橙子は、窓からバイクに乗って走り去る姿を見送った。
「全く、自分の幸せに気付かないとはな。両儀織」
式という器を失って、自分のカタチを失ったというなら、いくらでも自分のなりたいカタチに成れるという事だろうに。橙子は、タバコを灰皿に押しつけた。
織と入れ替わりに鮮花が工房に入ってくるのを見掛けた橙子は、椅子に座り直した。
ここは、本当ならわたしの手術室になる場所だった。未完成のショッピングモールは、灰色のコンクリートの壁がむき出しで、この部屋の白い壁だけが夜空に四角い月が浮かんでいるかのように奇妙に浮き上がっていた。
今はまだ宵の口だが、台風が来るので湊啓太を探すのは早目に打ち切った。
この二日間は、据え付けてある手術台をベッドの代わりにして泊まり込んでいた。このベッドで見る夢は、あの人との思い出ばかりだった。
あの人がわたしに向ける笑顔。あの人がわたしに手を振っている。あの人が妹とわたしに挟まれて困った顔をしている。あの人が……。
「夢って、痛みを感じないって、本当かな?」
元々痛みを感じないわたしには、そんなの判らない。考えれば考える程、わたし自身が夢のような存在に思えた。
全部、夢であってほしいと、わたしが願っているからだろうか。
でも、夢の中の幹也さんはとてもはっきりしていて、だから幹也さんがいない今が現実だと、わたしは思い知らされていた。
運命流転 unchanged destiny.
/14
僕は、織が藤乃ちゃんを殺すと聞いて、いてもたってもいられなかった。出来るなら、今すぐにでも二人の間に割って入りたい所だ。
しかし、思わぬ邪魔が入った。
「ねえ、鮮花」
「ダメですっ」
織と入れ替わりに寝室に入って来た鮮花が、僕がベッドから出る事を許さなかったのだ。
「せめて、橙子さんに、湊啓太がどうなったのか、聞いてくれないかな?」
橙子さんは、隣の部屋だ。この部屋は正面のドアしか出入り口がなく、少し躊躇した鮮花も、用心すれば僕が逃げられないと判断して、寝室から出て行った。
鮮花が部屋を出て、数分。僕は、ベッドから出て、そっとドアを開けた。
ドアの隙間から事務所を覗くと、橙子さんが机に座ったまま僕に向かって顎で外に出るように指示をした。鮮花はといえば、橙子さんの前で棒立ちになっていた。
一体、橙子さんは鮮花に何をしたのか、僕には判らない。今は、橙子さんに感謝するだけだ。
藤乃ちゃんの殺人の原因の一端が、湊啓太を隠した僕にもあるのなら、僕もブロードブリッジに行かなければ。
駐車場のバギーで待っていると、橙子さんがコートを抱えて降りてきた。
/15
降りしきる大雨は、目覚し時計よりも遥かに賑やかで、わたしは寝付けなかった。
「雨が降ると、思い出す」
四阿で式さんに出会った夜も、雨が激しく降っていた。
変な人だったけど、悪い人では無かった。今思うと、わたしは彼女が嫌いではなかった。それどころか、もう一度会いたいとさえ思う。
でも、その式さんも、亡くなってしまった。
わたしが好きになった人は、みんな死んでしまった。
あの人だけが、生きている。
「え?」
わたしは今、誰の事を考えていたのだ?
わたしの脳裏に浮かんだ、あの人は……。
「外に出よう」
部屋を出たわたしは、出口に向かって歩き出した。こんな嵐の日に外出する人がいるとしたら、わたしの他はあの人位だろう。
また、会えるだろうか。織さんに。
橙子から聞かされた手術室に向かって、織は橋の中を進んでいた。
暗がりの向こうから、織に向かって歩いてくる人影が見えた。
「おまえは!」
「あなたは……」
先に気が付いたのは、藤乃を殺しに来た織の方だった。
何故、織がここにいるのか判らない藤乃は、反応が何秒か遅れた。
「わたしを、殺すのね」
織の目的を悟った時には、既にナイフをかわす事も出来ない程に接近していた。
藤乃にナイフを突き付けた織は、そのまま、転んだ。
「え?」
自分に何が起きたのか悟った織は、藤乃の能力の手強さを理解した。織は、一瞬右側から重力を感じて、バランスを崩したのだ。
横向きの重力なんて、織には予想出来なかった。
「既に、エンドルフィンは切れているのか」
起き上がった織は、手近な柱の陰に飛び込んだ。不思議と、その間の数秒間に藤乃からの攻撃は無かった。
「一度に、一つの力しか使えないのか?」
それでも、藤乃の力は驚異だった。
少しだけ柱から顔を出してアーケードを見回したが、藤乃の姿は見えなかった。彼女も、どこかに隠れているのか?
