Moe Norman 物語
目次
略歴
有名プロのコメント集
プロローグ
アマチュア時代
プロ時代
プロ時代の逸話
引退後
モー語録集


略歴

カナダのプロ・ゴルファー。1929年生まれ。出身地 : オンタリオ州のキッチュナー。
2004年12月 入院先の病院で心臓病のため没。(享年 75歳)

成績
1955年 (26歳) 全カナダ・アマチュア選手権優勝。全米マスターズの招待選手となる。
1956年 (27歳) 同上選手権優勝。

     この間省略

1964年 (35歳) プロに転向。

プロ転向後も優勝多数。

ホール・イン・ワン : 17 回 (うち直接カップ・イン 8 回)
コース・レコード : 40 コース以上。スコア 59 が 3 回。 3回目の 59 は 62 歳の時。 61 が 4 回。

60年間ストレート・ボールを打ち続けた男。
ベン・ホーガン や サム・スニードを驚嘆させた男。パイプラインのようなストレート・ボール。
人は彼をパイプライン・モーと呼んだ。


有名プロのコメント集

リー・トレビノ

「モーほど正確にボールを打つゴルファーは他にいない。彼はボールをいつも芯で捉え、ボールが何処に行くか知っている。」

ゲイリー・プレーヤー

「私の知るかぎりでは、モーほど無駄な動きの少ないスウィングをするものはいない。」

ケン・ヴェンチュリ

「もしフェアウェイの中央にパイプラインを敷いたとしたら、モーのショットはそれに沿って飛ぶだろう。」

トム・ワトソン

「他の誰よりもうまくボールを打つ男を教えよう。彼の名はカナダのモー・ノーマンだ。」

サム・スニード

「彼はゴルフをするのに最も適した両手を持っている。」

ジョン・レッドマン

「今向こうからやって来る人が世界一のボール・ストライカーだ。」

ポール・アジンガー

「彼が 250 ヤードの標識めがけてドライバー・ショットを打つのを見ていたが、左右に 10 ヤード以上は決してぶれなかった。」

ニック・ファルド

「ボールに当たる瞬間、全てのクラブが同じスピードだ。全く信じられない。」


プロローグ

(以下の分は、Reader's Digest (1999年 12月号)に掲載されたものを骨格とし、それに筆者の知り得た情報を加えたものである。)

フロリダ州オーランド、あるカントリ・クラブの朝、大勢の観衆がゴルフのデモンストレーションを観に集まっていた。その群集をかき分け、白髪でがっしりした体躯の紳士が歩いて来た。彼の名前を知らない人にとっては、この悪戯好きな顔つきの老人は何処でも見かける日焼けしたサンデー・ゴルファーにしか見えないだろう。
彼の格好といえば、この暑いのに黒色のタートルネックの長袖シャツ、派手なスラックス。膨らんだポケットには、ゴルフ・ボールが2個(1個ではなく3個でもなく常に2個)入っている。左手には同じ時刻を示した腕時計を3個はめている。

所定の場所に来ると、彼はバッグからウェッジを取り出し、70ヤードのショットを打ち出した。
最初のうち、観客は特に変わったことはないといった表情をしている。しかし、視線をボールが落下する方向に移した観衆は感嘆の声を上げる。
打たれたボールは前のボールの上に落ちていくのだ。「同じショット。」 「同じショット。」老人は少し甲高い声で2回繰り返す。

次に彼は7番アイアンを取り出し、150ヤード・ショットを打つ。次々と打たれたボールは真直ぐに飛んで、丁度ベッド・カバーを拡げたくらいの処に全部集まっていく。続いてドライバーに持ち替えると、矢継ぎ早に250ヤードのストレート・ショットを繰り出す。今度はボールは凡そ車庫くらいの面積の芝生の上に集まっている。
驚いた観衆が感嘆の声を上げると、老人は「完全にストレート。」「完全にストレート。」と、さも唄うように2回言う。

彼がどのような生い立ち、経歴の人かを知っている者にとっては、その完璧なショットは別に不思議でも何でもない。しかし、それ以外の人々は彼の名前さえ聞いたことがないというのが正直なところであろう。生涯孤独であった彼が、唯一安心して身を置ける世界、それはゴルフであったが、そのゴルフ社会に受け入れてもらうために如何に死に物狂いの努力を重ねてきたか、その物語を知る者は今もって少ない。


