641/2の開発


1988年、翌1989年からのターボエンジン禁止に向けて、フェラーリが登用したのは、
天才デザイナー、ジョン=バーナード。彼が実験的に作成した車は、639と名付けられた。
639には、セミオートマティックトランスミッションという、現在のF1では標準装備となった、
ステアリング(ハンドル)裏に、シフトチェンジをするためのパドルを取りつけたシステムを
初めて導入した車だった。初期トラブルを多く経験しつつ、そのトラブルシューティングを元に、
翌1989年には、実戦用640を投入。開幕戦、ブラジルGPでは、N.マンセルがいきなり優勝。
以降ハンガリー、ポルトガルGPで優勝するが、セミオートマティックトランスミッションのトラブルが続発し、
1989年のコンストラクターズランキングは3位に留まった。

翌1990年のチャンピオンシップ獲得に向けて、フェラーリが獲得したのは、1989年のワールドチャンピオン、
アラン=プロストと、デザイナー、スティーブ=ニコルズ(共にマクラーレン・ホンダより移籍)。
残留したナイジェル=マンセルと共に、優勝候補の一角となった。
(ドライバー、ゲルハルト=ベルガーはマクラーレン・ホンダに、デザイナー、バーナードはベネトンに移籍)
1990年シーズンに向けて投入されたのが、640の改良型641で、640よりも丸味を帯びた形状になっていた。
この641が第3戦サンマリノGPでマイナーチェンジされ、その発展型が641/2と呼ばれるようになった。

第5戦カナダGPより、フロントタイヤの乱流を外側に飛ばす、ボルテックスジェネレーターを装着。
このボルテックスジェネレーターも、1994年に禁止になるまで、F1界の標準装備となっていった。
こちらは、1994年に禁止となった後も、ディフレクター(整流板)として、その思想は今も残っている。

641/2の登場は、強力なエンジンパワーを利用して、巨大な翼で地面に抑えつけるという思想を一変させ、
車体側の空気抵抗を減らし、地面に抑えつける力を効率的に得るという思想を、再流行させることになった。

1990年シーズン、プロスト5勝、マンセル1勝をあげ、タイトル目前まで迫るものの、
第15戦日本GPスタート直後のセナによるプロストへの追突でドライバーズタイトル、
19周目のマンセルピットイン直後のドライブシャフト破損で、コンストラクターズタイトルの望みを絶たれた。
(ドライバーズタイトルはアイルトン=セナ、コンストラクターズタイトルはマクラーレン・ホンダが獲得した)

1990年度の好成績に満足したフェラーリは、641/2の改良型、642を用意するが、空力の重要性に気付いた
マクラーレン・ホンダ、ウィリアムズ・ルノーに遅れをとり、引責の人事更迭が続いた。
第7戦フランスで、新車643を投入するも時既に遅し。1986年以来の年間0勝となり、
チーム批判を続けたプロストも第15戦日本GPの後に解雇された。

1992年には、ハーベイ=ポストレスウェイトジャン=クロード=ミジョー作のF92Aが投入されるが、
ダブルデッキという斬新なアイディアが失敗。以降、2000年、ミハエル=シューマッハF1−2000による
タイトル獲得まで、フェラーリは迷走を続けることになる。

641/2の成功が、結果的に643の投入時期を遅らせ、その後の開発方向も誤らせ、
フェラーリ没落の契機となったのは、今考えても残念である。


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