突然、織はアーケードの中央広場へと引き寄せられそうになった。
「うわっ」
柱から剥き出しになった鉄筋を掴んだ織は、横向きにぶら下がった。片手だけでは抗い切れなかった織は、ナイフを手放してしまった。
広い場所に飛ばされたナイフは、固い音を立てて床に落ちて転がった。
重力が元に戻ると、織はまた柱に隠れた。床のナイフは、まだ床に落ちている。ナイフが曲げられる事もなく、床に落ちたままなのが、織には不思議だった。
「やっぱり、罠なのか」
罠にしては、あからさまだ。あんな隠れる場所のない所に、行く気にはなれない。
「いや、違う」
藤乃の目的が判った織は、広場まで走り出して駆け抜けざまにナイフを拾った。案の定、藤乃の攻撃は無かった。
まさか、藤乃が逃げるとは思わなかった。
「殺せるなら、誰でもいいという事か」
織なんか殺さなくても、橋の外には人間がいくらでもいる。
橋を出て、街に逃げられると厄介だ。この橋には、二度と戻らないのは明らかだった。何とかして、藤乃に追いつかないと。
橋だから、当然出入り口が二つある。織さんが入って来た方は、街へと続く上手だから便宜上入り口。わたしが逃げ出そうとしている方は、出口と呼ばれている。
この橋は、三日月形の港の両端を結んでいるので、橋の外からでも陸路で街に出られる。早く街に出て、おなかの不快感をどうにかしないと。
既に走る体力がないわたしは、出口に向かって落ちて行った。
重力の中心を目に見える範囲内の空間にしか設定できないわたしは、一気に出口まで落ちるわけにはいかなかった。出口側には電気が来てなく、薄暗い通路の中では、断続的に少しずつ落ちるしかなく、わたしの落下速度は精々走る程度だった。
出口が近付くに連れ、何か照明のようなものが見えてきた。
「そんな、何故電気が?」
明りに接近したわたしは、光の正体に愕然とした。
それは、大型バイクのヘッドライトだった。織さんは、あの嵐の中をはしけ沿いにバイクを飛ばして、先回りしていたのだ。
「そんな……。落ちて!」
わたしは、織さんの頭上を曲げて重力を作った。しかし、織さんがナイフを空中で一閃すると、重力は消えてしまった。
「面白い線の集まり方をするな、糸球みたいだ」
理解出来ない事を言いながら、ナイフの先を織さんはわたしに向けた。
「わたしを、殺すのね……。でも、どうして?」
織さんの目は、これからわたしを殺すとは思えない程に悲しげだった。
「おまえが、笑いながら力を使う姿を、もう見たくないんだ」
笑いながらと聞いて、その言葉を信じられずに口元に手を当てたわたしは、愕然とした。口元が、歪んでいたのだ。わたしは、笑っていたのか。
「わたしは、笑いながら人を殺していた……」
「これで、判っただろう。だからオレは、おまえを殺すんだ」
その一言が、切っ掛けだった。わたしは、自分の病身を支えていたものを失ってしまった。
バイクを下りた織さんは、床にへたり込んだわたしに向かって歩き出した。
わたしはといえば、このまま全身の力が抜けて床に横になった。きっと、もう病気が限界なんだ。織さんに殺されなくても、わたしは明日まで生きられないだろう。
「おまえ、痛いのか?」
織さんは、これから殺されようとするわたしに、奇妙な質問をした。
「痛いなら、痛いと言えばいいだろう」
わたしは、首を横に振った。
「いけないんです。わたしは、痛みを訴えてはいけないから……」
そうだ。わたしが痛みを訴えたばかりに、皆が不幸になってしまった。もう、痛みは訴えない。
それでも、わたしは織さんにお願いしたい事があった。
「織さん。わたしの決着は、わたしに付けさせて下さい」
わたしの願いも空しく、織さんのナイフはわたしに向かって振り下ろされた。
/16
幹也が到着した時、ブロードブリッジは崩壊を始めていた。
切れた釣り橋のワイヤーが、崩れたコンクリートの破片が、ウンカの群れのように宙にはまとまって浮いていた。
瓦礫の集団は嵐に揉まれ、幹也の目の前で散り散りになって消滅した。
「一体、どうしたんだ?」
