日本名城探訪記〜甲信越編〜
高遠城
概要
別名、「兜山城」。
伊那谷を統べる要衝の地にある古式の城である。
現在では、コヒガンザクラ1500本が咲き乱れる、「日本三大桜の名所」の1つとなっている。
起源
治承3年(1179)の笠原頼直築城説、暦応年間(1338〜1341)の木曽義親(高遠太郎)築城説があり、定かではない。現在の様式となったのは、天文16年(1547)、武田信玄が信濃侵攻時に改築したものである。この時、配下の山本勘助が設計(縄張)したといわれている。
構造
月誉山の西丘陵を利用して築かれた平山城。本丸を中心に二の丸・南曲輪・勘助曲輪・笹曲輪・法幢院曲輪を配している。要所には石垣を用いているものの、そのほとんどは空掘を掘った土を積み上げて土塁とする、いわゆる「掻き上げ城」となっている。
但し、勾配を巧く利用し、また空掘も深いため、防御能力は古式の城にしては高そうである。
武田家時代
高遠城は、上諏訪神社の大祝(おおはふり)を努める諏訪家の一族、高遠家が領していたが、高遠頼継の代に本家相続を狙って、水面下で動いていた。しかし、これは信濃侵攻の足掛かりとして諏訪地方を狙っていた武田信玄(当時晴信)の思う壺であり、天文14年(1545)、武田家は諏訪・高遠の内紛に乗じて諏訪地方に侵攻、占領した。
この時、高遠家も諏訪勢の側面を突くなど、戦功があったものの、本領安堵のみという論功考証となった。その後、武田家が諏訪氏の旧居城、上原城の改修を始めると、これを高遠領併呑の準備と睨み、機先を制して上原城を攻略・占領した。しかし、これも信玄の思う壺で、旧主諏訪頼重の子、寅王丸の後見者(寅王丸は信玄の妹、禰々の子)という大義名分を持って諏訪領に再び侵攻、旧諏訪勢を味方につけて高遠勢を撃破し、高遠頼継は逃走、高遠城は武田家が領することとなった。
天文16年(1547)、信玄は山本勘助に命じて高遠城を大改修し、以後、保科正俊・秋山信友・武田勝頼・武田信廉といった、重要幹部が高遠城主を歴任する。武田家の信濃経営の中で、高遠城の存在がいかに重要であったかがわかる。
武田家最期の際、勝頼の弟、仁科盛信が城主であったが、中山道口を侵攻してくる織田信忠と激闘が繰り広げられ、高遠勢は戦闘員・非戦闘員、老若男女を問わずに戦闘に加わり、文字通り全滅している。
桃山・江戸時代
武田家滅亡後は、高遠城攻略に功があった毛利秀頼が封じられた。しかし、本能寺の変によって、織田家の政治バランスは崩れ、旧武田家臣が旧武田領各地を襲撃、高遠城は木曽義昌が襲撃・占領している。その後、徳川家康が信濃経営に乗り出し、高遠城には、保科正直が置かれた。
その後、秀吉の天下統一により、徳川家が関東八州への国替えとなると、毛利秀頼預かりとなり、家臣岩崎左門が城代を勤めている。関ヶ原後は保科正直の子正光が3万石で封じられた。保科正直は実子がいるにもかかわらず、徳川秀忠の庶子を養子に貰い、保科正之と名乗らせている。このためか、保科家は高遠3万石から山形20万石へと加増・転封となった。
替わって、鳥居家が封じられたが、2代忠則は家臣の不始末で切腹・改易となり、以後は内藤家が明治維新まで続くことになる。
余談ではあるが、高遠内藤家の江戸下屋敷が甲州街道沿いにあり、後に宿場町となったことから「内藤新宿」と称され、現在の「新宿」の語源となっている。
以下に歴代城主を記す。
| 城主名 | 所属勢力 | 在位期間 | 備考 |
| 高遠信員 義海 太源 悦山 継宗 尭谷 頼継 |
諏訪大社 (諏訪家) |
|
義光説もある。 満継説もある。 |
| 秋山信友 武田勝頼 武田信廉 仁科盛信 |
武田家 |
天文16年(1547)〜永禄5年(1562) 〜元亀元年(1570) 〜天正9年(1581) 〜天正10年(1582) |
飯田城に移る。 当時は伊那四郎勝頼と名乗っていた。 大島城に移る。 織田信忠の侵攻を受け、切腹。 |
| 毛利秀頼 | 織田家 |
天正10年(1582)〜天正10年(1582) | 武田攻めの戦功で高遠城に封じられる。 |
| 木曽義昌 | 天正10年(1582)〜天正10年(1582) | 本能寺の変後、奪取。北条・徳川・豊臣氏に従属。 | |
| 保科正直 |
徳川家 | 天正10年(1582)〜天正18年(1590) |
天正13年(1585)、小笠原貞慶の襲撃を撃退。 下総多胡に転封。 |
| 毛利秀頼 京極高知 |
豊臣家 | 天正18年(1590)〜文禄2年(1593) 〜慶長5年(1600) |
飯田城主。城代を派遣。 毛利秀頼女婿、伊那郡飯田城を相続。丹後田辺に転封。 |
| 保科正光 正之 鳥居忠春 忠則 |
江戸幕府 | 慶長5年(1600)〜寛永8年(1631) 〜寛永13年(1636) 〜寛文3年(1663) 〜元禄3年(1690) |
保科正直嫡男。越前より入部。 徳川秀忠四男。出羽山形城に転封。 山形藩主鳥居忠政三男。大坂城で客死。 忠春嫡男。家臣の不始末で切腹、改易。 後、子の忠英に能登下村1万石。 |
| 内藤清牧 頼卿 頼由 頼尚 長好 頼以 頼寧 頼直 |
元禄4年(1691)〜 〜明治2年(1869) |
約1年の幕府直轄を経て、33000石で入部。 水野守行次男。 清牧嫡男。 信濃飯山城主永井直敬五男。 江戸下屋敷庭園を「玉川園」と名付ける。現在の新宿御苑。 越後村上城主内藤信興三男。 頼由養子頼多の嫡男。 陸奥福島城主板倉勝矩五男。 頼以次男。仁科盛信を祀る、新城(盛信)神社の勧請。 頼寧七男。版籍奉還。従五位子爵。進徳館開設。 |
江戸時代以降
明治5年(1872)、民間に払い下げられ、建造物は全て取り壊される。
明治8年(1875)、高遠城址公園となる。この頃から、旧藩士達が桜馬場から桜を移植する。
明治45年(1902)、太鼓櫓再建。
昭和23年(1948)、問屋門を高遠本町から移築。