幼少年時代

モー(マレイ)・ノーマンは1929年カナダのオンタリオ州キッチャナーで生まれた。
5歳の時、友達と近所の丘でソリ遊びをしていたモーは、勢いあまって車道に滑り降りてしまった。
丁度そこへ車が走って来て、後輪でモーの頭を轢いてしまった。友達は泣きながら、モーの両親に事故を告げに走った。

モーを病院にやることもできない程貧しかった両親は、ただひたすら神にモーの頭脳に障害がないことを祈るだけだった。
両親の祈りが通じたのか、モーは奇跡的に助かった。しかし、顔の骨が少し歪み、言語障害が残った。

学校に通うようになってからも、モーの言語障害は直らなかった。ハイピッチの声で、同じことを二度繰り返して言う癖である。
何事も動作が鈍かったモーは、クラス中の笑いものだった。しかし、一つだけ彼が抜きん出ていた科目があった。それは算数であった。二桁以上の数字を暗算で素早く行い、クラス中を驚かせた。また、彼はどんな数字でも記憶してしまった。

友達の居ないモーにとって、唯一の連れは古い錆びた5番アイアンだった。(一説によると、このアイアンはある人から、毎週10セントの分割払いで買ったともいう。)このアイアンで家の裏(以前ソリ遊びをしていた場所)で、暇があればボールを打っていた。夕暮れになってもボール打ちに熱中し、食事も忘れる程だった。
ボールを打っている時が一番幸せな時だった。

ある時、モーの打つ動作を見て、知り合いの大工のおじさんが、「坊や、そんな握りじゃ駄目だよ。ほら、わしがハンマーを握るように、右手でしっかりと握らなければ。」とアドバイスした。その時以来今日まで、モーのグリップはパームグリップである。

12歳の頃、モーはあるカントリークラブのキャディーのアルバイトをしていた。

或る日、ある鼻持ちならない客がチップを少ししかくれなかったのに腹を立てたモーは、客のゴルフバッグを投げ捨ててしまった。勿論、即首になった。
その後、モーはキャディーのアルバイトを辞めて、近所のパブリック・コースで自分のプレイに専念することにした。

16歳でモーは学校を辞めた。そして、ゴルフに専念した。費用はアルバイトで稼いだ。


アマチュア時代

19歳の時、モーは自分が特別なゴルフの才能を持っていることを知った。それは、自分の思う処にボールを打てるという才能である。

20歳になって間もなく、彼は家を出て、カナダ各地のアマチュア・ゴルフトーナメント巡りを始めた。試合がない時には、アルバイトをして参加費用を稼ぎ、開催地へ行くには誰かの車に便乗させてもらって旅費を節約した。 トーナメント最初の頃、この赤毛で歯がねじれ、けばけばしい格好をした若者にギャラリーは戸惑った。彼の行動は、はしゃぎ好きの子供のようだったし、その自己流のスウィングは変則的だった。

両脚を一杯に広げ、あたかも野球の打者がベースに立つような格好でボールに向かい、クラブをハンマーのように握っていた。誰もが彼を道化師とみなし、ゴルファーとは見ていなかった。
彼がティーグラウンドに立つと、皆クスクスと笑った。

しかし間もなく、彼はそのおかしな格好からではなく、才能で見直されるようになった。彼の素早い動作から繰り出す正確なショットは、アマチュア・ゴルフ界で評判になった。 1年間で61 のスコアを 4回だし、コースレコードを 9回塗り替えた。年間 26回出場し、そのうち 17回を優勝で飾った。

彼は自分の評価が高まってからも大変な恥ずかしがりやだった。特に優勝した時、人前でスピーチをするのが苦手だった。


彼が26歳の時、全カナダ・アマチュア選手権で優勝したが、表彰台に立つのがいやで姿をくらませてしまった。友人が捜しに行くと、彼は近くの川で、両足を水に漬け、疲れを癒していたという。 この大会の優勝は、彼にアマチュア・ゴルファーとしての最高の栄誉を与えることとなった。それは全米マスターズへの招待であった。その頃、彼はボーリング場でピンを並べるアルバイトをしていた。 マスターズへの出場は、単にカナダ代表としての名誉だけではなく、彼が少しだけ運がよく風変わりなゴルファーに過ぎないと思っている人たちに、そうではないのだと示す絶好のチャンスであった。 しかし、5歳の時に彼に取り付いた疫病神は、この晴れの舞台にもまたして顕れた。 輝かしいマスターズ出場選手達に混じったモーは、自分が別世界からやって来た異人種のように思えた。第一ラウンドは惨めな成績だった。(註:惨めといっても 75 のスコアは出している。) そして、翌日は更に惨めだった。
第二ラウンド終了後、彼が練習場で黙々とボールを打っていると、そこへ有名な サム・スニードがいつの間にか来ていた。
「ちょっとアドヴァイスさせてもらってよいかな?」

