挨拶廻りなど行い、笹川の親分となっていく。天保五年 (西暦1934年)四月に父嘉三郎が亡くなり、実家は兄長七が嘉三郎を名乗りこれを継ぎ、繁蔵は別居する。この頃に子分となった主な者が小南庄助、清滝佐吉、五郷内忠蔵、名垂岩松、羽計の勇吉、羽計の忠吉、夏目新助、勢力富五郎がいる。

繁蔵の名が次第に高くなって来るにつれて子分の数も増え盃を貰った者約百名を超えた。しかし数年来の利根川の洪水と全国的な冷気で不作が続き村内の百姓の苦しみは一通りでなかった。百姓の困窮は渡世に入る者を多くするが、繁蔵は心中これを見過ごせず、勢力富五郎、夏目新助の計いで諸国の親分衆へ廻状を出し花会を開くことになった。花会とは親分衆だけの賭博を言い、胴元は寺銭をとるが名目が必要である。天保十三年七月廿七日諏訪明神の例祭日を利用し角力の元祖野見宿弥命の碑を建てると共に農民を救済するを名目とし花会を行った。飯岡助五郎のところへも丁重な廻し状が廻ったが、若僧のやることと軽くみて、名代として永井の正吉を差し向けた。ところが、奥州仙台の鈴木忠吉、信夫の常吉、上州大前田英五郎、佐伯郡国定忠治、駿州清水の次郎長等天下の親分衆がいずれも出席し大盛会であった。この席で、助五郎の名代永井の政吉は諸国の親分衆の席上で国定忠治に罵られた。この日の奉納角力も近来にない大盛況であったという。

新進の繁蔵は次第に古顔の助五郎の縄張りを侵す勢いとなった。縄張り争いはひとつの重大な経済問題です。万才、夏目、清滝、小南それぞれに繁蔵の子分がおり、助五郎の方は大間手、清郷と常に相にらみ合う形である。近郷近在での盛り場、岩井不動明王での双方の小さな諍いは数え切れないほどあった。この掛場での寺銭は少ない金額でなく助五郎にとっても繁蔵にしても自分の勢力下に入れたかった。廿八日は不動尊の祭りで、この祭に野天博打を建てて、寺銭をあげ子分に持たせ帰ろうとした助五郎は闇の中で背中を切られた。助五郎はそのまま田んぼの中へ滑りこみ、死んだふりをして、次ぎの刀をさけ、九死に一生を得た。その後、十手に物を言わせて犯人を探るが判らない。この事件の二、三ケ月前に同じ岩井不動で笹川身内の若い者が助五郎に捕まり、頭の毛を半分むしり取られことがあった。もつれ、もつれてさらに両身内の空気は険悪になっていき、干潟八万石耕地を目の前にするこの不動尊は一触即発の危機にあった。古い縄張りを持つ助五郎は、このまま繁蔵の勢力の伸びるに任せて置いては大変なことになるとの危機感から「笹川への殴り込み」を考えるに至ったのである。

だが、前に述べたとおり、飯岡勢は散々な負け戦となった。永井の政吉は戻る舟の中で死に、木の内の金治と永井の利兵衛は笹川へ残されて死んだ。疲れ果てた一家を乗せた船が利根を下って野尻村へ着くと助五郎は二日後に関東取締役宛に一件の届け書を差し出した。八州取締役の桑山はただちに実地検証を行った。笹川一家は既に離散のあとである。御用お触れ書きに依って繁蔵の行方を全国に手配するとともに須賀山村名主に対しては繁蔵の身分糺書を差し出させた。飯岡助五郎に対しては「御用と申しながららその計らいかたに不行届がある。吟味中入牢申し付ける」と、喧嘩両成敗の強いお達しが下る。当然な処置であるが、飯岡方にとっては予想もしない大事となる。子分達は匝瑳郡各村々の名主総代に頼み親分赦免の嘆願書を差し出した。嘆願書は八州廻りから江戸奉行に廻った。時の江戸奉行遠山左衛門景元から「村方から助五郎は意趣遺恨での斬り込みで無いとの嘆願が出た事である故赦免にしてよかろ」との裁きが出て助五郎は七十余日の入牢から解放され飯岡に帰ることが出来た。浮かばれないのは三十三村の名主達である。嘆願書を出した為に繁蔵召捕の為に使われたと称する「殴り込み」の経費を負担させられた。喧嘩の金を支払わされたのである。一方、繁蔵は子分一同に有金全部を分配し「助五郎は二足の鞋」必ず御用の手を廻すに違いないとから「この場から旅に出ろ」の繁蔵の言葉に子分一同はただちに散って行った。繁蔵は一人奥州路へ出るつもりで海路を取ろうとしたが銚子陣屋が危ないと見て利根を上ってそれから先の消息不明となる。奥州から紀州に入り約三年間は各地の親分衆を頼って廻ったが前年に参加した親分衆の顔もあって悪い扱いを受けなかった。 飯岡一家は繁蔵のその後の消息を追って打ち取る時期をねらったがどうしても手が出せなかった。そして三年が過ぎた弘化四年の春に、長い草鞋を掃いていた繁蔵が笹川に戻って来た。