幹也が呆然として見上げていると、大雨のベールの向こうから織がバイクに乗って現れた。
「なんだ、おまえか」
呆然としている幹也の横で停車した織は、それしか言わなかった。
「どうやら、警備員の詰所は大丈夫みたいだな」
橋に入る時に自分が気絶させた人達の無事を確認してまたバイクを走らせようとする織を、幹也は呼び止めた。
「織、藤乃ちゃんはどうしたんだ?」
「浅上藤乃なら、死んだよ」
幹也の恐れていた返事を、織は事も無げに口にした。
「死体は、残っていない。全て、あの橋と一緒に消え去った」
クラクションを鳴らして、橙子のバギーが二人に近付いてきた。バギーをバイクのすぐ横に止めて、橙子が二人に話し掛けた。
「もう、ここには用が無いだろう。さっさと帰るぞ」
棒立ちしている幹也を二人で助手席に押し込むと、バギーとバイクは嵐の中へ消えて行った。
/17
台風一過、自分の隠れ家の窓からどこまでも広がる青空を見上げる湊啓太は上機嫌だった。
あの化け物が死んだとなれば、もう彼には恐い物などなかった。
学人とは、全てが終わったら警察に自首する約束だったが、そんな約束は始めから守るつもりは無かった。
まだ台風が過ぎ去らない深夜に、そっと工房を脱走して、一晩中ずっと隠れ家を探していたのだ。
仲間達はみんな殺されてしまったが、大した問題ではない。新しい仲間を集めて、今度は自分がリーダーになろうかなどと、彼は考えていた。
下手に強そうな奴を仲間にして、リーダーの座を取られては、元も子もない。
「相川なんか、いいかもしれないな」
明らかに自分より各下で、子分も何人か持ってる男を、湊啓太は思い出した。
そうと決まれば、早速声を掛けよう。通学路で相川を待とうと考えた湊啓太は、隠れ家を出て駅へと向かった。
そして、繁華街の途中で湊啓太は死んだ。
血溜まりの池の中で倒れている湊啓太を遠巻きで野次馬達が見ている中、一人だけスニーカーが血で濡れるのも構わずに立っている男がいた。
赤いナイフを握り締めた学人は、駆け付けた警察に現行犯逮捕された。
遅れて到着した秋己刑事は、短ければ三年で出られると学人に告げた。
「おまえがやらなきゃ、俺がやってたかもな」
刑事としてはあるまじき言葉を、学人にだけ聞こえる小声で、秋己刑事は囁いた。
/18
あれから一ヶ月近くが経過して、夏も終わりが近付いた。
だけど、兄さんは魂が抜けたみたいに、今も無気力なままだった。
大学も辞めてしまい、一日中何をするでもなくぶらぶらしている。もしかすると、今も兄さんの心はあの女を探しているのかもしれない。
藤乃が死んだと知って、わたしは不謹慎だけど邪魔者が消えたと喜んだ。一応、クラスメートだったし、向こうはわたしを友達だと思っていたようだから、葬式には参列した。藤乃の両親の空涙を見た時だけは、藤乃に同情したけど。
「兄さん、もっとわたしを見て下さい」
わたしはといえば、兄さんのアパートに泊まり込んで、日夜面倒をみている。何しろ、わたしがいないと食事もしない程なのだ。
それでも、兄さんと二人きりで暮らせる理由があるのは、ちょっと幸せだった。
全寮制の礼園は、兄さんの面倒がみられなくなるので、二学期からは公立の学校に転校する予定だった。藤乃亡き今、あの学校に用はないし、第一礼園はもうおしまいだ。
葉山の奴は、一年四組のほぼ全員の生徒に売春を強要していたのだ。しかも、葉山を教師に推薦したのは、理事長である彼の兄なのだから始末が悪い。
このスキャンダルで、学院の評判はガタ落ちだ。既に大半の生徒が、父兄に連れられて転校してしまった。このお陰で、わたしは転校を家族に簡単に認めさせられたのだから、世の中何が幸いするか判らない。
そういえば、最近赴任したばかりの、何となく兄さんに雰囲気の似ていた先生も、早々に退職したらしい。
ある日、目を離せない兄を連れて、鮮花は橙子の工房を訪ねた。
「何? 弟子入りしたいだと?」
「はいっ! わたしは、兄さんを守れる……恋人になりたいんですっ!」
橙子は、タバコをくわえながら低く笑った。
「いや、失礼。おまえが本気なのは、よく判った」