サム・スニードはモーの3番アイアンのスウィングに関して、一言助言した。
ゴルフ殿堂入りをしている サム・スニードといえば、モーにとっては雲上人だった。その人の助言といえば、モーにとってはモーゼの十戒と同じくらい敬謙なものだった。

その助言を参考に、モーは暗くなっても黙々とボールを打ち続けた。手のひらが血がべったりとなっても止めなかった。
翌日の最終ラウンドでは、血だらけの彼の手はクラブを握ることができなかった。彼は屈辱のリタイヤーをせざるをえなかった。

カナダに戻ったモーは、アマチュア選手権でまた次々と優勝した。優勝商品はテレビ、腕時計など、持て余すほど増えていった。彼はそれらを売りにだして生活費の足しにしていた。


プロ時代

モーがプロに転向したのは35歳の時である。そのきっかけは、ロイヤル・カナディアン・ゴルフ からのクレーム,即ち、モーが選手権に出場するためにスポンサーから義捐金を募っているのは、アマの規定に違反すると言われたからであった。

プロに転向しての第一戦、オンタリオ・オープンで優勝した。
プロになっても、彼はアマチュア時代のように、悪戯小僧のような仕草でギャラリーを笑わせた。彼は非常な早打ちだったので、他のスロー・プレイの競技者が打ち終えるまで、フェアウェイの上に寝そべって眠るふりをして見せたりした。

カナダのギャラリーはこのパフォーマンスを喜んだが、アメリカでは通用しなかった。
1959年のロスアンゼルス・オープン の時、試合後のロッカールームで、モーは数人のアメリカ人プロに取り囲まれた。
「試合中におどけた真似をするのは止めろ! また、そのだらしない格好も改めろ! もし改めないなら、もう二度とアメリカではプレイするな!」 と詰め寄られた。

(筆者註:アメリカ人プロの中にアーノルド・パーマーも居たらしいという説もある。もし、そうであれば、下の記事 − アーノルド・パーマーのような有名選手とは対峙しなかった。 − は誤りとなる。
モー自身がこのことに関して固く口を閉じて話していないので、真実は分からない。筆者が見たビデオでは、アーノルド・パーマーとラウンドする若き日のモーの姿がある。
筆者の推測ではあるが、これだけ数多くの有名プロが彼のストレート・ボールに関してコメントしているのに、アーノルド・パーマーのコメントは見当たらない。ひょっとすると、ロッカー・ルームでの出来事にパーマーは関係していたのかもしれない。もしそうだとしたら、彼らの大人気ない詰問はアメリカ・ゴルフ界にとって大きい痛手であった。もし、モーがマスターズや全米プロに出場していたら、ゴルフの歴史が違ったものになっていたに違いないと思うからである。
しかし、この話は日本だから言えることであって、アメリカ本国ではどうも禁句のようである。アーミー軍団を引き連れラウンドしていたパーマーの存在はアメリカ・ゴルフ界であまりに大きいから。

かってモーの物語を映画化する話があった。脚本まで出来上がっていたらしいが、ついに映画化は実現しなかった。この理由は不明であるが、筆者の独断的憶測では上記ロッカー事件が関係しているように思える。というのは、モー物語であれば、彼が何故アメリカでプレーしなかったのかを描かないといけないし、その理由は上記ロッカー事件である。そして、ロッカー事件のシーンにはゴルフ界の某有名人が出てくる。その有名人のイメージを傷つけるような映画を製作する程ハリウッドは馬鹿ではないと思うからである。)

その事件以後、モーには暗い陰が宿るようになった。モーは二度とアメリカではプレイしないと決心した。
彼自身は小さい時から、アメリカのプレイヤーに憧れていた。彼はその仲間に入れて欲しかったのである。しかし、彼の振る舞いは少し常人とは異なっていた。それ故に彼は罰を受けたのである。

彼は、ジャック・ニカラウス とか アーノルド・パーマーとかのアメリカ選手とは対峙しなかったので、カナダ以外では殆ど知られていなかった。
しかし、カナダでは彼の成績は素晴らしかった。カナダのPGAツアーでは、54 試合に勝ち、33 のコースレコードを達成している。