繁蔵は永い間旅で過した疲れも見せず仁義応対なかなか立派である。子分達もそれ親分が帰ったというので逃げていた連中もぞくぞく集まりその勢いは以前に倍したようである。取り上げられていた縄張りも奪い返し逆に岩井不動尊の境界も突破した。四ッ塚、岩部、小見川にかけて縄張りを広げて行った。お上の「ほとぼり」は冷めたとは言え助五郎がいる。これを無視した行動であった。この頃の飯岡一家は中心人物の永井の政吉はすでに亡く助五郎妾腹の子境屋与助が一家の中心である。繁蔵を何とかせねばと相談し闇討ちと決まった。虚無僧姿にみなりを変えた与助、三浦屋孫治郎、成田の甚蔵は舟で須賀山に潜んだ。弘化四年(1847年)七月四日の夜繁蔵は賭場を終わって子分を相手に一ぱいやり、日が暮れてからお豊のところは行く気になった。旅から帰ってからはいつも出かける時には鎖かたびらを肌から離さず、 子分を二、三人連れて歩くのが常だった。がこの夜に限り子分の注意をよそに長着一枚で出掛けたのが運の尽き。全くの油断であった。途中大木戸の兄嘉三郎の家に立ち寄ったが長居をせずここを出た。米と肥料を商う 萬田屋の角を曲がって四ツ半(午後十一時過ぎ)ビヤク橋の榎の下へ通りかかった。 翌五日の朝になって野良へ出て行く百姓がビヤク橋の廻りが、おびただしい血痕が浴び踏み散らされて居るのを発見し大騒ぎとなった。この日から繁蔵の姿はこの世で見る事がなかった。繁蔵はここで飯岡の三人によって殺された。首をはねたあと、屍体は叺に入れられて舟で逃げる途中利根川へ捨てられた。飯岡の三人は舟で菰敷まで逃げ舟をここへつなぎみなりを替えて飯岡へ逃げ帰った。時に繁蔵三十八歳であった。笹川一家の悲しみと憤慨は言葉に尽くせなかった。子分一同はビャク橋元に血痕の土を集めて防内原の共同墓地に埋めた。お豊が銚子街道沿いの適地を選び立派な平石の碑を建てねんごろに葬ったのは明治七年ことである。 一方、飯岡の三人が繁蔵を闇討ちにしてその首を掻斬り、助五郎の許へもって来た時、助五郎は涙を流し、これを丁重に葬り、香華を絶やさぬように乾分達に命じた。繁蔵の首を葬ったのは、助五郎の菩提寺たる光台寺より田甫伝い半丁先の定慶寺にのこる笹川繁蔵の首塚の所である。

繁蔵親分亡きあと、一家の中心は勢力富五郎である。富五郎が親分繁蔵の仇を討とうとして再三にわたり飯岡に乱入を企てたが志しを果たすことが出来ず関八州の捕方役人多勢に追われて子分寅松と共に金比羅山で自決したのは嘉永ニ年(1849年)四月ニ十八日の事である(天保の乱)。この時動員された関八州の捕り方役人は約三百余名と言われ、これらは萬歳村鍵屋、須賀山村山本八右衛門外数戸に分宿すとある。二ヶ月余に亘る大捕物であった。この一連の事件が宝井琴凌の取材により「天保水滸伝」として世の発表されたのが翌年の嘉永三年(1850年)のことである。金比羅山の頂上に明治七年里人によって「勢力霊神」の小碑が建てられ、以来この山は勢力山と呼ばれるようにいたった。同じ場所に「ほととぎす金比羅山の一声は関八州に響く勢力」の歌碑があるが、これは遥か飯岡を望みつつ恨んで自刃した富五郎の霊を慰める為岩瀬家一族によって建てられたものである。繁蔵の子分として盃を貰った者は凡百名と言われるが、主だった者は約三十名である。御用御触書は関東一円に廻り、八州の手先によって追われる身となった。そしてほとんどが一、二年をたたずして捕まえら処刑されてしまいます。一方、助五郎は、世のために尽くした功労で、江戸町奉行より、数度に青差しの褒章に預かる。ニ代目を愛妾サイとの実子堺屋与助に譲り、川端の隠居として、近所の子供達とたわむれて遊ぶ好々爺になりきり、安政六年(1859年)四月十四日、六十七歳を一期として、大往生を遂げます。

諏訪神社 天保水滸伝遺品館
平手造酒之墓 天保水滸伝発祥之地/延命寺
笹川繁蔵之碑 大原幽学記念館
刑部岬から飯岡町・九十九里浜 光台寺
飯岡助五郎之墓 定慶寺
笹川繁蔵之首塚 玉崎神社
飯岡助五郎之碑