「それじゃあ……」
鮮花の目の前で右手を広げて、橙子は言葉を遮った。
「ただし、条件がある。黒桐幹也を、私の工房で雇いたい」
橙子の意外な提案に、鮮花は数秒惚けてしまった。しかし、それは鮮花にとっても都合がいい提案だと悟ると、二つ返事で了承した。
/19
織は、橙子から報酬を受け取りに工房に来ていた。工房の入り口に立つ橙子の横では、和服姿の黒い短髪の少女が佇んでいた。
「ほら、織に挨拶してやれ」
橙子は、報酬である少女の肩を叩いた。
「あ、あの……。ただいま……」
少女は、織のまえで恥ずかしそうに挨拶した。
「お帰り、式」
織が式に向けて掌を上に向けて右手を差し出すと、式はその手に自分の右手を乗せた。
橙子は、瓦礫の山にタバコを投げ捨てながら、二人を見送った。
「それが、おまえの見付けたカタチというわけか、両儀織。そして、藤乃も式という新しいカタチを手に入れたのだな」
織は、藤乃を殺して、式を再び得た。今度の式は、織のもう一人の人格ではない。独立した人格で、織の生涯のパートナーだった。
/20
雨が降る。
こんな雨の夜は、あの人との出会いを思い出す。そして、織さんに殺された日の事も。
いや、浅上藤乃は、死んだのだ。だから、最早これは私の記憶ではない。
それでも、私は懐かしいと思わずにはいられない。そこに、あの人が立っているのだから。
あの人は、あの人だ。私と同居している織さんでも、既に亡くなった式さんでもない。
「あなたは、誰?」
あの人は、うっすらとした笑みを私に向けた。
「あの時と同じよ。あたしに名は無いわ。あえて言うなら『直死の魔眼』かしらね」
その名前は、私も知っている。それは、織さんの眼なのだから。
「それは、第三の人格という事なの?」
彼女は、首を横に振った。
「あたしは、人格とは呼べないでしょうね。脳に宿る人格でもなければ、肉体を支配しているわけでもないから」
「でも、あなたはここにいるわ。それに、あの雨の日も出会ったじゃない」
「そうね。あの次の日の織は、財布が軽くなって、さぞ驚いた事でしょうね。でも、やっぱり人格とは違うのよ」
雨天を見上げながら、彼女は笑った。
「あたしは、自分の意思で表に出られないのよ。人格って、心の海に浮かぶ木端みたいなものなの。式と織は、時にひっくり返る事の出来る木片だった。そして、水面そのものといえる人格も、この体にはあるわ。でも、あたしは違う。あたしは海の中の一滴の水そのものなの。水の流れの中で、偶然水面に現れる存在だから」
彼女は、またわたしに笑顔を私に向けた。
「それでも、今一度だけでもあなたに会えて良かった。誰かに会わないと、あたしは人間を実感できないから。あなたこそ、あたしをあたしたらしめた、恩人よ」
「お礼は、私でなく藤乃に言って下さい」
「うん、あなたって、同一人格だけど別人なのね。藤乃は、死んだから。そうだ、それじゃあ、みんなを生き返らせる事が出来るって、言ったら」
「え?」
「みんなよ、みんな。藤乃も、藤乃が殺した人も、みんな生き返らせるの。いえ、それだけじゃあ、ないわ。あなたが、人生をやり直したいと思う一瞬を、もう一度やり直せるとしたら、どうかしら」
それは、とても素敵な提案に思えた。でも、私は首を横に振った。
「あり難う、でもいいの。それをしたら、私は式でなくなってしまうから」
私の返事を聞いて、彼女はにっこりと笑った。
「なんか、そう言うんじゃないかと思っていた。それじゃあ、これでお別れね。三度目は、多分無いと思うから。だから、さようなら」
私も、彼女に別れを告げて四阿を後にした。
もう、雨を見ても、あの人を思い出す事はないだろう。そう判っていても、私はそれが寂しいとは思わなかった。
運命流転/了
[後書き]
実は、19と20の間に、小川マンションのエピソードの運命流転バージョン(玄霧も参戦しています)もあったという前提で、その経験を踏まえたエピローグになっています。
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