世界的プレーヤーでも生涯でホールインワンは数回しか達成できないのに、彼は 17回も達成している。

1980年代に入ると、彼の競技に対する情熱は次第に薄れていき、優勝回数も段々少なくなっていった。そして不調に陥ってしまった。

彼は裕福ではなかったのに、金銭には無頓着であった。金に困っているゴルファーには、何千ドルと貸し与え、返済の催促はしなかった。
間もなく、彼は破産してしまい、誰からも忘れ去られてしまった。安アパートや下宿にも住めなくなり、安モーテルに移った。また、車の中で寝ることもしばしばであった。


プロ時代の逸話

モーがある練習ラウンドで サム スニード と回った時、パー5 のティーグラウンドでの会話。
サム 「おい君、あそこのクリークは越えられないだろう。私は手前に刻むよ。」 
サムのボールはクリーク手前に見事に止まった。

「いや、僕はあの橋を渡って行きます。」
モーの打った球は、橋の手前に落下し、橋の上をコロコロと転がり、対岸のフェアーウェイに達した。


あるトーナメントでのティーグラウンドで、モーはギャラリーの中の記者が仲間に話しているのが聞えた。
「モーはパットが下手だからな。きっと今度もスリーパットするぞ。」
モーは黙ってバッグから3番アイアンを抜き出すと、パシッと打った。
「このホールはパターは要らないよ」 ボールが未だ空中を上がっていく時にモーは叫んだ。
モーが言い終わると、ボールはピンの中に吸い込まれた。


試合前の練習場で、モーは有名な ベン ホーガン が居るのに気がついた。日頃、彼が「ストレートボールなんてまぐれでしか打てるものではない。」 と言っているのは知っていたモーは、友人に頼んで ベン ホーガン を呼んで来てもらった。

ベン ホーガンが現れると、モーは一発パシッと打った。球は弾丸のように真っ直ぐに飛んでいった。
「あっ! まぐれだ!」 モーはわざと大声を上げた。
2球目も真っ直ぐだった。 「あっ! また、まぐれだ!」 モーは大声を上げた。

3球、4球、5球目も同じだった。モーは「まぐれ」、「まぐれ」と大声を上げ続けた。
「おい、君! そのまぐれをずっと続け給え」 ベン ホーガンはそう言って、その場を去った。


あるラウンドの最終ホールで、同伴競技者二人の会話が聞えた。
「バンカープレイが上手いのは誰それと○○○、それに△△△だろうな。」 その中にはモーの名前は出てこなかった。

第2打をピン側 1メートルに付けたモーは、そのボールをわざとバンカーに入れた。バンカーから、また同じ位置にピタリと付けたモーは、「どうだ!バンカーショットが一番上手いのは僕だろう?」 と言うと、そのボールを 1パットで沈め、優勝した。


モーはプレーする時、いつも観客を楽しませようとした。
ある試合で、コースレコードを達成するには最後のホールをパーで上がることが必要だった。彼はそのコースが初めてだった。そこで、一緒に居たそのコースのプロに、何番と何番のクラブを使うのがよいかと尋ねた。そのプロは、通常はドライバーの後、第二打は 9番アイアンでしょうと答えた。
そこでモーはティーショットに 9番アイアンを使い、第二打にドライバーを使ってピン側 3.3メートルに付け、それをワンパットで沈めバーディーで収めた。


引退後

モーが人々から忘れ去られてから数十年の歳月が流れた。
行方不明の彼を見出したのは、Natural Golf の創始者、またLPG の創始者 ジャック・
カイケンドール である。

ジャックが編み出した単軸打法のモデルになるゴルファーを捜していて、昔カナダにそのスウィングをする モー・ノーマン というゴルファーが居たのを思い出したのである。ジャックは全米中、カナダ中を探し回り、やっとモーに出会った。

ジャックから、単軸打法が何故正確なストレートボールを打てるのか説明を受けたモーは、「私のボールが何故ストレートなのか今初めてわかりました。」 と言った。モーの最初の質問は、「先生、私が上達するには未だどんな方法がありますか?」 だった。
モーがポケットからよれよれになった写真を取り出しジャックに手渡した。
「これは1963年以来の私のスウィングの写真です。何かのお役に立つでしょうから。」

そして、喜んでジャックが推進する打法のデモを行うことを了承した。
モー・ノーマン の打法が再び脚光を浴びだしたのはこれ以来である。

或る日、モーに面会にある紳士がやって来た。タイトリス社社長の ワリー・イーレイン氏だった。
彼はモーに、生涯にわたり毎月 5000ドル進呈したいと申し出た。

驚いたモーが、「私は、今まで御社のボールを使ったことはありますが、これから先いったい何をすればよいのですか?」 と質問すると,
「何もなさらなくても結構ですよ。あなたはもう十分ゴルフ界に尽くされたのだから。」
それでも未だ不審気なモーは、「もし私がお受けした場合、ここに居る友人のジャックに何か迷惑がかかることはないでしょうね?」
「いいえ、何もありませんよ。」
「それなら、喜んで受け取りましょう。」

