プロローグ
碓氷峠の歴史


  ※信越本線は、高崎が起点であるため、横川駅から軽井沢駅へと向かう坂登りが下り列車で、
    逆の坂下りが上り列車となります。紛らわしいので、ご注意下さい

 この論文の導入に当たり、若干主旨から離れてしまうが、惜別の念を込めて、碓氷峠の歴史について触れたい。
  

アプト式ラックレール 軽井沢駅EC40型機関車より
 明治26年(1893)4月1日に開通した信越本線は、当時単線で、現在とは違うルートを辿っていた。トンネルの数は26ヶ所、最急勾配は66.7‰で、ドイツのハルツ山登山鉄道で使われていた、アプト式(考案者独人ロマン=アプトの名に由来)歯軌条(ラックレール)を使用した、特殊鉄道という方式を採った。アプト式とは、2本の線路の間に、ギザギザの第3レールを敷き、専用機関車が、内蔵された歯車をこれに噛み合わせて駆動力を得る方式で、現在JR線内には存在しないが、静岡県の大井川鉄道には、今も存在する。急勾配を自走する方式としては優れているが、運転速度は上り18km/h、下りは2km/hに制限され、また、全列車等速・等時隔運転のネットダイヤを組んで運行していたために、輸送力の向上は難しい状態であった。

 

 明治45年5月11日に、EC40型電気機関車(現在は退役、軽井沢駅構内で静態保存中)を使用した運転に切り替え、わが国初の電化・無煙化に成功したが、1日66本という輸送力の限界を越えられないまま、終戦を迎えた。碓井峠旧線 碓井第3橋梁 通称「めがね橋」

 この輸送力の隘路を打開するために、昭和36年(1961)4月5日に、新線建設・複線化の工事が着工され、昭和38年(1963)5月15日完成、10月1日に新線の使用を開始した(今回の廃止が9月30日であるのは皮肉である)。更に在来線を改良した下り線は、昭和41年(1966)7月2日に完成し、複線化が実現した。この新線への移行と共に、従来のアプト式線区は廃止され、運転形態もEF63型機関車電気機関車(退役、碓井鉄道文化むらで動態保存中)を使用した、粘着運転に切り替わった。この結果、横川〜軽井沢間の所要時間は、それまでの52分から、下り17分、上り15分に短縮された。

廃止直前の「189系旧あさま」 横川駅にてEF63型電気機関車(重連) 新方式では、EF63型機関車を高崎よりに2両連結し(連結器に負担が掛からないようにするため)、489系・189系特急型電車や、169系急行型電車、EF62型電気機関車と、協調運転を行っていた。下り列車は、自列車がブレーキ無しでも制止できる程度の出力を出し、実際の登坂力は、EF63型機関車に頼っていた。しかし、一般に思われているのとは逆に、大変なのは坂上りよりも坂下りである上り列車の方であり、ブレーキ制動力を得ることを、EF63型機関車に頼っていた。EF63型機関車には、個々の機能はここでは割愛するが、発電ブレーキ・電磁吸着ブレーキ・空気ブレーキ・手動ブレーキを備え、また、転動防止装置・過速度探知装置などといった、他の機関車には見られないような、特殊装備を持っていた。しかし、脱輪防止などの理由から、台車の空気バネから空気を抜いていたために、重苦しい乗り心地であり、速度も約40km/h程度に制限されていた。廃止直前には、26往復(うち特急「あさま」が19往復)の列車が、碓氷峠を通過していた。


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