イーレイン氏が帰った後、モーとジャックは抱き合って嬉し泣きした。
モーは、今までの不遇からやっと抜け出せるという安堵から、そして、ジャックはモーの友情に感激して。

その二週間後、モーはカナダのゴルフ殿堂に名を連ねる栄誉を得た。しかし、現在でも彼の名前は母国カナダ以外では一部のゴルフ愛好家を除き殆ど知られていない。それら極一部の人々にとっては、モーはかってリー・トレビノをして、「私がスパイクを履いて以来今日まで出会ったゴルファーの中で、世界一のボール・ストライカーは彼だ。」と言わしめたように知られざる英雄であった。
ジャック・カイケンドールの意見、即ち、もし40年前に誰かがモーに援助の手を差し伸べていたら、かれの名前はベーブ・ルースのように人々に知られていただろうということに誰もが同意するであろう。

フロリダ州のあるカントリー・クラブの駐車場に停めたグレイ色のキャディラックの中で、モーにインタビューした時、モーは自分のこれまでの人生、家族のこと、つらかった嫌がらせなどを思い起こしてぼつぼつと話してくれた。自分には今まで心から相談にのってくれる人、アドバイスしてくれる人などがいなかったということも。

最後に彼は感慨深げにこう語ってくれた。
「最近の子供はクラブまで親に送ってきてもらう。高価なゴルフ・シューズを履き、手には20ドルもするグローブをはめてね。スラックスも素敵だ。母親に『坊や、プレーを楽しんでらっしゃい!』なんて言われてね。」「この言葉を聴くと私は泣けてくるんだ。私は一度だってこんな言葉を親からかけてもらったことがないからね。」

「誰もが私に幸せになって欲しいとは思ってくれてはいたんだろうけど、私は自分流にずっとやってきたのさ。」
「毎晩ベッドに入る前には窓際の椅子に座り、自分にこう言うのさ、『私の人生は私のもの。』『私の人生は私のもの。』」

(筆者註 : 原文では "My life belongs to me." となっている。上の訳は直訳であるが、もう少し深い意味がありそうである。自分の人生は自分で切り開いていくものだということを彼は言いたかったのだろう。)

それだけ語ると、彼は車のドアをパタンと閉め出かけようとした。何処に行くのですかと尋ねると、今まで暗かった彼の表情がぱっと明るくなり、
「ボールを打ちに行くのさ。」「ボールを打ちにね。」と言うと歩き始めた。
この時間が、今もそうだし、これからもずっとそうであろうが、彼にとって一日中で最高の時なのだろう。


(筆者後記)

生活の安定を得たモーは、冬の間はフロリダで、夏にはカナダで過ごすのを常としていた。その間、請われればゴルフスウィングのデモを観客の前で披露することを入院直前まで続けていた。

2004年に心臓の手術を受けるために入院して、今はリハビリ中とのニュースがモーのファンのウェブ・サイトで飛び交っていた。誰もが、退院後にはまた彼の正確無比のショットが見られるものと期待していた。
しかし、運命の女神は非情であった。

2004年の冬、悲しいニュースがアメリカのゴルフ愛好家が集まるウェブサイトに掲載された。
かねて入院中のモーが心臓病のため亡くなったという知らせであった。
彼の葬儀には、彼を愛する大勢の人々が参列した。その中には、アメリカから駆けつけたタイリスト社イーレイン社長の姿も見られた。

彼の遺品は彼が長年愛用した古いキャデラック1台だけだった。そのトランクには彼が長年打ち込んできたゴルフクラブが数本在るのみだったという。また、運転席のグローブボックスには現金数千ドルが手付かずのまま残っていたとのことである。

世界中のモーのファン(ファンというより信仰者という方が真実に近いだろう、彼らにとって、モーは彼らが目指す完璧なゴルフの頂点に立つ神様みたいな存在であったから。)が彼の死を悼み、ウェブ上に哀悼のコメントを掲載した。ある者は、モーに対するタイトリスト社社長イーレイン氏の行為に感激し、今後はボールはタイトリストに切り替えるとウェブ上で宣言した。

彼の死後も、ウェブ上では彼の生前の逸話、彼のスウィング(グリップ、体重移動その他)に関するディスカッションが盛んに行なわれている。


モー語録集